アサクリ問題まとめ:弥助は黒人奴隷から侍に成り上がったのか

アサクリ問題が歴史学界に延焼しているので、整理しておこう。最初に断っておくが、アサシン・クリードというゲームがどんな荒唐無稽な設定をしても、それがフィクションだと断っていれば何の問題もない。問題はその原作者、トム・ロックリー(日大准教授)がそれを事実だと主張し、Wikipediaなどを改竄したことだ。

おかげでデービッド・アトキンソンなど、それを信じる人が出てきた。マスコミが小説を史実として報道すると、慰安婦問題のように大変なことになる。こういう問題は初期消火が大事なので、あえて細かい事実関係を書いておく。この問題は、大きく二つにわけられる。

弥助は黒人奴隷だったのか

まず弥助は奴隷だったのか。いま話題になっているトム・ロックリーの『信長と弥助』はこう書いている。

弥助は内陸部に赴くたびに、大騒ぎを引き起こした。地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。(p.13)

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍

「アフリカ人奴隷を使う流行」の出典は示されていない。「地元の名士」が誰を意味するのかもわからないが、おそらく戦国大名だろう。とすると織田信長も弥助を奴隷として使ったことになる。確かに信長は宣教師ヴァリニャーノから(おそらく奴隷だった)弥助を献上されたが、「アフリカ人奴隷」の具体例はこれだけである。

他に日本人が黒人奴隷を使った例はなく、弥助以降に黒人奴隷はいない。加藤清正が黒人の家臣を使った記録があるが、これは別人である。この本には「奴隷」という言葉がたくさん出てくるが、ほとんどは海外の例である。つまり「日本の名士に黒人奴隷が流行していた」というロックリーの話は事実無根なのだ。

これが小説なら問題ないが、日本大学はこれを学術書にカウントしてロックリーを採用した。フィクションで教員を採用したのは研究不正の疑いがある。

弥助は「侍」だったのか

もう一つの問題は、奴隷ほど自明ではない。ヴァリニャーノが信長に黒人を献上品として贈ったことは『信長公記』などにも書かれている史実であり、信長が黒人を彌助(異本では彌介)と呼んだことは疑いないが、その身分は奴隷ではなかった。

弥助が大活躍したのは、本能寺の変である。明智光秀が本能寺を1万3000の軍勢で奇襲攻撃したとき、信長の身辺には30人程度の護衛しかいなかったので信長は切腹した。弥助は本能寺を脱出して二条城にいた嫡男、織田信忠のもとに駆けつけたが、信忠も切腹した。その後の弥助の消息はわからない。

本能寺の変(揚洲周延・画)

問題は弥助がどういう身分だったかである。『信長公記』には短刀と屋敷を与えられ「道具持ち」をしていたという記録があるので、ボディガードのような仕事だったと思われる。これを侍(上級武士)と呼ぶかどうかは定義の問題である。

江戸時代の侍は苗字帯刀が条件だったので、家名(苗字)のない侍はありえない。戦国時代には武士と農民は未分化だったので、侍の定義はもっと広いという人もいるが、家名のない侍というのは考えにくい。

世界に「黒人奴隷デマ」が拡散するのは要注意

これは大した問題ではないが、ロックリーは「黒人奴隷が信長に抜擢されてトップに成り上がった」という物語に仕立て、BBCやCNNもそういう「歴史上の新発見」として報道した。NHKもBlack Samuraiという90分のドキュメンタリーをBSで放送した。

この番組の監修者はロックリーで、彼の本をベースに話が展開している。弥助の存在は昔から知られていたが、彼を侍と呼んだ史料はない。苗字のない人物を侍と呼ぶことは考えられないからだ。しかもこの番組では多くの黒人の話を合成し、加藤清正の家臣(別人)まで弥助にしている。

この程度の歴史の偽造はNHKの歴史番組でもよくあることだが、「黒人奴隷が黒い侍になった」というロックリーの物語が今後、ハリウッドやブロードウェイで上演され、日本では黒人奴隷が流行していたというフェイクが拡散すると、それが悪用される可能性もある。

ロックリーは吉田清治みたいなものだ。彼の小説も荒唐無稽で日本人はバカにしていたが、朝日新聞が取り上げて韓国の自称元慰安婦がデマを拡散した。白人は土地勘がないから、アトキンソンのように嘘を信じてしまう。外務省も注意が必要である。

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