私は、いじめに苦しんでいる人を、ほったらかしにすることはできません。
ほったらかしにしたら、誇りを失ってしまうからです。
しかし、そんな私も、一度だけ、見て見ぬふりをして通り過ぎたことがあります。
娘が産まれたばかりの時でした。
そして、その結果、「自分はなんて卑しい人間なんだ」という気持ちでいっぱいになり、思い出すたびに自信を失っていきました。
もう、あんな思いはしたくありません。
ですから、今回も「何としても止める」という気持ちで戦っています。
しかし、こういう信念を持っていると、やはり生き辛い。
当然です。
見て見ぬふりをする人間たちを「卑しい人間」だと思って、軽蔑しているのですから。
しかし、どんな社会においても、そういう人の方が圧倒的に多く、長生きで、大きな集団の権力を握る機会に恵まれている。
だから、卑しさを嫌う私は、組織ではうまくいかない。
どこかで卑しい人間と衝突することになる運命なんです。
そして、小さく勝っても、大きく勝っても、脅威だと思われて、不公平を望む権力者に潰されてしまう。
いつも同じです。
成長がないと思われる人もいるかも知れませんが、信念なのですから、変わる筈がありません。
そんな人間が、生きづらさを、少しでも解消していこうと思ったら、一匹狼になるか、小さい集団のリーダーになるしかない。
ですから、そういう感じで収まっているのでしょうが、それでも、卑しい人間たちが作った大きな社会の中で生きていかなければならないから、結局は生き辛い。
この生きづらさを完全に解消する方法は知っています。
目を閉じてしまえば良い。
目を閉じて、そのまま開けなければ、生きづらさは感じません。
だけど、私は、娘の成長を見ていたい。
そして、当然幸せになることを願っています。
そう言うと「お前がそんな生きづらさを抱えていたら、娘もそうなってしまうんじゃないか?」と言われるかも知れません。
私自身、寝室の天井を見上げながら、何度もその問いにぶつかってきました。
しかし、その答えはいつも「だったら、俺が、この状況を変えて、問題を解消してやる」というぶっ飛んだものでした。
現実逃避をしているつもりはないんですけどね。
変えなければ、私の血を引く娘が、同じような生きづらさを感じるかも知れない。
変えなければ、娘が深刻ないじめ被害に遭うかも知れない。
そう思うから、いつも、同じ答えになるんです。
どんな場所にも、いじめはありますから。
そうは言っても、心も脳みそも、もうボロボロです。
そりゃそうです。
ネガティブな感情を持った人とばかり向き合ってきたのですから。
彼女たちが吐き出したものを飲み込み続けていれば、おかしくなっていくのは当然です。
自分は一つも悪くないと言って憚らない他責タイプの自死事案は、もう地獄です。
口先ばかりの後悔や反省を述べて、突然豹変するタイプは、もっと地獄です。
慰めるよりも、ひたすら飲み込み続けることが求められるので、通話が終わると、表情が死んでいるそうです。
そして、人生の半分以上、ドーパミン過多。
そういう自覚もあるので、目をかっぴらいて「変えてやる!」という気持ちを復活させるときは、もう命がけです。
寿命を前借りしているような感覚でしょうか。
でも、きっと、あなたの記憶には残る。
いや、もう残した。
卑しい奴らが、卑しい奴らとその子供たちだけの為に作った仕組みは変えられないけれど、その仕組みの中で生きている、私と同じような感覚を持った一部の人たちの記憶には残った。
だから、いつかきっと、何処かで花を咲かせる。
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