『忘れてはならぬ
先人達が未来に贈りたかった、生き方のしるし』
遡ること700余年、南北朝という下克上の時代を最後まで忠義に生きた武将、楠木正成は千早に生まれ、観心寺で学び、金剛山の中腹に居城を構え、八万の敵と戦い
皇統を護りぬいた。
今尚、皇居に建つ武将の像は正成公をおいて他になく、天皇家にとって恩人であるとされている。
そういった歴史を踏まえたなかで
日本人の精神性を継承すべく
存道館は
昭和11年11月16日
千早の村人が中心となり、生徒、郷土軍人、青年団が力を合わせ
数々の苦難を乗り越え完成に至った。発案者は平泉澄
平泉先生は当時東京帝国大学の教授で昭和天皇や満州国最後の皇帝溥儀にもご講義されてた人物で
その出自は越前白山宮と平泉寺の
当主家である。
平泉先生はこの一大事業に
東京から安井英二を知事として
推挙している。
ゆえ、安井氏は度々、館に足を運んだ。
存道とは『萬世の道を存す』と
訳されて、その引用は幕末の志士
真木和泉守の楠子論より出ず。
又存道館の前に立つ石碑は
水戸学の流れの人々が中心となり
平泉先生の喜寿の祝いにと水戸より運ばれてきたもので在る。
その内容は存道館を建てるに至った経緯が刻まれ
存道館記の題字は三笠宮節子様が
お書きになられた。
この石碑の台石は2000貫(約8t)もあり、大勢の男達が1日がかりで1メートル程しか動かせなかったんだと古老はいう。
平泉先生は後にこの千早はギリシャでいうアポロ神殿にあたるデルフィであり、よく登拝しなさいと塾生に伝えている。
現に幕末には吉田松陰や横田小楠らが訪れた記録も残る。
不思議なことにこの金剛山の東面は古代の豪族、鴨族の生地で当時は鴨山と呼ばれていた。
鴨族を代表する人物はアジスキタカヒコネ、初代神武天皇を大和へ道案内した、これも又、天皇家に
とっては命の恩人であると記紀は伝える。
80年経った今も存道館は山の家と名を変え千早神社の奥に凛とした姿をとどめるが
その館が伝えようとする
その精神性に触れようとするものはほんにそいなくなってしまった。
我々にとって歴史に触れるということは先人の思いに触れるということである。
そこに思いを馳せる時
先人は生き方のヒントを手渡してくれる。
今に生きる私たちに出来ることは
先人の遺言を今に生かし、未来に継承することに他ならない。
そんな奥千早の玄関口にあたる
滝谷不動駅前の倉庫を舞台にした
不動神楽からいにしえの道標の跡をなぞっていきたい。