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「帽子」 広島県呉市

2009年8月5日11時14分

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写真:春平が駆け上った両城の200階段=大室写す拡大春平が駆け上った両城の200階段=大室写す

写真:昨夏の「帽子」の制作発表記者会見。左から池端俊策さん、田中裕子、緒形拳、玉山鉄二=村瀬信也撮影拡大昨夏の「帽子」の制作発表記者会見。左から池端俊策さん、田中裕子、緒形拳、玉山鉄二=村瀬信也撮影

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■生きる誇り、戦争の影と交差

 かつて軍港として栄えた広島県呉市。NHKが昨年8月に全国放送したドラマ「帽子」の舞台だ。放送から2カ月後に亡くなった緒形拳が、病身を押して円熟の演技を見せた。

 帽子店を営む独居老人の高山春平(緒形)は、顔見知りになった警備員の河原吾朗(玉山鉄二)の母が、幼なじみで初恋の人、竹本世津(田中裕子)と知って驚く。世津は胎内被爆者で、差別や病気の不安に苦しんだ。今は東京に住み、末期がんという。春平は吾朗を伴い、東京へ向かう……。

 長年納めてきた学生帽が廃止されると聞き、その中学校に駆けつけるため、春平が急斜面の階段を駆け上る場面がある。撮影場所は、呉市の中心部から少し離れた両城(りょうじょう)地区の通称「200階段」。映画「海猿」にも出てくる階段だ。

 汗だくになり上り切る。振り向くと、眼下に呉の街と港が静かに広がっていた。対岸には戦艦大和を造ったドックの跡も。64年前、空襲で一面の焼け野原になったとは想像もできない。

 脚本の池端俊策さん(63)は終戦の翌年、この街に生まれた。広島市に近いこともあり、小学校には胎内被爆の子どもたちが何人もいた。貧血がひどく、長く立っていられないので朝礼は休んでいた。原爆のやけどのあとが残る先生もいた。

 高校生のころ、校舎の窓からタンカーが港を横切るのを見た。大和を建造した技術力は戦後、商船建造へ引き継がれた。

 「呉は自己矛盾の固まりの街だった。大和を造った誇りと、戦争に敗れた挫折感。巨大なタンカーを造って、ようやくその技術力に誇りを取り戻した」

 「帽子」の冒頭、山本五十六・連合艦隊司令長官が軍帽を注文する。池端さんが呉市内の高田帽子店の2代目、故・高田勝二さんに聞いた話が下敷きだ。

 勝二さんの長男で3代目の勝晴さん(63)によると、店は戦前、海軍御用達の帽子店だった。

 戦中、店のカーテンは昼でも閉めっぱなし。仕事の忙しさの度合いから海軍の動向を察知されるのを防ぐためという。軍帽づくりも「軍事機密」だった。

 「帽子」は広島放送局の制作。演出を担当した黒崎博ディレクター(40)は「普通の人の人生を見つめる中で、人間の生きる誇りを見つけたかった」と狙いを語る。

 地方ロケにありがちな観光地を盛り込んだ演出は排除し、人生のたそがれ時を迎えた男の日常を淡々とつづった。人々の運命をほんろうした原爆の惨禍と独居老人のケアといった現代社会の問題が、戦争の陰影の濃い呉の街に交差して、滋味深いドラマとなった。(大室一也)

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