普通をやめると楽になる。
京都在住の女性S様が焼き肉をご馳走してくれた。私よりも、金も名誉も社会的身分もある人が「会いたい」と連絡をくれる。金も名誉も社会的身分もある人が、私に悩み相談をすることもある。不思議だなあ、愉快だなあ、楽しいなあ、面白いなあと思う。総理大臣がホームレスに人生相談をしているような、逆転を感じる。総理大臣が偉くてホームレスは偉くないとか、ないのだろうなと思う。生きとし生けるものはどこまでもフェアで、だからこそ、年齢や性別や国籍や社会的身分を超えて仲良くなることができる。人と繋がるのに、金は必要なかった。
これぐらいの年齢になったら、これぐらい持っていないと恥ずかしい、これぐらい知っていないと恥ずかしい、が、なくなった。劣等感も優越感もなくなった。家や車や学歴がなければ誰も相手にしてくれないと思っていたが、そんなことはなかった。やっておいた方がいいことではなく、やりたいことをやるようになった。そんなんじゃ生きていけないよと言われても「そんなんで生きて来てしまいました」と笑えるようになった。人と同じであることに安心するよりも、人並みを捨てることで楽になった。亀の歩みでも構わない。みんなと歩幅を合わせる必要はない。普通をやめたら、嫌なことよりも楽しいことの方がずっと多くなった。自分をよく見せる必要のない世界、嘘をつかないで済む世界は、楽で、心地よくて、自分に合っていた。
シングルマザーのS様には、最近まで付き合っていた男性がいた。男性には家庭があった。俗に言う不倫で、関係性に耐えられなくなったS様は別れた。S様と「タブーってなんだろう」と話した。金もセックスも死も、当たり前にそこにあるのに、隠すべきものとして扱われる。金を欲しがることははしたないこととされて、セックスを求めることははしたないこととされて、罪の意識や、悪の意識を植え付けられる。本来、金もセックスも気持ちのいいものだと思う。死ぬことさえも、もしかしたら「生きていることよりもずっと気持ちいいこと」かもしれない。楽しむことが罪や悪となると、人は、幸せを感じることに罪悪感を覚えるようになる。
普通はこうだよね、普通はこうするよね、そんな普通は、人間を安心させることはできても、人間を幸せにすることはできない。常識は人間を不幸にする(仲間はずれを正当化する)ためにある。不倫した芸能人を、一億総出で叩く。あ、こいつは叩いていい奴だとなったら、常識的な人たちが、一斉になって悪者を叩く。叩かれている悪者は、ひたすら申し訳なさそうに暮らし、幸せになることを許されなくなり、楽しく生きることを許されなくなる。涙を流して、世間に謝り、更生を誓い、反省した姿を晒し、真面目に生きる姿を見せることで、はじめて世間に許される。世間は、平和を守るけれど、幸せは守らない。幸せになることを許さない。普通であることを押し付けられて、我慢の限界に達して、殺人を犯したり自殺をする人もいる。
普通をやめると楽になる。自分の家を誰でも自由に使えるように開放しているのは、慈善事業をやりたいからではない。開放していた方が、面白い目に遭えると思ったからだ。現在の私に肩書きはない。定期的な収入もない。普通だったら野垂れ死ぬはずなのだが、死んでいない。普通は、案外、あてにならない。初対面の人から「何をやってる人なのですか」と聞かれる。私は「何もしていません」と答える。会話が止まる。相手はキョトンとする。変人扱いをされることもあれば、一緒になって私の生き方を面白がって爆発することもある。私の生き方を面白がる人は、自分の生き方も面白がっている。私たちは、一緒に面白がることができる。普通かどうかなんて、まったく問題じゃなくなる。
おおまかな予定
7月22日(月)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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