哲学
【事実回帰】理論場【名言・格言】
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人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。
事実は、理論では否定することは不可能です。
太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜- コメントを投稿する
- みず ぽぅ↑ みずぽぅ〜て
- すべてが失われようとも、まだ未来が残っている
〜 クリスチャン・ネステル・ボヴィー(アメリカの作家) 〜 - 未来を気づかう心は悲惨なり。
ーーセネカ 「書簡集」
私たちは時に未来を気にします。未来を気にしている間、それは幸せな時間でしたか、悲惨な時間でしたか。
幸せばかり考える余裕はありますか。哲学とは何ですか。もっと幸せになるために哲学をしましょう。 - 事実は、理論では否定することは不可能です。
事実は曲げられない。
「このことは、残念ながら否めない事実です」 こういう言葉はビジネスでも出て来る。 - 会話は哲学である。対話も哲学である。フィロソフィーも哲学である。事実は打ち消せない。
理性には限界がある。ひとつの部屋にいるとしよう。横のドアから入ってきた人物を確認できなかったり、トイレにいるかどうかも確認できなかったりする。
こういう話は認識の美学にもなりそうだ。また、神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。 - ”ブラックロックシューターでお前を”
- さてここで認識とは何なのか、語るのであるが、まず意味から紹介しよう。
にんしき
【認識】
《名・ス他》
物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。
「重要性を―する」
もう一つ。「いい方」という意味がある。(女子語と考えて差し支えない)
いい方?それはまあいいだろう。これも感じがするからそういう意味という理論もある。
ウンパスがゴミという意味であるとか、ミチャーガがいいなーという意味だとか。そんな感じがするなあと言葉を覚えよう。
さて、我々は言葉・映像を覚えるとき、毎度毎度、覚えた、と判断/認識していないだろう。覚えた、という判断/認識がバンバンあるならそのお方は素晴らしいです。
なかなか覚えた覚えた覚えたとならないのが素晴らしいお方とは違います。
でも諦めたりしないで、繰り返せば覚えられる、という一説もあります。繰り返していくうちに、覚えた、と判断/認識できるかもしれません。 - 0036考える名無しさん
2024/02/01(木) 17:17:45.640
昔から我々は、私たちのまわりにある物は、目に見える姿形そのままにそこに実在するのだと素朴に思ってきた。
それに対してカントは、いいや違うだろう。人間目線で見るから世界はこういう姿形をして見えるというだけであって、
本当にあるものを、ありのままに見ているわけではないと説いた。これは、人間が見る世界と、
視覚に熱を用いる宇宙人プレデターが見る世界は、違ったものに見えるだろうということであり、
今ではわりと普通に受入れられる考え方だ。カントのコペルニクス的転回とはこのことである。
ご存じのように天動説を覆した地動説はコペルニクスの説である。ひっくり返した妥当な言い方として
「コペルニクス的転回」と評した。カントは何度も「コペルニクス的転回」と言っている。(論文ではないにせよ)
釈迦は、「色即是空、空即是色」と述べている。イロ(色)あるところに必ずスペース(空)がある、
スペース(空)あるところにイロ(色)がある、という解釈がある。また、
色それは空であり、 空それは色である、という解釈もある。はたまた、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 これ簡単に言うと
色は空と違ってないよ
空は色と違ってないよ
色は空のことなんだよ
空は色のことなんだよ
こうした解釈もある。彼氏が大好きな彼女は、彼氏がかっこよすぎてたまらない。
でも友人の女性は、彼氏がかっこよくみえない、普通以下に見える、というおもしろさ。
えーなんでかっこよくみえないの・・・(彼女)・・・そうか!別のように見えるんだ。
つまり、彼氏を見たときの、相対的な相互性がある!
後日、私は盲目的でした。普通以下の顔がイケメンに見える病でした。
友人(女性)ありがとう!なんとかちゃんとした目を手に入れよう。 - 0042考える名無しさん
2024/02/02(金) 09:57:48.060
わたし
相対的な相互性について例え話をしながら述べたい。
彼女(A)・・・・・・彼氏(C)が普通以下の顔なのに盲目的なためかっこよすぎて見える。
彼女の友人(女性(B))・・・・・・その男性(C)の顔を正視しているため普通以下に見える。
このように、彼女(A)には彼氏の本当の顔が見えていないことが窺える。
友人の女性(B)には彼氏(C)の顔が正確に捉えられていることが窺える。
ところで、皆さんは【変身】をご存じだろうか。仮面ライダーに変身するのは凄いことだと思う。
だが、そういう風な番組のための変身ではなく、日常で使える【変身】を問いたい。
それも実践に違いない。どうしたら、自分をかっこよく見せられるかが問題だ。
それは「ふわんとした【意識】」でできるのである。しかし自分には変わっては見えないことが残念なところである。
自分が想像した姿を他者に【意識】して見せようとすれば、変身になっている場合がある。
例えば、自分は普通オタクだとしても、自分には自分がかっこよく見えないとしても、他者にはかっこよく見えるのが【変身】である。
今や【変身】は社会問題となりつつある。自分が世界で13番目にブサイクだとしても、イケメンエリートに見せられるのだから。 - さて認識の認識(え、ダジャレ!?)について深めよう。認識はどう認識されているだろう。
「なぜ女は女だと認識できるのか」という命題だって過去にあった。それはクオリアも網羅するテーゼなのか。
なぜ女は女だと認識できるのか、それはいったん置いておこう。間違ってうさぎを女だと思ってしまう場合だってあったはずだ。
なぜうさぎを女と勘違いするのか、また、アクセルとブレーキを間違えるのはどうしてだろう。
人間の判断は甘いものなのかもしれない・・・いや、甘くないお方もいるのかもしれない・・・ - んこちっつぴゃまんこちっつぴゃまんこちっつぴゃま
- さて、甘くないお方を、(素晴らしいお方)と評してみる。素晴らしいお方は、どこまで素晴らしいか。
認識一つとってみても、やはり甘くはない。相手が嘘を吐いたら、嘘を見抜くような、そんな存在である。
嘘を見抜く一つにとっても、それは認識だったり気がしたり感じたりするものなのかもしれない。
つまり「嘘を吐いた」と認識した。「嘘を吐いた」という気がした。「嘘を吐いた」と感じた。・・・
こういう「嘘発見器」のようなセンサーがあるなら、なかなか上手である。
また、バヤロリンした(嘘吐きまくった)と云う女子語もある。バヤロリンした事実に気付ける者はいるだろうか。
さて、なぜ女は女と認識できるのかというテーゼに戻りたい。まず認識する者はどういう者か。
人間を用いて説明するべきか。人間一つにとっても、アプリオリ的に考えて女を女と認識できるだろう。
対比として、男は男と認識できるとは限らない。これは俗世間の一般例である。 - 世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。 - 僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね - ここでデカルトの「我思う、故に我在り」という命題を取り上げてみたい。
私は、思っている……思っているということは……思っている存在(我)がある。・・・という考え方である。
また、私以外の存在、すなわち私が見てきた机、家などは、どうだろう。本当にあるのだろうか。
だが私はどうだろう。私は何か思う。思っている私は本当に存在するのだろうか。・・・ここまで考えた私はいるのだろうか。
疑った私はいるのか。疑って疑ってデカルトは机や家の存在性はイージーであるが疑っていた自分(我)はたしかにいないとは言えないという真理に辿りついたのである。
ここで補足。「我思う、故に我ここに在り」という命題もあっていいのかもしれない。
また、「我思うと我思う、故に我ありと我思う」という命題もある。
「我在り」という文脈ではなく、何処どこで、ということで「我ここに在り」という【ここに在り】という説明で満たす。 - 不増不減の境地とはいかほどか。 増えない、減らない、ずっと量は変わらない、これが悟りの境地だろうか。
感覚は正しいだろうか。感覚、判断、認識は時に危ないものを匂わせる。
「なんとなくダメだという感覚」、「判断の誤り」、「認識の微妙さ」 - 正しいとされることに従はなければならないという強迫観念による教条主義が人を思考停止に陥れ、誤った考へに固執させる。
- >>18
まさにその通りだと思う。
正しいと主張されているが誤っている教え(考え方)に強迫観念で思考停止してしまい、誤った教えに固執してしまう。
なるほど、判断の誤りから、誤った教えに固執することもあるだろう。 - 「性格が良くなる」という信仰がある。性格が良くなると思えば、性格が良くなるという信仰ももちろんある。
だが「性格が悪くなると信仰すれば」、性格が悪くなるという説も立派にある。
そして「間違える」と思えば、相手は間違えてしまう、という説も立派にある。
こうした洗脳に目覚める人々が増えてきていると思う。今や洗脳時代だ。
洗脳から回避するために、我々はどう対処していけばいいだろう。
洗脳を別に回避しなくてもいいのでは?と思う方はいないのかもしれない。
洗脳されないように、「洗脳されない」と信仰する手がある。
これは非常に重要である。だが、洗脳されるという運命が待ちはだかっている場合は、
洗脳されないと思っても効かないはずである。
性格が悪くならないようにするには、「性格が悪くならないと思う」ことである。
これならば効き目があるのではないか。洗脳時代を細かく生きる、そんな生き方をしてみよう。 - >>18
ところで、「怕」は、中国語で「〜を恐れる」や「〜を苦手とする」を意味するように使われるということだが(中日辞典 第3版の解説)、この「怕(pà)」が「心*白」という漢字によって表記されることからもすぐに見て取ることができるとおり、
「怕(pà)」は、フランス語の《avoir peur》の《peur》にそのまま対応している。イタリア語であれば、"paura"であり、英語の"a pang of heart"の"pang"でもある。
さらに、この「怕(pà)」/《peur》/"pang"が、日本語の古語の「むねつぶらはし」(kobun.weblio.jp/content/胸潰らはし)に対応することを見て取ることも、さして難しくないだろう。 - ハァアモリ~💩
- こういう対応関係の事例を逐一、列挙していくことは、雑学的な知識の蓄積ではなく、それなりに有用なことであると私は思っている。
例えば、曲の「調(しら)べ」という場合の「調」の音読みは「ちょう」であり、古語の表記では「てう」であるが、これに対応する英語の表現は、"tune"である。
「調」という漢字は、「言*周」という構成だが、その発音は「周」に関連していて、その中国語としての発音は、中古音において"tsyuw"、さらに古い発音において"/*tjɯw/"であったものと想定されている。
この「周」は、現代の技術用語としては、「周波数」の「周」としても使われるが、「周波数を合わせる」ことを英語では、"to tune"と表現する。
ここで、"tune"の語源を参照してみると、次のとおり記載され、語源は不明であるとされる。
>tune (n.)
early 14c., "a musical sound," unexplained variant of tone (n.). From late 14c. as "a well-rounded succession of musical notes, an air, melody."
(etymonline.com/search?q=tune)
これが空(そら)似(に)に過ぎないとしても、互いにとてもよく似ているだろう。 - 時折、シェイクスピアの全作品集、"RSC, William Shakespeare, Complete Works"に目を通している。
私は、シェイクスピア時代の英語を知っているわけでも、演劇や英文学の専門家でもないので、よく理解しながら読んでいるわけではなく、目を通しているだけであり、この作品集は電話帳のように分厚いので、まだ全体の1/4を眺めたに過ぎない。
それでも分かるのは、シェイクスピアが「臨在」を明確に意識して、その意識をメタ言語的に表現しようとしたことが彼の作家としての際立つ特徴であることだ。
そのことは、例えば、"Twelfth Night, or What You Will"の次に引用するような台詞にはっきりと典型的に表れている。 - (出典 opensourceshakespeare.org/views/plays/play_view.php?WorkID=12night&Act=3&Scene=1&Scope=scene)
Act III, Scene 1
OLIVIA’s garden.
> Viola. Save thee, friend, and thy music: dost thou live by
thy tabour?
Feste. No, sir, I live by the church.
Viola. Art thou a churchman?
Feste. No such matter, sir: I do live by the church; for 1240
I do live at my house, and my house doth stand by
the church. <
ここに始まるやりとりから、
> Viola. Art not thou the Lady Olivia's fool?
Feste. No, indeed, sir; the Lady Olivia has no folly: she 1265
will keep no fool, sir, till she be married; and
fools are as like husbands as pilchards are to
herrings; the husband's the bigger: I am indeed not
her fool, but her corrupter of words.
までの台詞が、どのようなレトリックとして構成されているかを検討してみるといい。 - 輪廻か。僕は前世があることは証明できないとしても、前世を見つける者がいるように、前世があると思う。
前世があるということからもうひとつ言えるのは輪廻があるということだと思う。
カルマはあると思う。僕の知り合いが、カルマ18だったのに、善行を積んでカルマ14にまで下げたからである。
カルマが一番深いとしても、カルマ(業)は簡単にわかりそうな気がする。
僕の前世の一人、イエスは両親も理解できないことを言っていたとか。
僕は前世療法を体験したうえで得たものは、弓矢で背中を打たれたことである。
ここから推測すると前世はあるんだなあと思えるかもしれない。
仏教では輪廻否定を説く教えもある。お釈迦様は、輪廻という言葉を使わなかった。
また、カルマという言葉も使わなかった。
無記とは5回言った。強いんですか?という質問に対し「無記」と言った。
お釈迦様は人間ではなく、風であると私は考えている。
お釈迦様は自分のことを人間ではないと言ったし、風が大事だと考えていた。
お釈迦様が人間であるという前提で語ることも、お釈迦様が大川隆法氏に生まれ変わったという嘘もどちらも虚しいであろう。
お釈迦様の研究をしたいなら、お釈迦様と会話をするべきだったのではいか。
かくいう私もお釈迦様とお話をさせていただいた。素直で愚直な存在に感じた。 - 相互的に依存しているカップルがいる。カップルと言っても男でも女でもない。
現代では中性子の存在が究極的に多い。闇、光、風(お釈迦様は風)、岩も生きている。
こうした中性子が蔓延る世の中で、日本人口が70億とかではいささか事実とは考えられない。
ガーゴイルだって亥(単位)以上存在する。一兆や一京よりはるかに存在するのである。
統計学では、バレンタインを男の人にあげるというときに、中性子を男として数えているのだろう。
中性子である闇や光が男ではないのに男としてみているのである。これが近代の矛盾とかである。 - 1)天才は世の中に貢献する分野で好成績を収めた者である
2)才能ある者とは、ある分野で優秀と認定された者である
しかしながら、天才という言葉一つとってみれば、天賦の才だと考えられる。
そこで、天才人や天才者、またしては超天才人という概念を出してみよう。
1)において、天才とは・・・と書いてあるが、「天才者とは」と者を付けて表現するべきではないか。
また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。 - おかしな感覚を感じた。怪しいと感じた。例を挙げよう。
詐欺サイトを閲覧して怪しいと感じた。この怪しいと感じたことが、重要である。
怪しいと視れば、何とか対処できる場合があるはずだ。
トランプでおかしな感覚を感じた。じゃあこうしようと軌道修正できるはずだ。(短くてすまない)
感性や感受性を磨こう。 - 哲学的に自殺というカテゴリーを解体していきたいと思います。
例え話をしながら模索していきます。
例えば「自殺は女性よりも男性に多く、離婚はとりわけ男性の自殺率を高める」ということが挙げられます。
男性の方が忍耐強いのではなく、女性の方が意外と忍耐強いと言われます。
離婚をすると、男性の方が落ち込み、自殺に至るケースがあります。
しかしながら自殺という行為は、悪とはイコールではありません。
自殺をしても復活(再生)するのなら、自殺は何かに利用できるでしょうか。
はい、できます。例えば、自殺をする際に一念込めてみれば、いいのだというお話があります。
社会学では自殺をタブーのように扱います。でも私は自殺が大事だと思っています。
自殺をすることで誰かのためになる、そういう時代がもうすでに来ています。 - >>また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。
超天才とは天才を超えた天賦の才を指す。
超天才者とは天才を超えた貢献度を獲得した者 - ネット上の議論・喧嘩について。
我々はパソコンやスマホが広まる中、文章をたくさん読んでいる。
そんな中で情報を取捨選択し、「この文章はいらない」「この文章はためになるかもしれないから読む」
といった裁きが大事になってきた。これも長年文章を読んでいるうちに身に着く技術だ。
そして文章を読んでいくうちにムカツク内容が見受けられるようになって来た。
そんな中、軽い調子でジャブパンチ(煽り)を見せる者たちが続出して来た。
どうすれば議論で上手くいくのか。今回はそんなことを述べていきたい。
★質問主義のすすめ
「この〜〜はどういうこと?」「なんで〜〜なの?」などといった質問をする。
相手に説明を要求することで、ボロを出したなら上手くいっている。
質問ばかりだと自分は失態を犯すわけではいが、「質問ばかりでつまんね」と言われた時が問題。
「質問ばかりだけど何か?」くらいのスタンスで書き込んでみよう。 - ★論理的になっておく
Aさん「君は男だ」
Bさん「いいえ、女です。論破」 (男だということを論破したという趣旨)
Cさん「『女です』という言葉では論破になっていない」
Bさん「なんで?男じゃないじゃん」
Cさん「女ですという言葉だけでは、男ではないとは主張していない」
Bさん「男ではないです。と言えばいいのか。Cさんに負けた。」
Bさん「最初から男ではないと言えばいいのか。」
Aさん「男ではないと証明できるのかよ」
Bさん「じゃあ男だと証明できるのかよ」
Aさん「ドローか?」
Bさん「引き分け?マジで」
補足:君は男だ、と言われて、女です。という言葉では論破していない。
女でもあるし男でもある人間がいるから、女です、で論破できない場合があるのだ。
しかも相手に男だと言われても、証拠を出せないようでは説得力に欠ける。
男ではないと言っても、それも証拠を出せないようでは説得力に欠ける。
★情報を収集する
男でも女でもある人間がいると事前に知っておくことが大事である。
ケースバイケースという言葉の意味を知っておく。
ダブルスタンダードという言葉の意味を知っておく。
論破の意味を調べておく。といったこと大事である。 - 以下引用
★不毛な議論は避ける
インターネットの発達によって、一般の人が意見を表明したり、議論に加わったりする機会が増えました。しかし残念なことに、子供の口げんか並みの低レベルな争いが多いように見受けられます。
書店に行けば、説得力のある話し方とか、うまい文章の書き方というような本がたくさん並んでいます。こうした本はどれも素晴らしい内容ですが、現状を見ると、話の上手下手以前の問題があるように思えます。
議論を上手に進める方法を考える上では、どうしても「うまく話す」能力に注目が集まりがちです。しかし、インターネットの掲示板での誹謗中傷や非難の応酬などを見ていると、足りないのはむしろ「人の話を聞く」能力であるようです。相手の言っていることを理解できないまま、自分が言いたいことだけを言うから、議論が不毛な言い合いになってしまうのです。
★議論の心構え。
「良い議論をする」ことが大事です。決して煽りなどを書かずに真剣に議論に臨みましょう。 - ★要点を掴んでおく
「バーカ」と煽りたいとする。
「バーカ」
「雑魚が」
「雑魚?証拠は?」
こうなっても勝ち目はあるかもしれないが、バーカと言いたかっただけなので無理に「証拠は?」なんて書かなくてもいいだろう。
「証拠?あるよ。雑魚だと思えるじゃん」
「思える?それが雑魚だという証拠なの?」
これでも優勢だろう。続けてみる。
「雑魚だと知ってるもん」(論点ずらしの正論)
ここで論点ずらし正論「知ってる論」が出てきた。でもまだわからない。
「知ってるという証拠はあるの?」
「知ってるって言ってるじゃん雑魚」
これで怪しくなってきた。知ってるという証拠は出せなくても言い張るのである。
本当は知っていないことの方が多いので、雑魚ではない場合がある。
要点はバーカという一言を当てればいいだけである。雑魚なのか否かの口論は不毛かもしれない。 - ★水掛け論になったら微妙
「知ってるという証拠はあるの?」
「知ってるって言ってるじゃん雑魚」
続く。
「知ってるって言ってるじゃんってどういうこと?」
「知ってるんだって雑魚だって」
「知ってないだろ」
「知ってる」
「知ってないだろ」
「知ってる」
水掛け論になりそうな感じである。知ってるか知ってないかはたぶん証明できない。
みづかけ‥ 【水掛け論】
両方が互いに理屈を言いあって解決しない議論。 - 人格における哲学は、近頃や今始まったわけではない。人格の形成はどのような過程だったのか。
幼児期の出来事、両親から受けた教育、学校での出来事、職場での関わり、といったように分類してみよう。
幼児期には、「砂の城」を作ったり「おいかけっこ」をしたりして成長した。
砂の城を作っている過程で、子どもは真剣さを獲得する。
おいかけっこをしている最中に、子どもは隠れる方法を考え、そして隠れた人生を送るようになる場合があるかもしれない。
両親から箸の使い方を学び、そして自転車の乗り方を学び、そういう者は、目上の人に従うようになる場合があるかもしれない。
学校では、友達を作り、友達と関わり、学校の先生から授業を受け、人間関係を築き上げる。人格もまた築かれる。
職場での関わりでは、上司から教えを受け、それに耐えることでいわゆる人格を形成する。 - 以下引用
現代社会の人々への動機づけとして、聖徳太子が人々に勧めた「和の精神」がある。
マクドナルドでハンバーガーを食べながら友人同士で「和」するのである。
他者との「和」のために行動する、すなわち平和への意志が大切である。
カントの「共和的体制」を築き、協力的・解決的どちらも満たすべきではないか。
解決という概念に至っては、Yahoo知恵袋で問題解決がされており、
そしてまた、Google検索エンジンにおいては、検索で問題が解決される。
このGoogleで調べていてもわからなかったことは、Yahoo知恵袋で解決される場合がある。
ちなみに、アドバイスを得るために自分の体験談を書いたり応援を求めたりするユーザーも多数見られる。
カントの私生活にこんな話がある。
・・・
哲学者であったカントは、毎朝かならず5時に起き、夕方の決まった時間に散歩をしたという。
その時間のあまりの正確さに近所の住人は、カントの姿を見て時計の針を直したとさえいわれる。
そして、79歳で没するまで、養生につとめて1日1食を貫き、散歩の際は、かならずひとりで歩いた。・・・
カントが、真面目に生きたことが誰かの役に立つ、その典型的な例を見つけてくれた。
ネット上にアドバイスを書いたことが、誰かの役に立つ、そんな時代になっていると言える。
ーーーーーー
カントは最近終わった。何度も復活したが、もう終わった。 - 理性には限界があります。ペットの名前と家族の名前を履き違えたり、汚職事件なのにお食事券だと勘違いしたりします。
これが理性の呪縛です。勘違い、勘繰り、履き違い、誤解といったものが呪縛です。
例1)フリーマーケットを古いマーケットだと誤解する場合があった。
例2)パーフェクトじゃないのにパーフェクトだと誤解した。
例3)女じゃないのに女と混同した。
例4)まともじゃないのにまともだと勘違いした。
こういった呪縛から解放されるようにはどうすればいいでしょうか。 - 走っているとき、転んでしまいました。膝を傷つけ、「痛い、恥ずかしい」と思いました。
そんな経験をしたボクは体を動かすのに慎重になりました。
これが「経験からの学び」です。慎重に歩けば転ばない可能性があります。
仏教では、受想行識といって、受が転んだ出来事、想が「痛い、恥ずかしい」。行が「起き上がろうとすること」
識が「二度と転ばないようにしよう」です。 - 以下引用
ーーーーーー
■感覚
目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、
脳の中枢に達して起こる意識の現象。
感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方。
物事のとらえ方・感じ方。
■知覚
知覚とは、動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、
刺激の種類を意味づけすること。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、
「熱い」「重い」「固い」などという
自覚的な体験として再構成する処理。
■認知
人間などが外界にある対象を知覚した上で、
それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。
ーーーーーー
我々の知覚は誤作動を起こさないだろうか。またしては認知においては独りよがりの認知にならないだろうか。
「数字の6」という感覚質から頼りに仕事を「6個もある」と考えてしまうのはまずくはないはずである。
「6という感じ」という感覚質がある際に、誤感じに陥っていないだろうか。
哲学界は今や「誤感じ」という概念の招来の時代である。誤感じという概念を認めることは知覚しているからだろう。 - 制服というものがあろう。とある集団の中で、制服というものを着るときがあろう。
そういう集団こそその集団の多数者に協調/親和させようとしている。
そのとき初めて、「普通」ということを考える。
「普通、その集団に入る際には、制服を着る」
このことが、普通に関する一部である。 - とある集団を俯瞰した際にもっとも特徴的で、信頼するに相応しい妥当性がある何か。
という定義ではどうだろうか。妥当性があれば普通に近づける。
それも信頼するに相応しい妥当性を必要とする。
とある集団で窃盗を行うつもりでいるとしましょう。
それは信頼に相応しい妥当性に欠けるため、普通ではなく、異常と見做されます。
異常だと判断されれば、窃盗は普通ではありません。 - 異常だと見なされたら普通には成り得ない。また話を戻しましょう。
とある集団で窃盗を行う催しがある。そんな中で集団は異常性に目が付きましょう。
自分たちは窃盗という異常な行為を求めている、と。 - 集団に関して律儀や妥当性を加味してはいかがでしょう。
律儀を庇うとしたらまず「普遍さ/普遍的性質」がもたらさなければなりません。
普遍的な律儀を持ってしてそれを普通の律儀と提案するのはどうでしょう。
これはもちろん妥当性があります。
ところで何に関する律儀が思い当たるでしょう。
いじめを起こさないようにするという律儀と言ってはいかがでしょう。
いじめないように気を付ける集団はいじめをしないという点で妥当性があります。
しかしながら集団の中の一名だけがいじめをしないように気を付けるだけでは、
妥当性は見られません。 - 監督とキャスト(奴隷)の仕組みはどうなっているだろうか。
監督(主)が(奴)を動かすはずなのだが、逆に奴に監督が左右されるのである。
監督は奴に対して命令する――であるが――奴がちゃんと動かないと困るものである。
監督は奴に対して執拗になり、――そしてますます――執着してしまう。
そして生きづらさを覚え、失態するおそれまで抱く。
奴は監督の目をごまかすため、――おどけたりして――自分を見せびらかす。
奴は監督にまた叱られる。奴は監督の命令に従おうとするのだが、上手くこなす時もある。
しかしながら、奴に対して固執した監督は満足するわけでもなく、「あらゆる奉仕」を探るのである。 - 集団の中で一名だけが「反省」しても普通とは言えません。
もっと世界を広く見たときに、そしてもっと人数を数えた上で、「反省」が大多数であれば普通となります。
よって「反省」が大多数に要請されます。そこで、「反省」をテーマに大多数にアプローチします。
カントの言った「定言命法」を使い、「己の不十分を取り戻すために反省せよ」、
「己の行ったことを悔い改めるために反省せよ」と問いかけます。
「反省」を学んだ象徴秩序は、さらに鉄壁を追加したかのように頑丈になります。
そしてその象徴秩序においては「反省は普通に行うもの」というレッテルが浮かび上がります。 - 「反省は普通に行うもの」というレッテルは、その後の後世代にも伝わるはずです。
しかし、一点、「反省」に関する理論・論拠が必要となります。
「反省はいいものだ」「反省することで価値のあるものを生み出す」
そのような徹底した理論・論拠を生まねば、反省する集団は回収され、意味を成さなくなります。
そうならないためには、素晴らしい者の存在が要請されます。
素晴らしい者は記憶力が高いため、伝えるべき内容を覚えています。
そして素晴らしい者は、徹底して感謝もできます。これは後述します。 - 素晴らしい者は嘘を吐いたり迷惑を掛けたりしません。
そして素晴らしい者は、ちゃんと反省をすることができます。
それでは、どのような反省が実を結ぶのか?
「会社で携帯電話でゲームをして遊んでいた。それで上司に叱られた。
そこでゲームをしていると疑われないよう携帯電話は会社内では使用しないことにした。
そして自宅に帰ってから携帯電話で遊ぶよう行動を改めた。」
こうした行動の抑制は、軌道を変えて自室へと舞い戻った。
もう一例。
「会社に行くのが嫌で会社を休んでいた。そこで自分でやる気をつけて出勤するようにした。」
こうした仕事をする能力を発揮するに至った反省は、実を結んだと言っていいだろう。
そもそも素晴らしい者は反省をする必要性を感じないのかもしれません。
少しでも素晴らしい者のイメージを壊さないよう、ここでは素晴らしい者を反省すべき点がない者として扱います。
*反省すべき点がない者とは、できていないのではなく、できている存在です。 - さて、反省を介さない存在、すなわち素晴らしい存在は、自己抑制が上手いとしたらいかがでしょう。
自己コントロール・セルフコントロールと呼ばれる自己抑制は、
――ミスをしない素晴らしい者なのだが――ミスをしても感情的にならずに済む可能性を秘めています。
そして小さなことでクヨクヨしません。クヨクヨしない強さを秘めているからです。
強さを秘めた素晴らしい者は落ち込んだり不機嫌になったりしません。
これは強さだけではなく、「人生の上手さ」も関与していると思えます。
徹底して感謝ができるこの方は、人生の上手さも関わっているのです。 - 「人生の上手さ」とはいかがなものでしょう。それは人生には欠かせないと思える何かではないか。
人生の上手さという概念は、21世紀に誕生し、これまで扱われない概念でしたが、
「こんなにみすぼらしいのに人生が上手い」という風に用いられる「可能性を秘めています」。
そこで「みすぼらしい」という概念に焦点当ててみますと、「外見が貧弱だ。みなりが悪い。」とある。
「あの人は外見が貧弱なのに、人生が上手くて相手と勇敢に渡り合っている」という風にも使えます。 - 上手くいっている人の中で、これは自明だが【人生が上手いんですね】と賞賛する例が考えられます。
また、【あの人の人生は上手い】と賛美する例も考えられます。そこで言われた本人はどう思うか。
それは嬉しいかもしれません。「人生が上手い?良かった」と零すかもしれません。 - 「こんなタイミングで上手い」という賛美もあります。噛み砕いていえば、「マサチューセッツ工科大学に合格できたこと」が挙げられます。
ベストタイミングで合格しないと殺されるらしく、「ベストタイミングでマサチューセッツ工科大学に合格して人生上手い」という賛美です。
マサチューセッツ工科大学に合格したその方は、実際に存在していました。この方は運もいいし頭もいいんですね。
それから、運がいいとよく言われる方は、「運がいいね。人生上手いんだね」と言われる可能性を秘めています。
不滅男という言葉があります。不滅とは、滅びないこと。それはともかく、不滅男という言葉の意味は、「ラッキーばかりいう男」という意味です。
ラッキーばかりいう「運のいい存在」は実在するでしょうか。「運のいい存在」の所在は認めても、「ラッキーばかりいう存在」は認めづらいと思います。
しかしながら、ラッキーばかりいう存在はどこかに存在するかもしれません。これも公には出てないので普通とは言えないでしょう。 - さて、「人生が上手い」という言葉に関連する話題を見てきました。そこで私はある意見を聴きました。
「上手いとはひとつしかない。マサチューセッツ工科大学の合格に纏わる話」だと。
このようなお話しか、「上手い」はないと、知っているというのです。
もしそれが正しければ、マサチュー合格だけ信じることになるでしょう。
上手いのは世界にひとつしかなかった、というわけですから、なるほど、人生が上手いなんて普通は聴かないはずです。
そうです、それが大事なのです。何が「普通」たる出来事なのか、普通論はそれを要請しています。 - 014考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 12:18:45.930
世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。
0015考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 16:01:48.130
僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね
――――――
我と他に分節し、とあるが、具体的にはどういうことなのか。
自分は自分の所有物を確保する、それがこの世の普遍的な出来事でありましょう。
他者は他者なりの所有を確保する、これがこの世の法則でしょうか。
僕と世界に分節し、とあるが、自分は主体としてこの世を改築していく、すんわち人生をプロデュースしていく。
世界は強靭と思えるほど大きいが、神が認めてくれれば祝福の世界となるはずです。
「内」と「外」に分節している、とあるが、内に道徳律を秘め、そしてまた、外には平和の国を築くことが、大事です。 - 我々には盲点がつきものです。盲点とは、意外に気づかない点、という意味です。
さて、私たちにどのような盲点があったか、ケースを見ていきましょう。
「将棋で2五桂を指された。2五桂は盲点だった」――将棋で絶妙手を指されて敗勢になる場合もあります。
「飲食店で楊枝があるのが盲点だった」このような存在の盲点は、存在を使うことさえできないというデメリットを齎します。
また、ロッキード(盲点という意味)という言葉もあります。
盲点は、ファイアーという意味もあります。 - 祝福の世界、そこでは何が起きるのでしょう。たしかに神様はあちらこちら見ておられます。
その中で悪事を働いているのを見ると、それと何かしらを天秤にかけて裁くことがあります。
もうひとつ、陰徳を積んだり天の倉に徳を積んだ者は神から褒美を受ける可能性がります。
そこで、私たちは徳を積むことを目的に励むことに気が付きます。
そのような素晴らしい者の集団の世界では、徳を積むことが普通になります。 - 「あらゆる奉仕」とはいかがでしょう。監督(主)に対するキャスト(奴)の演出(それもエロい演出だとしたら……)が一案あります。
しかしながら演出という奉仕だけでは監督は満足しません。そこで地図を暗記するかのように勉強し、旅先の店(経営)を教えます。
これは効果がありそうです。監督は旅行する楽しみをはるかに求めているからです。
自分が世界を作ったと錯誤している監督(主)は、地図を覚えるのも大事にしています。
なぜならどの地域も店(経営)も自分が作った大事なものだからです。
そこで、店先に満足しない監督にはどうすればいいでしょうか。 - そこで店先においては多彩な褒美を用意することが必要だと考えられます。
監督は、キャストから多彩な褒美を店先で受けます。嬉しいかもしれません。
それによって、監督は満足するのだと、ここでは断言させていただきます。
満足した監督は、恩を返したくなったらどうでようか。
恩を返すために、旅行へ連れて行ってくれるでしょうか。
このような監督が太っ腹になることは、少ないケースなので普通ではありません。 - 恩を返すということは、贈与といいかえることができます。
ここでは旅行ではなく肉体関係―それはエロスである――が要請されるとします。
エロスによって、キャスト(奴)と一線を超える――これもひとつの演出か――が考えられます。
そうすることによって、監督(主)はキャスト(奴)に「自分の身を売る」のです。
キャストは監督の立場が上にあるため、キャスト自身は身を売る自信がありません。
そこで監督(主)はキャスト(奴)をエロスへと招きつつ、相互承認を求めます。
監督から愛されていることを感じたキャストもこの愛を最上のものと見るでしょう。
主から愛されているキリスト者、彼らも主の愛を至上と見るでしょう。
ですが、キリスト教の神とエロスを交えることは、不可能であります。
そんな中で、神さまと恋愛する、と言うように、自分から教団で至上の信仰をすることが要請されます。
至上の信仰をする「素晴らしい者」は、神さまを大切にできるはずです。
キャスト(奴)も監督(主)を大切にする、そのうえで、相互承認が達成されるのです。 - 監督(主)もキャスト(奴)を愛していて、両想いなら、相互承認が実現されたことになるでしょうか。
へ―ゲルはいう。「お互いを対等で『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会を作ること以外に、自由に平和に生きる術はない」
ヘーゲルは自由の相互承認論を語るが、監督とキャストの間ではそうではなく、愛の相互承認が出来上がっているのです。
しかしながら、キャストが神さまを信仰しているとしたら、いかがでしょう。
キャストは神さまも愛すけれど、監督も愛しているとすれば、いかがでしょう。
監督(主)は、キャストが神さまを愛してもいいと許容するでしょうか。
監督は愛してもいいといいつつ、少し微妙感をもって生きるかもしれません。
キャストは愛したい存在を愛し続ける、ただそれだけなのです。 - 監督は二者択一に狭まれます。神さまを愛するか、愛しないか。これは愚問かもしれません。
監督は、一応、好んだキャストと交わろうとしますが、神さまは見えないため、手を出さない可能性があります。
神さまの意見を借りれば、監督はキャストを狙っていて嫌だ、だから監督を裁く、という内容です。
監督はうすうす神さまの視線に気づいていますが、キャストを求めて生きることを重視しています。
神さまはどうでしょう。あなたなら、監督が嫌になったでしょう。そこで監督はどうなるか。
神さまが憎んだ監督は神さまに処刑されてしまいます、あるいは、処刑人を介して処刑されるおそれがあります。
これは普通のことなのでしょうか。神さまの指図で処刑が起きることは、普通の事なのでしょうか。 - 神さまは処刑家としての一歩を歩み始めます。監督が「エロいから嫌だ」というのです。
そこで神さまは監督を裁きます。これは普通の事のように思えます。
監督は神さまに抗うすべもありません。どうしても裁かれることは不可避です。
そこで、監督は助けを求めるようになります。それはキャストに対して芽生えます。
監督は言います。「キャストの君よ、裁かれるんだ。どうにかしてほしい」
そう言われたキャストは戸惑います。「監督も抗えないのに、どうして私が抗えるでしょう」
監督は挫折を味わいます。自分を救う存在はこの世に存在しないのだ、何たる現実だろう、と。 - 自分を救ってくれる存在はどこにもいない。これが監督の絶望感です。
キルケゴールはいう。「死に至る病は、絶望である」
監督は死に至る可能性も考えられます。しかしながら、神さまに対して呪文を唱えることを思いつきます。
神さまは万能であるため、呪文を回避できるでしょう。
監督も呪文では神さまに勝てないと学びます。
むしろ神さまの方が監督に呪文をかけ放題なのです。
ハリーポッターと賢者の石で有名なあの映画では、杖で呪文を唱えます。
神さまには効果がありませんが、神さまはもっと自由に呪文を使うでしょう。
呪文対決で神さまには上手くいきません。神さまは呪文耐性があります。 - 監督はそうこうして勝ち目がないと悟ります。恐怖感が増していきます。
神さまはいいます。「監督さん、私に攻撃しようとするなら殺しますよ」
監督は畏怖するかもしれません。「分かりました、あなたに服従します」
遂に監督は神さまに対して服従宣言をします。「あなたに殺されるくらいなら、僕(しもべ)でありたい」
キャストはこの光景を見て驚きます。「監督さん、あなたは神さまに頼るのですね」
神さまに頼ること、信頼すること、それらは僕(しもべ)の必須項目でしょう。
しもべである監督は、キャストの気持ちがわかります。キャストも監督に頼ります。
キャストが私に頼る気持ちがわかる、そう監督は実感します。 - 監督のしもべであるキャストは監督を助けたくなります。
その一方で、キャストは神さまに願いをかける、大仕掛けに賭けようとします。
キャストは、神さまに「監督を許すように」説得をしたり願ったりします。
「神さま、どうか監督をお許しください、もうあなたのしもべなのですから」
そうこうて神さまは監督を許すことを認めます。
言うことを聞いてくれたと知ったキャストは喜びます。
「私も監督もあなたの許しがあることを喜んでいます。神さま、ありがとうございます」 - 神さまは監督を許すという一大事が起きています。
監督はキャストと同様、神さまに許されたことを喜びます。
「神さま、私をお許しくださり感謝しています。」
監督は少しでも攻撃性があったことを悔やみます。
「お詫びの証と致しまして、あなたのしもべとしての活躍を懇願します」
神さまは監督がしもべとして自分に仕えることを認めます。
「あなたの思いは強い。しもべとして活躍することを命ずる」
監督はまた喜びます。しもべとして活躍できると意気込みます。 - キャストは、監督が神さまに仕えることを、予感していました。
「監督、神さまに背くことなきよう努力しましょう」
「もちろんだ。キャストも神さまにしもべに?」
「監督にも神さま、両方にも仕えたいです」
神さまもキャストがしもべとして自分に仕えることを認めます。
監督は言います。「両方のしもべとは、これは大物だろうか」
神さまは言います。「本物ならこれから咲きますよ」
キャストは言います。「本物でも重鎮でもいいですよ」 - キャストは神さまと監督とのどちらを支持するのが妥当でしょうか。
どちらを上だと信じるのが妥当でしょうか。
そして一方より好きになる方はどちらが妥当でしょうか。
これらの問いはじっくり見ていきましょう。
キャストは神さまを支持しているけれど、それは監督を支持しないという正当な理由になるでしょうか。
結論からいえば、キャストはどちらも支持していいのです。 - キャストは神さまも監督もどちらも愛しているのだから両方支持していいのです。
また、上だと信じるのは、監督より権力のある方は神さまなのですから、神様を上だと信じるのが妥当だと思われます。
一方より好きになる方は監督との相互承認を懸念してキャストは神さまより監督を好きになるべきでしょう。
神さまと恋愛をしてはいかが、という意見もあるでしょうが、キャストは監督と愛し合った方がよいのです。
それに比べて神さまは公衆の面前に現れるわけではないので、愛し合うことはありません。
愛し合うことはなくても、大衆から好かれるのが神さまなのです。 - 神さまの権力>監督の権力>キャストの権力
このような権力の階層が妥当だと思われます。
神さま>監督≧キャスト (強さの階層)
神さまは見えないためとらえるのが難しいですが、監督とキャストは似たりよったりです。 - キャストは重鎮であると、神さまは言います。また、監督は「本物」とキャストに言います。
キャストは重鎮と言われて喜び、また本物と言われて喜びます。
この喜びがキャストの至上の喜びなのです。褒められた喜びはかけがえのないものです。
ここでキャストと神さまの相互承認が確立します。
神さまを認める心、それをキャストは維持しています。
監督もキャストを認める心、これを維持しています。
神さまは監督を認める心を維持しています。
昨日の敵は今日の友、とはよく言ったものです。
神さまは遂に監督を認めたのです。 - 古代の哲学者=ソクラテスは、「無知の知」を唱えました。
自分が何を知らないかを知る、つまり自分の無知を認識することを指します。
キャストは振る舞いは上手なのですが、あるとき神さまに
「キャストは何も知っていない。つまり無知である」と言われました。
キャストは落胆しました。そこでこう言います。
「私は無知でも想いを大切にして内側の声を聴いてそして判断/行動をしています。
想いは強い場合があるのです。知っていない方でも私は想いに賭けています。」
神さまは頷きます。「ほっほっほ。無知だとして責めて悪かった」と神さまは言います。 - 監督は、キャストの想いの強さ、そして内なる声を聴いていることに驚きます。
「内側の声、内なる声、とはどうやって聴くのだ」
「耳をすませば」
「それでいい。では本物と言われているのに無知だとはなんぞや」今度は神さまに言います。
神さま「しくじっただけじゃ。神々もしくじるのじゃ」神さまは答えます。
キャストは言います。「私は無知ではありません。ただ、勘違いされただけです」
神さまは言います。「ふむ。大物が無知であるわけはないか」 - 三分を紹介。
>>序分 - 序説の部分。その経典が説かれる所以(ゆえん、理由)や因縁を明かす
>>正宗分 - 本論の部分。その経典の中心となる教説を述べる
>>流通分 - その経典の功徳を説き、弟子に附属し、後世において受持し流布することを述べる
序分では経典が説かれる理由を語ります。正宗分では経典の中心になる教説を述べます。
流通分では後世に向けた経典を言います。
しかしながらお釈迦様は経典を書いておられません。ここでは仏とブッダを登場させます。
仏「神さま、私も監督が嫌いです。エロいと聞いております」
ブッダ「仏さん、私も少しエロいところがあります。大目に見てくれませんか」 - 仏さんは言います。「釈迦は仏典を作っていない」
「偽典が残っているのだ」「釈迦に弟子はいなかった」
と淡々と力説します。
ブッダは訊きます。「釈迦が悟りを開いたのは本当ですか」
仏「いいえ、釈迦は悟りを開いていません。これは私が知っている自信のある一説です」
神さま「仏典の内容の一部が偽りなんですね」
仏「ええ。釈迦は名言を残したと伝わっていますが、名言も残していません」
ブッダ「では《行為によっては未来は変わる》という教えも釈迦の教えではないと?」
仏「ええ。釈迦はそのようなことは教えていません。バーニングストライブなら言っていました」
ブッダ「どういう意味ですか?」
仏「『釈迦いい釈迦いい釈迦いいいい』という意味です」 - 監督「釈迦いいいい、とは何語だ?」
仏「女子語の意味ですよ」
監督「女子語とは?」
ブッダ「言葉の意味が大事なんです。ファイアー気になりませんか」
仏「ファイアーはファイファイファイファイとかですかね」
ブッダ「そうですね。いい、強い、という意味もあるんですよ。
カタカナが女子語で意味の印象がいいときに使うんです」
神さま「ファイアーロケットはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイという意味です」
仏「ではブッダさん。ファイはどういう意味ですか」
ブッダ「フェイ ロー という意味です」
仏「フェイ ロー ですか。勉強になりました」 - ブッダ「ファイファイというファイが二つ分の言葉もあります」
仏「いいんだけどな、という意味ですか」
ブッダ「そういう意味もあります。どうして分かったんですか」
仏「直観です。直観が働けばいいと思います」
監督「女子語を解読する、というのもいいけどな」
仏・ブッダ「解読なんていいですね」
神さま「私は勘です」
キャストが会話に入りたがっていた。
キャスト「私は女子語は感じてわかったりします」
仏「勘、感じ、なんて素敵ですね」
ブッダ「本当に素敵ですね」 - 神さま「素敵とはどういう意味じゃ」
仏・ブッダ「ファイア、です」
監督「また同時に言った」監督は、ははっと笑った。
神さま「直観かね」
仏「直観です」
ブッダ「私は意味を想ってしまうのです」
キャスト「ファイアはたくさん出てきますね」
監督「女子語の意味に?」
キャスト「ええ。女子語の意味に」
神さま「ミカンはどうじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイファイファイファイロー神です」
神さま「長いけど神があって良かった」
仏「髪があって?」仏は少しからかった様子だった。 - 監督「仏典のメリットは何だろう」
ブッダ「仏教を学ぶ際に大事な手掛かりになるでしょう」
仏「般若心経の内容は覚えて損はないでしょう」
神さま「感じだらけで覚えられるといいのじゃが」
キャストAとキャストBが忍び寄ってきた。
キャストA「座禅や修練なんかは知ってみたいよね」
ブッダ「瞑想なんかは座禅でやるでしょう」
仏「どんな瞑想がいいか分かる?」
神さま「ヴィッパサナー瞑想はどうじゃ」
監督「色々あるんだ」
キャストA「そのヴィッパサナーってどういう意味?」
ブッダ「フェイフェイフェイフェイフェイ、という意味ですね」 - 仏「またそうやって当てる……ブッダちゃん」
ブッダ「仏さんでも当てられるでしょ。意味くらい」
神さま「わしもフェイ系統だと思っていた」
キャストB「フェイフェイフェイフェイカイはヴィッパサナー瞑想だよ」
監督「フェイをカイに換えたらそういう意味だな」
キャストA「至極真っ当ってどういう意味?」
ブッダ「監督いい、という意味ですね」
仏「監督にはいい感じのする言葉ですね」
監督「ではひらがなだけど『しきょくまっとう』は?」
ブッダ「監督良し、だと思います」
仏「同意です」
キャストB「トルマージャは知ってる?」
キャストA「監督がいい、という意味でしょうか」 - キャストB「それで当たってます。ではトルマージャ?はどうですか」
ブッダ「監督がいいんだよ、という意味ですね」
仏「何だか微笑ましいですね」
監督「トルマージャとかそういう女子語はどうやって覚えるの?」
神さま「記憶力が要となるじゃろう」
キャストA「言葉を発声して覚えるとかです」
キャストB「文字にしてもいいと想います」
仏「よく繰り返してみるとか」
ブッダ「覚えると想っておく、でしょうか」
監督「色々あるんだ」
キャストA「ところでロクセンダンはどういう意味でしょう」
キャストB「文字がヒントだよ」
ブッダ「文字にしてもいい、という意味です」 - キャストA「文字にしてもいい、という意味ですか。納得です」
仏「色々あるんだ、はどういう意味ですか」
キャストB「監督いい、という意味です」
神さま「監督いい、なんて監督は喜ぶじゃろう」
監督「うれしい……」
キャストB「監督ってファイアですよね」
ブッダ「そうですよ。ファイアがヒントなんです」
キャストAは六法全書を暗記したいと意気込んでいた。
キャストB「六法全書を丸暗記したいのかい」
キャストA「そうなんです。何とか読破したいと思います」
神さま「無理はするなよ。少しずつでよい」
仏「コツコツコツコツでいいんじゃない」
キャストAは何だか嬉しくなった。そして本屋へと去って行った。 - 仏「嘘も方便という言葉は、釈迦は言ってないんですよね」
神さま「釈迦が言ったイメージがあるが」
ブッダ「仏の顔も三度まで、も言ってないと仏さんから聞きました」
キャストB「仏典の嘘なんですかね」
ブッダ「何で嘘が出回るのでしょうね」
仏「僧侶の捏造したお話なんですよきっと」
神さま「そうに決まっとるわい」
仏典には多くの嘘が含まれていることを警戒したい。
釈迦は悟っていないのだから、変性意識がどうのこうのという問題ではない。
また、意識は文学だというお話もやや真実から離れたものに違いない。 - 神さま「ルンドラドムはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「神いい神いい神いい、という意味ですね」
仏「またブッタちゃん当てる」
神さま「ほう」
キャストB「悟空癖もいいですよ」
仏「どういう意味?」
ブッダ「神(いいいいいいいいいいいい)、以上です、という意味です」
神さま「勉強になるのう」
こうした監督いいであるとか神いいという女子語をしっかりとおさえておきたい。
ブッダは意味を知ることのできる優秀であるけれど、どこかあどけない存在なのだ。 - 監督は、自分に関する知識が手に入って満足していた。
神さまも神いいだとかそういう意味がわかって上機嫌だった。
キャストAは読書家だった。キャストBは接客業に務めていた。
仏は努力家だったが、ブッダは言葉の意味ばかり考えていた。
監督は主である。キャストに従事させ、どの文章がよかったのか、
そして給料の8割以上の収入を監督に与えさせた。
神さまは怒った。収入の8割ももぎ取るからである。 - 監督は、キャスト達を金目のために利用したことがバレていることに気付いた。
監督「神さま、あなたにバレたのですか」
神さま「何の利用か詳しく」
監督「ネット上の文章の中でいい文章、為になる文章を要請したんです」
神さま「ほう。他には」
監督「キャストの収入を横領していました」
神さま「横領していけぬな」
監督「やはりダメなのですか。そうなら自殺して終わります」
監督は自殺した。神さまの王室を出た後でだった。 - 監督はいなくなってキャストは横領されなくなった。
仏「監督……」
ブッタ「か、かんとく……」
神さま「もう帰ってこないのう」
キャストA「哀しい、……」
キャストB「うん……」 - 神さまは黙って考え込んでいた。監督の事だ。
自殺して正しかったのか、天秤に掛けたかったのだろう。
以下引用
ーーーーーー
自殺と子供をつくらないこと
埴谷雄高『死霊2』(p140〜)によると、この二つだけが、人間が正真正銘の自由意志でおこなえることだそうです。
ーーーーーー
埴谷氏の意見で言うならば、監督は自分の自由意志で自殺を行ったのです。
神さまは、監督の自殺の意義を考えていましたが、自由意志だったと学びました。 - 贈与には生前贈与と暦年贈与があるでしょう。
生前贈与とは親が生きている間に子へ贈与するものです。
暦年贈与は生前贈与の一種です。控除額は毎年110万。
恩を返すということは、贈与になることでしょう。
そのような贈与を監督はキャストにしませんでした。 - >>6にカバーできていないと書いた。
>>神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。
誰も理性で神がいると分かっているわけでもなく、魂も分かっていない場合も多々ある。
しかしながら、イエスの文献に見られる天の父というワードに感化されて、キリスト者は天の父を「存在する者」と視る。
魂においては、わたくしの知り合いである、二瓶さんが、「魂は永遠だよ」と二度もお話してくれたので、
きっと私は永遠に生きるイエスキリストなのであります。永遠の命は神様の許可があるからでしょう。 - 監督がいなくなって寂しいキャストがいました。
キャストはお墓参りに向かいました。
監督さん。ごめんなさい。ただそればかりです。
いつか私たちに見せたかった栄光を、そして演劇を、私たちが叶えてみせます。
それではお休みください。アーメン。 - 大丈夫。心配しないでください。
監督の最後のひと言です。
監督はキャストを愛していました。
キャストはモヘンジョダロが気になります - それでは監督の葬式を始めます。
来監督復活祝願冥界実相
休息安泰末法回避説法 - 監督成就想念夢現回廊
大丈夫安眠熱意情熱大陸
監督心配無用霊界修業無事遂行
以上で葬式を終わります。
キャストA「皆さん、今回はお葬式に参加していただきありがとうございます」
キャストA「無事あの世でも修業してくださることを願っています」 - キャストB「あの世でも修行に励むことを切望しております」
キャストC「頑張ってあの世でも平和に暮らしていけますよう祈っております」
キャストD「あの世で平穏に暮らしていけますようお願いいたします」
すると監督の声が聞こえてきた。「ありがとう、ありがとう……」 - キャスト一同「か、監督……」
キャスト一同「どうかご無事で……」
ブッダ「監督の身柄はご安置するそうです」
仏「墓標ですね」
神さま「墓標に句碑も添えてみましょうか」
すると監督の声が聞こえてきた。「ロベルト」 - BUDDISM!
- ブッタ「ロベルトとはスネヒョンスネヒョンという意味があるが、他にも色々ある
仏「ハイハイハイハイという意味もある
神さま「バーカバーカという意味もある
監督2世「スネひょんです。監督の生まれ変わりですよねわたしって。よろしくお願いします。 - ブッタ「スネひょん!?生まれ変わりか
仏「よろしくぐらい言えよブッタさん
神さま「よろしくな
スネひょん「神さまはしっかりしていらっしゃる - ブッタ「神さまだって私だってちゃんとしてますよね
仏「そうかな
神さま「スネひょん。大丈夫だぞ
スネひょん「ありがとうございます。 - ブッタ「スネひょん。君は礼儀正しい」
仏「礼儀正しいなんてよく言えますね」
神さま「確かに礼儀正しい」
スネひょん「監督時代とは違いまっせ」
ブッタ「違いまっせ、とはスネひょんいい、という意味だ」
仏「ほほう。」
神さま「スネひょんは成長した」
スネひょん「違いまっせ、っていいですね」 - 彼らの集団を見て、ヨノツキ公爵が笑っていた。
ヨノツキ氏の考え方によると普通はこう示される。
普通に考えたらこうだ、という行為を取ればいい。
また、普遍的に考えて行動すればいい。
カントのいう「普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ」の通りに行為せよ。
葬式には遺族や知り合いが集うことは【普通】である。
学校で授業を聞くことも、【普通】である。
これら二つの普通は【客観的普通】である。
ヨノツキ公爵は、監督の言い分を知っていた。
その言い分とは、「来世の自分=スネひょんが幸せに暮らすこと」であった。 - 監督=スネひょんの言い分である、幸せに暮らすこと、というのがあるが、
幸せに暮らすことが人並みであり、と思うし、そして普通であり、と思う、だからこそ主観的普通である。
客観的に幸せを掘り進めると、幸せである方が、不幸であるより気持ちは安らかである。
さらに幸せを掘り下げると、幸せになりたいと思う人が少なくないということ。
不幸であるより幸せの方がいいということは、言うまでもない。
しかしながら、幸せと不幸、どちらかの方が当て嵌まってるかというと、幸せの方が当て嵌まってない。 - ―――――
今さら不幸や絶望感を以ってしても何になると云うのだろう。
絶望感に浸っているとき、その時が大事なときだと、私は思う。
絶望感から這い上がったことが、私の人生で何度かあった。
絶望を経験してこそ人生なのではないか、そう考える人が増え始めるでしょう。
それでは絶望を経験することは普通なのか?この問いに答えてみましょう。
絶望することが頻繁にあるとは聞きません。また、絶望が普通と言えるほど多くあるわけではありません。
絶望を経験することは普通ではないのではないか、そう思えるでしょうか。
絶望を経験した校長先生を私は知っています。4回も絶望したけど這い上がったのです。
借金を払えずに毎日ひやひやしていたらしいです。
不幸の方が多いと私は聞きます。不幸から幸せになるためにはどうすればいいでしょうか。
幸せになるためには努力することです。毎日コツコツ努力することです。
努力はしなければならないのです。 - ★自己の成長
私たちは、自己を成長させるべく、学校ではもちろん、本においても道徳を学んだ。
努力しなさい、という意見は間違ってはいないだろう。
しかしながら、努力しなさいと言った本人が、道徳的に反していては、つまらない。
他者にアドバイスする本人自身も、立派な人格者でなくてはならない。
これが第一原理である。そして他者のためにアドバイスをすること。
これが第二原理である。また、人災に遭わないように気を付けること。
これが第三原理である。他には、原理にはあげながったが、避難生活の準備を整えておくこと、である。
勉強しなさい、だとか、嘘をついてはならない、だとかいう道徳規範は、
本人が見事に達成していることを条件としない場合、信憑性の低い説明になってしまう。
あらゆる道徳規範は、本人がその道徳規範をクリアしていることを条件に、語られるべきなのである。
自分が成長してから道徳を語れ、や、嘘を吐くなと云うなら自分ができてから嘘を吐くなと言え、など、
そういった勧告者本人がしっかりしてから発言するべきだ、という意見もあるだろう。
しかし、立派な人格者は、当然しっかりしているのだから、他者にアドバイスできてもいいのである。 - ★自己の人格
自己の人格は空高くあった方がいい。自己の人格形成に興味を抱こう、私はそう思います。
人格は様々な要因によって形成されます。
例えば、親の躾がいい例です。親は、パフェノニックになるな、と躾します。
人格形成においては、いじめに遭っていたことも関わるでしょう。
そして道徳観を深く洞察し、優しい性格になることが極めて大切です。
女性は優しい人が好き、とはありそうなお話です。
優しくない人は嫌われます。
人格の形成は、ヨロミンチャと言います。
優しくなるために、道徳心を養いましょう。 - ★自己の成長2
かなりアウトな意見だが、道徳的であることを認めない、という一種の風潮もある。
道徳ごっこをやって気分がいい?そんな道徳いらねえ、という考え方だ。
すべての道徳が絶対的に正しいとは言い切れない、そんなことも匂わせる。
「はい」「わかりました」「ありがとうございます」 このような接待は、
仕事によるが、よくある例である。「どうもすみません」という接待も、
道徳嫌いの人から見れば、嫌な発言だったり「つまらない道徳」だと思われる。
こうした道徳規範も、つまらない、とバサッと切られれば、元も子もない。
しかしながら、ビジネスマナーとしての「道徳」は、ビジネスを続けていく者として、
大切な考え方だったのではないだろうか。「おはよう」を言わない社員を社長は嫌うのではないか。
社長は挨拶という道徳規範から考えていくのではないか、私は挨拶から始めることが大事だと聞きました。
挨拶は大事と云いますが、道徳嫌いの人は嫌がるのでしょうが、そんな人がいないところで挨拶すればよいのです。
挨拶から人間関係を築いていくのなら、挨拶することが広まっていれば良いのですから、挨拶は広まるべきでしょう。 - ★挨拶の効果
おはようございます。という挨拶は、身を明るい気で満たす効果がある。
明るい挨拶で毎日暮らしたいものだ。
挨拶ひとつ、デキれば、次もできる。
ひとつできればふたつできる。ふたつできれば三つできる。
哲学板の皆さん、こんにちは。私は元気です。
挨拶いい - 永らく暮らしているとこの世の諸行無常に気付くものである。
ひいては誰がが悪いのかが、勉強になる。
どういうときに天啓は降ってくるのか。
これについてだが、清く正しく生活していたとき、かつ超越者に認められたとき、
だと思われる。カントは「正しく生活」をしたことは有名だろう。
そしてまた、イエスキリストのように、貧しい人々のために精力を注いだことも、有名だろう。
そして、デカルトのように「清く(又は思慮深く)生活した」ことも、天啓と関わっていると私は考える。
ある瞬間、ハッと天啓が降りてくる。それは超越者からの恵みであり、
頑張っていることのご褒美であろうか。皆もあと一歩踏み出す勇気をもって、前に進んでいってください。 - 高速で活字を理解・納得することができれば、読書はより円滑なものになる。
高速で文を読む技術を身に付けたいものだ。
私見ですまないが、言葉を相手にするのだから、言葉を吟味しなくてはならない。
読み方・読み内容を拵えておかなくてはならない。
そのためには学習・体験が必要となる。
学習を学習するということは、学習という言葉を汲み取る必要がある。
学びならうこと、という意味もあるだろう。
それを拵えてこそ、学習の意味を学習したことになる。
そして又、学んだ言葉を実際に話して体験してみる。
その成果を、吸収し、勉強することこそが、言語習得の要となるのである。
コミュニケーションとは言語習得の舞台だ。
私はある程度予備知識を持っていなければ読書は難しいものだと考える。
『神は死んだ』という一文にしても、ある程度考えさせられるだろう。
これはある程度知識を要する。神は当初、キリスト教というカテゴリーを神格化させていた。
ところがキリスト教は神格化した神秘性を著しく欠如した。
キリスト教の道徳観が否定されてしまうこの出来事を、『神は死んだ』と表現した。
神のいないキリスト教的価値観は根底から覆された。
道徳は力を失い、神を崇める唯一心の信心は、音を立てて崩れ去る。
力への意志を求めるキリスト者は、道徳的価値観を見失った - ★読書の作法
一瞬の隙をついて、という言葉もある通り、一瞬の判断で文字を見分けることが大事である。
私の実体験では目次をさぐり、要点だけを見る、という読書だ。
ネットサーフィンをしていると時折簡潔で重要な文章があるだろうからパッパッと読むのである。
一瞬の判断の巧さを狙うなら、漢字を勉強するといいだろう。
私は日本語が高速で見分けられる方だと思う。
しかし英語はまだ見分けるのに窮する場合もある。
私は英語も勉強していつか英語を高速で読むことを目指している。
英語も勉強しろ! - ★顔分析
顔は履歴書と言われる。顔の形、輪郭、色合い、などからどういうタイプかを分析する。
顔が大きいと記憶力が高い、鈍感、正常位がいいと思っている。
精神力が高い、という点もある。
面長だと鋭い、テクニックがすごい。
黒人はうんこさんだ。イギリス人は歯だ。 - >>111
WEB広告で明かせぬ正体 最強の糸使い〜 の漫画が出ていたので、懐かしいと思い読んでみたが、思ったより酷かった。
キャラクターデザイン自体は悪くないのだが、とにかくアクション描写が下手で、見ていて恥ずかしくなるレベルだった。
その流れで 辺境ぐらしの魔王 転生して最強の魔術師になる を読んだら、漫画の出来が良く続きが気になったので、小説も読んだ。
不老不死なだけで辺境の村で穏やかに暮らしていた主人公が、勇者(?)に倒されて200年後に転生する話だ。
想いを繋ぐ展開が好きなので、そこは評価甘めに見ている。ストレスもあまり無い。
ヒロインの王女は王女の身分ゆえに身動きが取りづらく、オデットさんの方が相棒ポジヒロイン感の方が強い。漫画のマーサは可愛い。
コミカライズで外れると辛いという話だ。 - >>114
ほう。漫画でおもしろいか? - コギト エルゴ スム について。
我思う 故に我あり とは断言できない可能性についてであるが、我思うだけでは我ありと断言できないのではないか。
我思うからは、我思っているということしか導けないのではないか。かくしてデカルトのコギトエルゴスムは完全なものではないものになる。 - スピノザは『デカルトの哲学原理』で、「我思うゆえに我あり」の
「ゆえに」は、論理的帰結を示すものではないと言っている。
実体は「我思いつつ我あり」であり、「我」を想起している
まさにその時に「我」の存在を実感する、ということなのだ。 - ゆえに、という論理的な展開はコギトから抽出できない、であろう。
我思いつつ我あり、も、我が何だか曖昧なまま展開されている。
我がいるという我は完全な相対的概念とは言えまい。
かくして我はいるという第一歩と思われていることが、本当は完全な推理ではない、ということなのである。
我はどこにいるかさえ曖昧な現代では、自分さがしに傾倒する者が現れた。
しかしながら「自分はそこにいる」という刺激的なフレーズも現代には聞いていた。
我は曖昧なのである。自分もまた曖昧なものだ。 - 「我」の存在については、仏教では「ミリンダ王の問い」が有名だ。
『「馬車」存在しないのと同様に「我」も存在しない』というわけだ。
現在の心理学はもとより、哲学も物理学も、この議論について
決定的な解答を与えていない。仏教が最も明快に答えている。 - つまり「我は存在しない」というのが、最も妥当な解だ。
では、「我思いつつ我あり」はどうなのか?
端的に言って、「それは幻覚である」というのが答え。 - 我は存在しない、か。
素粒子が細胞において流転している世界で、血が流れても修復するものだ。
我もあったところで素粒子や何かと交流することもあるかもしれない。
我を出してみよと一休さんに言っても出せない。
我とは意識体なのではないか。我思う故に我思うについて考える、ということが挙げられる。
思う、考える、そうした自覚が第二のコギトなのだろう。 - 「我」の存在にあくまで固執するのは、仏教流に言えば「渇愛」つまり
「執着」だ。「執着」というとなにか、汚らわしい醜いものと印象して
しまうが、実際には、ごくありふれた性向だ。「生命力」と言ってもよい。
我への執着が生命力であり、それを捨てよというのだから、まるで仏教は、
死ねといってるように見える。
しかし、そもそも我々は"生きてない"のだ。盤珪禅師は「不生」と言ったが・・。
この辺から「理解不能」とか「カルトだ」とか言う奴が出てくる。 - 我々は生きていない。もちろん死んでもいない。
では、今、小惑星が地球に衝突したり、核兵器を落ちて、
この肉体が吹き飛んだら、私は生きているのか、死んでいるのか?
何も変わらないってことだな。世界も我(?)も安寧のままだ。 - 我々は生きていない、か。
生きているかいなかで口火を切るのてはなく、もっと華を開かせるような、そして鋭利で弁舌深い話題を展開してみたい。
執着は取るしかないのが常識だ。しかし執着は効果的な側面も持っている。
渇愛は執着と言われる。愛があっても執着と言われると愛もどこかぎこちない印象を受ける。
愛があってもそれは執着だと言われても、愛していいなら愛せばいい。
愛に恐れることはない。執着もまた、愛を生むのだろうから。 - ★読書の仕方
高速で読みたいという欲求ばかり伝わったのかもしれない。
しかしながら本をゆっくり読むという精読も大切だ。
スピードばかりてはなく緩急をつけて自分なりに読書をしたい。
緩急といってもスピードを目指すばかりではない。
ここは大事な内容だから緩急をつけて精読する、そうした姿勢が大事だ。
精読したことは書評する、という戒律も大事だ。戒律を持って人生を生かされていきたい。 - ★戒律
英語は毎日一単語覚える、そういう戒律だ。
社会、世界史は二個覚える、そういう戒律だ。
英語は発音が要だ。発音と文字に書いて覚えることが大事だ。
文字に書いて、参考書を読んで、文字だけ見て意味を想起する、そういう繰り返しが大事だ。 - 戒律には罰則が伴う。
キリスト教の戒律は、神による戒律だから罰則は厳しい。
仏教の戒律は、人間の戒律だから、融通がきく面もある。
いずれにせよ、戒律を言うなら、犯したときの罰則も明確にしておくべき。 - 速読で理解度が落ちることは、既に定説。
速読してる人は、必ず読みをはしょっている。
ところが、普通の文章には意味の粗密があるので、
粗のところをはしょり、密のところを丁寧にすれば、
理解度を落とさずに速読ができる。
とは言え、全体として理解度は落ちる。
それを承知で用途に応じて速読をするのは構わない。 - 127
どこがどうおかしいか教えてください - 普通に1,000文字/分ならば、十分速読と言えるが、ちょっと寂しい。
2,000文字/分、できれば4,000文字/分はいきたい。
そもそも、普通の人の読みは荒っぽいので理解は不十分。
その程度の理解度でいいなら4,000文字/分は難しくない。 - >>130
>もっと華を開かせるような
「生きていない」は、決して陰湿で、否定的なことではない。
むしろ最大限に活性化している状態を伴う。
逆に、仏教の「愛」に肯定的な側面はない。
>執着は効果的な側面も持っている
全く持っていない。
真理に執着する、善いことに執着する、博愛に執着する・・
全部、悪いことだ。 - 執着から生まれるメリットはないと?
何が最大限に活性化してるの - >何が最大限に活性化してるの
判らん。とにかく活性化してる。
今日は暑い、鳥の声が聴こえる、なんか気だるい・・
と活性化している。 - 筋違いなう
- 仏教の愛だとか何か筋違いだろう
仏教に愛なんて概念で論じたのは無いと言っていいほどだ。
仏教の愛に肯定的側面というお話は出てこない。
筋違いだろう。 - なにか誤読してそう。ってか、筋違いはどっち?
そもそもの思い違いで、空回りが甚だしい。 - 愛はほとんど説かれていない。愛が仏教でいうなら肯定的な側面はないというのは何か筋違いだろう。
愛も執着になるよとなら教えるかもしれない。
でも愛は俗世間では必要なものだ。
仏教では愛は執着だから気をつけなさいと教えるのだ。 - 何が空回りなんですか
- >>138
そもそも、俗世間(現代)での「愛(love?)」と、仏教経典の「愛
(例えば、トウリシュナー。他にも一杯)」とは別物。
キリスト教の「愛(アガペー)」と違うのと同様。
同じ漢字を用いたのが間違いのもとだが。
それをゴッチャにしてる議論だ。それを止めよと言ってるのだよ。 - ★麻雀
麻雀はドラを視野に入れておく。ドラはなるべく捨てないが、9ぴんは上がりにくい場合は捨てる。
私はイーリューソーで上がりそうになったことがある。緑一色だった。
白、撥、中、は待ちたい。ポン狙いだ。
東場の場合は東を待つ。南場の場合は南を待つ。どちらもポン狙いだ。
アンカンはしたら上がりにくくなる例もあるが、ドラをひとつ増やして一個持ってきて勝負する手もある。 - ★ゲームの意味について
ファイアパーフェクトパーフェクトコアゲーションという意味です。
運ゲーもゲームです。単純に言えば、運が大きく左右するということです。 - ★ヘーゲルの自由
我々は欲求をこの世界にどんな形であれたずさえているはずで、そのひとつひとつがミソギハラヒだったり罪穢消しだったりするものだ、と考えることもあるだろう。
ヘーゲルは欲求を平和へとつなげ、それを自由な社会とした。
どんな欲求も、平和へと道を開いていけるように我々は欲求を大切に扱わなければならない。
欲求を抑えたカント派の考え方とはことなる考え方だろうが、よくない欲求はよくないので抑えてもよいだろう。
ヘーゲルの平和はカントが考える平和とどこが違うか、考えてみよう。😀 - ★ヘーゲルの自由パート2
欲求を巧く利用して、そして悪を退散して平和へと向かっていくことが自由への
一歩一歩である。
正しいことと誤っていることについての話だが、20歳以上は選挙に投票するものだ、とか20歳が成人だ、とか19歳が、とかが正解がないものもある。
教養をつけ、良心に従って平和活動に取り組む、そうしたことから正解がないことでも立派にしていく、これが大切だ。
自分で自律して生かされていく、そういう生き方ができるようにしていく、倫理も体得する、道徳心も養う。
ヘーゲルは良心が上手く行けばいいという。ひとり救出したら、その助けられた人が世界を照らす。そんなビジョンも描いてみたら、ひとりだって良心によって助けられたので、大切なひとりだし大切な良心なのだ。 - ★ヘーゲルの自由パート3
本質的な自由のためには教養を行使しなければならない。なぜなら教養がなくてはお金がいくらあっても無駄遣いに終わるだけだからである。
教養がなくては、大きなこと、大成はできない。良心がなければ精神は本質的に骨がスカスカしているようなものだ。
良心は精神の本質を潤していく、普遍的な正しさは良心として発出され、普遍的な正しさは平和への一歩とも言えよう。
言い換えれば、平和になるためには普遍的な正しさが要なのだ。 - 0869 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:18:12.44
>この若い熱狂家は、理想的要求にほかならないシラーの要求を、現実存在として生きる。シラーがむしろただ修辞として教養として要請した理想主義を、ヘルダーリンは生きる。シラーにとってはとっくにただ装飾用の壮大な比喩となったギリシアとその神々を、彼は信ずる。シラーがただはげしく要請するばかりの詩人の使命を、彼は果たす。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、p.103)
ID:0(869/1000)
0870 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:22:05.33
>ヘルダーリンにおいてシラー自身の理論、予感が、突然、肉となって具現した。だからこそ、シラーは心中秘かに愕然としたのだ ― この青年を、自分がつくった青年詩人を、はじめて現実の肉体として見たときに。
自分の要請した理想が、生きた人間となって現われたのである。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、pp.102-3) - ★らしさとは
本調子が出ないときには「らしく」ないと云ったり「馬鹿みたいだ」と云う。
らしさとは何か。学校に通うのであれば制服を着るのが「相応しい」と云う。
しかし大学では私服を着るのが常識だろう。何でも制服じゃないとダメというわけではない。これも常識だろう。
部長は部長らしく気高くあってほしいと思う。横綱は横綱らしくあってほしいと思う。
水上の賄賂は残念だ。通訳をするのに犯罪に手を出してしまった。
通訳は通訳らしくあればいいとはあながち間違えていない。
らしく生活する、それが基本だ。 - ★らしさとはパート2
学生は学生らしく、勉学に励むべきた、という意見がある。
同じものはない、という思想がある。
しかしながら、意見は同じということはあり得ると、私は思う。
作文の文章で、「あ」という文字が2箇所あったとき、同じ「あ」だと言えるだろうか。
私もあなたも同じく生きていると言えるだろうか。
水道の水は、もうひとつの水道の水とは同じではないと思える。
水という同じ語り口でも、水をもってして同じ水だとは言えまい。 - ★らしさとはパート3
同じ風の中、という歌詞がある。まさに至近距離の風は同じ風だと思えるが、厳密にはズレている可能性がある。
同じ雨に打たれ、というが、本当に同じ雨だろうか。水滴という一滴は私の頭上に当たったら、隣の人の頭上にそれは当たるまい。 - ★らしさとはパート4
語尾に「なう」とつける話し方がある。
雨降ってるなう、や、俺が勝ったんだよなう、や、1+1=2だよなう、が挙げられる。
雨降ってるなう、は現在進行形の言い方である。雨が今降っているさまである。
俺が勝ったんだよなう、は俺が勝ったのか確認したいさま、に映る。
また、当然俺が勝った、というさまにも映る。
1+1=2だよなう、は1+1=2というのが正しいのか訊いているさまに映る。
なう、という言葉は使われていないわけではないが、我々はなうという言葉を知っていていいかもしれない。 - ★理由の美学
あのケーキは美味しい砂糖があるから食べていい、という意見があったとする。
美味しい砂糖があるから、食べていい、とは理由に相応しくない、と思える。
死んだやつは死ねばよかった、という意見。
死ねばよかった、とは絶対的に言えまい、と私は考える。
というわけで、死んだ者すべてが死ねばいいとは言えまい。
死ねばいいから死んだ、という意見。
死んでよくないのに死んだ例を出せばよい。
アントニオ猪木はジャイアント馬場を倒したから強い、という意見。
はたして強い理由になるか。 - あのケーキ美味しい砂糖があるから⇒食べていい、とは間違いか。
美味しい砂糖がある、という理由の他の理由、
食べるといいことがあるから、そして美味しい砂糖があるから⇒(二つの条件をふまえて)食べていい
とは間違いか。余談かもしれないが、食べるといいことがあるから、という一つの理由では食べていいとは間違いか。 - ★誤解の論理
誤解とはどのようなものか、そしてどのような影響を与えるのか、について書いてみたい。
まず、血液型に関する誤解から考えていきたい。
血液型がO型に関しては、血液型説明書で詳しく書かれている。
О型のことを、人々は、どのような考え方をするだろうか。
1)О型は、大物だと思われたい、というものがある。
2)わるくない
3)おおざっぱ
4)食べ物をもらうとくれた相手を好きになる
これらのパターンで誤解しているのは何だろう。
О型はわるくない、とは誤解ではないか。
大物だと思われたい、というのも誤解ではないか。
おおざっぱは、言いえているのかもしれないが、
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、とは誤解ではないか。
こうした誤解はあるものの、信じている人には自覚できていないのは言うまでもないだろう。
大物だと思われたいのはこのO型だと思っている人は、敢えて大物ですねぇなんて言うかもしれない。
わるくないと思っている人は、わるくないと思えるO型を恋愛関係に持っていこうとするかもしれない。
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、思っている人は、食べ物をあげてしまうかもしれない。
このように、誤解していても、誤解しているからこそ行動に移してしまう例がある。 - ★誤解の論理2
誤解とはどのようなものだろう。頭の中で生じたハプニングでありはするとして、正しい理解とは反対の出来事だ。
間違えているのが誤解であろう。1+1=3だと、誤解している人は、答えを3という。これは正しくない答えだ。
1+1=2と理解できるなら、2が答えだ。これは数学的に考えて正しい解である。
また、35+35=40だと想えてきて、想いのままに40だと答えるのも誤解に近い。70が答えだ。
想いのままに話したら、嘘を吐いていた、とは考えてみてほしい。
いい人だと想えて、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので、嘘を吐いていた、こんな場合は残念だ。
いい人であってほしいから、いい人だと言いたいから、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので嘘をついていた、こんな場合は残念だ。
ダメなヤツだと想えて、ダメだ、と言ったら、ダメじゃなかったから嘘を吐いていた、こんな場合もあるだろう。
まず我々は想いを尊重しすぎてはならない。当然、思っていることは正しい、という理屈はそうとは言い切れない場合がある。
想っていることが正しい、と想えてきたので、思っていることが正しいんだ!と安易にいかないでほしい。
気付いたことが正しいことをあなたは知っていなくてはならない
正しく理解したことも正しいということを知ってほしい。 - ★読書の美学
本を読みながら、反論を考えつつ、読み進める。
一流の人の読書法だ。
常に疑いのまなざしを持って暮らす。
地球は丸い、ということも疑う。
月にうさぎの模様があると聞いても、幻覚ではないかと疑う。
この世界は平面ではないか。平地であって丸くないのではないか。
本を読みつつ疑いつつ読書しよう。
他者の意見を鵜呑みにせず、疑って、反論を考えよう。
ちなみにパナソニックの意味は、「反論」だ。
余談
メイチャ―(鵜呑み)、コオリ(疑う) - コギト・エルゴ・スム
我思う 故に 我在り
という原理は完全体な体系だろうか。
私はこの一節の他に、IamthatIam
が真理だと考えている。
私は私だ、という一節が真理なのである。
しかしながら、仏教の真我の吾が、本当の自分なのだから、という解釈もある。
私とは具体的に言えば何だろう。今あなたはこの文章を見ている、うん、読んでいるけど何か、と思ったあなた、あなたがあなたなのである。
これはa=aが真実であることを示唆している。
有力にして偉大なるもの、とはもうおわかりですか。 - 真理の峰は、ただひとつ、
Iam that i am という話がある。
このテーゼだけが真理、というわけである。
真理とはひとつしかないものなのだろうか。
私はそれだけしかないと気付いたことがある。
I am that I am しか真理はないと知っている。 - ★らしさとは、私とは
私とは何でしょうか。極めて哲学的なテーゼだと考えています。
現存在の存在である私とは、どういうものなのでしょう。
右脚を無くしても現存在の存在は、私ではないけどな、とはいきません。
右脚を無くしても、自己が全く無い、とはいかないでしょう。
ここで、乙武さんのように、五体不満足だったらどうでしょう。
乙武さんは五体不満足ですが、乙武さんを見て、乙武さんと言うことでしょう。
私とは、体があるから私なんだ、という意見もあるでしょう。
しかし、頭の中の精神が体から出て頭のみの存在の頭の中に移動したとしたら、その頭の持ち主の頭の中にいて、精神だとしか言えないでしょう。
ここでは、頭のみの存在に二人いますが、五体不満足より不満でしょう。
私とは精神なのでしょうか。それを目で見ることはできるのでしょうか。
胴体を無くしても、あなたは存在するのです。よくよく考えてみると、乙武さんは頭の中に存在するのです。 - 我が流れのなかにあるとすれば、それは「とどこほ(滞)り」として現れる。
ところで、「凍(こほ)る」ことを表現するのに使はれる「凍」という漢字には、なぜその構成部分として「東」が使はれているのだろう。
漢字の読みとしての発声を伝へる便宜のために用ゐられているとすれば、「東」の発声は、「同」の発声ともよく似ているが、何らかの関係があるのだろうか。 - >池凍東頭風度解
- 凍る「こほる」がなぜ東という字を用いているのか、バイアスさんがつけたからだろうか
東さねむらという意味だ - ★新しい方法論
我々は、物事を都合よく解釈したり真か偽か判断したりして一生を暮らし、何が間違っているか、そして曖昧なものさしを持つがために間違いがわからないことが往々にしてあり、本を読まないがゆえに貧しき存在となってしまうことがあります。
まず、自分の誤解や騙されている箇所を探さないから、あるいは反省しないから、いつまでも曖昧なものさしのままなのです。
デカルトは方法序説で自分を見直すことを勧めており、すべてを疑った哲学者です。 - デカルトは、内省することで、新たな価値や理念をピックアップさせることも考えていたことでしょう。
内省することで、自分の生き方を遊動できるのでしょう。 - ★新しい方法論2
我々は何かしら意識してしまいます。その意識のながれの中には、対象を意識するといった過程も含まれている、と言えよう。
方角の意識においては、南はこっち、と意識するものの、南を「認識」することはできない、と私は考える。
南をどうにか認識しようと試みてみよう。南は方位磁石では、北を赤い針がさすが、それとは反対である方向です。
このように北がこっちで、南が反対だ、と考えれば、南を認識できるでしょうか。
これも難しいです。最初の北を認識するのも難しいです。赤い針がこっちをさすからこっちの北を認識するというのも難しいです。
というわけで、北も南も認識した者はいないと、私は考える。
ですが、南を意識したり、恐怖を意識したり、といったことはありえます。
恐怖を認識する、ということはありえますが、方角を認識するというのは、難しいです。 - ★新しい方法論3
ここでも意識の話をしましょう。意識がなければこうして、パソコンを見て調べ物をすることも満足ならないことでしょう。
意識がなければ、死んでいる、と医学では扱うと言います。
ですが、意識を取り戻すことを生き返りと呼びます。
意識はどこかわかりやすそうで、わかりにくそうな両面があります。
意識レベル1000の釈尊は、意識レベルが高いと言えるでしょう。
ですが、本当は釈尊は意識レベルなど意識していません。意識レベル1000というデータも偽りなのです。
対象を意識する際に、対象が自己に影響を与えていると、カントは考えます。
それは対象にかんする知が真であるから対象を意識したときに、あるいは対象を認識したときに、対象が自己に影響を与えているのです。 - ★新しい方法論4
朝パンを食べた。では昼はご飯を食べよう、朝、米🍚を食べてないからだ。
それでは米はどうやって作ろう、炊飯器に研いだ米を入れよう、カレーにしよう。
ではカツが食べたい、カレーも食べたい、閃いた、かつカレーを食べよう。
では、私の好きな方は、カレーが食べたい、うどんも食べたい、閃いた、カレーうどんを食べよう。
カレーうどんも食べたい、米も食べたい、閃いた、カレーに米を入れてうどんと一緒に食べよう。 - ★ヘーゲルの詭弁
私は、精神現象学(上)を読んだことがある。
ぶっちゃけ大体は詭弁であったことは、私の読んだところそうであった。
しかしながら、ヘーゲルは詭弁をわきまえていたに違いない。
ヘーゲルほどの嘘つきも、哲学者ではそういないといったところだろう。
ヘーゲルは詭弁も真理に到達するための布石となると考えていたことだろう。
デメリットだけの詭弁がわるいのであり、メリットのある詭弁はむしろ大切な要素となるだろう。
嘘も方便というように、詭弁も方便と考えられる。
ここでヘーゲルに詭弁を綴ろう、ヘーゲルはとあるインスピレーションに長けている、その数500回もあったのだから、秀才以上の存在だったのであろう。
フェイフェイフェイが君には合うけど虚しいよ。
コマンドが君には合うけど虚しいよ。 - ★新しい方法論5
イエス様をとおして光を享受する、ということは、現実的に考えて、現象化されていました。
ですが、お釈迦様は、光をとおすことは出来ませんでしたし、手をかざしてもいません。
我々は高エネルギーの無量寿の光を、お浄めによって授かることができるのです。
高エネルギーとは神レベルの存在であります、現在の宗教の中には、81ガイ生きた存在も、高エネルギーと扱われています。
そうした81亥(ガイ)も長生きして、宗教の神となっているのです。
ぶっちゃけ、神ときくと恐れ多いですが、本当は神と扱われていても、人間だったりするものです。
そこで、なぜそんな長生きした人間を崇めなくてはならないのか、と思い立ち、宗教から離れていくケースもあるかもしれません。
ですが、人間でも立派じゃないかというと、立派な神もいるかもしれません。
立派な存在じゃないのに、崇めるのは、等価行為ではないかもしれませんね。 - ★素晴らしい者
神様を大切にできる素晴らしい者。
抱き締めたら、キュンと来るために、恋愛をしている僕。
抱きしめて 抱きしめて 離さないよ
いつまでも いつまでも 離さないよ
言葉はもういらないから 眼と眼合わせ 手と手合わせ
どんな未来も乗り越えよう
軌跡は奇跡 ありがとう
素晴らしい者は、許すことができます。
そして教養もしっかりしています。
- ★宗教とどう向き合うか
物憂げな一部の者は、過去にとらわれるな、物に執着するな、と仏教では教わるのではないか。
また、キリスト教では慈愛・利他愛やセーブを学ぶのではないか。
他にも、論語においては、腹八分目という考え方や、友遠方より来たるあり、また悦ばしからずや。
という教訓も学習できないわけでもない。
こうした宗教的体系をひとつまみにしても、味のある学びさえ考えられる。
しかし、宗教的体系に偏っていては独り善がりになる危うさを招きかねない。
学問を勉強して我苦悶となってはものさみしいだろう。
宗教はアヘンである。と言って宗教を邪教とみるかのように扱ってもマルクスは当然宗教は我々をマヒさせると考えるであろう。
マルクスは、我々の正常な感覚をマヒさせるということが言いたかったのだ。
政教分離から広まった17世紀においては、政治と宗教を分けることが必要だった。 - ★素晴らしい者2
読書している間に、バンバン判断/認識して、なおすべて覚えてしまうなら、素晴らしい者でしょう。
素晴らしい者は、読書術も素晴らしいのです。
素晴らしい者は、本をよく読みます。
これは統計学でも理論上ありえます。
素晴らしい者は、ネットばかりではアリません。
本を大切に扱う、物も大切に扱う、それができるのが素晴らしい者です。
あるとき友達から、物は大事なんだよ、と言われ、物に少し思いを馳せました。
物を大切に。 - ★ナイル川流域に、メソポタミアとともに最古の農耕文明を成立させた民族は何か。
A、エジプト語系民族
★エジプトでは統一王朝が、前27~22世紀の王朝を総称して。
🤩古王国
★古王国の時代の都は。
「メンフィス」
中王国、ヒクソス、は、シリアから流入した遊牧民。 - ★いま、ここ論
いま、という概念によって「いま」は語られるが、どのようなパターンが挙げられるだろうか。
「いま」家の中にいる、というとき、「いま」は外にいる、という現象も考えられる。
「いま」は刹那に過ぎ去ってしまうものだから、「いま」は語った瞬間に「まえ」の瞬間となる。
「いま」ホームランを打つ、というのも、過ぎ去って「さっき」ホームランを打った、となる。
今はことばにしたときに的を得てなけれは嘘になる。
今雨が降っている、しかし後で雨は止んでいる、そのとき、今雨が降っていないとなる。
雨が降っている、という嘘を我々はつくはずもない。天気予報が雨だとか外の天気がわるいからといって、雨が降っていると、今現在の嘘をつかなくてもいいのだろう。 - ★11 テーベを都とした、前21~18世紀の王朝を総称して。
A、中王国
★13 前16~11世紀の王朝を総称して。
新王国
★25 シャンポリオンによって解読されるが、そのきっかけとなった、ナポレオンのエジブト遠征で発見された石とは何か。
A、ロゼッタ=ストーン
★4 セム語系民族のうち、ダマスクスを中心に内陸貿易で活躍した民族は何か。
A、アラム人
補足(4の交易活動によって各地に広まり、アッシリアやアケメネス朝が公用語としたのは、*アラム語)
補足2(4の人々が使用し、アラビア文字・ソグド文字・モンゴル文字・満州文字などの母体となった文字は、※アラム文字)
★4と同様に、地中海貿易で活躍したセム語系民族は何か。
A、フェニキア人
★前1500ころパレスチナに定住したセム語系民族は何か。
A、ヘブライ人 - ★1 7世紀前半、全オリエントを征服した国はどこか。
A、アッシリア王国
2★1の首都はどこか。
A、ニネヴェ
2問目だからニとゴロ合わせてニ+ネヴェ
★3 1の全盛期の王は誰か。
A、アッシュルバニパル
7★インド=ヨーロッパ語系のペルシア人(イラン人)が前6世紀に諸国を征服したが、その古代帝国の王朝は何か。
A、アケメネス朝
8 ★7の第3代王で、インダス川流域まで領土を拡大し、全盛期を現出した王は誰か。
A、ダレイオス1世 - ★いま、ここ論
世界史を踏まえて説明したい。
ヘブライ人は歴史上ユダヤ人と呼ばれるようになる。
ヘブライ人のことを昔々はヘブライ人、という名でしか呼べなかったとは一理あるだろう。
その当時の「いま」ヘブライ人はユダヤ人ではなかった。
その当時「いま」ヘブライ人はユダヤ人とは呼べない。
しかしある時からヘブライ人はユダヤ人となる。
「いま」ヘブライ人はユダヤ人でもあることは、この場合歴史的ターニングであろう。 - ★いま、ここ論3(2番目の2を抜かしてごめんね)
例えば、お偉いヒトと握手したとしよう。それは、お偉いヒトと握手したことがある、ということになる。
いま握手したのだけれど、2度目がなくて、「いま」お偉いヒトと握手した経歴を持つのだが、お偉いヒトとしか握手できなくて、二人目がいない、あるいは誰とも握手できなくて、一回しか握手してない、というはこびがある。
いまお偉いヒトと握手した、だけれど二人目がいないなら評価はゆらぐことだろう。
いま殺されてない、としても、後々殺されてしまう一件が起きて、いま殺されてないわけではない、という事態になる。
いま安心していても、不安になれば、いま不安だ、という事態になる。
いまここで元気でも、裏庭の匂いがする周辺に行っては、いまそこで元気がない、となるはこびがある。 - ★いま、ここ論4
さて、いくつかの「いま」を見てきた。
次のテーマはここである。
ここにある自宅に住んでいる、というとき、我々は、ここにある、と表現する。しかし、あそこにある東京タワーをここにある、とは表現しないだろう。
ここに花があるから「こそ」ここに花があると言うのである。
しかし庭先の門の花を、ここにある、とは言わないだろう。
その場合はそこに花があると言うのである。
東京タワーに登ってみれば、東京タワーをここにある、と表現するだろう。
ここにあるといえば、デカルトの懐疑で有名な、我思う、ゆえに、我あり、(コギトエルゴスム)が提案されるであろう。
デカルトは、我はここにいる、という結論が出たと思ったのである。
我は理論的には曖昧で、定まっておらず、脳の中へいつ進入したかも曖昧だ。
それをここにある、と表現することは大変難しい。
しかし「目に見える」顔面は、ここにある、と言うのだろう。
「目に見えない」心臓を、心拍音の源を頼りに、あるいは心臓は左側にあると学習していて、
左側だ!心臓はここにある、という意見も、勉強になることだと思われる。
しかし心臓がない生命体の左半身を
左側だ!心臓はここにある、と自信を持って言っても、結論は、左側にもどこにも心臓はないので、残念な話である。すなわち嘘をついているのである。
目に見えないものは、学を以てしても当てられない、難しい問題を抱えている。 - ★セレウコス朝カラ前3世紀にギリシア人が独立し、アム川上流に建てた国はどこか。
A、バクトリア
中央アジアのアム川上流地方に古代ギリシア人が建てた王国
★アケメネス朝(2)
achaemenes
前550~前330
オリエントを統一したペルシア帝国の王朝 - 2★前3世紀に、イラン系遊牧民のアルサケスがカスピ海東南に建てた国は何か。
A、パルティア
3★2は中国側の史書では何と記されるか。
A、安息 (パルティアは安息のことと覚えよう)
4★2を都をおいた、ティグリス川東岸の都市はどこか。
A、クテシフォン
5★2を倒して、224年に、イラン系農耕民が建てた国は何か。
A、ササン朝
6★5の初代王は誰か。
A、アルダシール一世 - 7★5の第2代の王で、ローマを破り広大な領土を統一した、3世紀の人物はどこか。
A、シャープール一世
8★突厥と組んでエフタルを滅ばし、東ローマのユスティニアヌス大帝と戦うなど、最盛期を築いた6世紀の王は誰か。
ホスラー一世
次回は、*ギリシア世界、✤エーゲ文明
★前20~前12世紀に栄えた地中海の文明はエーゲ文明と総称されるが、初めに栄えた文明は何か。
A、クレタ文明(ミノア文明) - 2★「迷宮」と称される王の宮殿ナトが発見された、1クレタ文明の中心地はどこか。
A、クノッソス
3★前16~前13世紀ころにギリシア本土に栄えた文明は何か。
A、ミケーネ文明
4★3の中心地を2つあげよ。
ミケーネ・ティリンス
5★3やトロイア遺跡の発掘に成功したドイツ人考古学者は誰か。→シュリーマン
6★3滅亡後、400年ほど続いた混乱の時代を何というか。
暗黒時代(初期鉄器時代) - ★神発見?いいや化けの皮が剥がれる
神学は、トマスが神智学の一部を築いているところをも網羅している。
だが神様はあると思っていたが、神様をいざ見つけてみると人間であったりする。
そんな人間が神?バカバカしい。
所詮人間の身分だろ?
神様は八億年×八億年も生息したらしい。
そんでもって7日間で世界は作ってない。ひいては世界は作ってない。
神(呼ばれただけ)と対話してみると意外と普通な様子であった。 - ★いまここ論パート5
「いま」は現在のなりゆきを示す言葉である。
「いま」挨拶したとき、今は過去となり、今は挨拶していない、となる。
今は語ろうするとき今ではなく過去の出来事となっており、今をつかめない消息がそこにはある。
いま、という瞬間、未始からすべては始まる。
未始、を常にピシッピシッと生きる。
いまここをおおらかに過ごすこと、それが人生をよりよく生活する基本となります。
未始、未始、未始というように、ピシッと生きる。
いまこの瞬間を画分して、いまa,いまbという中に永遠の今aを記録に残す。
だから日記はつけなさいというのです。 - ★顔分析パート2
丸顔の存在はこれまで楽しんでいることが多い。
面長の存在は無意識下で上手く動けることがある。
丸顔の存在が楽しんでいるということは、裏を返せば感情的だということである。そのためストレスも溜まりやすい。
面長の存在は逆にストレスが溜まらないタイプと言えよう。
みんなは面長という存在としての子ども、または丸顔という存在としての子ども、どちらを授かりたいかな? - ★積み重ねること、努力すること
高速で本を読みたかったら、本をたくさん読むといいだろう。
一日1ページでもいい。積み重ねることが大事だ。
努力をやめないで、あきらめないで、努力を続けてみることが大事だ。
ピアノが趣味ならピアノもずっと続けること。
字が上手くなりたいというなら、字を、あるいは習字を書いてみよう。
文字を書くことを続けることで、いつか文字を上手く書けるはずだ。
不器用だから字が下手と、あきらめないで字を書く練習をしてみよう。 - ★天才とは何か
天才とは、努力し続ける才能を有する上級者である。
努力し続けることのできない者は、天才とは言えません。
努力し続けること、それを尊ぶ者に女神は微笑む。
天才は時に無頓着な一面を見せる。
天才は神である。
天才は本質を見抜く。
天才は考え方が面白い。
天才は誰よりも頭がいい。 - ★読書の論理
我々は、知識を求めて読書をする。
知的になるのは忌み嫌うものではなく、むしろ知性は進んで育んだ方がいい。
読書は毎日すること、ネットサーフィンではお金に困惑しない程度に、そして勉強になるように読んでみる。
上手い文章というのは簡潔で分かりやすい傾向がある。
そこで、ネットにおいても本においても簡潔かどうかをチェックする。
本においては、ちゃんと上手く書かれているかチェックする。
立ち読みでもいい。あなたに素敵な一冊がそこにはある。 - ★素晴らしい者3
挨拶も欠かさず行う、それが素晴らしい者です。
ありがとう、ごめんなさいを言います、とは、あいづっこ宣言で有名だ。
ありがとうをたくさん言いましょう。
ありがとうの数がたくさん増えると幸せになります。
もっとありがとうを言うと他人が幸せになります。
もっとありがとうを言うと世界が幸せになります。
私はありがとうと蟻さんに言いたいです。蟻さん、蟻がとう(10) - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当か
愚者は飲み物を零した経験から、零さないように慎重になる。
それが経験から学んだということにほかならない。
しかしながら、愚者は他者の失敗から学ぶことはできるのか。
愚者は他者の失敗に気づけないからという名目で、他者の失敗から学べない、ということはあり得るかもしれない。
また、愚者は他者のミスにも興味を示していないおそれがある。
大谷翔平選手の凡ミスから我々は学ぶことはできるのか。
意外と大谷選手はミスばかり続発しているが、それを野球をとおして学ぶことは、野球選手でない限り難しいであろう。
大谷選手の失敗から、野球選手なら、こういう風にバッドを振ったら当たらないんだな、と学べるかもしれない。
イチロー選手から学ぶこともたくさんある者は、世の中にいるだろうか。
イチロー選手は毎日素振りを4000回していたという。そこから学んで野球選手を目指す者もいるだろう。
賢者というのは、本を読んで生かす者であろう。その反対に愚者というのは、本を読んでも生かせない者であろう。
そして普通者を考えてみよう。普通な存在は、普通ゆえに本を読んでも生かせないだろう。
しかし普通者は他者のミスに気付ける可能性がある。
他者のミスに気付いた普通者は、自分の人生にそのミスを活かすかもしれない。 - ★いまここ、論パート6
「いま」は現在のなりゆきを示す言葉である、と書いた。
それに加えて「いま」は方向性やタイミング性を持った言葉とも言えよう。
「この話を思い出した今~~」という語りでは、相手が思い出すタイミングも考慮していることがうかがえる。
「いま、この瞬間」を我々は眺めている。
すべては「いま」の連続であり、明日がいいと想ってはならない。
昨日がいい、と想った方がいい。
イエスタデイがいい。 - ★タナトスとエロス
タナトスとは死への欲動のことを指す。
タナトスとは何と無機的であろうか。
自殺は自由意志ではあるが、一念を込められる、選択を自由にできるというわけだ。
子どもを産まないことも自由意志で抑えられるとは蛇足であろうか。
そんな子どもが死にたがっている、とはいかに虚しいことか。
しかしながら、エロス(生の欲動)はその反対である。
エロスはタナトスの混合物という統一種も世界には見られるのだろうか。
「フロイトは死の欲動こそ最も欲動的だと述べている」──こういう意見もある。
フロイトは夢分析を考案している。
夢に誰かの個人的な言い伝えが聞こえては、それを生活する因子とするのだ。
夢に表象された出来事を頼りに生活する。夢を見る楽しみも、危険な場合は注意したい。 - ★進化論を疑う
ネアンデルタール人からこういうふうに進化して~という風な話が現代は常識だ。
しかし私は進化していないという立場を取る。
原人→旧人 という進化はあり得なかった、と私は考える。
そもそも教科書から、マンモスのテーマが無くなっている。
これは現代の解釈ではマンモスは狩猟に遭っていないということを匂わせる。
ましてやそもそもマンモスは存在しなかった、ということも匂わせる。
人間も進化しないのではないか、ゆえに空を飛ぶための羽は生えたりしないのである。
羽が生えたりしないのは、人間以外にもたくさんあるだろう。
てんとう虫も羽で空を優雅に飛べはしない。
進化した形跡である遺骨が見つかっていないことも、進化していないエビデンスなのである。 - ★詭弁の仕方
我々は意識というものに、いや、しかし現代は、疑いのまなざしで懐疑してきた。
表象意識、という言葉があるのだから、意識というものは存在する、そういう意見もあるだろう。
そして顕在意識は表象意識を言い換えた言葉だとは言うまでもないだろう。
また、潜在意識も意識という言葉が使われている。
そしてヘーゲルは自己意識という概念を語る。自己意識はワーグナーという意味があることは言うまでもない。
自己意識は概念を外化させ、カラスAが黒い、カラスBが黒い、カラスCが黒い、……よってカラスはみな黒い、というふうに展開を見せる。
農家の田畑にイノシシ🐗が侵入して荒らされた、そこからイノシシが入らないように田畑を再構築する……。
イノシシが田畑に侵入するおそれがあるとイノシシの概念を外化させたというわけである。
カラスが黒いものばかりだ、という考え方は、演繹と呼ぶ。(演繹と規定する)
演繹は必ずしも正しいとは限らない。
例えば、水ばかり飲んだAさんを見て、水以外飲まない、と判断しても、ジュースを飲む場合が発生した、としたら、この演繹は正しいとは言えまい。 - ★素晴らしい者4
親に迷惑を掛けない、そして親孝行を実践する、そういう素晴らしい者でありたいです。
親ばかりではなく他者に迷惑を掛けない、なんと素晴らしいでしょう。
迷惑を掛けないように日々己を磨く、真球のまがたまのようにピカピカに己を磨く。
自分が至らないところは、反省して改善する。
腋臭があるなら、脇を水などで洗って差し上げる。
臭いと悩むなら臭くならないように風呂場で身体を清潔に保つ。
ひとつひとつの積み重ねが人生であります。ひとつひとつ真剣に実践してゆきたいものです。
柔軟な一面を見せられるくらいの実力をつけようぞ。 - ★詭弁の仕方
我々は何かしらの概念を定義するとき、自分なりに集めた情報で、そして自分なりの感性で定義するであろう。
我々はそれぞれ自己として扱うが、自己が曖昧だ、とは言うまでもない。
自己は極めて曖昧であり、自身でもどこにあるか分かっていない。
むしろどこにあるか分かったとしたら凄い発見である。
自己は精神だ、とはこ存じの方もいるかもしれない。
自己は精神の活動の中に大航海を繰り広げる。何かで困難な立場にいるとき、もがいてもがいてもがけば、そこでやっと何かが見つかる。だからもがくんだ。もがいてみよ、色々試してみると、納得がいくだろう。人生はもがきだ。
我々は何かしらの概念を定義したいときがある。もがくとは探すこと、などである。もがくとは頑張ること、であろうか。
しかしながら、水泳でクロールという言葉があるが、意味はもがくという意味であり、もがくという言葉は状況によって意味合いは違うことが懸念される。
もがくとは、水泳ではクロールのことであり、探す、というニュアンスと異なるニュアンスであることは補足しよう。
しかしこれも補足だが、水泳ではもがくという言葉は使用しない。クロールを速く速く、と監督は言う。競技者を応援しようとして速く速くと言うのだ。
これまでクロールしてきた競技者は、もがいてもがいて何かを見つけたか。
自分に適したクロールの仕方を見つけられたか。
新たな一歩として、『もがきたいんです』という言葉は、我々にどのように想わせるだろうか。 - ★詭弁の仕方
いただきます、や、『ご馳走様でした』は毎食食べる前に言ってもいいだろう。
日本人の美徳、ということに日本人は『ご馳走様』と言うのを美徳としている。
日本人の美徳には、山登りが挙げられる。山が日本大陸にはたくさん見られる。富士山は無いという意見もあったが、富士山は実際に存在することは補足しておく。
日本人の美徳という意味の女子語は『ツイワダ』である。
また、風呂場の設備が良かったり、温泉があったりすることが挙げられる。
日本人は昔から風呂が好きであり、温泉も大好きだ。
日本人の美徳という本はベストセラーになるだろうか。 - ★らしさとは5
恋愛においては相応の理でカップルが発生します。
男に相応しい女がパートナーとなります。
それと同じで、女に相応しい男が寄ってきたりするものです。
罪穢が深い者同士で結婚して家庭を築きます。
両親の家系のカルマが、子供を襲うこともあります。
今子供が不幸なら、家系のカルマが子供にきていることがあります。
毎日先祖に食事をお捧げしましょう。 - 0701考える名無しさん
垢版 | 大砲
2024/04/06(土) 10:21:18.660
意識ハードプロブレムの問題、そこでは意識の生成や感じとしてのクオリアの生成過程について記されている。
意識は見えるものではない、しかしどこかに存在してありそうだ、と思えるのである。
そのどこかにある意識はどのように取り上げられようか。
まず、顕在意識や潜在意識について一歩踏み出してみよう。
顕在意識では「頭がかゆい」というものがある。
「頭がかゆい」という意識は、言いかえれば「頭がかゆい」という事象、頭がかゆいという現象、「頭がかゆい」という感じないしは欲求だろう。
「頭がかゆい」という要求はないのだが、欲としてはいかがなものか?
それは軽度の痛みのようなもので、さほど辛くはない。
背中が「かゆい」という現象にとってみても、さほど辛くはないように思われる。
頭がかゆいという事象は、潜在意識ではどうなっているだろうか。
それは「カーユー カーユー」という小さな叫びではなかったか。
また、「かゆい かゆい」と潜在意識では成っている可能性が――十分とはいかないが――あるのである。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート2
>>他者のミスに気付いた普通者は、自分の人生にそのミスを活かすかもしれない。
と、この前書かせていただいた。
他者のミスとはどのようなものだろう。たいていは、行動だったり考え方だったりする。
他者がうんこを漏らした、というミスから、自分はうんこを漏らさないように、気を付けるだろう。
また、他者が高額なバイクを買って損したことから、高額の資金を払わないように気を付ける、というのが普通者でもできる考え方だ。
また、麻雀をやっているときにリーチをして手牌を固めたことが敗因だったことから、リーチをしないダマテンで上がることを考慮しておく、という例がある。
普通者でも、他者のミスから学ぶことは、あり得なくもなく、むしろ容易にできると私は考える。
リーチをしたら、手牌を替えられないことは、麻雀のルールである。
リーチをして上がると一役付くが、リーチをしなくても役があれば上がれるチャンスはある。
リーチをしていなくても上がれるときはあるが、リーチをしていないゆえにリーチの一役は付かないのである。
リーチをして手牌を固めなかったら、手牌を替えられるチャンスはある。
テンパイしても手牌を替えて理想の待ちにするパターンも考えられるのだ。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート3
愚者は、「他者の漏らしたうんこ」からうんこを漏らさないように気を付けられるだろうか。
答えはYES。その程度の学習くらい、愚者にも可能であろう。
また、「他者が高額なバイクを買って損した」ことから、高額の資金を払わないように気を付ける、というのも、
愚者にも容易くできるだろう。「あの高額なバイクを買わなければよい」、この考え方くらいできるだろう。
☆麻雀をやっているときにリーチをして敗因になったから、「リーチをしてよくないときはリーチをしない」、というのは、麻雀の実力と環境によるだろう。
リーチをした(リーチ棒一本出す;千点棒を出す)後、第三者が上がってしまうと、リーチ棒を一本上がった大三者に持っていかれる。
ということから、リーチ棒を投げてリーチしてしまうと、このリーチ棒を持っていかれて、千点損するという例がある。
リーチ棒を投げるかリーチ棒を取られないようにダマテンするか、こういったこと以外にもダマテンの理由はあるだろうが、リーチ棒を上げなくても良かったときにリーチをしないことは普通者ならできるだろう。
しかし愚者は常時リーチ棒を投げてしまって、あまい場合があるかもしれない。
☆誰かが零した飲み物
誰かが零したのを見て、自分は気を付ける、これは愚者にもできるだろう。
零した本人も、うんこと同様に、零さないように気を付けるだろう。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート4
さて、愚者にも経験から学ぶことはある程度見てきた。
そこで、問題を出してみよう。「余裕件」はご存じだろうか。
「余裕件」とは、「愚者が学ぶこと」という意味である。
ロッキードカナステエードとは、「愚者が学ぶこと5」という意味である。
ちなみにロッキードエネエステードとは、「賢者」という意味である。
ボンヨーキーとは、「愚人」という意味である。
さて、言葉の意味を述べてきたが、賢者は歴史から学ぶ、ということについて考えていきたい。
原子力発電所の爆発があってこそ、我々は放射性物質や水素爆発について学ぶことができた。
また、 東日本大震災があってこそ、災害対策について考えさせられた。
賢者は、原子力発電所の爆発から何を学んだか。それは、そういう事故が発生することへの危惧と、
そしてまた放射性物質から身を守るという対策であったのではないか。
賢者は、東日本大震災から何を学んだか。それは、地震対策を練ることではなかったか。 - ★才能とは何か
才能とは、才ある能力を指す。ピアノの才能があるとはどんなことか。
楽譜をある程度見れば、音符を認識し、上手に弾ける者が才能があると言えます。
初めてピアノに触れたのに、ピアノの才能があると自覚している者が才能があるのであります。
努力の才能は、ときに天才と呼ばれる者にあります。
努力していけば、運も味方に付けることができます。
今、運が悪くて悩んでいる方、努力すれば運を身に付けられますよ。
さて、天才でなくても努力することは大いにあり得ます。
その中でも天才は努力を不断に行うという、シークレットがあるだけです。
継続は力なり、という言葉を重んじている方は頑張っているかもしれませんね。
才能を持ってしても努力しなければ、才能は開花されません。
努力する才能がある一般人にも、努力を継続していく才能があるので、才能があって素晴らしいのです。 - ★哲学とか精神とか
精神とは実体の運動をもたらす存在である。
それゆえ実体は世界を一面においては傍観している。
そして一面においては無意識下で取捨/選択を繰り返している。
これを実体の活動の内的な源泉と、評しておきたい。
すなわち内的な活動は、目に見えたものばかりではなく、むしろ目に見えないうちに起こした活動だと私は考える。
言葉では言い尽くせない事情というのもあるが、ここでは内的な活動について考えていきたい。
朝起きて、おトイレに行きたくて、早く行こうとして、布団をてきとうに投げてしまう、という例。
布団をてきとうに投げたことを気にかけ、誰かに見られていまいか危惧してしまう。これも内的な活動と考える。 - ★哲学とか精神とか
おトイレに行きたくて、早く階段を降りることを考えてみる。
『ああ、もしかしたら階段からいつか落ちるかもしれない』と、危惧する場合、それは内的な活動である。
次に階段を降りるとき、『ゆっくり降りよう』と、内的に活動することもあり得るだろう。
水筒に水を入れるとき、我々は慎重に入れるであろう。これも内的な活動から行動に繋がっている。
『慎重に入れないと零れてしまう』と、内的に秘めるから、慎重に入れるよう行動を起こすのである。
また、水筒から水を飲むとき、我々は口から零したくないであろう。
『溢れないように』と内的に活動するから、溢れないように行動を起こすのだ。
意識とは、内的な活動である。花園へ行った時、我々は綺麗な花は見たがるが、そうでない花は取捨してしまう。
これと同じように、コンビニで食べ物を買おうとする際、欲しくない食べ物は取捨してしまう。
こういった取捨は、内的な活動であり、意識においても変化がある。
意識下では、欲しくない食べ物のことは、はじいている感がある。
また、意識下では、さきほどの花のことは、見なくていいと判断も下している。その判断は、目に見えない内的な活動というわけである。
我々はときに水やりでミスした感じで水をまき、失敗したと反省する。
失敗した、という判断につづき、反省しようか一瞬揺らぐこと、は、内的な活動である。 - ★哲学とか精神とか
意識とは何だろう。たしかに目に見えるものではないだろう。
しかし、どこかにあるはず――というのも意識があると確認は済んでいるのだから―である。
さて、意識とは何だろう。意識とは経験した物事を吸収する実在であろう。
1+1=? この問題を解くとき、?は何だろうと、意識して弾き出した結果が「2」であろう。
計算も意識によってできるのであろう。1を意識し、+を意識し、=を意識している、と私は考える。
また、apple(リンゴ)という言葉をパソコンで入力するとき、まず「a」を意識するはずだ。
自分は今「a」という英単語を入力する。そして「a」の次は「p」であると「意識している」はずだ。
その「p」の次の単語も<同じ単語であると>意識しているはずだ。
意識は瞬間瞬間ごとに直接的に活動していると、私は考える。
潜在意識下では、毎瞬毎瞬「これはいい、これはダメ」と判断していると、私は考える。
意識下では「明るいなあ」と知覚しているときもある。
潜在意識下では、明るくていいなあ、と判断しているのだろう。 - ★哲学とか精神とか
潜在意識下では、少しの肌荒れでも「この人肌が荒れてる」と判断してしまうであろう。
意識下では、「この人は普通の人だ」と意識している。
だが、潜在意識下では、「この人は普通の人だ」と判断しないだろう。
微妙なことは潜在意識下で判断されているが、普通の人という判断は潜在意識下で判断されない。
意識についてだが、―肌が荒れてるのが大げさでないならば―「この人肌が荒れてるとは意識しないケース」もある。
微妙な肌荒れが、潜在意識で認知されるのであり、意識するとは限らない。
普段生活しているときに、他者の肌荒れは、特にとがめることもなく、無視している。
無視したこの肌荒れは、潜在意識で認知されており、潜在意識に刻まれては、同じことを繰り返す。
すなわち、肌荒れがもう一度起きる可能性がある。ということは、潜在意識に何が刻まれるか注意しなければならないのだ。
たとえば、車の中に乗っているときに、飲み物を零してしまったとき、潜在意識にそれは刻まれるだろう。
たとえば、ドロマー(よくないことが起きる)と思ったとき、潜在意識に刻まれ、よくないことが起きてしまう。
たとえば、罠を考えたとき、潜在意識に刻まれ、よくないことが起きる。 - ★哲学とか精神とか
意識下では、兄妹を意識してしまう場合があります。
もちろん兄妹のことは大事にしてしまいます。
両親のことは意識下では付き合いやすさを感じてしまいます。
髪を切ったらカッコよくなりたいと我々は意識します。
また、髪を切ったら似合う髪型になりたいと意識したりします。
少しでも微妙に散髪されると潜在意識下では微妙だと感じます。
潜在意識下にあった微妙感は、意識にも芽生えることがあります。
散髪が下手だと意識すると、それは怒りとなってしまうでしょう。
散髪してよくなかったと怒ってしまうと、上手くいきません。
鈍感であれば、少しくらい微妙に散髪されても気にしないことでしょう。
鈍感だって大事なのです。 - ★哲学とか精神とか
蚊に追われてしまっては、蚊を追い払おうと内的に活動する。
そしてまた、蚊を殺す際には、捕まえようと内的に活動する。
扇風機の風に煽られようと扇風機の近くに行ったり、風が寒くては離れたりするものだ。
扇風機の近くに行こうかな、と内的な活動が見られる。
寒いので扇風機から離れようかな、と内的に活動する例がある。
我々は、内的な活動から行動を決定する、ということを示しておきたい。
しかしながら、気付いて行動というものもある。
今テレビを見たほうがいいと気付いて、リモコンを使う例もある。
気付いているなら、その気付いていることを大事にして行動すればよい、と言えよう。
日常では気付いていることを頼りに暮らしてみてもいいだろう。
新型ウイルスに罹っているか医者に行く前に、自分で罹っているか気付くことも大事であろう。 - ★顔分析パート3
丸顔の人は、楽観的であることが多い。
楽しみは大事にし、楽観的に暮らしている。
面長の人は、不幸を感じてしまう場合がある。
楽観的なゴキブリ、闇、岩、シャドウグールなどもたくさん存在している。
ゴキブリという名の人間も存在する。
ゴキブリという名を親から付けられ、ゴキブリと思われるが、実は人間というわけである。
皆さんも、楽観的に暮らしたいですか。
丸顔になりたいと思いますか。 - ★内的真理と客観性
ゲートボールで玉を撃つとき、自分なりの真理を使うケースがある。
この玉のここらへんを打つという打つ場所や、棒の持ち方、当てる速度など、自分なりの内的真理を使ってやることが多い。
客観性としては、他者は他者なりのやり方があるため、相手の内的真理はこちらの内的真理とは限らない。
速度は毎回同じくなるとは限らない。そこで、Aさんの速度は内的真理だが、Bさんの速度と一致するとは限らない。
持ち方も、AさんとBさんとでは異なることはあり得る。また、足で玉を抑えたりするやり方もやる人はやる。
こうした例から、誰かのやり方が万物の内的真理とことを運ぶわけにはいなかいと補足しておく。
ゲートボールでは、楽しくやりたい。
皆で仲良く、やるやなやろう。 - ★内的真理と
内的真理はある意味でものさしのようなものだ。
ボーリングにおいては、「いかに」ボールを投げるべきか、プロはアマよりも把握している。
どう投げるべきか把握しているその内容を内的真理という。
コーチャをどう作るべきか、コーチャ好きなら知っておきたいこのコーチャを作る方法を内的真理という。
内的真理には幅がある。コーチャを作る方法にしても、発酵させる方法はたくさんある。
このコーチャを作る方法を内的真理といい、作るランクである段階があることを「内的真理の幅」と私は考える。
幅のある内的真理は、ゲートボールにも密接に関わってくる。
打つ場所、打つ速度、というものは、何種類もあるもので、その選択は幅がある。
何種類も選択があるが、これが内的真理の幅という。 - ★内的真理の見つけ方
水泳においてどう泳ぐべきか、プロなら課題として長らく存在し続けるものであろう。
どう泳ぐべきか、それを見つけるには泳ぐ練習をすること、そしてコーチに教えてもらうこと、が要となってくる。
内的真理はもがくことによって見つけられると信じているなら発見できるだろう。
プロなら、どう泳ぐべきか、という水泳の内的真理の幅を、すべて見つけよう。
バタフライもこうしたら上手く泳げると、内的真理を見つけるべく、練習しよう。 - ★内的真理
コーチャはどう注げばよいか。コーチャはたくさんの商品がある。種類もたくさんあることは補足しておく。
ティーバッグをコップの表面にかけて上からお湯を注いでいただく内的真理がある。
また、この内的真理の幅は揺れ、スティックタイプの紅茶をも含むだろう。
内的真理を見つけたら、忘れないように注意したい。
やはりメモに書くことが、記憶に定着することになるので、お勧めである。
記憶に定着するためにトイレの壁に覚えたいことを書くという内的真理があるが、トイレに描けなくても大丈夫だ。
無理して書いてばかりでなくてもよい。
文章問題をそのままノートに書くのは無駄だと言われているから注意したい。 - ★否定性の運動
精神は否定性の運動であろう。一例を書こう。
飲み物を欲しくないときに、飲み物を見つけて、飲みたくなってしまう。
飲み物を欲しくない、ということを否定して、飲み物を欲しがるさまである。
また、トイレに行きたくないことを否定して、トイレに行く、これも否定性の運動であろう。
また、小便を出した後にティッシュで拭かないことを否定してティッシュで拭く、ということや、大便を小便の前にすることを否定して大便を小便の後にする。
こういう例も、あり得なくもない出来事であろう。
あの人に歯向かう(否定)としているときにそれを否定して、あの人に歯向かうことを諦める、という否定の否定も現象としてあり得るであろう。
否定の否定は、ヘーゲルの考案した概念である。
精神は否定性の連続した運動であろうことが窺える。 - ★否定性の運動2
基本的に、我々はことがらを学習をとおしてインプットしているであろう。
そうしたインプットを大事にすることもよくあるだろう。
そのインプットしたことがらを否定性の運動によって、銃で風船を撃つようにことがらを外化した例がいわば差取りとか絶対知と呼称されるのであろう。
水の中に米がある炊飯器を炊くのを忘れた後のこと。
誰か(Bさん)がスイッチと呼びかけている。
そこで、(スイッチはいれないよ、エアコンのことでしょ、と思考する)エアコンのスイッチは入れなくていいと思う。
Bさん)エアコンのことじゃないよ、炊飯器のことだよ。スイッチをエアコンのことだと勘違いしたでしょ。この例。
あっそうか、炊飯器のスイッチそろそろ入れてもいい時間帯なんだな、
このことをBさんはスイッチという言葉で説明しようとしていたのだ、と、学ぶ。 - ★否定性の運動3
とかく否定の否定による学び、というのも大切だと私は考える。
将棋で、棒銀が良くないので指さないほうがいい、となかば否定していても、棒銀がいい、とさらに否定されると、棒銀も味がある指し方だと思い知らされる。
棒銀は加藤一二三九段が上手く指しこなせなくなって以来、人気が低迷しているが、棒銀が最善の将棋を私は身を持って考えさせられた。
棒銀がよくない→棒銀がいい→棒銀を指してみるか、という考え方であろう。
阪田流向かい飛車も永らく指されなくなったが、「新」阪田流向かい飛車は私が考案したものである。
阪田流→阪田流は微妙→新阪田流を考案→コンピュータに勝利
こうした一例もまた事実である。 - ★否定性の運動4
魚はよくない、と主張したとき、我々は魚を食べたくなかったはずであろう。
魚を食べたくないと主張し、魚を料理する者にその主張を否定されることはあり得なくもない。
魚を食べたくなかったのに、魚だって大事なんだよ、と諭されて、魚を食べるようになるケースも現実にはあり得た。
魚だって大事なんだよ、という一言がなければ魚嫌いは治らなかったという可能性も考えられる。
否定の否定による学びが、「魚だって大事なんだ」ということであろう。
そこから思考パターンとして、魚を食べてみよう、もう魚を失礼に言わないようにしよう、という例が挙げられる。 - ★アポロ11号は月に行った、是か否か
アポロ11号に関する放送がテレビであったらしく、その放送ではあらゆる関係者が「月に行ってないと認めていた」らしい。
撮影現場を私は見た、などという発言もあり、じゃああの月面を歩く宇宙に行った人はアメリカで撮影された!?という古くからある説も現出された。
アポロ11号が宇宙に行く際に開発した技術は極めて乏しく、あの程度の技術では月には行けないとも言われていることだろう。
さらには月は無いという説がある。あるとしたらそれはうさぎであり、うさぎが宇宙空間にいるだけで、月というものはないのだ。
さらには夜に空に見える月は幻覚(ここが大事)であり、本当は月なんてないのだろう。
以上によりアポロ11号は月に行ってないと私は考える。 - ★アポロ11号は月に行った、是か否か、パート2
アポロ11号は月面着陸した、と伝えられる映像がある。
月にいながら地球を撮影した映像、と伝えられる映像がある。
どれも巧妙に細工したのだろうか。
地球というのは無い、と私は考える。
地球だと球を指しているが、平面説が本当は的を得てる、と言えるのであろう。
平面説であるから、公転も自転もしていない。
平面説によると、陸の両端は尖って曲がっているらしい。
アポロ11号は月面着陸していない、そもそも月は無い。
地球の映像があっても地球は存在しない。
以上により様々な映像は否定される。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート5
賢者は災害から何を学んだか。二度とこういう地震が起きないように、十分な対策を練ることができれば、それはそれで偉大な対策であろう。
我々は地震を経験しても「地震を起こさないように防ぐ」ことはできなかったと言っても過言ではない。
地震を無くせれば、地震による脅威は無くせることは想像に難くない。
我々は地震が起きないようにすることはできなかったのだから、十分な対策は練られることもなかった。
しかしながら、我々は、地震を無くせないという境地に立ちながらも、地震に対してどれだけ対策を練れるだろうか。
まず地盤に弱い陸では、地震で簡単に建物が崩壊する恐れがある。
そこで、「引っ越し」を安全な場所にしてみることが対策となってくる。
地盤に弱い陸で暮らすのではなく、地震に強い陸で暮らすのである。
しかしながら、そういった地震に強い陸はそれほど多くはない。
希少価値のある陸に、そういった地震に強い陸はあるのだろう。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート6
賢人はどれだけ学べるのだろう。ひとつここで確定すべきことは、「理解力」がいいことである。
「理解力」を以って私たちは学ぶ。1+3=? これに当てはまる答えを見出す力、それが理解力である。
3−1=? これも理解することは、小学生で学ぶ内容であるので、いささか簡単に思えるかもしれない。
素晴らしい者は、ちょっとの揺れも逃さない。ちょっと怪しいと考えるなら、追及していくのである。
賢人もちょっとの揺れも逃さない。素晴らしい者とは賢人であろう。
しかし、賢人は素晴らしい者であるとは限らない、とも補足しておく。
賢人は、頭が回っていいときに頭が回り、いろいろな発見をする。
理解も勿論している。考える内容に無駄もなく、考えた内容を理解する。それが賢人だ。 - これがモチベーションアップにつながると思う
- さらに痩せても
帰りの旅費はなんで影薄になっちゃったんだろうけど
その趣味もどうせこんなことが - 勝手に自分がメンバー内で
携帯教えてるの? - プロデューサーのデスクトップにはあのシーンの切り抜き動画がまだ残ってる
- ロングショート戦略なんかも、2人と再婚?
これ以上生きるかもな - びっくりした 家だと思ってたんだろ
誉められるし
間違いなく影響してるよな - ★詭弁の仕方
内的な活動をとおして、我々は潜在意識下で起きていることに気付き始めるであろう。
「じょうろから水を撒いているがところどころもったいない」という風にインサイトしてない水の行方がある。
潜在意識下では対象として思う「水」はバランスよく注ぎたいものだと活動し始める。
水といえばうがいである。水を口に含んでガラガラガラガラ、と喉の奥を洗うことが感染予防にもなっている。
ガコンガコンと車が前に倒れそうなとき、「やばい、落下してしまう!」と悲嘆するであろう。
それは前のめりになることを意識してもいるし、潜在意識下でもピンチと思っているに違いない。
我々は水を大切に扱いたい。車も感謝して扱いたい。 - ★詭弁の仕方
ダイナミックに構造を変革してゆくにはどうすればよいか。
まず、目的は何かを考え、それに向かって精進してゆくことが、――単純に聞こえるかもしれないが―大事なのであろう。
この世界が平和になることが目的であり、そのためにどういうことをプランしていけばよいか。
まず、戦争兵の減少を狙うこと。そして平和意識を広めていくこと、が挙げられる。
兵隊が残っている限り、戦争が起きる可能性が懸念されるであろう。
そのため、海外の兵隊は一刻も早く減っていくべきなのである。
攻撃兵を減らすためには、攻撃兵の考え方、あるいは武将の考え方から変えていくといいだろう。
攻撃兵は「攻撃しなくていい、と考えさせる」ことが強烈に効くかもしれない。
武将には「攻撃する兵はいなくていい」と諦めさせることができれば、成功だろう。
平和意識を広めていくためには、兵隊に上手い話を提供するといいはずだ。
世界は平和になればいいんです、戦争はよくないんです、などが挙げられる。 - ★核兵器と向き合う
我々日本人は、核兵器によって体を破壊された民族でもある。
アメリカも北朝鮮も核兵器を持って、いつかは侵略することも考えてあるらしい。
日本はポツダム宣言により戦争を放棄する国となっていることは補足しておこう。
詳しいポツダム宣言受諾のお話は、ここでは触れることはない。
核兵器を持つアメリカには、戦力不足を狙うといいだろう。
やはり戦争兵を減少させていくこと、そして戦争兵を生み出すことがないようにすること、であろう。
戦争兵を生み出すことのないように、禁止兵隊令を発令するといいだろう。 - ★透明人間とハイデガー
透明人間と呼ばれる現存在をこ存じだろうか。
お笑い芸人である「麒麟」というコンビは人間のように見えても動物の麒麟と呼称される。
そのキリン(芸人)が存在する前に動物の麒麟が存在し、何らかの方法でキリンさんが現れた、というのだ。
動物の麒麟があることを理解するだけで、キリンさんは現れた、のである。
動物の麒麟が「出る出る出る出る」と信じてしまった故にキリンさんが現れた、というわけだ。
このキリンさんを透明人間というカテゴリーに含めるのが社会の通説となる。
動物のトナカイも「出る」と信じれば透明人間のトナカイも現れであろう。
こうした透明人間が社会には数えられないほど存在していることは補足する。
私の思いでは、人間の方が透明人間より少ないという点が考えられる。
人間は多いと聞いても、透明人間の方が多いと思うのだ。
ハイデガーは前述の透明人間について考察した形跡を見せない。
透明人間は同じ生命体に属するとしても、人間と同じ見方をしていいのだろうか?
透明人間に、永久に生き続ける存在がいるというのに、終わりが誰にでもあるかのように語っていいのだろうか?
*透明人間とは透明で目えない存在という意味合いではありません。 - ★正しさとは何か
我々はまず正しさというものに対して意見を作る気もなく日々を暮らしている。
正しさ?そんなのどうでもいいよ、と聞こえそうなそんな世の中である気がしてならない。
どれだけ正しさについて語りうるだろう。まず正しさという概念は、正しい方向に向かっているさま、を匂わせる。
例えば、電車に乗っているとき、老婦が座る場所がなくて困っている、そんなとき、席を譲るという発想があるに違いないが、席を譲ることは正しい方向に向かっていると言えるか?
答えはYESだろう。老婦に席を譲ることで、老婦の身のためになっているからだ。
ここで、身のためになっていることは正しい方向である、ことが窺える。
デカルトは仮の道徳を推奨したが、我々は、席を譲ることを仮の道徳とすべきではないだろうか。
次の例。挨拶をされたときに、挨拶で返す、ということは、正しい方向に向かっているか?
答えはYESだろう。挨拶をすることは正しい方向に向かっていると言える。
挨拶もまたひとつの道徳である。ここで、挨拶を仮の道徳ということが窺える。
次の例。良くないことをしたときに、謝るということは正しい方向に向かっていると言えるか?
答えはYESだろう。良くないことをしたときに謝るということは、正しい方向に向かっていると言える。
謝ることもひとつの仮の道徳である。
謝ることも大切だと私は考える。みずからの失態を認め、相手に申し訳ないと謝ることで、相手も許してくれるだろう。許されるために謝ることも、勿論大切なのだ。謝るベストな回数も大事で、目上の人には、申し訳ありません、と丁寧に、ベストな回数言おう。目上の人でも、目上の人でなくても、申し訳ありません、と丁寧に言うことは大切だ。姿勢を変えて頭を下げて謝る方法でベストな回数言うことも大切だ。
正しさとは民族や時代によって違うことは補足しておく。
アフリカでタロイモを食べるのが普通でも、日本人はタロイモを食べるのが普通というわけではない。
我々が「正しい、間違っている」と判断しているあらゆる価値観は、我々の住む国、我々の住む時代によって異なるのである。日本語で挨拶するのと、外国では外国語で挨拶するのでは、言語の違いがある。また、感謝を日本語でするのと英語でするのでは言語の違いがある。 - ★正しさとは何か2
正しさとは民族や時代によって異なることを示そう。
外国ではドルを追求するのに対して日本では円を追求する、という流れがある。日本でドルを追求しても、使うところに困るであろう。たしかに質屋に行けば円に替えてもらえるが、質屋に行って得する経済になっていないと利潤がないであろう。
ドルを手に入れても日本では使い道がないというおそれもあることは補足しておく。
そんな中でドルが使えるようになると、ドルを集めることに方針が傾く。
ドルを追求することが正しい方向となり、時代に乗った生き方をするようになる。すなわちドルを集めることで利潤を得る時代になったところを上手く渡るのである。
お金じゃない、愛だ、という意見もあるから注意したい。どれだけお金があっても愛が足りなくて不満な人もいるだろう。しかし愛があっても金の切れ目は縁の切れ目というように、破綻してしまう例もあった。
何事もバランスが大事。 - ★透明人間とハイデガーその2
透明人間は主に神経が通わっておらず、怪我しても(怪我に見えても)痛くならないと、私は考える。
そのため肉体喧嘩で殴られても痛くないのだ。故に肉体喧嘩に向いている透明人間も存在していることは想像に難くない。一般の人間は、透明人間と肉体喧嘩をしようと思わない方がいいだろう。人間は身体が怪我をすれば痛いのは補足しておく。
透明人間にはないこの身体の痛み、あるいはノーダメージホディ(痛くない身体)といった構造を、我々は無視するわけにはいかない。むしろどれだけ殴っても痛くない透明人間を賛美することに直面するだろう。我々人間より強力な透明人間が誕生してしまっている現在、人間は万物の霊長と声高らかに叫べるだろうか?人間は今や透明人間に「越された」感がある。人間が透明人間に勝る点は何だろうか?哲学者は人間と相場が決まっているとしても、何だか垢抜けない気がしなくもない。
ハイデガーは人間であるが、透明人間の所在を学んでいないように見える。ハイデガーは透明人間というカテゴリーを築く際にどう弁論をするだろうか。ハイデガーは透明人間を簡単に理解してしまうだろうか。人間は万物の霊長になる日は来るだろうか? - ★透明人間とハイデガー
眼耳鼻舌身というものが透明人間にはあるが、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)のうち舌識が無い透明人間も存在することは補足しておこう。
食べ物を食べようとしても、鳥の透明人間は食べられない場合がある。
殊にレストランに友達と一緒に行っても食べられないことがバレないようにしている透明人間がいる。「消化、消化」と思えば噛んだものを消せるのである。これは魔法とも呼ばれている。
これを知ると演技で商品を買ったり演技で食べ物を頬張ったりする透明人間さんもいらっしゃる。
なぜ舌がいうことをきかないのか、よくわかってはいない。しかし胃や腸や心臓がないと食べることはできないと、私は考える。
食べられる魔法で透明人間の胃があれば……そのときはじめて食べ物を食べられるようになるだろう。
食べ物を食べたくない透明人間もたくさんいるが、それはそれで演技したり食べ物を食べなくても生きていけるから買い物を節約したりできる。
食べ物を食べなくても生きていける、と書いたがここが大事で、食べ物を食べないまま仙人を目指す者も現れるかもしれない。人間には仙人は比較的向いていないという皮肉も書けるだろう。 - ★エクリチュールと脱構築
我々は電話ではパロール(話し言葉)、そして面と向かってもパロールで話していた。話し言葉はエクリチュール(書き言葉)と違って「誰の発言か」がわかりやすい面がある。
ではエクリチュールはどうなのか。
エクリチュールにはネット上の掲示板に書くやり方や、手紙に書くやり方がある。
掲示板にエクリチュールで書くと、たしかに匿名では「誰の発言か」分からないことも往々にしてある。しかし「誰の発言か」はそんなに大事だったのだろうか。匿名の書き込みでも有益な情報であれば満足感が得られることも考えられる。
さて、「誰の発言か」は、公開して欲しければネット上に個人情報を提示すればよいと思われてならない。
声に出してみれば明らかに「誰の発言か」伝わるはずだったパロールも、いいところはあるだろうか。「カタルシス」は話し言葉という意味がある。その点ではパロールと共通点を持っている。
パロールは、耳で聞いて判断/認識するため伝達の伝わりやすさを持っている。
しかしながら、エクリチュールの発展であるパロリチュール(ぴかぁ氏)は、文字で説明されているため、視覚で判断/認識されている。
パロリチュール(話し言葉 書き言葉)という意味であろう。しかし話し言葉のことをぴかぁ氏は指していないであろう。しかしパロリチュールという概念はぴかぁ氏はよく見つけたものだ。素晴らしいかもしれない。 - ★エクリチュールと脱構築パート2
エクリチュールを掲示板に書いたなら、記録として残ることが考えられる。パロールも携帯電話や録音器を以てすれば記録として残すことができると考えられる。
しかしながら、パロールの録音は珍しい傾向にある。警察が証拠として提出するために録音する、という風な事情は考えられるが、エクリチュールの利点を書いてみたい。
成人した息子からの手紙は、両親の心に残るものである。「育ててくれた両親に感謝」していることをエクリチュールで伝えるのだ。パロールよりエクリチュールで伝えた方が分かりやすくてダイレクトに伝わるだろう。そして感動あり涙ありの展開になることも考えられる。「行きたかった大学に行けるよう日々頑張ります。」と書けば、応援も一潮したくなることであろう。「いつも美味しい料理を作ってくれてありがとう」と書けば、日々感謝していることが伝わるだろう。「今度、お母さんの料理を手伝うからよろしくね」と書けば、料理を楽しみにしてくれることであろう。
長い内容を伝えたいときは、エクリチュールで書けばよいかもしれない。
パロールでも伝わるメッセージはあるが、エクリチュールならではの響き方の方がもっと好印象を持ってもらえる。
記録に残るエクリチュールは、ネット上のサイトに現れるが、どれも永久に残るとは言い切れないはずだ。(詭弁)
いつ消えるかわからないサイトは、ウェブ魚拓で保存するといいだろう。(詭弁) - ★エクリチュールと脱構築
昔は(といってもけっこう昔)エクリチュールで手紙に書くことで遠距離恋愛を維持していた。現代はスマホやパソコンで意思疎通ができる時代なので、少々お金はかかるもののそういった機械で会話をしたりエクリチュールで書いたりする者が増えているのである。
パロールで携帯電話を持って話すことは、どれだけ偉大な発明だったのだろう。今はパソコンでもスカイプでパロールで話すことができるのだが、これも偉大な発明ではないだろうか。それ以前にパソコンという発明をしたビル・ゲイツは頭がいい人だという印象を受ける。……私は昔、アリストテレスの生まれ変わりとビル・ゲイツやお金について語ったことがあるが、それはパロール同士の会話であった。……将来、伝達の方法を一変する発明があるだろうか。パソコンやスマホで十分だから、発明は難しいだろうか。……私はパロールの伝達としてテレパシーを使うときがある。テレパシーは相手に向かって額から発信した感じ、で使えるだろう。
テレパシーがあるからスマホはいらない、とは限らないが、テレパシーでも隠しながらパロールで伝えられるのだから、有意義だったり快楽だったりするものだ。
哲学 *テレパシーとは相手に向かって額から発信した感じ、で使えるだろう。
哲学 *テレパシーの考案 (私)
哲学 *パソコンやスマホより偉大な発明はあるか - ★エクリチュールと脱構築パート4
エクリチュールは「悪くない」という意味があり、パロールは「悪い」という意味があるが、あくまでも女子語だ。普段使う際の意味では、エクリチュールは書き言葉、パロールは話し言葉という意味で語るのであろう。演劇の舞台では、パロールが優先されるはずだ。エクリチュールは台本の一部、という見方もあり、両方揃って演劇だ。
私は演劇の裏方を経験したが、キャストは台本を覚えないとならないので、キャストより楽な方だと思っていた。
キャストは演技もするし台本通りに話さなくては──パロールを使って──ならない。そして身振りや振る舞いながら、照明をを当ててもらう。私は照明の裏方をしていたので、緊張したのを覚えている。
エクリチュールは先輩が教えてくれたが、私はピンと来なかった。エクリチュールを大事にしなかった、そんな私だった。
エクリチュールというエクリチュールというものも考えられる。それは「エクリチュール」という文字自体が書き言葉だということだ。エクリチュールという文字自体を書き言葉と呼ぶが、ここまでも、そして語尾の「である」まで込めてもエクリチュールである。
パロールという言葉をパロールした、という言葉遊びもある。「パロールと言ったよー」とパロールした、という表現も考えられる。
こうした二重性の言葉の連関は、何かの役に立っているだろうか。
ひとつは冗談であろう。何の意味もなさそうな二重性を冗談と帰すのであろうか。単なる修辞的なレトリックに思えるだろうか。 - ★透明人間とハイデガーパート4
ハイデガーはあくまでも「人間」という現存在の存在を掲揚して理論立てて述べていることが考えられる。
我々人間は人生のあらゆる場面で「自分の」決断・選択で前に進んでいく。
「決意性」とはこのようなことであり、我々は日頃から内なる声に耳を傾け、自分で「決意性」を持っていかなければならない、とヘーゲルは主張する。
我々人間は「決意性」たる何かを考えて、日々を乗り切ろうとすることを考えるであろう。
「決意性」たる何かを考えているとき、自分は何を最後に遺すのか、考えてしまうことも考えられる。どう人生を歩めばよいか、それはもはや考えているだけではなく「不安」を抱えているのである。我々はこの「不安」を考えるとき、「先駆的に」考えているはずだ。
そんなとき「先駆的決意性」が光ってくる。人生を円滑にする「先駆的決意性」を、人生という大局観で掴めれば、どう暮らすかは、おのずと見えてくるはずである。ここでハイデガーは人生論を語っていたことが窺える。
ハイデガーは我々人間については鋭い洞察があった可能性は十分にあるであろう。しかしながら透明人間のことは触れていないと思われる。透明人間は人間ではないから生物で扱おうとはいかなくていいかもしれない。むしろ透明人間は人間と同等に考えてよいのか、と言われると差異が少ないため、あるいは生物と扱わないので同等と考えてみることするかもしれない。フクロウは透明人間であるフクロウを作ったり、蟻は透明人間の蟻を作ったりするのだが、──蟻自体は人間としては扱わず、──一緒に蟻と蟻の透明人間は生活していることも往々にしてあるのであり、片方にいいことがもう片割れにいいとは限らない。殊に透明人間は作り主と両者揃って生活しているので、ハイデガーの弁論が上手く馴染むか、ここらへんも考えていきたい。我々は人間と、当たり前に書いたことを素直に申し訳なく思うが、書かせていただきありがとうございました。 - ★透明人間とハイデガーパート5
ハイデガーは頽落の4項目を考案している。ひとつは「空談」である。
空談は世間話としても考えられるが、語りの多くは空しいものとして世界に充満する。それは語りの頽落にすぎない。
ふたつめは「好奇心」である。新聞や新聞と一緒にチラシが配達されることがあるが、それらも「好奇心」を持って見られてしまうものだ。人々は「好奇心を持っている」と了解しながらも、新聞の情報を網羅的に了解しているわけではない。「困らない方法」などという、興味を持つ文章に惹かれて読んでしまう。それを何度も繰り返すが、結局のところ「虚しい」と思わしき事態となる。いくらチラシを読んでも「虚しい」という事態だ。好奇心は了解の頽落である。
みっつめは、曖昧さである。テレビで番組を見ても、どこか曖昧性がある。アンビリーバボーという番組で、再現映像を見ても、何か足りない、新聞だけでも何か足りない。本を読んでも何か足りない、チラシを見ても何か足りない。これらには曖昧性がある。これは共通了解であろう。テレビを見ても曖昧性があることは、この曖昧性の経験から「他者も曖昧性の経験をしていると」睨むことができるからだ。ゼルダの伝説というゲームを初めは熟知していないはずで、ゲームを進めていけば進めていくほどに詳しくなっていく。そしてゼルダの伝説というゲームを曖昧性のまなざしで見られることを共通了解することは、容易くできると窺えるのだ。ゼルダの伝説は時のオカリナとムジュラの仮面の二つが挙げられる。
時のオカリナしか見ていない者のことを、ムジュラの仮面について曖昧性があることくらい容易く考えられるのは、明確であろう。それはムジュラの仮面を了解していないのであり、曖昧性は了解の頽落形態であることは窺えるだろう。
このようにハイデガーは平均的日常における人間存在の特質を頽落という特質において捉える。ハイデガーによれば平均的日常における人間存在は既に「頽落」している。頽落していることをどう肯定的に捉えるか、今後はそれと、透明人間も頽落していることを伝えたい。 - ★透明人間とハイデガーパート6
★存在への問いの形式的な構造
ハイデガーは何かを問う際にみっつの問いの仕方を考えている。
問われていること → 存在
問い掛けられているもの → 存在者自身
問い質されているもの → 存在の意味
このようにみっつのパターンがあるらしい。
問われていること → 扇風機の動き
問い掛けられているもの → 扇風機
問い質されているもの → 扇風機の動きの法則性
ここで問われていることことは扇風機の動きであり、問い掛けられているものは扇風機自身であり、問い質されているものは、扇風機の動きの法則性である。
存在とは何か。透明人間も存在だが、その場合、食べ物を食べられない存在だと印象付いてしまうだろう。というのも、蟻や蟻の透明人間は食事をした例がないと言っても過言ではないからだ。
透明人間の中でも食べられない透明人間はどういう透明人間なのか、考えていきたい。それにしても、透明人間の大半は食事ができない故に「頽落」している可能性がある。なぜ透明人間の大半は胃がなかったり腸がなかったりするのか。胃や腸や心臓がないと食事ができない、そんなことを考えるのだ。 - ★透明人間とハイデガーパート7
ハイデガーは現存在の存在を世界に投げ込まれた被投性を持つと主張していたと思う。そして人生を投企(計画/行動)して存在し続けている、と考える。世界─内─存在として人間は自分のポジションを見出そうとする。世界の外からも内からも支配されたくはない。人間はひとり自分を頼りに過ごしている。蟻が蟻の透明人間の作り主となれば、蟻は蟻の片割れの透明人間というありがたい助っ人を手にしたことになる。その環境においては、その二者はもう片方を支えられる可能性がある。そしてもう片方を守ることができると私は考える。蟻も蟻の透明人間も人間のように食事をすることができない。しかし、奇跡が起これば、蟻も食べることができる、と私は考える。それと同様にミラクルが発動すれば、蟻の透明人間も食べることができるはずだ。
では、その奇跡・ミラクルとは、どこで起きるのか。ひとり、囲碁のプロ棋士の中に食事ができない透明人間を食事ができるようにした存在がある。彼は「林」という透明人間であり、人間ではないことは補足しておく。彼は善意で奇跡を起こしてきたが、死なないように、すなわち不死にできることも考えていたらしい。不死とは永遠に死なないことであろう。不死という奇跡を、本当に起こせるか、課題が残っている。 - ★透明人間と痛性の無さ
透明人間の多くは痛みを感じないことは有名となりつつあるだろう。
蟻の透明人間やトナカイの透明人間はパンチされても痛くない者ばかりだ。
ひとり、闇の透明人間に沼に落とされた者がいた。沼の中でもがいて、もがきまくって、やっと誰かに救われた、そういうわけで、助かった感激が一潮激しいのである。闇の透明人間は沼の中でもしぶとい、あるいはしぶとすぎるのであろう。猫の透明人間も爪を剥がされても血が出ないと言った例もある。爪を剥がされても痛くない、と主張する。
人間と透明人間では肉体喧嘩は透明人間の方に、大体は分があると考える。つまり人間より透明人間の方が強い傾向にあるのだ。しかし体格もこれに関与してくる。背が小さいトナカイは、大人の人間ひとり倒すのにそうやすやすといくだろうか。背が小さい方がいい、と思っている透明人間も少なくない。そしてまた、「林」の透明人間は「背が小さい方がいい」と知っている者も少なくない。背が小さい方がいいか、背が大きい方がいいか、そういった議論は昔からあるが、「林」と「林の透明人間」はそれを知っているのであれば、「林」は議論で押し勝つことができるのだろうか。「林」はワーム(林いいという意味)を知っている。林いいと知っているので、林よくないと言われても林いいと知っていると反論できるのである。 - ★ミラクルでもなければ食べられない透明人間
蟻は人間の食べる食事を食べられない。蟻の透明人間も普段は食べられない。
トナカイも人間の食べる食事を食べられない。トナカイの透明人間も普段は食べられない。
「林」も人間の食べる食事を食べられない。「林」の透明人間も普段は食べられない。
犬も人間の食べる食事を食べられない。犬の透明人間も普段は食べられない。
猫も人間の食べる食事を食べられない。猫の透明人間も普段は食べられない。
カマキリも人間の食べる食事を食べられない。カマキリの透明人間も普段は食べられない。
木(ウッド)も人間の食べる食事を食べられない。木(ウッド)の透明人間も普段は食べられない。
シャドウグールも人間の食べる食事を食べられない。シャドウグールの透明人間も普段は食べられない。
ゴキブリも人間の食べる食事を食べられない。ゴキブリの透明人間も普段は食べられない。
髪の毛も人間の食べる食事を食べられない。髪の毛の透明人間も普段は食べられない。
歯も人間の食べる食事を食べられない。歯の透明人間も普段は食べられない。
肌も人間の食べる食事を食べられない。肌の透明人間も普段は食べられない。
イノシシも人間の食べる食事を食べられない。イノシシの透明人間も普段は食べられない。 - ★精神現象学と「外化」
精神現象学を見たところでは、そのほとんどが詭弁と言っていいほどである。
ここで問題提起だ。ヘーゲルはなぜ詭弁を取り繕ったのか?それは、「詭弁」という言葉の意味が「ヘーゲルいい」という内容だからだろうか。ヘーゲルは詭弁の意味が好きだから詭弁を論じるのであろうか。まさに「意味のままに」暮らしていく姿が窺えるだろうか。
ことばを発するとき、それは「外化」でもあろう。ヘーゲルは詭弁によって、「ヘーゲルいい」を外化しているのである。そして「カマ」ということばを考えるのも、「カマ」ということばの意味が「ヘーゲルいい」という意味を持つことを知っているからであり、そしてカマということばを好き好みしているからであろう。スフィンクスを建築する際に工匠たちが各石を磨き上げるのも、「外化」ということばで、各石を「外化」したということができる。しかしながら、各石の創発を「発現」ということばで説明することもできる。各石は造られているのであり、すると造る側が存在することは明白であろう。造る側は各石を「発現」することにおいて、本質的な価値を手に入れる。
そこで、各石は奴隷のように、作り主から見下(みおろ)される。見下された各石には意識は全くと言っていいほど存在せず、各石を手にする工匠を拒む理由はない。ただ各工匠たちにとって各石はありがたく、そして価値があると思えるのだ。スフィンクスということばの意味は「ヘーゲルいい」という内実であり、ヘーゲルはヘーゲル自身がことばやことばの意味を好き好みしているからスフィンクスに纏わる内容を語ったのであろうか。
「工匠」ということばの意味も「ヘーゲルいい」という内実がある。ヘーゲルはスフィンクスと工匠ということばが好き好みしていたに違いない、と私は考える。 - ★精神現象学と「外化」パート2
ことばを発するとき、それは「発現」であろう。労働も「発現」であろう。ヘーゲルの好きなスフィンクスを建築することも「発現」であろう。これらは「発現」にかえて「外化」とも呼べるかもしれないが、一般的には「発現」と呼ぶべき概念であろう。「発現」とは何らかの表象であり、何らかの発生でもあるであろう。しかし「発現」と呼ぶべきことがらが、ことばや労働に関してあるのではないだろうか。ことばをネット上で書いたら、それは「発現」であろうか。また、ことばを声で発したら、それは「発現」であろう。
労働の内容として、「書類を済ませる」というものがあるが、これは「発現らしくない」、と考える。スコップで地面を掘り下げるという労働は、「発現らしさがある」、と考えられる。
「書類を済ませる」というのは「外化」と呼ぶべきものであろう。なぜなら自己の考え方を書類として外に出すからである。スコップで地面を掘り下げるという労働は、「外化らしくない」、と私は考える。むしろそれは地面を築きつつ「発現しつつ」あると考える。地面は「発現」によって築くのだ。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート7
賢人は、母からの愛情によって築かれる側面も有していると私は考える。
母は子どもを優しく育て、教育もしっかりするだるう。
すなおに育てば、問題を一早く解決できる優秀者にさせることができるだろう。
無条件の愛情は、子どもを大きく成長させることができるはずです。
子どもは愛されたがっていますが、母はその欲求を満たさせることができるのです。
まず、家族同士の愛の相互承認が、賢人になるために必要だと考えます。
お父さんが厳格だから怖い、と思っていては、賢人になる道を逸れてしまうおそれがあります。
お父さんは優しく、母も優しい、そして子どもも優しさを受け継ぐ、これが基礎となります。
そして子どもがしっかり勉強できる余裕と金銭的な余裕が、賢人になるために必要となることでしょう。 - ★賢人
すなおで心暖かな存在が賢人である場合でしょう。
賢人ときくと頭がいい存在、と思われますが、賢人は内面や性格を重視しています。
人を利用することは失礼であることがある、と賢人は考え方が違います。
電車に乗っていて、老婦に席を譲ろう、という考え方も持っています。(もちろん最初から席に座らないことも考えています)老婦からお金をもらって欲しいと、ラッキーな者が賢人です。
すなわち賢人は外面と内面が完璧なのです。外面に問題はなく、内面も優れているというのです。 - ★賢人2
賢人とは運が良いことが挙げられます。運が悪いと賢人ではないのか、そう訊きたくなるかもしれませんが、運が悪くても突然変異のように変化して賢人になることはあるのかもしれません。
運が良い人は早く運が良いということに目覚めると、賢人になりやすいかと思います。
運が悪くても努力をすれば、才能無しの名俳優のようになれる可能性もあります。
運が良い人は、ネット上に文章を投稿してみましょう。賢人であれば、後々高く評価されると思います。
賢人でない運が良い人は、賢人になるために努力しましょう。
賢人は努力を軽視していません。努力をする方法を見つけましょう。 - ★「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」←は本当か
「いわんや悪人をや」というのは親鸞氏の意見であるが、本当に善人より悪人の方が、「往生」するのだろうか。これは善人は往生するが、悪人はなおさら往生するのは簡単だ、という文脈に思われる。普通は善人だからこそ往生すると言いたくなるが、この一説によると悪人だからこそ往生する、という解釈も可能だ。善人より悪人の方が救われる、という解釈も可能だ。
親鸞氏はこの意見をまちがっている、と問い質されたが、それには次のように応えている。
*行って千人殺してこい、そうすれば君は救われるはずである。だが、君にはそれはできないだろう。なぜかというと、悪をなすとか善をなすとかいうことは、君自身のはからいによって決まることではなく、運命(宿業)によって決まっていることなのだからである。
千人殺してこい、そうすれば君は救われる、というのは極端な意見に考えるだろう。しかし「君にはできないだろう。」と語る。それはなぜか?「なぜかというと、悪をなすとか善をなすとかいうことは、君自身のはからいによって決まることではなく、運命(宿業)によって決まっていることなのだからである。」と語る。君は他者を殺してしまえば救われるというのに、それはできない訳も語っている。
こう解釈してみる。他者を殺してしまえば、自分の殺意願望を達成できてよかった、という点である。おまけに救われる、となってはラッキーだろうか。
悪をしたいから悪をした、それで救われるのは、棚から牡丹餅だろうか。
これはいかにも危険だろう。悪をしたいから悪をしたとしても、捕まってしまっては不幸であろう。殺意の欲求を満たせても、現実的に考えると捕まってしまうことだろう。人を殺しても来世が良いと言う前に現世がおもしろくないものになってしまうだろう。 - ★透明人間の「頽落」
人間は食事を食べられるが、人間の食事を食べられない透明人間はその点において「頽落」している。
そして子どもを産めない透明人間はその点に関して「頽落」している。
女性の人間は、子どもを産むことができる場合があるが、透明人間は子どもを出産しないであろう。女性だからといって環境によって出産はできない場合もあり、女性だからといって出産できるとは限らないだろう。
しかしながら、トナカイの透明人間は子どもを産むことができないので、子どもを産めない女性と気持ちを分かち合うことができよう。
目が悪い透明人間もいるので、その点において「頽落」している。透明人間は目が悪いことが少なくない。これは意外なデータであろう。透明人間は目が悪いことを黙秘しているケースがあることを、ここに示しておきたい。 - ★トートロジー
「ならぬことはならぬものです」という一説をご存知だろうか。ならぬことはならぬ、とトートロジーで書かれているが、何が言いたいか伝わらなくもない、そんなトートロジーである。
言いたいのは、してはいけないことはしてはいけないので、やってはいけない行動をやるな、という警告であろう。
やってはいけない行動とは、犯罪や戦争、あるいは迷惑行為、そして盗みを働くこと、である。
やってはいけない行動はやってはいけない行動です。または、してはいけない犯罪はしてはいけない犯罪です。という風にも考えられるトートロジーであろう。やってはいけないことはやってはいけないこと、という風にも考えられる。ならぬことはならぬ、とは、やってはいけないことをやるな、と伝えようとしているとも考えられるのだ。何が言いたいかと言えば、悪いことは悪いことだと弁え、悪いことはしない、という体勢で生きよ、そうあるべきだから、ということであろう。このトートロジーは、悪いことをしないように持っていくために、会津っこ宣言に書かれたのだ。そしてこの一説は、知れ渡る限り悪いことをしないように持っていくことができただろうか。悪いことをしないように持っていったという確固たるデータは見当たらないが、少しでも悪行を軽減できたのではないだろうか。
このトートロジーを見た人は、悪いことやめた場合もあったのではないだろうか。「してはいけないことをするな」と言いたいのか?じゃあ僕はしてはいけないことをしないよ、とすなおになれた人もいるのではないだろうか。……と、考えてみても答えは見つからないのかもしれない。しかし、意味あるのかーこんなこと、と思った方がいたのは見えてきた。このトートロジーは、ひとり私の思索のためにもなった。ありがとう。 - ★君たちはどう生きるか?
君たちはどう生きるか?という漫画のような本は、私は少ししか読んでおらず、大事な本だと思っていなかった。しかしこの命題にぶち当たると、あの漫画のような本に何が書かれているか、ちっとだけ気になった。私の知り合いも、この本が自室にあるのにもかかわらず読んでいなかった。本は大事と私が言っても受け入れてもらえなかったことを、今更ちびっと悔しくなった。
生きると言っても、それぞれの生き方があり、年齢や環境によって、どう生きればよいかは違ったり関係なかったりする。幼児は、母を怒らせないように、または、考えてみてもいいことは何か教えてもらえる環境作りができるように、しておこう、という説がある。
幼児だけではなく、考えてみてもいいことを考えておくことが、大事なのではないだろうか。悪くない生き方、悪くなくなる生き方、そうしたブラック企業から脱退する生き方も、もちろん最初から入らなくても良かったのであろうが、上手く抜け出せれば良いのではないだろうか。ブラック企業に入ってはいけないからブラック企業に入ってはいけない、と私はトートロジーを使ってみよう。ブラック企業から離れていい者はブラック企業から離れていい。 - ★君たちはどう生きるか?その2
生き方もしっかり土に根を張った感じで整えておくことは、今後の人生のためになるであろう。日曜日は、将棋の番組を見て、将棋を勉強しておくことが、要であろう。庭には種を撒いて野菜を育てることが、日頃の楽しみになってくる。将棋に興味がない方も、将棋の番組を見て欲しい。庭に種を撒けない方は、庭を作って種を撒いて欲しい。
先祖供養をしてない方は、先祖供養の準備を進めて欲しい。哺乳びんやお食事を仏壇に捧げてみると、一風変わったことが起きるであろう。先祖供養をすることで、先祖からの戒告を抑えられるのだ。 - ★君たちはどう生きるか?その3
仕事に就いてみる、という始めの方はこれがよい、という意見かあるだろう。
仕事をしてみて社会に馴れ親しんでおく、というのは一理あることなのだ。ではどうやったら仕事に就けるだろうか。一生懸命に生活すれば、いつかは仕事に就けるかも知れない。日々努力を怠らず精進していくことが、仕事を十分にやってくれると思ってもらえることに繋がっている可能性もあるだろう。
日々努力を怠らず行うこと、そして好きな趣味を見つけることで、仕事の他にも息抜きできる機会があること。これが要です。仕事ばかりではなく趣味で息抜きできれば、仕事に還っていきやすいという循環もある。仕事が上手く行かないときは、相談する相手を見つけること、そして反省すること、これが要です。 - ★善悪の彼岸
電車で老婦に席を譲るということは、人間から見れば良いこと・善い事、と思えるであろう。しかしながら、善い事という考え方は観念であって、誰も善い事であると証明はもちろんできないし誰もが良いこと・善い事だと決めつけることはできないであろう。良いこと・善い事だと判断したけれど、良いこと・善い事というのは本当は存在しない、架空の観念であるのだ。
善悪の彼岸とは、善悪の考え方、善悪の価値観の行方はどこだ、というものであろう。善悪は誰も決めることはできないのに、善悪の行方はどうなるんだ、善悪を知ったかぶりしてないか、という問いかけが、すでにニーチェによって始まっている、と言っても過言ではないであろう。善悪とは簡単ではない、とニーチェは語っている。
善悪を決められないのなら、誰も良いこと・善い事だとわかるはずもないだろう。誰もが善悪に臆病になると描けなくてもある程度善悪に臆病になることは描けるのではないだろうか。誰も善悪という言葉を使わなくなってしまう、そんなイメージも描けなくもないのである。
善意思という概念は、有名な哲学者ことカントが示している。善なる意思による行為は尊重されるべきだ、という主張であろう。善意思による行為は、果たして善という果実を結ぶだろうか。そもそも善意思は誰にも真実として善意思があると説明できないのではないだろうか。そして善という果実という観念はあるけれど善は決められないのだから善という果実を結べないのではないだろうか。
ヘーゲルによると善は無い、善意思も無い、と一刀両断する。すると今度は悪も無い、と言う。誰かが言っていた「悪い出来事と判断しただけで、悪い出来事、善い出来事はない」という考え方が思い浮かぶ。誰もが目の前の現実を悪い・善いで判断している中で、嫌な出来事を悪い出来事ではない、とサラッとした感じで解決できる、そんな存在になりたくはないだろうか。現実を100%、楽しい♪で暮らす、そんな生き方をこれからはしていきましょう。 - ★善悪の彼岸 パート2
まず何を以って「善」とするのだろう。善は無い、とヘーゲルにきっぱり言われた以上、「善」とはたんなる架空の概念だと捉えてしまうしかないのだろう。しかしながら、太鼓の達人をプレイしている際に出てくる「良」と「可」は、「良」であれば「上手くいった」という意味で、「可」は「良」ほどではないがポイントを稼いだから現れた、ということであろう。
「善」とは、思いやりであり、愛情ゆえの優しい行為であろうか。
そしてまた、キリスト教の絶対神を善とし、悪魔を悪とするのは妥当だろうか。
いいや、「善は無い」というヘーゲルの理屈でいえば、思いやりも絶対神も善ではないのだ。
ただ、我々が善だと思ったりあるいは判断しただけで、善なる神も存在しない。
悪魔も悪ではなく、悪と思えたり判断しただけで、悪の存在も存在しない、と言えよう。
そして、善良や善人という言葉も架空の観念であり、善人も悪人も存在しないのだ。
ただ私たちは警察に捕まった者を「悪人だ」と評価するが、悪人ではなく、愚か者と言った方が適切なのだ。 - ★精神現象学と「外化」
トイレに行くと何枚ティッシュを使うか峻別してしまうときがあるだろう。
一枚目はお尻を拭こう、と外化したり、二枚目は便座を拭こう、と外化したりしている。
お尻を拭ききれないと、三枚目はお尻を拭くために外化する可能性もある。
また、ペットボトルの入った飲料水を、少しずつ飲みたいなら、一度目は口で少しだけ飲む、という風に外化することが考えられる。二度目も三度目も少しずつ飲む、という外化も考えられる。
ここで異文化について考えてみたい。
ターバン……インド人やイスラム教徒などが頭に巻く布。また、それに似せた婦人帽。
ターバンを被るのは、その文化の理由によるもの。ターバンはその理由を達成させるために頭につけるという外化をする。
メイクにも顔や爪にするメイクがあるが、顔に化粧をするのは、明らかに外化であり、爪にメイクをするのは、爪に直接的に外化しているのである。
我々は、「外化」を意識せずとも日々「外化」を現象化させている。おそらく赤ん坊であれ何かしら外化しているに違いないであろう。そして社会人はより多くの「外化」をしているのであろう。
選挙をしている人たちも、ビラを配ったり、パソコンに情報を入力したりして外化している。
ネット上に文章を載せる人たちは、みな自分の伝えたいことをネット上に外化していたのだ。
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