漫画家の猿渡哲也氏と俳優の岩城滉一氏 漫画家の猿渡哲也氏と俳優の岩城滉一氏

漢を描き続ける猿渡哲也が〝永遠の兄貴たち〟を直撃!! 第三回に迎えたのは、躊躇や忖度といった朧げな言葉とは一切無縁の漢、岩城滉一。およそ50年、仕事に趣味にフルスロットル。自身が赤裸々に語ってくれた、これまでの轍、これからの道程。

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■初主演映画の現場で大乱闘と拉致発生!?

猿渡 岩城さんといえば、僕の中で印象に残っている役がいくつかあるんですが、まず、『人間の証明』(1977年・東映)から。岩城さんは郡恭平という放蕩息子の設定で、ニューヨークに逃亡。当時、現地ロケが話題になりましたが、いかがでしたか?

岩城 飛行機での移動含めて、滞在は10日間ぐらいでしたかね。とにかく、お金をかけてました。宣伝費は億単位、ロケでの食事もそうだし、宿泊先はアストリアホテルだし。

猿渡 あのウォルドーフ・アストリアですか? 超豪華ですね! ゴージャスといえば、父親役は三船敏郎さんでした。共演されてみて、どうでしたか?

岩城 重厚感というか、やっぱり存在感はありましたね。

猿渡 お酒とか一緒に飲まれました? 三船さん、お酒が入るとすごかったというウワサを聞きますけど。

岩城 いいえ。僕はデビューした年に『爆発!暴走族』(75年・東映)で主演させてもらったけど、もともと芸能志望じゃなかったから、役者さんのことなんて誰が誰だか全然わからなかったんですよ。

だから、三船さんのことだって、最初は「誰?」って感じでね。うちの親父のほうがよっぽど偉いし、怖いと思ってた。

猿渡 世界のミフネですよ。

岩城 有名だろうがなんだろうが関係ないんでね。三船さんのことを意識しすぎることはなかったかな。

猿渡 その『爆発!暴走族』ですが、当時、岩城さんはクールスというグループの副リーダー、全国の不良たちの憧れの存在だったわけで。今見ると、その頃の現役の暴走族が多数出演していましたよね。

岩城 いろいろありましたよ。僕らにはスタントマンなんていなかったから、自分たちで走ってね。

本番中にバイクに追いかけられて、なんだしつこい役者だなって、食ってかかろうとしたら、本物の警官だったり。いろんなグループを一挙に集めたもんだから、撮影所内で乱闘になったり。それと、あるグループに一回さらわれたことがあって。

猿渡 さらわれたんですか!?

岩城 そう。〝おまえらよその者が、俺らの地元に来て、なんで俺らを使わないんだ〟と。

猿渡 あ、要するに映画に出たかったわけですか(笑)。

岩城 そう!(笑)。で、プロデューサーに紹介するから明日来いよって。それで話はついたんだけどね。

猿渡 やっぱり70年代はすごい時代でしたね。

■衝撃的だった牛の帝王切開手術

猿渡 もうひとつ、忘れられないのが、『北の国から』シリーズ(81年~2002年・フジテレビ)の北村草太役です。特に強烈だったのは、第21話でのボクシングシーン。僕は格闘漫画を描いているのですが、岩城さんの4回戦ボーイの試合は、雰囲気も含めて、変にうまくない感じがかえってめっちゃリアルで。

岩城 毎日、朝の5時頃まで撮影でね。風邪引いちゃって。しかも、ガッツ(石松・成田新吉役)さんと軽くスパーリングをやろうってなって、僕がいいパンチ入れたら、反射的にガッツさんがフックを戻してきて。元世界王者でしょ、さすがにね(笑)。

で、僕は倒れたときに、ちょっと変な感じで手をついちゃったもんだから、手首を折ってしまって。だから、本番ではギプスをはめたままグローブをつけて臨みました。

猿渡 そんな状態で戦ったんですか。いや、最初はガードをしっかりしてるけど、だんだん下がってくるところとかもすごくリアリティがあったんで。あのノックダウン場面はやっぱりガチですか?

岩城 そうです。テンプル(こめかみ)にもらったんで、記憶はない。ボーっとして、天井がぐるぐる回って見えるし、呼吸ができない。

戦った相手は、その後、全日本のチャンピオンになった選手。僕もけんかだったら負けないっていう自信はあったけど、空手上がりだから、反射的に蹴りを出さないように気を配ってね。しかも、段取りなんてないから。

猿渡 事前練習とかは?

岩城 いや、練習なんてする時間はなかったです。撮影がびっしりだったから。なので、ぶっつけ本番のけんかみたいな感じで。でも、対戦相手の彼が、後に全日本王者の祝勝会に呼んでくれて、「岩城さんのあのときのパンチがずっと痛かった」って言ってくれたのはうれしかったな。

俳優の岩城滉一氏 俳優の岩城滉一氏

猿渡 それと、すごくインパクトが強かったのは、『北の国から'98時代』での牛の帝王切開手術です。

岩城 あれはすごいっていうか、怖かった。僕は射撃をやるけど、狩猟はやらないんだよね。動物と目が合うと、撃てなくてさ。だから、腹を切るのは嫌だって言ったんだけど、どうしてもやってくれと。だから、薬塗って、体毛を剃って、ひと通りやりましたよ。

猿渡 ボクシング同様、そこもリアルだったんですね。

岩城 そう。牛の乳搾りだって、吹き替えじゃないですよ。当時は今みたいに搾乳の器具なんてなかったから、すべて手搾り。あれは握り方とか、コツがあってね。簡単にはできない。

最初は、脚本の倉本(聰)先生が現場を見に来られると、「岩城、おまえ、全然手つきが違うじゃないか」って、ツッコまれてね(笑)。ずいぶん練習しましたよ。それにね、馬の交尾もやった。雄馬のペニスを肩に担いで、雌馬に挿入させるところまで。

猿渡 すべてガチンコだったわけですね。

岩城 そう、北海道でのロケはすべてガチンコ。ウソはひとつもなかった。邦さん(田中邦衛・黒板五郎役)が屋根から落っこちて、雪に埋もれて危うく死にかけるとか。全部本物です。だから、そんな中でボクシングのシーンを撮るとなったときも、〝作り〟をやるわけにはいかんだろうと。

で、倉本先生に「先生、本当にやりたいの?」って聞いたら、やりたいと。で、ああなったわけです。

でもさすがに病院へ担ぎ込まれた僕の姿を見て、倉本先生と、プロデューサーの中村敏夫さんは青ざめてしまい、「もう二度とこういうのはダメだ」と。だから、回復後、中村さんに言ったんですよ。僕も生活かかってるから、ギャラに上乗せしてくれって。

猿渡 乗ってました?

岩城 乗ってませんでした(笑)。でもね、もともと倉本先生のロケーションコーディネートを手伝ってる頃からかわいがってもらっていて。

それで『前略おふくろ様』(75~76年・日本テレビ)の最終回に出させてもらって、その後『あにき』(77年・TBS)にも出させてもらうことになるんだけど、残念ながら、いろいろあって、降板になっちゃったんですよ。

それでも、倉本先生は「おまえ、もう本番中に逃げないか?」って、再びチャンスをくれたのが、『北の国から』だったんです。だから、すごく恩義がある。

邦さんも、僕の娘が小学生の頃北海道にひとりでやって来たときは、撮休日なのに一日中プールに付き合ってくれたりね。ちい兄(地井武男・中畑和夫役)にも、すごくお世話になりましたね。本当、家族のようだった。あんなすてきな人たちに、そして素晴らしい作品に出会えて、今でも感謝しかないですよ。

■妻・アンナからは仕事とお金の金言を

猿渡 岩城さんは多趣味で、しかもどのホビーもとことん極めるという印象があります。射撃は、クレー射撃ですか?

岩城 そうです。射撃は、エアライフルを学生時代からやってるから、かれこれ40年ぐらいになるかな。もともと、射撃で国体の選手を目指してたんですよ。

でもまあ、そこでもいろいろ越えられないハードルがあって、それじゃ意味ないじゃんってことで、その後、レースにのめり込んでいくんですけどね。ただ、射撃は今もやります。射撃場も経営しているし。

猿渡 そうなんですか!?

岩城 ええ、「神奈川大井射撃場」っていいます。東名高速道路の大井松田インターの近く。長らく僕は射撃クラブの会長をやってたんだけど、先代がご高齢になり、売るっていう話になって、それでご縁あって買い取ったんです。

猿渡 趣味がそのまま仕事になる人生、うらやましいです。

岩城 それ、よく言われるんですよ(笑)。バイクや車に乗ってて、レースに出たら勝っちゃって、プロ扱いとか。

20年の暮れからYouTubeで『#51TV』っていう番組を始めたんですけど、企画で軽トラックを自己流で改造して発表したら、メーカー経由でブレイクしたり。

よし、明日からアメリカに行って、バイクでひとっ走りしてくるわって言うと、そのまま仕事になっちゃったりね。

猿渡 ふと思ったんですけど、奥さまの結城アンナさんは、急にアメリカに行くって言っても、全然OKなんですか?

岩城 全然OK。「それがパパの仕事。パパの場合は、仕事にならないのが仕事なのよ。お金になる仕事は後からついてくるものよ」って。

猿渡 素晴らしい!

岩城 いいかげんにしろとか言われたことないです。一回だけだな、ダメ出しは。アクロバット飛行用の飛行機を購入したとき。「お願いだから、パパ、それだけはやめて」と。

猿渡 やっぱり、話のスケールが違いますね(笑)。今、僕は65歳なんですけど、終活とかを考えている場合じゃないですね。

岩城 僕もありましたよ。還暦を迎えた後、何事にも意欲が薄くなりかけた時期が。でもね、60代後半からまた、じわじわと。バイクで走ってて、俺遅くなったか?って、周りに聞いても、そんなことないですよ、と。

あ、年齢って関係ないじゃんって思い始めたら、そこからはすごく楽になりました。今のほうがむしろ元気。自慢するわけじゃないけど、ほら(猿渡氏に自らの腹筋をじかに触らせる)。

猿渡 うわ、めっちゃ硬い!

岩城 じじいなんて言わせないよ、若い連中に。〝スーパーじいさん〟と呼べって(笑)。

漫画家の猿渡哲也氏 漫画家の猿渡哲也氏

猿渡 岩城さんはそもそも悩むこと自体、今までの過去を振り返ってみて、ありましたか? 僕からすると、ずっと順風満帆でやってきているように見えるんですが。

岩城 ありましたよ。今週は銀座にまだ2回しか飲みに行けてないなぁとか(笑)。それは冗談だけど、本当に苦しい時期もあった。

うちの親父はバブルの頃に土地をいじっちゃって、相当な額の借金をつくってしまい、そのまま逝っちゃったんですよ。でも、せっかく育ててくれた親父の名を汚したくないから、ちゃんと返済しました。

正直、首をくくらないと無理かもっていうときもあったけどね。額がすごすぎて。でも、なんとかなるものなんですよ。

猿渡 岩城さんのバイタリティあふれるお話を聞いて、なんかすがすがしい気持ちになりました。長生きするために、お酒やたばこをセーブするだとか、そういうことはされてます?

岩城 あと何年生きられるかわからないのに、なんでそんなことイチイチ気にしていかなきゃならないんだよ!(笑)。人に迷惑をかけなければいいんだからさ、自分で好きなようにやって死ねばいいじゃない。

猿渡 ははは、確かに! 達観されてますね。

岩城 僕ね、お墓もすでに建てて、戒名も作ってもらってるんですよ。これがまたいい戒名でさ。あまりにも素晴らしいから、背中一面に入れ墨で彫ってもらいたいなと。でも、カミさんにはまだそれを切り出せていないんだ(笑)。

●岩城滉一(いわき・こういち) 
昭和26年(1951年)生まれ、東京都出身。硬派バイクチーム「クールス」の副リーダーを務めていた時代に東映の関係者よりスカウト、『新幹線大爆破』(75年)でデビュー。以後、『爆発!暴走族』(75年)や『南へ走れ、海の道を!』(86年)、ドラマ『北の国から』シリーズ(81~2002年)などで活躍。

●猿渡哲也(さるわたり・てつや) 
昭和33年(1958年)生まれ、福岡県出身。『海の戦士』(週刊少年ジャンプ)でデビュー。格闘漫画『高校鉄拳伝タフ』『TOUGH』『TOUGH 龍を継ぐ男』のシリーズは累計1000万部超を記録している。

高橋史門

高橋史門たかはし・しもん

エディター&ライター。1972年、福島県生まれ。日本大学在学中に、『思想の科学』にてコラムを書きはじめる。卒業後、『Boon』(祥伝社)や『relax』、『POPEYE』(マガジンハウス)などでエディター兼スタイリストとして活動。1990年代のヴィンテージブームを手掛ける。2003年より、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングジャンプ』のグラビア編集、サッカー専門誌のライターに。現在は、編集記者のかたわら、タレントの育成や俳優の仕事も展開中。主な著作に『松井大輔 D-VISIONS』(集英社)、『井関かおりSTYLE BOOK~5年先まで役立つ着まわし~』(エムオンエンタテインメント※企画・プロデュース)などがある。

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