「せんせい、みずをください」
そう消え入るような声で、たまたま通りかかった先生を呼び止めた13歳の女の子に、先生は水をあげることもできず、その手を握りしめることしかできませんでした。
数日後、女の子は、ひとり息を引き取りました。
私(筆者)は東京で生まれ育ちました。父は幼少期を広島市で過ごし、私が小さいころから何度も、原爆で亡くなった父の姉の話をしてくれました。
私の伯母にあたる彼女の名前は栄久庵昌子(えくあん・ひろこ)。13歳で亡くなりました。
会ったことはありませんが、親しみを込めてここでは「昌子さん」と呼びたいと思います。
75年前、広島市の山中高等女学校の2年生だった昌子さんは、空襲に備えて建物を取り壊す作業に加わり、炎天下の中で家の瓦の片づけをしていました。
そこから1キロほどしか離れていない場所に原爆が投下され、昌子さんを含め300人以上の女学生が命を落としました。
私の祖母と父親たちは、広島市から離れた福山市に疎開していて助かりましたが、昌子さんは家族の顔を見ることなく、ひとりで亡くなったそうです。
これが昌子さんの最期について、祖母たちが知っているすべてでした。
父の実家の仏壇には昌子さんの写真が飾られていました。くりくりとした大きな目をしていて、笑みを浮かべている昌子さん。私は幼いころからなんとなく気になって、見つめていました。
父は写真を見ては「昌子ねえさんは家族に対しても礼儀正しい、心のやさしい人だったんだよ」と話してくれました。
毎年8月を迎えるたびに昌子さんのことを思い出してきました。
しかし当時のことを知る祖母が中学生の時に亡くなり、私自身も進学し、社会に出て記者として働くうちに、昌子さんについてを考えることは少なくなっていきました。
4年前、記者になって10年近くたったころに旅行で広島市を訪れ、私は平和公園の慰霊碑の前で昌子さんに手を合わせました。
ふと「このまま昌子さんのことを考えなくなってしまっていいのだろうか」という思いにかられて、その場でスマホを使って山中高等女学校のことを調べると、ある記事が見つかりました。
「教え子思い追悼の辞に涙 山中高女元教諭 広島原爆の日」
75年前に女学生たちが被爆した場所で毎年慰霊祭が行われ、そこには当時の先生も参加していることを、記事は伝えていました。
先生がまだ存命ということに驚くとともに「昌子さんのことを知っているかもしれない」と思った私は、記事にあった学校に電話をかけて事情を伝えました。
先生の名前は水木栄枝さん(98歳・旧姓)といいました。
電話で私の名前を伝えたときの水木先生は、そういって驚いた様子でした。
私の伯母が山中高等女学校の女学生で、2年生の時に被爆し亡くなったことを伝えると、先生は当時のことをはっきりと覚えていました。
はやる気持ちを抑えながら会う約束をして数日後、福山市にある水木先生の家を訪ねました。玄関に立っていたのは、優しい笑顔が印象的な女性でした。
先生は私を家の中に招き入れて部屋に案内すると、ゆっくり当時のことを話し始めました。
水木先生は昌子さんとは家が近所でした。
原爆が投下された日は広島市の郊外にいて被爆を免れた水木先生は、2日後に生徒たちの安否を確認するため市街地に入りました。
最初に訪れた病院には数え切れないほどの遺体やけが人が横たわり、「みずー」「痛いよ」という声が至るところから聞こえてきたそうです。
そのとき足元で女の子のかぼそい声が聞こえました。
「せんせい、せんせい、みずきせんせい。えくあんです」
驚いた水木先生が見ると、そこには昌子さんが床に横たわっていました。
けがや、やけどの様子は見られませんでしたが、のどがヒクヒクと動くのが見えました。
「せんせい、みず、みずをください。胸が苦しいんです」
消え入るような声で水木先生に訴える声。何もしてあげられない自分に強い腹立たしさを感じつつも、ほかの生徒も探さなければならず、先生は近くに来た若い看護師に頼んで、その場を離れざるをえませんでした。
「また来るから元気を出してね」
最後にこう声をかけて彼女の手を優しく握りました。しかし2日後に先生が再び病院の前で死没者名簿を見ると、そこに昌子さんの名前がありました。
「あの日の栄久庵さんを忘れることができないんです」
そう漏らした水木先生は、「また来るから」ということばを残して彼女のもとを離れてしまったことを、今もとても悔やんでいるように見えました。
話を聞き終えて先生に別れを告げたとき、先生は私の手を強く握りしめてくれました。約70年前、昌子さんの手を握ったその手には、心地よいぬくもりがありました。
初めて昌子さんをすぐそばに感じた私は、それから毎年女学校の慰霊祭に参加することにしています。そこには高齢の遺族や同級生の姿がありました。
妹を亡くしたという女性は「ひん死の妹に水をあげられなかったことをずっと悔やんでいます」と胸の内を明かしました。
たまたま被爆を免れたという同級生は自分が生き残った現実と向き合いながら、毎年欠かさず級友たちに手を合わせているそうです。
同級生たちがまとめた追悼記には、こんな記述があります。
「お母さん、死にたくない。せっかく勉強していたのに」
「私が亡くなっても、泣かないでください」
死を目の前にしながら、親にそう言い残した女学生たち。一方で昌子さんのように親に会えずひとり死んでいった子どもたちも大勢いました。
体じゅうにやけどを負い、痛みに苦しみながら親が助けに来るのを待ち続け、そして親たちは半狂乱になりながら子どもを探し回ったそうです。
広島ではそうした女学生たちと同じように犠牲になった学生は、約6000人にも上ると言われています。
もし原爆が投下されていなければ家族と楽しく過ごし、恋愛もできたかもしれない。子どもを授かって幸せな家族を持てたかもしれない。
祖母は生前、「昌子が生きていたら私の人生は変わっていた」と最愛の娘について話していました。
その祖母の顔を見ることもなく逝ってしまった晶子さんと、同じような女学生たちが数え切れないほどいたことに、胸が締めつけられる思いでした。
ことしの8月6日も私は女学校の慰霊祭を訪れました。この日も強い日ざしが照りつける暑い日でした。
慰霊碑の前に立つと、炎天下で家の瓦を片づけている彼女たちの姿が浮かびました。
私は今34歳。少し前までは、戦争を経験した人だけが戦争について伝えられると思っていました。
でも水木先生の話を聞き、無念のうちに亡くなった彼女たちの短い人生に触れたことで、私にとって原爆の惨禍はただの過去ではなくなりました。
彼女たちのことを伝えていける、伝えていきたいと思っています。
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