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「大学生活は刺激だらけ!」
元プロ野球選手が大学進学を選んだ理由(前編)

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人間開発学部 健康体育学科 幸山 一大 さん

2022年11月1日更新

 現在、NPB(日本野球機構)の登録選手数は、約900人前後。そのうち、毎年100人が戦力外通告をされてプロという立場から離れていく。

 いま、プロ野球をはじめ、Jリーグ、ラグビー、体操などあらゆるアスリートたちのセカンドキャリアが社会問題になっている。どんなアスリートでも、引退後の人生のほうが長い。競技以外の経験がないアスリートたちには、どんなセカンドキャリアがあるのだろうか。

 今回は、プロ野球選手引退後、國學院大學への進学という道を選んだ元福岡ソフトバンクホークスの幸山一大さんにお話をうかがいました。

 

突然の戦力外通告 これからの人生をどうする?

 「自分は育成選手として福岡ソフトバンクホークスに入り、3年目に戦力外通告を受けました。それまでは1日中野球三昧で上を目指す日々でしたから、通告を受けて初めて『これからどうしよう』と考えましたね」

 幸山一大さんは、幼い頃から野球一筋の人生を送ってきた。富山県で生まれ、小学生の時に「富山リトルリーグ」に入団。「富山リトルシニア」を経て、富山第一高校へ入学。野球部でレギュラーとして活躍した。高校2年のときに、第95回全国高等学校野球選手権全国大会で甲子園出場を果たした。高校時代の活躍が注目され、2014年にNPB育成ドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスから一巡目に指名された。

 ホークスは12球団の中でも育成選手の層が厚く、幸山さんは支配下登録を目指してひたすら野球に励んでいた。しかし3年目、戦力外通告を受けたのである。幸山さんは22歳になっていた。

 「通告を受けた当初は、野球を続けるか、引退するかの2択を考えていました。いまはNPB以外にも独立リーグなどがありますから、そちらで野球を続けるか、野球から離れるか。いろいろ考えているうちに、自分は野球以外の道を選んだほうが充実した人生を送れるかな? と気持ちが変わってきたんです」

 

 プロ野球選手の引退後というと、球団監督やコーチ、実況解説者などの道もあるだろう。もっとも多いのは球団職員になるケースだが、それを含めてもプロ野球に関係する職に就けるのは、引退した選手の2割程度だという。ということは、戦力外通告を受ける選手約100人のうち、毎年80人近い選手が野球以外の世界に飛び込んでいるわけだ。

 しかし、ホークスには選手たちのセカンドキャリアのためのセーフティネットが用意されている。オーナーの孫正義氏の方針で、戦力外通告を受けた選手をソフトバンクグループで採用する仕組みがあるのだ。2019年には「AcroBats」というアスリートのセカンドキャリアサポートを行う会社まで設立しているほどだ。

 

 「自分の担当者までいて、そこでいったんはソフトバンク本社での勤務を希望して会社見学の日取りまで決めていました。とはいえ、名刺の渡し方や電話の出方など、社会人の一般常識も知らないわけですから、不安でいっぱいでした」

 

 そんなある日、ロッカーに入っていたチラシに目が止まった。それは國學院大學と日本プロ野球選手会が締結している「セカンドキャリア特別選考入試」に関するお知らせだった。國學院大學は野球をはじめ、陸上や駅伝、サッカー、バスケなどで数多くのアスリートを輩出している。そうしたことからアスリートのセカンドキャリア問題にも積極的に関わり、すでにJリーグとも同様の協定を締結している。幸山さんが目にしたのは、引退後の選手が、入学金と年間学費相当の奨学金を給付してもらい、同学の人間開発学部健康体育学科で学べるという入試制度の案内だった。この制度を利用して就学すれば、中学・高校の保健体育教員免許や、小学校の教員免許を取得することができる。

 

 「このお知らせを見たときにもう一つの道、“学ぶ”があることを知ったんです。人間開発学部健康体育学科でどんなことが学べるのかを調べてみると、保健体育を中心に栄養など、興味のある事柄が並んでいました。そこでもう一度“働く”と“学ぶ”を天秤にかけて考えてみると、学ぶ方のウエイトが大きくなってきたんです」

 

 幸山さんは、ソフトバンク本社での勤務を希望していた。そこには、きっと大学を卒業して入社してきた同年代の優秀な人たちがいるはずだと思ったという。

 

 「いざ働きだしても、その人たちの陰に隠れて活躍できなかったら嫌だな……という気持ちと、一方でいや、やってみたら意外にいけるかもしれないという気持ちがありました。しかし、デジタルについては圧倒的に差がついているんですよね。彼らはパソコンを普通に使えるだろうけど、僕はまったく使えませんでしたから」

 給付金で入学金や学費相当分をカバーできるという点にも惹かれた。大学に入れたとしても、学費や生活費をこれまでの貯蓄でまかなってしまうと、卒業後のライフプランに影響すると思ったからだ。

 その後、“働く”と“学ぶ”を天秤にかけ、幸山さんは大学進学という道を選んだ。考えたのは、教員免許を取得し、故郷・富山の高校で野球部の監督になること。ちなみに、プロ野球を引退した選手は、学生野球の指導ができないという規定がある。そのため、学校教員として2年以上勤務しないと学生野球の指導をすることはできなかった。ただし現在は、「学生野球資格回復制度」による研修を受けたのち、学生野球資格回復審査委員会から認定されれば指導を行うことができる。

 ただ、認定を受けたとしても立場としては外部の指導者として委託という形になるので、長期にわたる指導ができるかどうかは不確定だ。教員であれば、その学校に所属しているわけだから、監督として長く指導にあたることができる。幸山さんは安定して指導ができる教員となる道を目指すことにした。

 

大学での学びは刺激だらけ

 大学での授業が始まった。

 「これが、高校での授業とはまったく違って、おもしろくて毎日が刺激だらけでした。高校では先生の話や板書をノートに写すだけのことが多かったけど、大学の授業はディスカッション中心。何か課題を出されて『それについてどう思う?』と問われて、自分の意見を主張する。それだけじゃなく、また別の意見が出てきたときに、相手の話をしっかり聞いた上でまた意見を返す……。

 たとえば『保健体育の授業をやるとして、良い授業ってどんな内容?』という問いが出されたとします。一人が『楽しくワイワイ盛り上がって、うるさいけど生徒が主体の授業がいいと思う』という意見を出した次に、『いや、もっと先生が主導しておごそかな雰囲気じゃないとだめだ』という意見が出て、それについて次々意見を言い合うとか。結局、正解はないんです。自分の中にある正解と人の正解をぶつけ合って、新しい答えを見出すような、そういうやり取りがとにかく刺激的でしたね。

 僕は運動が得意だったので、僕が考える授業は運動のできる子にはおもしろいかもしれない。しかし、できない子にはどうなんだろう? と。そんなときに、授業でほかの人の提案を聞くのは目からウロコでした。なるほど、そういう考えもあるな! とうなったりもしました」

 

 100人いれば、100人の価値観がある。100人の意見を聞ける機会はそうそうない。大学での日々は、幸山さんにとって経験したことがない刺激的な日々だった。しかし同じ机を囲むのは18歳の青年たちで、ほとんどが4歳下である。そこにギャップはなかったのだろうか。

 

 「いや全然なかったですね。もちろん僕の経歴が特殊なので、入学当初『プロ野球選手だったんですか?』と聞かれたことはありましたけど。すぐにほかの学生となじみました。浮いていたとしたら体格だけかな?(幸山さんの身長は2m近い)」

 

 4年の学生生活は過ぎていき、次の進路を考える時期がやってきた。この頃、幸山さんの中には最初に考えていた方向とはまた違う考えが芽生え始めていた。

 

 

幸山一大(こうやま・かずひろ)

1996年富山県生まれ。富山第一高校では2年秋から4番・レフトとして県大会優勝、第49回全国高等学校野球選手権では富山県出場校として40年ぶりにベスト8進出を果たす。2014年育成ドラフト1位で福岡ソフトバンクホークス入団。2018年引退。2019年、國學院大學人間開発学部健康体育学科入学、2023年卒業予定。

 

取材・文:有川美紀子 撮影:庄司直人 編集:篠宮奈々子(DECO) 企画制作:國學院大學

 

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