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結社とハラスメントについて

最近あったできごとなど


実は先日、わたしは長い長い、十五年にもわたる結社内での修行期間を、実質的に完全に終えたのだと感じたできごとがあった。形の上では、もうすでに無選歌欄へ移っているのだけど、正式に旧選歌欄とのつながりがなくなった。変なことを言うようだけど、わたしはもう「誰のもの」でもない。

具体的に何があったかはちょっとこの記事では差し控えるが、わたしからみて「どう考えてもひどい」ということがたくさんあったので、公開しようか公開しまいか悩んだ。

でも、精神科の先生や他の先輩方とも相談して、あんまり事情を知らない人にまで自分の被害をぶちまけるのはやめよう、ということになった。

わたしは先週まで本当に怒っていて、こんなに怒ったのははじめてなので、その怒りの感情をどう扱っていいかも解らなかった。後から見ると、その時書いていた記事はお世辞にも良い記事とはいえない。怒りに任せて書いているので、人にお見せできるものでもないかも知れない。そこで、事実関係をなるべく封印して、あまり「毛羽立った文章」にならないように、かなり客観的な目線に立つよう意識しながら、この文章を書いている。

精神科の先生は「怒り」の感情に気づくのも大事だけど、安定して仕事(わたしの場合は短歌)を続けていくためには、「怒りに呑まれないこと」も大事だとおっしゃってくれた。

そう、感情はとても厄介なものだ。あまりに感情に身を任せすぎると、その感情に「呑まれる」。平静さを失って、冷静な選択すらできないという例も家族でいたので、自分がこういう立場になったとき、まず「自省しよう」と心がけることにした。

ちょっと不思議な記事になるかも知れないが、あの「詩客」に端を発した加藤治郎さんのハラスメントの事件から5年も経っているので、こういう筆致で書いてみたら、何か新味が出るかも知れない。

中島裕介さんと理解し合う


実は未来の会員以外で唯一連絡を取って、「こういうことがあった」という内容の文章を見せたのは、旧知の中島裕介さんのみである。中島さんは読むなり速攻で、

「あ、これ俺もそうだった」

と言った。

えええっ。まあ書き方の違いはあれど、同じ選歌欄に属していて、なんらかの仕事まで任されていた人間が同じことを感じていたのだから、その感覚はお互いに信じるに足るに違いない。

「俺だってほらほらちゃんと書いてるじゃん」

えっ。どこどこ。

中島さんとは前、ちょっとやり合ったけど、実は中島さんの文章ってわかりにくいと言うか、私のような書き手とはスタイルが違う。それはわかっていたのだけど、一体何が違うのか、なかなか深く考える余裕もなかったから、「わかりにくいなあ」とだけ思っていた。

中島さんは学究のひとだし、おそらく社会的なことを深く専門的に学んできた方だと思っていたので、多分そっちのほうの書き方なのかな、と思ってはいたけど、専攻を聞いてやっと前提が理解できた。

後で細かい解読をやろうと思うけど、中島さんにとっては「すべてが記述してあること」が重要なので、普段エッセイみたいな文章ばかり読んでいる人には、解読は苦しいと思う。なんやかんやで、自分も「ある前提」を意識して中島さんの文章を読み直したら、棚にあった哲学書をまた取り出したような気分になっている。慣れないと結構厳しい。

ただ、今のところ、「二人は同じことを感じていた」ということだけは、理解していただければと思う。

何が問題なのか


私もツイッター上で何か裁判みたいなところまで発展するとか、攻撃をしあっているのをみて心を痛めていたけど、「中島さんと同じ気持ちだった」とわかると、当然読み直す必要もでてくる。

会話の中で、ふたりとも共通して感じていたのは、

「作家・文学者としての尊厳が著しく軽く扱われていた」

ということだった。「尊厳」という言葉が出てきた。これが重要だ。中島さんも私も、自分の意志や存在が、非常につよく「抑圧」されているような気持ちになっていた。中島さんも私も同じことに強く怒っている。

ただ、残念ながらそれを「ハラスメント」という言葉でいくら相手に謝罪を求めても、伝わらない。この数年の展開は、その繰り返しだったように思う。

まあぼくの感覚からすると、「ミューズ発言」は少しズレていると言うか、いままさに選歌欄で尊厳を抑圧されていると感じている中島さん自身が確かにここにいるのに、なぜ遠回しに「水原さんや大塚さんへの発言」を攻めてるのか理解できない気もしていた。

火事はここで起こっているのに、なぜ対岸のミューズを批判しなければいけないのか、そんな印象だ。あくまで「ハラスメント」というのは自己申告というか、こういう事があって、それにわたしは抑圧を感じていた、ということを言わなければならないのに、水原さんや大塚さんの代わりに「怒ってあげる」なんて、若干親切すぎるところがあったと思う。

結果的にぼくはあの詩客の記事は、加害者の「セクシャル・ハラスメントの部分だけ」が強調されて伝わり、「MeTooみたいな流れと絡まった」と認識しているけど、この問題を理解するためには、「セクシャル・ハラスメント」という一部分だけではとてもとらえられない。「なんで彼のような世代(あるいは彼女かも知れない)が、こういうことをするのか」ということも含めて、考察しなければならないだろう。

ならいごとと現代文学


短歌というのはそもそも「ならいごと」みたいな側面がある。みんな無邪気に「◯◯へ師事」って書いていたりするけど、その恐ろしさをだれもしらないかも…。

確かに結社は、その登場から「先生がいて弟子がいる」という仕組みのなかで、戦後も長い間やってきたのだろう。それがここ20年で急速に変貌して「現代文学として自立し」ようとしている。(「した」というにはあまりにも心もとないから、言わない)

ところが、すべての結社や歌人の意識が、一気に変わるわけでもない。変化に敏感な人もいるだろうし、気付かない人もいる。おそらく旧態依然とした感覚の人ばかりの結社は、このことに気づかずほぼ「新規入会ゼロ」のまま解散を待つだけ、ということになるだろう。

私の所属する未来短歌会は、どちらかと言うと若い人の入会はかなり多いようだ。今どき珍しい「勢力を増やしている戦後型結社」ということになるのだろうけど、個人個人のなかには、やはり旧来の感覚の人もいるし、感覚が新しい人もいるという混在状態で、なかなかこういうことを議論の俎上にあげる人は少ないと思う。

大事なのは、別に若いから感覚が新しいというわけではない、実はぼくなんかは歴史物が好きなので、師弟関係とか漠然といいなあと思っていたし、弟子になったときの心構えもちょっと覚悟はしていた。

短歌は果たして「ならいごと」か?
それとも「現代文学」か?

実はこういう問いを立てると、「どっちかでなければならない」と思わず考えてしまいがちだけど、「どっちでもあるかも」と、私は思う。

確かに短歌はいきなり「自分だけの表現」としてはじめられる「手軽な詩形」かも知れないが、いままでの蓄積も非常に長い詩形だ。

既存のやり方が完全に否定されたという例も、私は聞いたことがない。

私のように「挽歌」が中心の歌人に、死者に「なれなれしく話しかける」のは若干気が引けるし、それに見合った文体と言うか、より重苦しい文体を探すと、歴史を紐解けばでてくる、ということがある。恋の感情なんかはすごい移り変わりの早いものだから、もっと同時代の風俗を見て、マンガや流行の音楽なんかも自分のものにしていかなければならないだろう。

その人の作風ににあったスタイル、短歌の学び取り方があって、それぞれがお互いの領分を犯さないようにしていればいい。なんで自分が挽歌や社会詠みたいなのばっかり歌うかというのは、「好み」というのもあるけど、「好み」だけで今の形になったわけではない。そうせざるを得ない理由というのがどうしてもあって、それを「好きだったからですね」と言われると少しムッとする。

一番大きいのは欄を運営する選者の意識が「旧来の師弟関係のまま」なのか、それとも「作家の成長を促そうとするもの」なのかで全然欄の風通しが変わってくるということだ。

師弟関係について


実はもともと未来には師弟関係があった痕跡がない。創設者の近藤芳美さんも近藤さんと呼ばれるのにこだわった、ということだし、その後の選者のみなさんもみな自分の良心にかけて「作家の成長や自立を促す」ための固定選者制度だという共通理解があったはずだ。

ところが、なぜかニューウェーブと言われる加藤治郎さんの選歌欄は、出たては一番自由のように見えて、どんどん欄が拡大はしていったけど、「加藤さんの頭のなかでのみ「加藤さんなりの師弟関係」が生きていた」のだと思わざるをえない。

ぼくも入りたての頃、「他の選歌欄の歌会にいきたいわー」と思って加藤さんに相談にいってたら、「いいけど、一応俺に許可をとってから言って」と言われたりしたことがある。

そのたびに「〇〇さんの欄へ言ってきます」。「今日は他結社の例会に行ってきます」など逐一報告を入れた時期がある。

ここからわかるのはお互いに他結社の指導を尊重するという、なにか縦社会的な不文律=師弟関係を加藤さん自身が強く意識していたということだろう。

中島さんとのやりとりでも、こういうケース、実はあった。

中島さんも今読み返すとこの問題についてかなりダメージをくらってると思う。中島さんは対等だと思っていたのに、加藤さんは弟子だと思っていたという話。

ところがやっぱりみんなミューズ問題に引っ張られてしまって、「加藤さんがどのように師弟関係をとらえているか」、あるいは権力勾配のようなものを見ているか、ということについての私たちの加藤さんへの理解が少しなかったのかも知れない。だから「ハラスメントだー!」と言っても、相手は「え、なんで?」ということになってしまう。

中島さんがいくら「対等」「対等」と言ったところで、加藤さんにとってみれば「あ、こいつは対等だと言っている弟子だな」という、中島さんにしてはまったく不本意な「曲解」を彼がしていたという可能性はないだろうか?

師弟関係が悪なのではなくて、加藤さんの考えている師弟関係が、どうも加藤さん個人のロマン(幻想)だったんじゃないかなあ…。という考えを最近自分は持っている。

本来の師弟関係というのは、落語とかの例をみてもらうとわかるけど、たとえばこの瀧川さんの記事は参考になります。


−逆に落語はやめようと思ったことはありませんか。

「いやあ、ありますよ。めちゃめちゃあります。今でこそ自由にやらせてもらっていますが、前座だった頃は『前座なんだから坊主にしろ』『前座なんだから目立つことはするな』などいろいろ言われて。出る杭は打たれるじゃないですけど、落語の世界は閉じたコミュニティでもあるのでささいな小言がすごくこたえるんですよね」

それでも落語はやめずに続けてこられた理由を、鯉斗さんはこのように言います。

「僕が思いとどまったのは、うちの師匠が僕の代わりに謝っていたからです。『うちのやつが言うこときかなくてすいません』って謝っているのを見て、この人に面倒かけたらいけないなって…。

 瀧川鯉斗
「暴走族の元総長が、落語に落ちた日-落語家 瀧川鯉斗が語る、人生の舵の切り方とは」

瀧川さんははっきり、

「僕が思いとどまったのは、うちの師匠が僕の代わりに謝っていたからです。『うちのやつが言うこときかなくてすいません』って謝っているのを見て、この人に面倒かけたらいけないなって…。」

と書いておられます。落語もかなり厳しい徒弟制度(というより弟子をとるかどうかすらも師匠の自由なので、本質的に弟子というのは例外的な存在)があることで有名で、ハラスメントも問題になっているようですが、でもさすが「ほんとの師弟関係を維持してきた人」の発言には頷かされる。

もし師弟関係を自認するなら、「弟子が間違えたこと」「弟子が他の人に迷惑をかけたと思った」ことについては、しっかり師匠が頭を下げるという意識を持っているか、が師弟関係を維持する大前提じゃないのかな。

加藤さんと師弟関係のようなことを体験していて、「そんな経験を一度もしたことがないな」というのが、ぼくの不信の根本的な原因かも知れない。

変な話、加藤さんは自分が責任を取るべきところではまったくとらず(色々思いつくけどご想像にお任せします)、しかし同じ選歌欄の人間の「世話役」クラスの人への要求は過大だったと思う。

中島さんもいろいろ振られて苦労していたみたいだし、そもそも、ぼくが「新彗星」という雑誌に関わったとき、僕は体を壊す前だったけど、どう考えても雑誌の編集というのは、片手間でできる仕事ではないのに、なんかいろいろやらされたイメージがある。

ぼくはそのとき「みなし残業がある会社」(8時間勤務のあと、2時間のみなし残業があった)で働いていて、その片手間で雑誌の編集をしていたから、1日14時間労働は当たり前だった。この6時間の雑誌の編集の作業は「無償」である。

これ、1号くらいなら持つけど、長くは持たないなってぼくは感じていた。

獅子奮迅のように働いたけど、結局2号で体を壊しました…。残念ながらあの選歌欄にいると、「余計な雑務がどんどん増えていって調子が悪くなる」ということに気づき、「しかも無名・無償労働」であるということも強く感じていた。

その証拠に「うたびとの日々」をご覧ください。新彗星が誕生したとき、ぼくはなぜか「Nくん」というイニシャルででている。以前から引っかかっていたんだけど、その引っかかりの理由が、「おいおいおい。あれだけやらせといて「Nくん」かよ。」ということに気づいたのは最近だ。

加藤さんは、そういうところだけ(自分に都合のいいところだけ)師弟関係を発動するんです。それは何かというと、「弟子はすべてわたしのもの」意識がある、という一点に尽きる。だから、どれだけ「弟子である立場」の人が頑張ろうが、当たり前としか感じていないし、別に対価が出るわけでもない。

その人ができなくなると、別の人にふる。

これでは、なんのために自分が「短歌ではない雑務を頑張っているのか」ということに対するモチベーションがなくなり、やがて短歌へのモチベーションも完全に喪失してしまうということは、容易に想像ができるだろう。

他のところに逃げられる人は「師匠を悪く言えないから」黙って去っていくけど、私は看過しないぞ、と思いました。私は未来短歌会にいるしかないからです。

今後の対応策


加藤さんの自意識って「わがまま」以外の何物でもないと思う。ちょうどニューウェーブの穂村さんのような歌人が「わがまま」と言われていたけど、それを選者制に当てはめちゃうとこんな実害がでちゃうんだという例なんだと思う。

ぼく、実はなぜか、自分の口から「自分の選歌欄いいよ」って勧誘をしたことがなくて、他のところばっかり勧めてたけど、うすうすはわかっていたんだろうな。

まず、今までの記事をまとめると

・選歌欄のために世話人がいろいろがんばるのは「当たり前」

・みんながぼくとの関係をどう呼んでもまったく問題ない。それは自由です。「さん」でも「先生で」もいいよ。、でも、ぼくだってきみたちを弟子だと思うのも自由だよね。←ここ重要

・自分に気に入らないことがあると怒鳴るのもカードのひとつ(実際怒鳴られた人たくさんいるでしょ)

・しかし弟子の不祥事にわたしは責任をとりません。


…。これってさ、師弟関係じゃなくて加藤さんがやりたい放題やりたいだけなんじゃないの。

そもそもこの世代の人たち(しらけ世代に加藤さんは当たる)は、接客業など高度な対人相手の職業以外のひとは「他人の都合や気持ちを考えるスキルを身につける必要がなかった」らしい。

(これは昔も50人学級とか、教育の時点からすごい人が多かったことに由来している。(今うちにきているヘルパーさんから聞いた))

会社のオフィスも、今では考えられないくらい「大量の人」がいた。デジタル化も進んでいない。

あと学校でも先生が全部通信簿をつけるのだけど、先生の主観でつけて良くて、「こういうふうにみるんだ」という一定の基準、見方が存在しなかったらしい。ヘルパーさんは「国語や算数とか5科目できるんだから、体育もこれくらいできるだろ」と言われて点数つけられてたらしいから、まあ雑だったんだろうな。

だから今の職業人のほうがいろんなレベルである基準で一定の能力を要求されるから、当時の通信簿なんてありえないと思うけど、今の世代が普通に持っている能力を前の世代が持っていない可能性なんて十分にある。

だから、彼らを憐れんで上げるしかないんじゃないかな、と思った。

ただ、一個勘違いしないでほしいのは、「今の感覚が絶対正しい」という常識で、世界を見ないほうがいいのではないか、ということ。「ハラスメントだー」と強く主張することだって、向こうがネットリンチだとか、「ハラハラ」だ(ハラスメントだと強く指摘するハラスメント)と考えるのもしかたないとおもっている。

わたしたちも上の世代に対するエンパシー(どういう環境で育ったかに対する配慮)を持たないと、わたしたちも簡単に権威化していまいます。

まあ今回は、「本人には想定外の角度から、一方的に攻撃されているだけ」
に見えてもやむを得ない気がします。だから、なにか「正義」を押し付けられているっていう加藤さんの感想はわかるのよ。だって、同じ環境で、同じ正義を共有してないんだから。

もっとひどい結社もあるらしくて、「作品の改作や添削なんて当たり前」とか、「口語新かなの歌を文語旧かなに直された」とか、「若い人の作品はうちの結社のもちもの」だと考えるような感覚を持っている結社もあるぐらいだから、そういう結社を「ブラック結社」とよんで区別していくしかないように思います。

結論

結社の機能そのものに権威性があるわけではないと私は考えます。

・選歌
・添削
・歌会

これらは別に悪くないです。制度が権威性を帯びているわけじゃない。たとえば添削自体は、あるところにはあるし、「こうするといいよ」というアドバイスは歌の仕上げ方を教えるために、かなり効果的なこともあると思います。

選歌だって、変な歌を落とすんだろうけど、雑誌の編集だって全体をみてそぐわない記事は載せないから、あんまり編集と意味合いは変わらない。

歌会に関しても、批評の仕方を学ぶ良い機会なので積極的に活用していっていいでしょう。

ただ、これらのツールを、「その作者自身の成長のために使う」という意識が教える側にあるかどうかが大事なんだと思う。師弟関係のような権威性を帯びている人がこの機能を使うと大変なことになるだけ。

添削 → 自分の方針にあわせた、全然作者の意図を汲まない添削をされる
選歌 → 旧かなじゃないと落とされるとか、とんちんかんなことをされる
歌会 → だれだれさんとは言わないけど、歌会中に怒鳴ったりしてる。   
    (殴ったやつもいた)

指導的な立場にある人が、歌会中に怒鳴るのが最悪なのは、それをみて、弟子が「あ、こういうふうなのが批評なんだ」と勘違いすることです。私も1-2年くらい、「怒鳴るのがかっこいい批評だ」と思ってたからなあ…。

ほんと、歌会中に怒鳴れば全部解決みたいになっちゃうから、それを繰り返していた人は、指導者の資格ないと思います。

だから、ちゃんと指摘してあげましょう。

本人が言っても直さないのなら、われわれはみなさんに注意喚起、危険だよーって言うことこそ、公益性があると思う。

未来はいいんだけど、「加藤さんのとこだけブラック選歌欄」です。
未来はいいんだけど、「加藤さんのあたまのなかだけが歪んだ師弟意識」です。

最後にちょっと中島さんとこの記事を共有して、中島さんはすでに言っていたけど私はいわなかったことが一つ。

それは、そもそも「師弟関係」すらも、悪いことではないということです。

ただ多い人だと100人くらい入ってくる同じ選歌欄の人に、みな同一の「師弟関係」を求めるのはそもそも難しい。だからひいきというか、特別扱いする師弟には、きちんと事前に話して置く必要があると思います。

もし師弟関係を結ぶなら、大切なことが一つ。

・「お互いの同意」と、
・弟子と言われる立場の人の「歌人としての能力を向上させる目的」だ

ということをしっかり踏まえつつ、合意の上で一回契約を結んだほうがいいと思う。

まあ師弟関係には似合わないけど、こういうミスマッチが起きるのなら、一度しっかり事前に師弟契約として定義したほうがいいんじゃないかな。

ということで短歌の世界では「師弟契約」をスタンダードにしていけばいいと思いました。

セクハラの話はちょっと違う方向へ発展をしていると思うので、ちょっと今回はパスします。ではでは。


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未来短歌会所属。noteではおもに文章を、雑誌や原稿では短歌を書いています。2021年9月、第一歌集『ダスビダーニャ』を、クラウドファンディングでみなさまの支援を受けて刊行。絶賛病気と向き合い中。
結社とハラスメントについて|西巻 真
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