東京と信州、2拠点で暮らすということ

山の中を通る片側2車線の上信越自動車道は、いつだって若干の圧迫感をもたらす。トンネルを幾度も抜け、木々の合間を縫うように光量の少ない道を進む。

あるところで、パッと視界がひらける。この瞬間がたまらない。遠くに連なる低山の黒いシルエットの谷間から、きらきらと夜景がこぼれ出て、平地に流れ込んでいる。私は助手席の窓に額を押し当てて、夢中でそれを眺める。ここまで来れば、上田の街まであと少しだ。

上田では、わりと頻繁にクマが出没するようである。市から発信される目撃情報が、思いの外、多いことに驚く。上田菅平インターチェンジ付近のローマン橋の辺りでも、以前クマが出たらしい。だから、車でローマン橋を渡る時は毎回、「クマさんいるかな」と言ってきょろきょろする。それは、私と夫との間で、上田の街に入る際の儀式のようになっている。

東京で生まれ育った私が、長野県上田市にアパートを借り、東京と信州の2拠点生活を始めてから、早くも2年が経った。

2拠点生活に踏み切ったきっかけ

「どうして上田に住むことにしたの?」と、聞かれることは多い。その度に、違う答えを返している気がする。簡潔に答えるのは困難だ。「色々考えて、なんとなく」が最も真実に近いかもしれない。でも、ここではあえて説明してみたいと思う。

私も夫もキャンプが好きで、長野県と山梨県の県境付近にあるキャンプ場に毎週のように通っていた。とある日曜日、例によって中央道上りの渋滞にはまりながら、どちらかが言ったのだった。

「先週末も今週末も同じ場所に来てるのに、こうやって時間をかけて、いちいち東京に帰らなきゃいけないのって馬鹿らしいよね」

この言葉が、始まりだったように思う。私たちは、どちらもフルリモートで働ける環境にあったし、いっそキャンプ場の近くにも家を借りてしまったらいいんじゃないか、って。

新型コロナウイルスの感染者数が、急激に増加していた頃だった。得体の知れないウイルスが蔓延している中、東京で過ごすのはなんだか怖くて、人と会う予定も皆無だった。当時働いていた会社の社長が、2拠点生活を推奨していたことも後押しになった。

ただ、東京暮らしの利便性を手放すことはできず、移住に踏み切ることはなかった。あくまでも「遊び用の家」として、物件を探すことになったのだ。

長野県に住むことは、すぐに決まった。県内に、好きなキャンプ場がいくつもあったからだ。それに、母方の実家が長野県にあるため、「自分には半分、信州の血が流れている!」という親近感めいた感覚を持っていたし、夫は信州の山々に惚れ込んでいた。

長野県内で上田という街を選んだ理由は、いくつかある。

まず、賃貸物件の数が充実していたこと。上田は、長野県内で人口が3位の市である。もちろん、1位の長野市と2位の松本市にも賃貸物件は多くあるが、長野市は頻繁に行き来するには少し遠いこと、松本市は中央道を使わなければいけないことが難点だった。中央道の渋滞には辟易していたので、関越道を使える上田に分がある。さらに、上田には北陸新幹線が停まるため、公共交通機関での移動も容易だ。

上田市は太平洋と日本海のちょうど中間辺り、若干日本海寄りに位置しているので、北陸旅行の拠点にできるだろうという目算もあった。東京から車で北陸に行く場合、日帰りの旅行はなかなか難しいが、上田からであれば容易だ。実際に、暮らし始めてから、富山県美術館や金沢21世紀美術館を日帰りで訪れた。1日で兵庫県まで移動したこともある。また、夫が新潟出身なので、実家に帰りやすくなるというメリットもあった。

いつも通っていたキャンプ場には、渋滞に巻き込まれることなく、1時間半で到着できるようになった。東京から行く場合、高速道路が混雑していると片道6時間ほどかかるため、この時間短縮は感動ものだ。

手探りで始めた上田の暮らし

上田は、私と夫にとって縁もゆかりもない場所だった。ネットで内見を申し込み、8月末のよく晴れた日に、初めて現地を訪れた。都会すぎず、田舎すぎず、低山に囲まれた街にはたくさんの家が並び、たくさんの車が走っていた。知らない土地なのに、不思議と肌に馴染んだ。

不動産屋の若いお兄さんに連れられて、いくつかの物件をまわった。高台からの景色に私たちが歓声を上げると、不思議そうにしていた。長くいれば、目の前の景色が「当たり前」になってしまうのは、どこだって同じなのだろう。最後に見せてもらった物件を、その日のうちに契約した。

上田駅から車で15分。市街地からは、やや離れている。アパートの周りには田んぼが広がり、2階の窓から見える空が果てしなく広くて感動した。東京の家は、窓のすぐ外に首都高があって、空なんて欠片しか見えない。

田んぼの向こうには、濃い緑の山々が連なる。夫は、「これが将軍の見た景色か」といたく気に入っていた。真田幸村のことを言っているのだろうか。

東京の家には8年ほど住み続けていたので、新しい家で暮らしはじめるという試みが久しぶりで、初日はてんやわんやだった。

水道の使用開始手続きは間に合わせていたのに、蛇口をひねっても水が出ない。調べると、どうやら屋外にある止水栓を自分で開けなければいけないようだった。外はすでに暗く、家の周りを手探りで探したものの、栓は見つからない。仕方がないので、ミネラルウォーターを買い込んで水道代わりにした。トイレは徒歩6分のコンビニで借りるしかなかった。なるべく水分を取らずに過ごした。

電気の開通手続きも済ませていたものの、家に着いてみたら天井に照明器具がなかった。東京の家では入居時に備え付けられていたから、盲点だった。車の中からキャンプ用のライトをいくつか持ち出して、仄かな明かりのもと、上田の街が舞台の『サマーウォーズ』を観た。

家具は極力買わないことにした。2年経った今も、キャンプ道具を活用しながら暮らしている。テーブルも、椅子も、調理道具も。ベッドや掛け布団は置かず、毎回コットを組み立て、寝袋で寝ている。洗濯機もなく、週に1、2回コインランドリーに行く。

上田以外の場所に住みたくなったら、いつでも身軽に移動できるように。今はまだ、どこかに定住したい気持ちはない。心の赴くまま、軽やかに生きていたいのだ。

時間はいつだって有限である

「上田時間」と「東京時間」は、まったく違うもののように思える。

上田では、朝から夜にかけての時間の移り変わりや、季節の移ろいをはっきりと感じられる。それが、この場所で暮らす魅力のひとつだ。

よく晴れた冬の朝、カーテンを開けると、凍りつくようだった部屋の中がふわっと暖まる。フローリングのひだまりを見つけて、犬がぺたりと寝そべる。夕暮れ時、空のグラデーションは、言葉が出ないぐらい美しい。黒々とした山の向こうに陽が落ちて、うっすらと星が光り出す。部屋の中は闇に溶け、自分の身体も見えないぐらいだ。

春が終わる頃、夜の田んぼで、カエルが一斉に鳴く。騒々しいその声は、意外にも心地よい眠りを運んでくれる。上田の夏は、東京と同じぐらい暑くなるけれど、朝と夜は気温が低くて過ごしやすい。

田んぼの緑が黄金色に変わる頃、窓から吹き込む風はひんやりと涼しくなる。秋の信州には、楽しみが多い。シャインマスカットやクイーンルージュなど、様々なぶどうが直売所に並ぶ。

家から歩いてすぐの場所に、信州のローカルスーパー「ツルヤ」があり、食材の買い出しは大抵そこで済ませる。時間に余裕があれば、車でアリオまで行く。1階の久世福商店で、ふわふわのおとうふドーナツを買う。

東京の家にはない調理家電を使いたくて、電子レンジは買わずに大同電鍋を置いた。大同電鍋は、台湾では一家に一台あるというシンプルな調理家電だ。水蒸気で、食材を蒸したり煮込んだりできる。電鍋で新しい料理にチャレンジするのは楽しい。ビリヤニ作りにも成功した。

外食をしたい時は、かっぱ寿司に行くことが多い。最近の回転寿司は、まったく回転しない。受付も注文も支払いも、デジタル化がとんでもなく進んでいて驚く。

旅行ではなく生活するからこそ見えてくる、その街の魅力というものが確かにある。

上田に滞在するのは、1ヶ月に1回、1週間ほどだ。日曜の夜に東京から移動し、上田の家で5日間仕事をして、休日はキャンプや信州の美術館に出かけ、東京に帰る、というパターンが多い。

移住との大きな違いは、住み慣れた東京の魅力も再発見できることだと思う。月に3週間しか東京にいられないとなると、より貪欲に「東京でしかできないこと」を探し求めるようになる。家から電車で30分もかからない場所に、ミニシアターや美術館がたくさんあることに気づいたのは、2拠点生活を始めてからだ。東京にいる間に、できるだけ友人に会おう、という気持ちにもなる。

上田での暮らしも、東京での暮らしも、有限だからこそ大事に思える。そもそも、2拠点生活をしていなくたって、すべての暮らしが有限なのだ。同じ毎日が永遠に続くことはない。つい忘れがちなそのことを、2拠点生活はいつも思い出させてくれる。

続けるか、やめるか

賃貸の契約から2年が経って、2023年の9月が更新日だった。正直、解約するか迷っていた。

いわゆるアフターコロナに突入して出社や食事の予定が増え、東京は以前の魅力的な佇まいを取り戻した。私と夫は突然アートに夢中になり、休日は都内の美術館を巡ることが増えたので、キャンプをする機会はぐっと減った。2ヶ月続けて上田に行かないこともあった。

すると、上田の家の維持にかかる支出が気になり出す。家賃は東京と比べれば驚くほど安いが、毎月の電気代、水道代、ガス代、ネット回線の費用がじわじわと固定費を圧迫する。

読みたい本が上田にある、とか、東京に大事なものを忘れてきた、といった、2拠点生活ならではの不便もある。上田には知り合いがいないため、滞在中は友人と遊ぶこともできない。非日常だった上田での暮らしは、回数を重ねるうちに日常に変わり、移動のための荷造りも億劫に感じられるようになっていた。

とはいえ、解約するのもなかなか大変なのである。この暮らしをやめたくなったら身軽に居を移せるようにと、キャンプ道具を活用して暮らし始めたものの、なんだかんだで物が増えてしまった。大量の本やワイン、キャンプ道具。東京の家に収まりきらないあれこれが、この2年間で上田の家に運ばれた。約70平米、2LDKのアパートは、いくらでも物を入れる余裕がある。

結局、契約は更新した。暮らし方をどう変えていくかについては、まだ考え中だ。

論理的に考えると、滞在日数の減った部屋は手放して、どこかに倉庫でも借りた方がいい気がする。ただ、上田の家の窓から、刻々と色を変える夕暮れ時の空や、瞬く星を眺めていると、この場所を離れることが惜しくなる。

もう少し、あともう少し、東京にはない時間をこの場所で味わいたい。そんな風に今は思う。

東樹詩織

食や旅の領域でPR・ブランディングに携わる傍ら、執筆活動を行う。アートと本にのめり込み、「as human footprints」名義でZINE出版を開始。写真と動画の撮影・編集も。最近の関心事は、アジア各国のカルチャー、映画、海外文学、批評、3DCG、AI。キャンプ好きが高じて、東京↔︎信州・上田で2拠点生活中。