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【あの時なにが 1.1】断片情報 募る焦燥感 救助 半日早く動けたか

2024年6月30日 05時05分 (6月30日 10時29分更新)
能登半島地震発生後初めての石川県災害対策本部員会議。大型モニターに輪島市の朝市通りの火災が映し出される左横の画面にリモート参加した馳浩知事がいる=1月1日午後6時38分、石川県庁で

能登半島地震発生後初めての石川県災害対策本部員会議。大型モニターに輪島市の朝市通りの火災が映し出される左横の画面にリモート参加した馳浩知事がいる=1月1日午後6時38分、石川県庁で


 1月1日夕、石川県庁6階にある危機対策課は焦燥感に包まれていた。ホワイトボードに書き込まれた情報は「珠洲市 16:34電話つながらず」「輪島市 16:50状況不明」「能登町 16:34電話つながらず」「穴水町 16:35電話つながらず」「七尾市 16:35電話つながらず」。一体、どれだけの被害が起きているのか-。
 徳田博副知事は地震発生20分後に金沢市内の外出先から県庁にたどり着いた。エレベーターは止まり、大津波警報を受けて避難した周辺住民でごった返す中で非常階段を駆け上がった。「前回(2007年)の能登半島地震の比じゃない。市町も職員の参集がままならないはずだ」。それだけは分かった。
馳知事が元日に投稿したインスタグラム=一部画像処理

馳知事が元日に投稿したインスタグラム=一部画像処理

 地震発生から2時間20分後の午後6時半に初めて開いた災害対策本部員会議。「珠洲で倒壊家屋がかなりある」「要救助事案は6件」と断片的な情報が報告される中で、会議室の大型モニターに映し出された輪島市の朝市通りの火災映像だけが、大惨事の予感を不気味に伝えた。
 居並ぶ県幹部に向け、馳浩知事は冒頭に「大変な事態となりました。人命救助最優先で対応をお願いします」と呼びかけた。だが、その姿はモニター越し。元日、馳知事は休暇で都内に帰省中で不在だった。(田嶋豊)
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 能登半島地震から7月1日で半年。災害関連死を含め281人の尊い命が無情に奪われたあの時、災害対応の司令塔を担った石川県庁をはじめとする行政機関は、次々と押し寄せる緊急事態に奔走し、その備えを試された。何ができて、何ができなかったのか、証言を基に検証する。

「想像力に乏しく後手」

 元日、石川県の馳浩知事は東京都内の自宅で、能登半島を震源とするマグニチュード(M)7・6の地震発生を知った。本人によれば、バッグに荷物を詰め込み、10分後には自宅を出て東京駅へと車を向かわせた。北陸新幹線が運転を見合わせていたため、参院議員時代に同期だった旧知の林芳正官房長官に連絡し、「官邸に向かうから入れてくれ」と頼んだ。
 首相官邸にはヘリポートがある。いち早く石川に戻る最善の策だと直感した、という。官邸では松村祥史防災担当相と対応を協議。岸田文雄首相からは電話で「カネの心配はするな。できることは何でも、すぐにやれ」と指示を受けた。結局、市谷の防衛省から午後8時に自衛隊のヘリで出発し、県庁に到着したころには午後11時を回っていた。
   ◆
1月1日午後5時ごろ、首相官邸に入る際に報道陣の質問に答える石川県の馳浩知事

1月1日午後5時ごろ、首相官邸に入る際に報道陣の質問に答える石川県の馳浩知事

 7時間に及んだトップ不在が、災害対応にどう影響したのか。馳知事は「影響は全くない。すぐに副知事と連携を取って対策本部設置や市町との連携をした」と言う。これに対し、出身母体の自民党県議からも厳しい声が上がった。
 2月の県議会代表質問。被災地の七尾市選出の和田内幸三議員は「知事は激甚災害に指定されるほどの、あの恐ろしい揺れを体験していない。もう少し情報をキャッチして初動態勢をしっかりとしてくれれば、皆さんも安心できたんじゃないか」と迫った。物理的な距離が、危機感を鈍らせたのではないかというのだ。
 もちろん、半島という地理的要因や道路網の寸断、さらに真冬の元日ですぐに日没となった悪条件を考慮すれば、知事が在庁していても何ができたかは分からない。ただ、県の元災害危機管理アドバイザー室崎益輝さんは、被害の全体像を捉える想像力に欠けていたことが初動の遅れとなり、結果として救助や物資支援が後手に回ったとみる。「M7・6が起きた瞬間に2万棟が全半壊していると、部下から数字が上がってこなくてもイメージする。それが危機管理だ」
 災害派遣医療チーム「DMAT」の一員として被災地に入った小早川義貴医師=福島市=の「あと半日早く動けたのではないか」という言葉も、それを裏付ける。石川県から被災地以外のDMATに対する派遣要請は2日午前10時前。第1陣が奥能登の病院に到着したのは3日だった。「急性期の救急医療を担うなら、県の要請を待たずに国が独自に判断し、少しでも早く被災地に入るべきではなかったか。もっと助かる命があったかもしれない」と悔やむ。県が能登6市町に現地情報連絡員(リエゾン)を派遣したのも2日午前8時。日が昇るのを待った。
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 地震から一夜明け、徐々に被害情報が集まり始めた。馳知事は早朝に防災ヘリで上空から能登半島上空を視察。眼前に崩落した道路や倒壊家屋が広がり、手を振って助けを求める人の姿を目にした。直後に開かれた災害対策本部員会議で、オンライン参加した泉谷満寿裕珠洲市長は「壊滅的な状況だ。昨夕から人命の救急救助に当たっているが、未対応が50件ほどある」と訴え、会議室の空気が一気に張り詰めた。
 輪島市の坂口茂市長は、姿さえ見えなかった。自宅のある地域が土砂崩れなどで孤立し、唯一残ったアナログ回線は2日に余震で途絶えた。県の要請で自衛隊のヘリで救出され、市役所に登庁できたのは3日の朝だった。
 馳知事は2日午前の会議で、人命救助と被害状況の把握を急ぐよう繰り返して言った。「時間との勝負になる」。その時点で、地震発生から17時間がたっていた。(田嶋豊、片山夏子)

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