読書とネットサーフィン

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なぜ読書は苦痛なのか、そして、なぜネットサーフィンが快楽なのか、そう考えると、調べるという目的の有無である。ネットサーフィンは関心があることだけ見ている。調べたいところだけ見ている。対象の大半もエンタメであろうし、まさに娯楽そのものである。それに対して読書は、関心がないことを読まされている。まず読むからには、一頁目から最終頁まで一文字一文字きちんと読むという読書強迫の問題がある。読書強迫は、潜在的には誰でもあるもので、ひどいとまったく読めなくなるらしいが、個人差はあれど、正座して本に向き合って集中して理解しなければならないという縛りは普遍的であろうと思う。では、読書の不安を乗り越えるために、書物を拾い読みすればいいのかという話だが、ネットサーフィンは見たいところだけ見ていて、なんの知識も身についていない人が大半である。拾い読みは素晴らしいと安易に言うことはできない。むしろ一頁目から最終頁まで読んだほうが正しいという固定観念に立ち返ることになる。調べるつもりがないのに読書というのは苦痛だが、ネットサーフィンという快楽の方が悪だと思われるので、苦痛という理由で読書を否定するわけにはいかない。もちろん、書物の中で調べたい箇所だけ参照するのもいいわけだが、調べるために書物を漁るのはコストが高いし、自由研究とか論文とか強制されてようやくというのが実情だと思われる。自分なりにテーマを持つとか、知りたいという欲求に基づいて読書をすればいいのだろうが、それなりに知的なことについて、知りたい調べたいという感情は誰でも持てるものではないし、むしろ、そういう人は少数派である。たいていは知りたくもないことについて(そして知りたいという欲求を生涯持つことがなく)、一頁目から一文字一文字読むのだから、これはつまらない。
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