第十三章 ひと休憩
木の枝の先で羽を休めていた一匹のトンボが、茜色に染まりかけている空へと舞い戻っていった。胸部と腹部背面の前方約三分の二が青味がかった灰白色で複眼は青いから、きっとあれはオスだろう。
その様子を自室の窓から眺めていた紗英はふと我に返り、参考書に目を落とす。現実に戻ろうとする彼女の手元にくすぐったい振動が伝わって来た。傍に置いていたスマホが震えているようだ。それを手に取ると、画面にLINE受信を知らせるアイコンが表示されていた。どうやら部活用グループLINEに新着メッセージが入ったようだ。送信者は愛梨だった。
芍薬屋敷の話しに関する文献は図書館にある為、調べ物をしに行く必要性がある。詳細は会議で報告と合わせて話すとのことだった。彼女はすぐに副部長へメッセージを飛ばした。すると先方は丁度スマホを見ていたのか、すぐ既読となり瞬時に返信が来た。
「織田君。今度時間ありますか?」
「何だ部長。ひょっとして図書館の件か?」
「はい。そうです」
「俺は大丈夫だ。暫く模擬試験まで時間があくし、行くなら今の内に行った方が良いだろうな。君の方が何かと忙しいだろうから、君の都合に合わせるよ」
「ありがとうございます。図書館の方は学内と学外と二手に別れて行きましょうか。学外の方は私達二人が行く方が望ましいと私は思っています。細かいことはまた会議の時に決めましょう」
「そうだな。そうしよう」
織田は相手の都合に自然と合わせて動ける人間だ。医学部受験を目指している紗英のことを気遣ってくれている。生真面目過ぎて何かと不器用な彼女にとってはありがたい友人だ。部活の運営についてもコミュニケーション力に優れている彼のバックアップもあって、特に問題は出ていない。
彼とは新聞部に入部する日も偶然だが一緒だった。気さくな性格の彼がいてくれたお陰で、神経質で内気な紗英が部活の雰囲気にもすんなり馴染めたと言ってもおかしくない。
(あれから三年。時が経つのは早いわね……)
紗英は銀のフレームの眼鏡を外して机の上に置くと、手元にあるグラスに手を伸ばした。麦茶入りのグラスはすっかり汗をかいていて、氷を一つ残して後は全て溶けてしまっていた。麦茶をゆっくり喉に流し込むと壁に掛けてあるカレンダーに目をやる。カランと涼し気な音を立てて、氷がコップの底に滑り落ちた。次の試験が来月の頭にあるのを認め、彼女はふうと一つため息を付いた。十一月末には推薦入試の試験が控えている。常に優秀な成績を修めている彼女は内申点については特に心配していない。
(妙な胸騒ぎがするけど、コンディションは今のまま維持出来れば良いかな)
そんなことをちらちら考えていると、台所から母親の声が聞こえてきた。
「紗英さん。忙しいところちょっと悪いんだけど、おみおつけの味を見てくれないかしら?」
「分かりました。今行きます」
(今日はきっと玉ねぎのお味噌汁だろう。ご飯は確か炊き込みご飯にすると言ってたかな)
紗英は参考書を閉じ空になったグラスを左手に持って自室を出て、焼き魚の臭いと醤油と味噌の香りがする台所へと向かった。
※※※
時間はその日の昼過ぎと遡る。
芍薬屋敷から綾南高校とは正反対に向かったところにあるファミリーレストランに茉莉達は入っていた。ウィリディスとの一戦の後始末を終えて昼食がまだだったこともあり、ひと休憩することになったのだ。
漆喰をモチーフにした壁、天井には木材を使ってあり、柔らかい空間が生みだされている。 安定感のあるちょっと大きめで温かみのある臙脂色の椅子。しっかりと固定された分厚いテーブル。プライベート確保用のパーテーションも置いてある。
ファミリーレストランだが店内は老舗喫茶店のような落ち着いた雰囲気をもっており、流れるBGMはクラシックである。今日はショパンの曲がメインのようだ。
丁度静藍が席を外しているところで、茉莉と愛梨は食後のドリンクを楽しんでいた。
「ルフス、初めて見たけどヤバいじゃないですか先輩! クールでイケてる!!」
「……あいつのどこが良いのか私には全っっ然分かんない……」
茉莉はストローから唇を離し、ぼそりと呟くように言った。
喉元をアイスティーがするりと滑ってゆく。
冷たさで頭に刺すような痛みが走り、茉莉は顔をしかめた。
ストローをぐるぐる回し、グラスを氷でカランと鳴らした。
「外見は同じなのに静藍先輩とは本当に真反対ですね! ルフスみたいな『俺様キャラ』は愛梨ちょっとタイプだなぁ」
「愛梨ちゃん……あなた確か彼氏いるんでしょ?」
眉をひそめた茉莉に対し、愛梨はぺろりと舌を出した。
「へへへ。単なる好みのタイプの話しですよぉ。……でもあれだけ激しいバトルして、先輩身体大丈夫かなぁ」
「……」
二人は暫く無言になった。
店内は若い者や家族連れが出入りし、平和な時間が過ぎてゆく。この店は特に時間制限もない為、客は思い思いの時間を居心地良く過ごせるのが良いところだ。コーヒー一杯ですぐに立ち去る客もいれば、昼食兼喫茶兼夕食と追加注文で長く居座る客もいる。パーテーションがある為、席によっては仕事の打ち合わせをしている客も見かける。
お店に流れる曲がショパンの夜想曲に変わった。
昼食を食べた後なので、二人はほんの少し睡魔に誘われそうになる。
クリームソーダの上に乗っている真っ白なバニラアイスをスプーンで掬って口に運びつつ、愛梨は茉莉に尋ねた。
「ところで茉莉先輩は、静藍先輩のことどう思ってますぅ?」
「どうって?」
「何となくですけどぉ、茉莉先輩は静藍先輩のこと好きなのかなぁ? と思うんですよねぇ。当たってますぅ?」
「ん〜……良く分かんない」
言われてみれば、果たしてどうだろうか?
自分は静藍を一体どう思っているのだろう?
彼の話しを聞いて、何とか助けてあげたいと思った気持ちは本当だ。でもその気持ちの理由はと問われれば、もやもやしていて何とも表現のしようがない。
首を傾げる茉莉を横目に、彼女の後輩はストローでエメラルドグリーンのソーダを喉に流し込んでいる。愛梨はストローから唇を離すと、彼女の先輩の顔を見てにこりと微笑んだ。ふわふわとした茶髪がその顔を縁取っている。
「ふふふ。愛梨、応援してますからぁ。先輩頑張って下さぁい」
「え……ちょっと何を勝手に……」
愛梨が目をパチクリさせる茉莉に近付いて来てこそっと耳打ちした。
「新しい恋をした方が先輩もっと元気になれますよぉ。先輩達見ていると何かお似合いだなって思います」
どうやら白木の一件で落ち込んでいる茉莉を彼女なりに心配してくれているようだ。その気持ちはありがたく頂戴する。
しかし、何故静藍と?
頼りないし、何かとトラブルメーカーだし。
でも、全く気にならないと問われれば嘘になる。
(どうなんだろ……)
頭の中がぐるぐるしている。
「お似合いって何ですか?」
真後ろから突然噂の主が姿を表し、茉莉は心臓が飛び出るかのように飛び上がった。
(んもぅ、変なところで耳が良いんだから……!! )
「こ……こっちの話し。それよりあなた大丈夫? せっかくだから他にも何か頼んで食べた方が良いんじゃないの? チキンバスケットとかさ。サンドウィッチ三切れだけじゃぁ身がもたないと思うんだけど」
彼は昼食にフレッシュサンドウィッチ三切れしか食べてないのだ。身体は人間離れした戦闘をした後なのに、その栄養補給としてはあまりにも少食過ぎる。茉莉はハンバーグランチ、愛梨はミックスフライランチを頼んでいた。どちらかというと少女二人の方がガッツリ系だ。
「いえ……僕はこれ位で大丈夫です。すぐ胃がもたれるので、一度にたくさんは食べられませんから」
(またぁ……)
静藍はやんわりと断った。青白い病弱な外見ならではの返事に茉莉はやれやれと溜息をつく。何回保健室通いになるのだろうかと頭の中をよぎったが、考えてもきりがないので頭の隅に追いやることにした。
「明日もあるから、今日は早目に休んで下さいね。静藍先輩」
「どうもありがとうございます。あ、すみません。烏龍茶を一つおねがいします」
三人揃ったところで、今日の反省会が始まった。
静藍と愛梨がカメラを出し、画像を見せあいこする。
茉莉はメモを取り出した。
果たして今回の取材で、トピックスにまとめられる程の情報が得られただろうか?
結局、華の記憶操作も施している上、表向き今日のことはなかったことにしてきている以上、今日の取材関係の内容はお蔵入りにするしかないという結論にたどり着き、一同がっかりした。しかし、図書館に資料があるという手掛かりを掴んだだけでも良しとすることにする。
「今日のことは報告しないと。連絡ノートにも記録しなきゃ。愛梨がしておきますから、先輩達は気にしなくて大丈夫ですよぉ」
「悪いわね。何から何まで。このお店、私初めて入ったんだけど良いわね。教えてくれてありがとう」
「いえいえ。何かあったら何でも聞いて下さぁい。彼氏が色々詳しいので、ついでに知ってるだけですからぁ」
愛梨の彼氏は大学生で、綾南高校の近くにある大学に通っている二年生らしい。バイトなどで色々詳しいのだろう。何かとフットワークの軽い愛梨に感謝すべきだ。
「今日のことは水曜日に話し合いしよう。あの吸血鬼に絡まれたことも」
「ええ。そうですね。ひょっとしたら、先手をとられていたのかもしれませんし」
何故ウィリディスが芍薬屋敷に入り込んでいたのか。
いつ頃からいたのか。
皆目見当がつかない。
部員全員で話し合いをして今後の対策を練ることにした方が良さそうだ。
その日はその場で散会となった。
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