知的コンプレックスの不思議
石丸伸二を巡るヒステリーの本質は、人間の知的コンプレックスである。ここでは、石丸伸二が本当に頭脳明晰か、ということは深く問わない。むしろたいして優秀でもあるまいが、なぜか知的コンプレックスを刺激されている人が多いのである。勉強ができると異性にモテるかというと、それはないし、容姿や運動能力に比べると、知性は独特な立ち位置である。野性から知性へと社会化されていくのが人間だとすれば、後半生になって文明化してから欲しいと思うのかもしれないが、人生の前半においては知性などなくても構わない。人間が20歳で死ぬなら知性はなくて差し支えない。いわゆる教育ママも、要するに人生の後半だから偏差値とかに憧れるのであり、若い頃はガリ勉男子など嫌いだったに違いない。この文明社会において、あとから知性が欲しくなる人間の醜さが、石丸への憎しみとなっているのである。宮根誠司が「自分は頭が悪いので」と石丸に言っていたのは、とても不愉快であった。頭が悪いのに司会業をするのはやめてほしい。宮根誠司のような猿が文明社会を享楽し、猿なりに猿のレベルで思う存分楽しんだはずだが、それでも物足りなさがあるのだろうか。石丸伸二が「人間らしさ」に欠けていても、宮根誠司のような原始人の馴れ合いよりはまだマシだ。知性の低さへの甘えが蔓延しており、石丸はトリックスターとして現れたように思える。たとえば容姿などは動かしがたいように見えて、生まれ変わったら別の外見かもしれないし、それに対して、知性だけは、それこそ本当の自分で変わらないかもしれない。もちろん生まれ変わりなどないけれども、知性は生まれ変わっても変わらないから、「自分は誰なのか」という点において、交換不能な核なのかもしれないし、この俗世において、容姿などに比べたら些細な問題に思えても、なにか特別枠のコンプレックスかもしれない。