山形県小国町のど田舎に育った母は、歯医者に通うために片道二時間を雪の中歩いた。今思えば相当な苦労でも「そういうものだと思っていた」ため、苦労を苦労とも思わず受け入れた。母は五人兄弟の四番目で、兄が二人、姉と妹が一人ずついる。小学生になれば立派な労働力。背負子に荷物を括り付けて売り歩いたり、田植えや稲刈りの時期は学校を休む。苦労人の母一族は、貧乏人だがよく笑う。明るく元気で活発で「海女さんもこんな感じだったのかな」と思う。海に潜る代わりに山に潜り、山菜を狩る。

家のローンと子育てから解放された母の現在の趣味はパチンコと麻雀とボーリングで、パチンコ屋は社交の場と化している。母が行くと、八十歳を超えたおばあちゃんが「待ってたよ」と声をかけてくれる。勝てば「すごいね」と褒めてくれるし、負ければ「そんな日もあるさ」と慰めてくれる。旦那と一緒にパチンコに来る奥様からは「これをあげる」と、毎回何かをもらう。悪く言われることの多いパチンコ屋だが、一円パチンコだったら安いお金で長い時間を遊ぶことができる。友達や知り合いも増える。パチンコのために外に出る。体を動かす。帰り道にスーパーに立ち寄って、買い物を済ませる。

母の兄は長い間音信不通だったが、先日、死亡通知が届いた。父の弟も長い間音信不通だったが、少し前、死亡通知が届いた。彼らは一様に自由に生き、人知れず生き、人知れず死んだ。生活保護を受け、刑務所にも入り、身元引受人として父や母に負担を強いた。母の兄や父の弟の話を聞くたびに「俺と似ている」と思った。兄弟がたくさんいると、一人くらいは必ずバグる。私は三人兄弟の末っ子で、姉も兄も結婚をしている。母は言った。私は、いつ死んでもいいと思っているよ。香織（姉）には旦那さんがいるし、真吾（兄）にはお嫁さんがいるし、思い残すことは何もない、と。私は「圭吾（私）はどうなったのかな？」と思ったが、耐えた。

高校時代にアルバイトで百万円を貯めて、実家の新潟を離れた。さくらももこが「漫画家になるために百万円貯めた」とエッセイに書いていたものを読み、感銘を受けて、私も真似た。夢があったわけではなかった。ただ、一人で生きていけるようにならなければという、焦燥感に似た義務感があった。何かをしなければならない。だが、何をしたらいいかわからない。現実に飽き足らず、自分に飽き足らず、持て余した生命力を何にぶつけたらいいのかがわからず、横浜から新潟まで歩いて帰った。初日は横浜から上野まで四十キロ歩き、翌日上野から大宮まで三十キロ歩き、大宮に着いた瞬間に「やってられるか」となって上越新幹線に飛び乗った。

新潟を離れる時、父が、駅や空港まで車で運んでくれる。語るともなく車内で語り、労うでもなく互いを労い、車を降りて、別れを告げる。父が「じゃあな」と言う。私は「じゃあね」と言う。ドアを閉める。次の目的地に歩き出す。途中、車の方を振り返ると、父はもういない。一切の名残を残さず、見送りなんて当然しないで、ただ、前だけを向いて車を走らせる。言葉もない。笑顔もない。優しい眼差しなんてものもない。余韻なんて優雅なものは、坂爪家には存在しない。一般的に言われている優しさは、坂爪家にはない。ただ、全員、やりたいようにやっている。南国には南国の良さが、北国には北国の良さがある。私は「優しくないから優しいね」と思う。寒い国の魚は美味い。坂爪家の優しさは、寒ぶりのように引き締まっている。