安岡正篤の百朝集に「六中観」という言葉がある。
苦中、楽有り。
忙中、閑有り。
壺中、天有り。
意中、人有り。
腹中、書有り。
死中、活有り。
中でも私が好きなのが「壺中天あり」。壺中有天。
『後漢書』方術伝・費長房の故事から来ているらしい。
私が安岡正篤から学んだ言葉で一番好きな言葉かも。
好きすぎて、しばらく中山国際法律事務所のNPポリシー こちら にも掲げていたくらいだ。分かりにくいので今は削っている。
~~~以下 こちら から引用~~~
費長房が夕方役所の仕事を終えて、2階から何気なく通りを眺めていると、
露天商の薬売りの老翁が、店をたたみ、後ろの壷の中へ消えてしまった。
露天商の薬売りの老翁が、店をたたみ、後ろの壷の中へ消えてしまった。
不思議に思った費長房は「あれが仙人というものだな」と翌日待ち構えて、
「私は昨日、あなたが壷に入って消えてしまったところを見ました。私も連れて行って下さい」
と大いにせがんだ。老人は、
「見られてしまったか仕方が無い、ついて来なさい」
と大きな壺の中に誘った。
壺の中に入ってみるとそこは、花が咲き、鳥が鳴き真っ青な青空が広がる別世界だった。
~~~引用終わり~~~
なんだか老荘的というかそれを通り越して幻想的ですが、これはいわゆるメタファー。
どんな辛い俗塵の中にも自分の世界を持っていなさい。
天を怨みず、人を尤(とが)めず。
自分の世界で、自分の価値観に従い、自分でできることはいくらでもあるだろう。
環境に左右されるな。
同じ風に吹かれながら、一艘は東に行き、一艘は西に行く。行き先を決めるのは風ではない。帆の張り方である
マーガレット・サッチャー
サッチャーだけではない。似たようなフレーズはいくらでもある。「壺中天あり」の精神は、
一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ。ただ一燈を頼め
という言志四録の一節に似る。
どうやら、壺中天有りとか、この一燈を頼めとか、サッチャーとか、私が昔から好きだった言葉は、「他責するな、自責せよ」という言葉が多いようだ。
この一燈を…なんて、大学生時代に母校の桐蔭学園高校軟式野球部の監督をしているときに、高校生の選手に教えていた。
ませた大学生でした。
でも、その時の教え子が、今でも、「中山さん、あのときの一燈…は衝撃的でした」と今でも言ってくれることがある。
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「家族でディズニーランドに行けなかった」と言って親と宗教をなじる鈴木みらいさんも、暗夜を憂えず、一燈を頼む人生を送ってもらいたいものである。