第765回「夢茫茫」

 深谷隆司の言いたい放題第765回

 「夢茫茫」

 毎日、色々なことがあり過ぎて、こうした状態を茫茫(とりとめもないさま)と表現したらいいか・・・。

 私は27歳の時、台東区議に初当選した。2年後、都議会で不祥事が起こり解散となった。しかし、不祥事の張本人たちが平気な顔で又都議に出馬するという。義憤に駆られた私は区議を辞任し、無謀にも都議選に挑戦、260票差で次点に泣いた。

 学習塾を開いて、乳飲み子を背負った家内と共に塾の子供達を教えた。一方で政治家としての再起を期して努力を続け、その頃からすばらしい応援者が続々と増えていった。

 都議会から更に国会へ、それは険しい道のりであったが、生き甲斐でもあった。5つの大臣、総務会長、予算委員長など要職を歴任し、引退後は(勲一等)旭日大綬章の栄にも浴した。人生をかけて国の為に尽くしたと自負している。

 年月の流れは速く、私もまもなく83歳になろうとしているが、その間、多くの支援者がこの世を去った。


 6月28日、張替静さんが97歳で亡くなった。早世したご主人は私を支えてくれた恩人である。私は仲人も務めたが、彼らの母親への看護は見事であった。

 ご遺族の依頼で葬儀委員長を引き受けることとなった。ところが7月3日通夜の夜は自民党政経塾の私の講義の日と重なった。困り抜いていたが、なんとか義理の息子小田全宏君が代役を引き受けてくれ、ようやく全ての席に出られることとなり、ほっとしたところである。出会いは嬉しいが別れは辛い。


 19日、日本ジュエリー協会(中川千秋会長)の30周年大会が上野精養軒で開かれ、私は主賓で挨拶に立った。私が都議選で破れた頃、当時の業界の中心であった故中川三好氏等が訪ねてきて「顧問になってくれ」と言う。浪人中だからと遠慮したら、「あなたは必ず都議になる、ひょっとすると国会議員になるかも・・・、だから今のうちに頼むのです」。以来、50年余ジュエリー協会と縁をもち、政木喜三郎氏、桑山洋征氏、長堀守弘氏など歴代会長が私の後援会長であった。ご挨拶では、胸を熱くしながらそんな想い出を語った。


 24日、石浜2丁目町会が発足70周年祝賀会をビューホテルで催した。私が中学生の時代、まだ敗戦から数年後で焼け野原が残る頃、ボーイスカウト活動で通った町である。区議時代から町を挙げて応援、町会事務所は私の最初の演説会場となった。後に依頼されて「夢を求めて生きることの楽しさよ」と揮毫したが、今も町会事務所に飾られている。なんと当日の「式次第」に私の字がそのまま載っているではないか。

 加藤孝平会長は熱心な応援者で、彼の店「寶山堂」の前は街頭演説恒例の場所となった。私はそこで100回以上も獅子吼し、辻、松島両代議士、服部区長、和泉前都議、石塚、寺井区議など、私の後輩達もそこで演説して当選したものである。


 夢茫茫・・・である。