第14話 恐れ知らずの幼狐

 八月三日の日曜日。念願の夏休みが始まって、三日目だ。

 燈真は朝修行がないのをいいことに、今日は朝食の時間まで眠っているつもりだった。

 暑いので夜中のうちにはタオルケットを蹴飛ばし、開いた窓から入ってくる風と、ミンミン鳴く蝉の音色を浴びながら、寝返りを打つ。虫の声を、"声"として認識できるのは日本人とポリネシア人だけらしい。どうやら言語脳という部分で虫の声を処理するかどうかの違いらしい。雑学博士の光希が、写真に撮りたいくらいのドヤ顔で語っていた。なんならちょっとムカついた。

 すると、顔にふわっとした感触がした。

 フワフワホワホワの、白い毛。

 なんだこれはと思いながら目を開けると、狐の姿——変化を解いた菘が横になって眠っていた。


 菘はその特異な目のせいで、普通の妖怪より多くの情報を見てしまう。その中には、悍ましいものもある——ヒトの、どろどろした感情さえダイレクトに見てしまうのだ。故に、一人でいることに凄まじい恐怖を感じるのだという。

 なので稲尾の屋敷では、菘が部屋に入ってきても追い出さないことが、住んでいる上での絶対的な前提であった。

 燈真も菘に対しては、可愛い妹と思って接している。そのモフモフの毛皮に顔を埋め、狐吸いをする。炊き立てのご飯みたいな匂いがした。

 なぜか、懐かしい匂いだ。……米の匂いだから、だけではない気がする。


 ——強く生きなさい。懸命に。


 甦る、力強い女の声。

 あれは、


「むぁああああああああああ」


 菘が大欠伸をして、伸びをした。そしてその拍子になんのスイッチが入ったのか、燈真の腕に絡みついて激しく蹴ってくる。


「おいどうした。猫かお前は」

「そこにうでがあるから」

「なんだそりゃ。寝ぼけてんじゃないなら起きろ。結構痛いぞそれ」

「ごめんなしゃい……ふぁあ」


 菘が起き上がって、変化した。ボフンッと煙が舞い上がり、外付けの体毛に封入していた衣服を顕現し、部屋着のシャツと七分丈のズボンといういつもの少女の姿になる。


「ねむい」

「寝起きはみんなそうだよ。俺も眠い」

「にどねする?」

「飯食いっぱぐれるから、なし。……着替えるかな」

「のぞいてていい?」

「ダメでーす。いい女はそんな下品なことしないぞ。ほら、一階にいってろ」

「むぅ。ゴガクのために、みておきたかった」

「そういうのはお父さんので学ぶもんだろ」


 なんでこいつは変な言葉を知っているんだろう。柊の影響だろうか、それともあの奔放な言動の姉だろうか。決して、品行方正な竜胆が教えているとは思えない。

 まさか……俺の影響もあるのか? と思いつつ、部屋を出て「おはよー!! おきろおきろ!!」と目覚ましをやっている菘を見送った。


「すげー元気だなあいつ……。村の将来は明るい」


 燈真は寝巻きのジャージを脱いで、除菌防臭のメンズシートで体を拭った。男である以上仕方ないが、寝起きは、臭い。十六歳でも、臭いのだ。寝汗とか、そういうので。

 生物学的に言えば、やはり男には男の特徴がある。男女平等を世間は騒ぐが、それ以前に生物学的事実という絶対原則が存在することを無視してはならない。


 胸に走る傷痕を、何気なく見る。手術痕というか、やはりこれは、龍に抉られたみたいな痕だ。どんな手術をしたんだろうか。


 燈真はタンスから部屋着の作務衣を取り出す。なんだかんだ、和服が気楽に着れるのだ。ファッションというものがよくわかっていない燈真には、基本単色の和服は都合がいい。適当に合わせるだけで様になるからちょうどいいし、あと、退魔師っぽくて好きなのだ。

 黒い作務衣に着替えた燈真は、顎を撫でた。ちくちくする。


「あーもう……またか」


 精神を置いて、肉体だけ大人になる感じ。嫌だなあと思う。こういう時、少年時代が長い妖怪が羨ましい。

 ずっと子供でいたい、という甘えにも聞こえるし、そうかもと思うが——精神を成熟させるまでの間にあれこれ詰め込まれる人間の少年期は、その労力に比して短すぎるのだ。

 もう少しのんびり、風情とか、何気ないことを楽しむ時間が欲しい。素朴、というもののありがたみを味わう時間が、少なすぎる。


 あえて、スマホを机の引き出しにしまい込んだ。財布だけポケットに突っ込んで部屋を出る。

 初陣を含め、三回任務を経験した。うち二回、魍魎と戦っている。実戦経験も積んでいる実感があった。

 少しずつ、自信もついてくる。面と向かっては言えないが、椿姫には感謝していた。彼女がいなければ、きっとまだ碌でもない暮らしをしていたか——最悪、少年院行きだったかもしれない。


 一階の洗面所では、光希が顔を洗っていた。ヘアバンドで髪を上げている様子は、まるきり少女である。


「おー、起きたか。菘に起こされたぜ、俺」

「俺もだよ。隣で寝てた。モッフモフだった」

「狐なー。最高の手触りだよな。タオルださねえと……」


 光希はタオルで顔を拭っていた。燈真は鏡の前に立って顔を洗い、ジェルを塗って髭を剃る。電気シェーバーではなく、五枚刃のT字を使うのが、個人的なこだわりだ。


「俺まだ髭生えねえんだよな。どんな感じ?」

「あん? 鬱陶しくてしかたねえよ」

「へえ。まあ高校は髭剃れって校則だしな。伸ばせねえもんな」

「伸ばす気もねえがなあ。そしたらなんていうか……俺はそういうの似合わない方だし」


 喋りながらさっさと剃っていく。喉と顎の左右あたりの、丸く角度がついているところを剃るのが本当に難しい。ここを剃り残さずに剃れるかどうかが、男の腕の見せ所だと燈真は思っていた。変なこだわりである。椿姫や万里恵が聞けば、小一時間擦ってくるネタになるだろう。


 今日は、勝負に勝った。綺麗に剃れている。

 光希は「なんか喉の方赤くなってねえ?」と突っ込んだ。

「ヒリヒリする。ちょっと攻めすぎた」


 なんてやり取りをしていたら、竜胆がやってきた。見ればわかる、今まで寝ていた顔だ。


「おはよう」「おはよーさん」

「おはよ……菘が……僕上でボンボンボンボン飛び跳ねて……ほんとに手のかかる妹なんだから」


 容易に想像できる光景である。


「男ども、乳繰り合ってないでさっさと済ませなさいよ」


 髪の毛が大爆発している椿姫が、入り口に立っていた。燈真と光希はそれを見てゲラゲラ大笑いする。

 竜胆は呆れた顔で、洗顔し始めた。


「なによっ!」

「山姥みてえだよな燈真!」「ギャハハ、鬼婆みたいだぜ椿姫!」

「いい度胸ね、顎砕いてやろうか。おぉん?」


 竜胆が洗顔を済ますと、椿姫が「ったく減らず口ばっか」といいながら顔を洗い、頭を梳かし始めた。


「俺ら邪魔だし、いこーぜ」

「姉さんも菘に起こされたっぽくない?」

「耳をハムハムされて起きたわよ。変なこと覚えるんだからあの子は」


 自由妖じゆうじん菘、恐るべし。


 居間に向かうと、半分寝たような顔でネットモフリックスのお笑い特番を見ている柊が、菘におもちゃにされていた。

 ぺたっと投げ出した尻尾をモフモフしたり、吸ったり、耳をモチモチしたり。

 仮にも柊は、天下の九尾である。なんなら一国のトップでさえ最敬礼必須の相手だ。


「菘よう、妾はぬいぐるみじゃあないんだぞ」

「ほんよんで」

「聞いてたか? ん?」

「ぬいぐるみじゃないなら、ほんも、よめるはず」

「……そうきたか」


 菘は棚から本を持ってきた。妖怪図鑑の類だ。


「妖怪なんぞ村に行けば嫌ってほどおるだろ」

「よんで」

「はいはいわかったわかった……」


 なんだかんだ読んでやるあたり、柊の子供好きも筋金入りだ。

 ——絶対に、あれは二日酔いだな。

 燈真と光希と竜胆は、そう思った。


 朝食を、伊予と万里恵、それから身なりを整えた椿姫が運んできた。燈真たちも手伝う。

 菜食中心の、和食である。

 根菜の煮物に漬物、ナスの煮浸しと、油揚げたっぷりの味噌汁。だし巻き卵と、五目ご飯。


「それじゃー、いただきまーす!」

「いただきます」


 菘の号令で手を合わせた面々は、各々食事に取り掛かった。

 燈真は何の気なしにモニターを見た。


「セグウェイ橋本? トキシック大井、ポップ末松だって? えらい濃いトリオだな」

「癖が強いタイプの芸人だろ」と柊。「気に入っておるんだ。体を張ったり、コントも面白いし、何より人となりがなかなかに味わい深い」

「柊って、昔っから変な芸人さんが好きなのよ。変わり者だから、変わり者が好きなのね」伊予がそう言って、たくあんを齧る。

「妾は常識的だろ。……だよな?」


 竜胆が「不安になってんじゃん」と突っ込んだ。菘は「きじんへんじんの、たぐい。びっくりようかいだよ」と言い切った。


「一般人間並感だけど、妖怪なんてみんなびっくりな怪人だぞ」

「あはは、それはそう」

「万里恵、燈真は甘やかすと付け上がるタイプよ」

「褒めて伸ばすのも大事だって。椿姫は鬼教官すぎるんだよお」

「組み手で容赦ねーのは万里恵の方だがな」と、光希が遠い目をして言った。

「忍者の癖がね、でちゃうんだよね。ごめんちゃい」


 話しているが、口にものを入れている間は、絶対に口を開かない。

 燈真も、昔からそうだ。小さい頃に、親に厳しく躾けられた記憶があるというのが大きいかもしれない。


 モニターでは、その変人トリオがバンジーに挑むという企画が流れていた。

 ちなみにポップ末松は躊躇いなく飛び降りて、逆にドン引きされていた。トキシック大井は号泣しながら飛び降り、セグウェイ橋本は二時間後のテロップの末、夕方の空をバックに飛んでいた。


「個性的すぎるだろ」

「これくらい尖ってた方が面白い。ガハハ、なんで躊躇わずに飛べたんだろうな」


 柊は面白そうに笑っている。愛想笑いとかじゃなくて、本当に面白そうだ。

 菘は食事の方に夢中で、米の一粒まで箸で摘んで、食べ切っていた。


「ごちそーさま」

「お粗末さまです」

「うみゃかった。さーてと、おべんきょおべんきょ」


 菘は食器を厨房に持っていく。

 自主的に勉強、か。

 燈真は、昼間では勉強くらいするかなと思いながら、マイペースに食事を進めた。

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