幕間2 見切り

 九尾の狐は東雲嶺慈しののめれいじと名乗った。

 夜風に当たるのが気持ちいのか、エアコンをつければいいのにそうせず、わざわざ持ち込んだ妖力式の蝋燭で灯りを取り、手酌で焼酎を飲んでいる。

 挑発的に胸元をはだけていた嶺慈は、「男なのにおっぱいがあっちゃわるいか?」と意地悪そうに笑ってきた。


「い、いえ……」

「女ホルとイソフラボンの効果だ。使えるんなら自分の体だって使うさ。俺の美貌が武器になることは、自覚してる」


 嶺慈はそう、自信満々に言った。

 昨今、そういう男がもてはやされるのは知っている。だが、現実にいるとは思わなかった。

 というより、妖怪がそんな低俗なところでこだわるとは思えなかった。


「考えてることは顔見りゃわかる。こんなナリでも世界を渡って四〇〇年……。ある程度老いると、性別がどうでも良くなっちまうんだ。自分を満たすためにそうなるんじゃねえ。俺らは自分なんてどうでもよくなって、結果としてお前らの好きな要素が付随するんだ。歳食うと、良くも悪くも、見た目なんてどうでもよくなんだよ」


 東雲嶺慈は、黙って着飾れば女でも通る美貌である。

 それこそ、昭久だってこの顔の人物が女として振る舞っていれば、目を奪われただろう。


「おい……マジか。わりぃな昭久、コンビニに行ってくれねえか」

「え、はい……何を買ってくれば」

「酒と、つまめるもん。俺の血をくれてやったんだ。それくらいの使い走りはできるだろ」

「わかりました……」


 昭久は投げ渡された嶺慈の財布を受け取った。高級品であることは、見るからに明らかだった。鰐革のクロコダイル財布。以前テレビでこの手の特集を見たが、鰐革の財布は特注品で一つ二十五万円はくだらない制作費用がかかるらしい。


「あっ、あの……僕が自分で買います、これは……」

「やるよ。俺のお古だ。リボ払いに狂った嬢からの貰いモンだったかなあ……まあ、手下には俺の持ちモンを一個くれてやることにしてる。せいぜい大事にするんだな」

「はあ……」


 リボ払い地獄のキャバ嬢(風俗嬢かもしれないが)からの貢物。……素直に喜べない。正直な感想を顔に浮かべてしまったのか、嶺慈がゲラゲラ笑い出した。


「冗談だ。知り合った職人が手慰みに作ったモンだ。俺は円禍——あー、自分の女からもらったモンがあるから持て余してんだ」

「それなら……ありがたくいただきます」

「おう。さっさとしてくれよ、酔いが覚めると、興も醒める」


 昭久はすぐに家を出た。

 漆喰が剥がれた階段を降りていると、高架線路を終電間際の、サラリーマンで満杯にした電車が過ぎ去っていく。


 すごいことになったぞ——昭久は、そう思った。


 二十九年生きてきて、人生最大の転機。おそらくは、悪い意味での。

 自分は今、悪魔に魅入られている。ここで逃げ出し、警察なり退魔局詰所なりに逃げれば、まだ酌量の余地ありで許されるだろう。


 だが——今まで自分を顧みることのなかった世界に、なぜ媚びへつらわなくてはならない?

 今まで懸命に尽くしてきたのに、誰よりも真面目に頑張ってきたのに、なぜ——報われない努力を続けろと強要され続ける必要がある? 誰にそんな権利が?


『いい子ちゃんなんて辞めちまえ。正直者が馬鹿を見る。……偉人年寄りの言葉はなかなかバカにできねえもんでな。あるいはそれは真理でもある。お前、今まで正直に生きてきて、いいことあったか?』


 嶺慈にそう言われて、自分はなにも反論ができなかった。

 強いて言えば、利用されてきた。つまらない罪悪感を感じなかった。それくらいだ。

 それを尊いと言えるほど、自分はいい人ではないし——もっと、生きていると実感したいというのが本音だった。


 コンビニについて、昭久はカゴに缶ビールと焼酎を入れた。つまめるもの——軟骨の唐揚げと、フライドポテトを買い込む。

 レジに行くと、あの女子大生が冷めた目で一瞥。前には、老人が一人。やけに間延びした声で店員に話しかけ、店員は見るからに鬱陶しそうな顔をしていた。老人の目は、明らかに若い女性の肢体に向けられている。

 クロコダイル財布を取り出すと、女子大生のまぶたがかすかに痙攣した。そして昭久もそれを開いて、思わず声をあげそうになった。

 ずらりピン札が束になって入っている。素人目でもわかる——ゆうに五〇万は入っている。

 昭久は慌てず騒がず一万円で会計した。

 女子大生は明らかにこちらを見る目を改めている——無論それは媚びるとかではなく、怪しむという意味合いだ。

 ついさっきはボロい折りたたみ財布ふから千円をちびるように出していたと思えば、一時間後には高級財布片手に酒を買い漁っている。

 強盗でもしてきたのか——そう疑われているんじゃないかと、昭久は嫌な気分になった。


 会計を済ませ、昭久は袋を持ってコンビニを出た。

 と、六十過ぎくらいの老人男性——さっきの客が、駐車場のど真ん中に突っ立っておにぎりの包装を破いていた。

 それ自体は決して珍しくない。だが、紙を店内のゴミ箱に入れるのではなく、あるいは持っている袋に入れるでもなく、夜風に任せてポイ捨てしているのだ。


「おじいさん、ゴミ、ちゃんと捨ててくださいよ」


 生来の生真面目を発し、昭久が注意した。

 すると老人は、餓鬼道の亡者のような顔をして、「こっちは金払っとんだ! 好きにして何が悪いんじゃ! ボケが!」と唾を飛ばして怒鳴り散らしてくる。


 そのとき、昭久の中で何かが明確に、見切りをつけた。

 自分の中の、自分自身の中にある神、と言っていいかもしれない。あるいは信条、宇宙、信念——そこに何を代入するかは人それぞれだが、とにかくそれが、明確に「人間社会」というものに、見切りをつけた。


 ああ。

 人間って、醜いんだな。

 人の醜さを愛せって、ある弁護士ドラマで言ってたっけ。

 僕には——無理だ。


 昭久は無造作に腕を振るった。直後、老人の頭部が青い狐火に包まれる。


「ぎゃああああああああああああああああああああッ! ぁぁあああああぁぁぁ——ぁ゛っ」


 火を消そうとのたうち回り、顔を掻きむしり骨から皮膚をひっぺがしたショックで痙攣し、老人が一人、死ぬ。

 その全身が燃え、赤々と発光する炭へと変じる。

 昭久の目が、コンビニ向いた。

 今まさにスマホを手に警察を呼ぼうとしているかもしれない店員に手を向け、狐火の火球を叩き込む。窓が熱で溶けつつ粉砕され、カウンターの向こうの人影に直撃した。甲高い絶叫が響き渡る。


 時間が時間だ。地方の町ゆえ、通行人はいない。だが、交通量はまばらながら、ある。何人かに見られたかもしれないが——構わなかった。


「様になったんじゃねえか」


 いつの間にか隣にいた嶺慈が、袋から焼酎瓶を取り出した。蓋を外して、そのままでラッパ飲みする。


「嶺慈様……僕っ……」

「気にすんな。俺でもこうした。いくぞ。手下どもを集めてるアジトが裡辺にいくつかある。通草あけびっつう退魔局役員を買収してるから、ある程度は自由にやれるぜ」


 嶺慈は左手を挙げて、パチパチ指を鳴らす。鳴らすたびに、真紅の火が舞った。

 すると闇の中から火に包まれた車輪が現れる。輪入道だ。恐ろしげな親父の顔が、ぎろりと嶺慈を睨んだ。


「お疲れ様です、頭領……」

「おう。近場のアジトまで頼むぜ」

「かしこまりました……」


 輪入道が運ぶ荷車へ乗り込み、彼らは闇へと消えていった。

 遅れて、店員が鳴らしていた緊急通報によって警察が駆けつけるが、そこには炭化して身元を割り出せない焼死体が二体と、熱で変形したコンビニがあっただけだった。

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