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ダグラス・ジェネルベフトと7人の暗殺者 作者:cleemy desu wayo
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6/6

土曜日

 ちょっとウトウトしていたが、まだ5時半。


 机の上には、開いた状態のガラケー。


 スマホのない朝。


 私のスマホはここから遠く離れたところにある。

 あれから場所が変わっていなければ、今も学校の近くのはず。

 たぶん今日も私は学校には行かないのだろう。

 でも学校の近くには、行く必要があったりするのかもしれない。


 私は机の上のガラケーを見つめる。


 このガラケーは通話とSMSショートメッセージのみの契約だった。

 そして、ある時期からカメラが壊れていた。

 だから、通話の履歴りれきとSMSの履歴だけしか残っていない。


 私は保存されていたメッセージを読み返してみる。

 メッセージのほとんどは、まゆみからのものだ。


「もうおんで。ていうか起きてる?」


 これは待ち合わせの時だろうか。

 どういう待ち合わせだったのだろう。

 たいてい、まゆみは早めに来てもそのことは私には言わないし、私が遅れても勝手に見切りをつけていなくなる。


「ごめんふたつしかない」


 これはどういう状況の時か思い出せない。

 もっと古いメッセージも残っているだろうか。


「あのエスカレーターなあ。4時台がな。朝の5時になる前がええねん。私の場合、梅田に来るんやったらな、阪急(はんきゅう)のほうで始発で出るとな、5時になる前にあのエスカレーターんとこに来れんねん」


 これが一番、古いメッセージ。


 あのエスカレーターについての話だ。

 いつか4時台に行ってみようと思って、このメッセージを保存しておいたのだった。


 まゆみの家に泊まって始発で出たら、私も5時になる前にあの場所に行けるということになる。


 中学のころは、まゆみの返信が遅いのは私がガラケーなせいかもしれないと思っていた。アプリでのメッセージのやりとりなら、もっと早いのかもしれないと。でも高校になって私がスマホを持ってみて、そういうわけではないらしいことが分かった。


 私はパソコンのマウスを指でつっつく。

 スクリーンセーバーが終了し、ウトウトし始める前の画面になる。

 私は書きかけのメールの編集画面を閉じて、ニュースをチェックしてみる。


 動きがあったようだ。


 タイダル・カテドラルが奇妙な特設とくせつサイトをオープンしたことが話題になっている。


 YKDGの会長はまだこの特設サイトについて、何も反応していない。

 会長の最後の発信は、Twitter(ツイッター)における「逃げることができる人は逃げてほしい。逃げることが可能なのは不幸中の幸いだ。」という内容のものが最後である。


 この特設サイトのミラーサイトについては早速用意されている。

 こういう時には、タイダル・カテドラルが用意したサーバーに直接アクセスしなくてすむように、まったく同じ内容のサイト、つまりミラーサイトがYKDGによって作成されるのが通例だ。

 訴訟そしょうを避けるために、ミラーサイト運営にはYKDGは関わっていないことになっている。


 私は久々にTor(トーア) Browser(・ブラウザー)を起動する。

 そしてミラーサイトのほうにTor Browser経由でアクセスを試みる。


 特設サイトに書かれたタイダル・カテドラルの新しい主張。

 それによると、レアではあるが「スターバースト型ジェネルベフト」と「カマイタチ型ジェネルベフト」という新しいタイプが見つかったのだという。

 これらは、それぞれ500人に1人程度存在するという。


 つまり、従来からタイダル・カテドラルが主張していたように、「UVユーブイレジン型ジェネルベフト」、「硬化促進剤こうかそくしんざい型ジェネルベフト」、「インパクトドライバー型ジェネルベフト」、「有孔ゆうこうボード型ジェネルベフト」という4つに分類するのではなく、これに今回見つかった新しい2つを加えて6つに分類するのが妥当だとうであることが分かった、としている。


 この新しい類型である「スターバースト型ジェネルベフト」と「カマイタチ型ジェネルベフト」は、人類の歴史において要所要所で極めて重要な役割を果たしてきたのだという。

 例えば、新約聖書にある様々な記述から、イエス・キリストは「スターバースト型ジェネルベフト」だった可能性が極めて高いとし、新約聖書のどの部分に「スターバースト型ジェネルベフト」らしさがあるのかということについて、特設サイトで詳細に解説している。


 タイダル・カテドラルによる新しい主張は、この5つめと6つめの類型が登場したことだけではない。

 実質的には、7つめの類型が存在しているということが示唆(しさ)されている。


 そしてこの7つめに関しての主張は、輪をかけて異様である。


 基本的にはジェネルベフト型の性格は6つに分類できるのだという発想を新しいスタンダードとして定着させようとしているようだ。

 しかし、ジェネルベフト型の性格でありながら、この6つのどれにも分類できない人がごくごくまれに誕生するのだという。


 そのまれな存在は「ジェネルベフト型ジェネルベフト」と呼ぶべきなのだそうだ。


 これは文字通り、ジェネルベフトの中のジェネルベフトであり、極めて貴重な存在なのだという。このジェネルベフト型ジェネルベフトこそが、人類の至高の存在であり、生物としての究極の形態でもあるのだという。


 ジェネルベフト型ジェネルベフトは、もはや「レア」などという言葉で言い表せられないほどレアなのだそうだ。およそ26000年おきに地球上にたった一人だけ誕生するという存在であり、地球上の人類だけでなく、この宇宙のすべての知性体を導いていく存在なのだそうだ。


 様々な考古学的痕跡(こんせき)から、前回この地球上にジェネルベフト型ジェネルベフトが誕生してから25500年から26500年程度の年月が経っており、ジェネルベフト型ジェネルベフトはいつ誕生してもおかしくない状況なのだという。

 というより、すでに誕生はしているが発見がなされていないだけである可能性が極めて高いのだという。


 そして、今のこの地球上にいるかもしれないジェネルベフト型ジェネルベフトを探し出すのが人類にとっての急務であり、その探索たんさく活動をタイダル・カテドラルが力強く主導していくのだ、と高らかに宣言している。


 また、こういった探索たんさくには犠牲ぎせいがつきものなのだ、という言い方もしている。


 このジェネルベフト型ジェネルベフトを探し出すための基地をつくり、そこで共同生活をおくるという計画もあるようだ。

 その基地には、「ジェネルベフトスコア」が40万を超えている人のみが入ることができるという、高いハードルが設定されている。

 単に居住が許されるためのハードルというわけではなく、条件を満たさないと出入り自体ができないらしい。


 ジェネルベフトスコアとは、タイダル・カテドラルが独自に設定したスコアリングのシステムである。

 ジェネルベフト型の性格の理解度や、ジェネルベフト型性格という概念がいねんを世の中に広めるのにどの程度貢献(こうけん)したか、また、そういう貢献をするのにどれくらいふさわしい人物であるのか、といったことを示す指標だということになっている。

 当然ながら、新しい会員をたくさん勧誘することに成功し続けている人はジェネルベフトスコアがぐんぐん上昇する。

 また「カルチベーション」と呼ばれる様々な活動にによっても上昇する。タイダル・カテドラル日本法人では、これを「修養しゅうよう」と呼んでいる。

 ちなみに、タイダル・カテドラル関連団体に単純に現金を送金するだけでもジェネルベフトスコアは上昇する。


 当然ながらYKDGは、このジェネルベフトスコアという概念がいねんがジェネルベフト型の性格についての議論を大きくゆがめるものだとして、一貫して批判し続けている。


 それにしても、だ。


 この新しい基地というのは、一体どこにつくるつもりなのだろうか。


 もしかして、日本なのだろうか。


 この40万という数字。これがどの程度のものなのかは、私にはよく分からない。

 ただ、これがかなり高いハードルであることは分かる。ほとんどの人は、数千から数万程度だとされているからだ。


 今までに最も高いジェネルベフトスコアは約7800万で、若いインドネシア人である。

 ただしこのインドネシア人は、ジェネルベフトスコアを効率よく上昇させる手法の開発に熱中していたことを自分で暴露ばくろし、タイダル・カテドラルから完全に離脱した。


 単に運動をすることもタイダル・カテドラル的には「修養(しゅうよう)」なのだが、ジェネルベフトスコアの上昇につなげるためには実際に運動したことの証明が必要である。

 そこで、スマホ犬にをくくりつけて放すと運動したとみなされるという手法を思いついたのがこのインドネシア人である。

 彼は4匹の犬をうまく使い分け、毎日8時間以上も運動していることになっていたそうだ。


「あれはスコアが7800万を超えた翌日でした。うちの犬が野良猫を追いかけ回しているのを見て、もうこんなことはやめようと思ったんです。スマホを犬にくくりつけるのとジェネルベフト型の性格と何の関係があるんだろうって。勧誘のために、友達もたくさん失って。一日中、SNSにジェネルベフト型の性格のことを投稿して。こんなにずっといろんな活動をしているのに、ジェネルベフト型の性格というのが一体どういうものなのか、そもそも自分がなぜジェネルベフト型の性格に関心を持ったのか、どんどん分からなくなっていくんです」


 彼の暴露(ばくろ)は日本ではさほど大きな話題にはならなかったが、インドネシアでの成功をイスラム圏や東南アジアでの影響力拡大のための取っかかりにしようとしていたタイダル・カテドラルにとっては大きな痛手となった。


 ジェネルベフトスコアが高いと利益配分で有利になるため、このインドネシア人には日本円換算(かんさん)で1億円以上の貯金があった。だが離脱と同時にその半分以上をYKDGに寄付したとされている。


 なお、現在は単に運動するだけでジェネルベフトスコアが上昇したりしないようになっているが、ジェネルベフトスコアのシステム自体は残り続けている。

 最近ではAIなどによってSNSの書き込みを評価するシステムがあり、ジェネルベフト型の性格について継続的に自分のアカウントで発信しつつ、タイダル・カテドラル以外の団体やYKDGのような反対者たちがいかに信用できない存在であるのかをさりげなく書いたりすると、ジェネルベフトスコアが上昇しやすいらしい。

 ただし、あまりに分かりにくい書き方や皮肉などを交えると、AIが誤読ごどくすることが知られている。

 つまり、めるべき対象をけなしていると誤認したり、けなすべき対象を褒めていると誤認したりするのである。

 このため、AIが誤読しないような書き方のマニュアルなども出回っている。タイダル・カテドラルの信奉者(しんぽうしゃ)たちは、たとえ生成AIをまったく使用していなかったとしても、みな似たような言い回しでの称賛あるいは批判をすることが多い。


 なお、高いジェネルベフトスコアの持ち主は、「ジェネルベフトセレブ」と呼ばれることもある。

 こういう言い方が定着することによって、ジェネルベフト型の性格に関心を持つ人はお金持ちになりたい人なのだと誤解する人が増えるため、YKDGは「ジェネルベフトセレブ」という言葉を使うのを控えるように呼びかけている。


 数年前にタイダル・カテドラルが日本に進出したころには、ニセの日本人セレブの存在が話題になったこともあった。


 この人物は、下着の色が白の日本人はジェネルベフトスコアが上昇しやすいという嘘の情報を流し、真っ白な下着を着用した姿を毎日SNSにアップすると良いのだ、などと主張していた。

 これにより、ニセ情報を信じた日本人の会員が本当に下着姿をアップする事態となり、ちょっとした騒ぎになった。

 ただし、実際に下着姿をアップしていたのはニセ情報を信じた人ではなく、単にふざけてやっていただけなのではないかとする説もある。


 なお、YKDG会長はこの時にTwitter(ツイッター)上で、このニセ情報の蔓延(まんえん)に加担してしまったことがある。これがニセ情報だとは気づかなかったアメリカ人によるタイダル・カテドラル日本法人の方針を批判したツイートを、リツイートによって拡散してしまったのだ。


 今回タイダル・カテドラルが作成した特設(とくせつ)サイトについても、「ジェネルベフトセレブ」と呼ばれているような人々は一斉に似たような言葉で好意的に取り上げている。

 タイダル・カテドラルが何か大きなアクションを起こした際には、SNSで素早く肯定こうてい的に取り上げるとジェネルベフトスコアが上昇しやすいとされているからである。


 今回の特設サイトは、コンテンツとしてはかなり充実している。

 英語や日本語だけでなく16の言語に切り替えられるようになっており、イラストや動画などもふんだんに使われている。

 この一週間で大急ぎで作成したようなものではなく、以前から計画があったのは間違いない。


 特設サイトにはクジラのことは一切書かれていないように見える。


 だが、これからクジラとからめるつもりなのかもしれない。

 なんせタイダル・カテドラルは、あのクジラこそがダグラス・ジェネルベフト本人であると主張しているのだ。


 もしかしたら、「ジェネルベフト型ジェネルベフト」を探し出すための基地とやらは、あのクジラの場所の近くに建設するつもりなのかもしれない。


 そうなると、学校のすぐ近くにそのような不気味な拠点ができることになる。

 うちの学校の教師たちは、どの程度まで状況を正しく認識しているのだろうか。


 私は再び、机の上のガラケーに目を移す。


 私のスマホはなぜ、クジラの近くにあるのだろう。


 以前からタイダル・カテドラルの拠点きょてんだった場所なのか?

 あるいは、クジラの近くにオフィスを急遽きゅうきょ確保したということなのかもしれない。

 例えば火曜日あたりから探し始めて、金曜日の朝に契約が完了した、みたいなことなら十分ありえそうだ。


 昨日、ヨドバシカメラの近くで遭遇したあの車。

 側面に「TIDAL CATHEDRAL」と書かれた、あの車。

 あの車は一体、なんだったのだろう。


 私は車の形状について検索する。

 ああいう形状の車をなんと呼ぶのか分からなかったが、ようやく分かった。

 ステーションワゴンだ。

 車のナンバーは覚えている。レンタカーではない。

 あの車の中に、今も私のスマホはあるのだろうか。


 Twitter(ツイッター)上でのタイダル・カテドラルの日本法人公式アカウントを見てみる。


「ジェネルベフト型ジェネルベフトについての、7つの真実。

 その1。

 誰もが、ジェネルベフト型ジェネルベフトになれる可能性がある。」


 このツイートが最後になっている。


 そうだ。メールを送ろう。

 やっぱり今、だちゅらさんにメールしておこう。


 小学校時代の服を処分したいという、だちゅらさん。

 たぶん、私も。処分する時なのだ。小学校時代の服。

 あの店に、売りに行くのだ。

 きっと今は、そういうタイミングなのだ。


「古着、今日、売りにいきます?

 私も売ろうと思ってまして」


 2行だけのメール。

 ようやく、だちゅらさんにメールを送ることができた。

 ああ、やっとだ。最初からこうしておけばよかった。


 私はメールを送信してから、クジラのニュースをチェックし始める。

 クジラ関連については、大きな動きはないようにも見える。

 ただし、周囲の柵が完成してクジラには簡単に近づけなくなったという変化はあるようだ。


 本来なら今日の午前中に柵がつくられる予定だったが、夜間のうちにつくられたようだ。

 なぜ柵をつくる作業の予定が早まったのかは公表されていない。

 SNSでは、「やはりあれはクジラの死体ではなかったのだ」と考える人が増加している。

 夜間のうちにクジラの近くまで見物に行った人の中には、警備けいびの数があまりにも多すぎて不自然だと言う人もいる。この警備というのが、制服警官なのか、民間の警備会社の警備員なのかは分からない。

 自衛隊の目撃情報もあるようだ。


 また、駅の近くで2人組の私服警官に職務質問しょくむしつもんされたという書き込みもある。「駅の近く」というのは、うちの学校の最寄り駅だろうか。阪急(はんきゅう)のほうだろうか、JRのほうだろうか。


 私は過去のクジラの死体の事例について調べる。

 メタンガスが蓄積(ちくせき)して自然に爆発する前に、人為的に爆発させたこともある、クジラの死体。

 1970年にアメリカのオレゴン州でダイナマイトを使って人為的に爆発させたケースでは、400メートル離れたところにあった車に巨大な肉片が落下した。


 なるほど、400メートル。


 巨大な肉片。


 もうちょっと遠くまで飛んでくれれば、学校に届くだろうか。


 この時の400メートルというのは、落下してきた肉片によって破壊された車が置かれていた駐車場が、クジラから400メートル離れていたというだけのようだ。

 それはつまり、400メートル以上飛んだ肉片だって、もしかしたらあったのかもしれないということだ。


 私はダグラス・ジェネルベフトが三重県で爆破したとされる車のことを考える。


 あの車があった場所は、海からは離れている。

 でも海が見える場所ではあった。

 姿を消すまでのしばらくの間、ダグラス・ジェネルベフトは車の中で寝泊まりしていたとされる。


 おそらくダグラス・ジェネルベフトは、見たはずなのだ。

 あの場所から見える海を。

 いや、私はあの車があった場所に行ったわけではないのだが。


 いずれにせよ、ダグラス・ジェネルベフトとしての自分の歴史を終わらせる場所は、海が見えるような場所である必要があったのではないのか。


 今回のあのクジラがダグラス・ジェネルベフト本人だと考えるのは、さすがに馬鹿げている。でもクジラを運んだのがダグラス・ジェネルベフトだったとすると?

 イースター島のモアイ像だって、どうやって運んだのかは謎とされているではないか。原始的な方法で巨大な物体を運ぶ方法は、実はそれなりにいろいろとあるのではないか。


 何のために、というのはよく分からない。

 でも、もしダグラス・ジェネルベフトがクジラを運んだのだとすると、やはり今回のあのクジラの場所というのは、海が見える場所なのではないだろうか。


 そうだ。

 クジラの場所から海が見えるのか、見えないのか。

 これはとても重要なのだ。

 どうしてこんな重要なことに気づかなかったのだろう。


 今のところ、この点について言及している書き込みは見当たらない。

 まゆみはクジラを見に行ったのだから、まゆみなら分かるかもしれない。


 私はあらためて周辺の地図を確認する。


 あのクジラから学校まで、直線距離ではちょうど400メートルぐらい。


 もしあのクジラの死体を授業中に爆発させることができれば、うちの学校の授業中にクジラの肉片が降り注ぐ状況をつくりだせるということなのだろうか。

 そして、教師が通勤に使っている車にうまく巨大な肉片が落下してくれれば、破壊することもできるかもしれない。

 爆発の瞬間に私が学校にいなかったら、私が怪しまれるだろうか。

 あるいは、こういうのはどうだろう。爆薬のセッティングは深夜のうちに済ませておいて、私は何食わぬ顔で登校し、授業を受ける。そして教室にいながら遠隔操作で爆発させる。これもいいかもしれない。

 遠隔操作であれば、ケガ人が出ないよう、屋外に出ている人が少ないタイミングを狙って爆破させるといった配慮はいりょも可能になるかもしれない。

 ただし、学校の敷地外における人々の外出状況などは、学校の中にいるとかえって把握はあくしづらいかもしれない。メリット・デメリットをよく吟味ぎんみする必要はありそうだ。


 でも深夜にセッティングするとなると、日曜の夜だろうか。そして月曜に決行ということになるのか。そもそも、日曜にそんなことが可能だろうか。もうそろそろ、タイダル・カテドラルが何か大きなアクションを起こして、状況が大きく変わってしまうかもしれない。


 私は5日前の月曜日の朝からのことを考える。


 そもそも、クジラの死体がなぜあんな場所に?


 どうして、学校のすぐ裏?


 ふと、だりあの顔が頭に浮かぶ。


 もし、クジラをあの場所に運んだのが、だりあだったのだとしたら。


 高校生のだりあが、あんなものをどうやって運んだのかは分からない。

 あんな漫画を描くだりあのことだ。何か、想像もつかないような方法。それはおそらく、極秘というより、人類史上で誰も思いつかなかった方法。もしかすると、一年前からずっと計画していたのかもしれない。

 他の学年なら、もうだりあの顔を思い出せない生徒もいるだろう。


 そうだ。ずっと学校にいない理由は、顔を忘れられるためだったのだとしたら。


 だりあがクジラを運んだのだとしたら、もうだりあは再び、ひたすら目立たないように振る舞い続けるしかないのかもしれない。


 そうだ、これは……


 だりあからのロングパスではないのか。


 私がどこかから爆薬を調達することを期待しているのではないのか。


 もちろん、こんな計画があることは、私は知らされていない。

 でもあらかじめ話し合ってしまうと、共犯ということになる。

 私はだりあからのメッセージを適切に読み取らなければならないのではないか。

 あるいは、だりあの漫画の中に何らかのヒントが隠されていた可能性もある。


 そう、だりあは、死体を運んだだけ。

 そして私は、死体を爆発させただけ。

 それぞれが、勝手にやったこと。


 あ、だちゅらさんからだ。


 さっき私が送ったメールへの返信だ。


「だりあが、いない」


 えーと。

 えっ? だりあが。

 うん。そうだ。ずっと、だりあはいない。


 いや違う。

 だりあは学校に来ていないだけだ。

 だちゅらさんは、毎日家でだりあと顔をあわせていたのだ。

 そのだりあが今朝、家にはいない、ということだ。


 詳しく聞いてみようと思ってまたメールすると、すぐに返信。

 何度かやりとりして、状況が見えてきた。


 だちゅらさんは、この24時間近くだりあの姿を見ていない。

 普段、だりあは出かけるとしても、たいていは1時間もせずに戻ってくる。

 今回、いないことに気づいたのは深夜の1時ごろで、だちゅらさんが自分のイラストをアップしたあと、他のユーザーが投稿したイラストをのんびりチェックしていた時。

 両親は木曜の夜から海外旅行中で、家にはだりあとだちゅらさんの2人だけ。

 だりあがいないことは、まだ両親には話していない。


 金曜日の早朝、つまり今から24時間くらい前にシャワーを浴びたばかりのだりあと遭遇そうぐうし、それがだりあの姿を確認した最後のタイミング。

 早朝にシャワーを浴びること自体が珍しいが、まあそういう日もあるかと思って特に気に()めずにだちゅらさんは学校に向かった。


 イラストの仕上げに集中したかったので、学校から帰ってきてからは、だりあの様子を確認しようとは思わなかった。

 両親からは、だりあがちゃんとゴハンを食べてるか見といてねと言われていたものの、だりあからは、コンビニで適当に買うからかまわんといて、と言われていた。だから放っておいた。

 深夜の1時ごろ、つまり今から5時間くらい前になって、だりあが普段とは違う靴で出かけているらしいことに気づいたが、だちゅらさんが金曜日の夕方に学校から帰ってきてから誰かが玄関を出入りした気配はない。

 深夜の3時くらいから5時くらいまでだちゅらさんは寝ていたので、その間にだりあが帰ってきてまた出かけた可能性は、ありえなくはないとのこと。


 だいたい状況が分かったので、私はだちゅらさんに「ちょっと出かけます。しばらく返信が見れないかも」とだけメールして地下鉄の駅に向かう。

 公衆電話でまゆみに電話するためだ。


 今回は、まゆみはすぐに出た。

「聞いたっ?」

 勢いよくまゆみは質問してくる。

 一瞬、何の話か分からない。

「えっ? ええっと、あっ……えっ? だりあのこと?」

「そうそう。とりあえず、な。うん。どうしよっかな。エスカレーターじゃなくて……梅田うめだじゃなくてな。十三じゅうそうの駅の。ホームにしよ。あの、ステッカーが貼ってあったところ。一時間後とか、どう?」

「ああ、うん、ええよ」

「ほな」

「うん。ほな」


 まゆみがだちゅらさんからどこまで聞いたのかは分からないが、それはあとでゆっくり聞こう。

 私はいったん家に帰ってシャワーを浴びる。

 私服で行くべきかどうしようか、と少し迷って、結局制服を着て家を出る。

 でもカバンは学校のカバンではなくスポーツバッグ。

 そして地下鉄の駅のトイレで私服に着替えて、制服はむき出しのまま駅のコインロッカーに放り込む。


 駅のホームで電車を待っている時、もしかしてもうあの制服を着ることは二度とないのではないか、という考えが浮かぶ。


 こういう時はたいてい私は少し遅れて到着する。でも今日は早めに着いた。それでもまゆみは、私より先に着いていたようだ。まゆみは今日も私服。柱にもたれかかって、腕を組んで考え事をしている。

 その柱には、「YOU KILLED DOUGLAS GENELVEFT」のステッカーがまだ貼られている。まゆみはまるで私に気づいていないかのようでもあったので、私はとりあえずステッカーを()で始める。

 まゆみは私のほうを見ずに、前をじっと見()えたまま言う。

「だりあのこともあるけど。まず、スマホ奪還だっかんしとかへん?」

「えっ? ダッカン?」

「そう。なーむのスマホ。まあ、実際に奪還するかどうかは、行ってみて考える。どう?」

 ああ。奪還だっかん、か。

 本気で取り返すつもりなのか。

 まあ、うばわれたというわけではなくて、私が勝手に紙袋の中に(まぎ)れ込ませただけなのだが。

「なんか……もう。なんか、な。落とし物として、な。警察とな、ヨドバシカメラにな。届け出るのがええかなあ、とか。お店の中で落としましたって。もうそれがええかなって思っててんけど……」

「まあそうかもしれん。でもとりあえず、先にあの場所に行ってみいへん?」

「そうやなあ……えっ、あれからって。動きとか。ないやんな?」

「ないない。ないで」

 そう言って、まゆみはスマホの画面を私に見せる。

 私のスマホがある場所は、最後に見た時と同じ。

「その場所って……その場所ってな。だりあの家の近くとか、そういうわけではないやんな?」

「ああ、ちゃうちゃう。それはない。離れてんなあ。でも、まあ。歩いて行ける距離ではあんねんけど」


 私とまゆみはそのまま阪急(はんきゅう)で学校の近くへと向かう。

 電車の中でまゆみは、天気のことだとかクジラの柵のことだとか、いろんなことを話しかけてくる。でもずっと私はうわの空だ。

 電車に乗ってすぐ、実はだりあがタイダル・カテドラルを(あやつ)っているのではないだろうか、という考えが浮かんでしまったのだ。


 だりあは高校生にしてすでに莫大ばくだいな資産を持っていて、あのあたりのビルなどもすでに所有しているという可能性はないのだろうか。

 そのうちの一つを、タイダル・カテドラルの拠点きょてんにすることなど、たやすいことなのだとしたら。

 というより、もうあのあたりはタイダル・カテドラルの施設が多数あって、あの地域全体が世界でも有数のタイダル・カテドラルの拠点になるつつあるとしたら。

 もしかしたら、ジェネルベフト型ジェネルベフトを探すための基地とやらは、あのあたり全体がそうなる予定ということなのではないか。

 学校をのぞくほとんどの土地が、タイダル・カテドラルの基地になってしまったりする可能性もあったりしないだろうか。


 いや、違う。もしかして。


 うちの学校が、基地の一部になるのでは?


 実際にはもう、まゆみもタイダル・カテドラル側の人間なのかもしれない。

 昨日だって、タイダル・カテドラルの車に最初に気づいたのはまゆみだ。

 あの紙袋に私がスマホを入れるよう、まゆみが巧妙こうみょう誘導ゆうどうした可能性はないのか? 私は自分の意思でスマホを入れたつもりになっているが、実際のところはどうなのか?


 でも学校の最寄り駅に着いて電車を降りると、急に自分の考えがバカバカしいものに思えてくる。


 だりあがあんな不気味な組織を率いるわけがない。だりあが資産を持てば、もっと有益なことに使うだろう。


 遅刻してきた生徒と出くわすかもしれないと思って私は周囲を見てみるが、うちの学校の生徒らしき人は見当たらない。


「どうする? このまま、まっすぐ向かう?」

 まゆみは小さな声で聞く。

「そうやなあ……」私はそう答えながら、ルーズリーフに描かれた地図を取出して広げる。昨日、ネットカフェの中でまゆみのスマホの画面をもとに作成したもの。


「あっちょっ、待って」まゆみはそう言ってコインロッカーのある場所へ向かう。スマホをむき出しのままコインロッカーに入れる。そして慣れた手付きで100円玉を投入してカギを引き抜く。

「とりあえず私のスマホはここに置いとこう。なーむのスマホの場所は完全に頭に入ってるし」

「まあ……うん、そうやなあ。まゆみのスマホ、ここ置いとくデメリットとしては……」私はじっくり考えながら言う。「もし急に私のスマホの移動が始まっても、気づくことができんっていう」

「そうなるなあ」


 私とまゆみは無言で歩き始める。

 私は地図を何度も頭の中で思い描く。

 いまどのあたりだろう?

 こういう時、まゆみはあてにできる。

 でも少し気になって、途中で一度だけまた地図を取り出す。

 地図はすぐにポケットにしまう。


 見えてきた。あのビルだ。

 そしてビルの前には、昨日の車。

 間違いない。

 あの車だ。車のナンバーがまったく同じだ。

 そして車の側面には、たしかに「TIDAL CATHEDRAL」。

 ヨドバシカメラの紙袋らしきものがあるのも、外から見える。

 私のスマホごと、まだあの紙袋は車の中ということなのだろうか。

 ビルの斜め前には、小さな公園。地図で確認したとおり。

 ひとまず、この公園のベンチに2人並んで座る。

 私たち以外には、おそらく20代の若い母親と、5歳ぐらいの子供。子供は男の子だろうか、女の子だろうか。


 何の変哲もない土曜日。


 高校生が2人、小さな公園でくつろいでいる。ただそれだけ。


「タイダル・カテドラルの本社の上層部に出くわしたりして?」

 私は沈黙を破る。

 まゆみは私の目を見て、少し笑う。

「そうやなあ。恐悦至極きょうえつしごくでございますってわなあかんなあ。なんか昔、ゲームボーイの。あの。ほら。ゲームボーイアドバンスってあったん、分かる?」

「えっ、あああ……DSより前の」

 GBAか。実際に触ったことはないかもしれない。

「そうそうDSより前の。そのゲームボーイアドバンスのソフトでな、オープニングでな、恐悦至極きょうえつしごくって出てきて。まだ幼稚園とかやしな。最初に覚えた四字熟語がな、たぶん恐悦至極やねんよな」

「そうなんや」

「あっ! 恐悦至極きょうえつしごくに存じます、やったかな? まあどっちでもええわ」


 まゆみは急にビルのほうを見る。私もつられてビルの方向を見る。


 人だ。人が出てきた。


 まゆみは目を大きく見開いてこちらを見る。私は軽くうなずく。


 ビルから出てきたのは、おそらく日本人。20代か30代の男性。

 (あわ)ただしく車の運転席のドアを開ける。そして運転席にあったとおぼしきビニール袋のうちの一つを両手で抱えて、すぐに戻ろうとする。

 でもビルの入口付近で何かに気づいたのか、再び車のほうに戻ってくる。

 そして別のビニール袋を両手で抱え、今度はよく確認してから車のドアを閉める。


 その人がビルの中に戻ってからも、しばらく私とまゆみはずっと無言のまま、ビルのほうを見つめる。


「いまの人って。昨日の人とは(ちゃ)うなあ。車のキー持ってへん感じっぽいし、運転手ちゃうんやろなあ」まゆみはボソボソとつぶやく。

「車の中には、たいしたもん入ってへんから、どうでもええわって感じなんかな」

「どうやろ……これ……(わな)やったりして……」


 罠。


 ふだん現実主義的に見えることも多いまゆみの口から、罠という言葉。


 そうだ。そういう可能性も、よく考えておく必要はある。


 まゆみは突然立ち上がる。

「私は奪還(だっかん)は、せえへんで。とりあえず見てくるだけやで」

 私はまゆみのほうを見て、無言でうなずく。

「ついでにファクトチェックもしてきたるわ。なーむはそこ動かんとってや。あと、カバンみといてや。10分以内に戻ってくるから。30分たっても戻ってこんかったら、正午にJRの駅のほうで待ち合わせ、な。そのカバン持ってきといてな」

 そう言うとまゆみは歩き出す。

 いやいや、ちょっと待って。何をするって?

 公園から見ると、車は左の方向を向いている。

 こちらから近づいていけば、開けやすいのは助手席のほう。

 ほとんどまっすぐ、まゆみは助手席に向かう。

 歩きながら、まゆみは自分の服の(そで)を引っ張って、両手をともに()(そで)の状態にする。

 まゆみは車の中を軽くのぞきこむ。そして萌え袖のまま助手席のドアノブに手をかける。かすかに、ドアを開ける音。まゆみはこちらのほうは見ずに、空を見上げる。またすぐにドアノブのほうに顔を向ける。

 まゆみは、ほんの少しだけドアをあける。ドアのすき間から一瞬だけ中を見てすぐに閉める。

 控えめではあるが、ドアを閉める音はそれなりの大きさ。

 建物の中まで聞こえるだろうか。

 まゆみは、一度だけ深呼吸をする。

 そして堂々とビルの中に入っていく。


 なるほど。

 ()(そで)は、指紋がつかないようにするためか。

 まゆみの萌え袖はなかなかの破壊力があるが、思わぬところで実用的な側面もあるということか。


 しばらくすると、何食わぬ顔でまゆみはビルから出てくる。

 まゆみはビルから出てすぐ右に曲がる。ほんの少し顔を左に向ければ公園が視界に入るはずであることや、公園に私がいて待機していることや、そういったことはまったく知らないかのように足早に去ってゆく。


 そうか。遠回りして、またここに戻ってくるということか。

 まあ、昨日は私もそうしたしな。いったんヨドバシカメラの店内に入ったりしたんだった。


 さっきの若い母親と子供は、いつの間にか公園からいなくなっている。


 しばらく待ってみるが、まゆみは戻ってこない。

 もう10分経ったのではないだろうか。

 公園にずっと一人でいると、目立ってしまわないだろうか。

 あまりビルのほうをジロジロ見ていると怪しまれるだろうか。

 スマホでも操作していれば気が(まぎ)れるが、そのスマホはおそらくあの車の中。


 遠くで突然、ジャリッ、という砂の音。


 まゆみが後ろから近づいてきた。

 ビルがある場所とは反対側の入口からこの公園に入ってきたようだ。

 私を驚かせないように、わざと少し離れた場所で足音をさせたのかもしれない。

「入ってる会社のリスト」

 まゆみは私にレポート用紙を手渡して、またベンチに座る。

 5階建てのビルで、1階に1つの会社のようだ。

 知らない会社名ばかり。

 どれかがタイダル・カテドラル関連ということだろうか。

 あるいは全部かもしれない。

 「5階だけプレートが新しい」というメモ。

 私は小さな声で「5階だけプレートが新しい」と読み上げる。

「エレベーターは5階で止まったままやった。さっきの人、5階に行った可能性高そう。まあ私は1階しかみてへんけど。まずビルの入口とかエレベーターの前とか、そういうとこには、目立つカメラとかそういうのはない感じ。エレベーターの中は分からん。あれから誰か、ビルの入口から出てきた?」

 私は黙って首をふる。

「車の中は、よお見えへんかった。でもたぶん、昨日ヨドバシの前にあった紙袋はぜんぶ、まだ車に積まれたまま。まあこれは、たぶん、やけどな。本当に確実に、絶対におんなじかっていうと……そこが分からん。でもまあ、普通に考えれば。昨日の状態と変わってへんなあ。だから買ったもんって、ほとんどはここのオフィスで使うっていうことじゃあないんかもしれん」

「なるほどなあ。あとは……あれかな。ここのオフィスで使うつもりやけど、まだ中に荷物とか入れられるような状態になってへん、とか。内装工事とか。あとほら電気関係? 電気工事とかそういうの」

「うん、それもありうる。ありうる。ありそう。で、あとあれ。車のドア。車のドアはまあ、普通にあくわ。少なくとも助手席は普通に」


 私とまゆみはしばらく無言。


 紙袋に誰も手をつけていないなら、私のスマホはまだ車の中。


「じゃあ、まあ……行ってくっかなあ」

 私は立ち上がる。

「見といたるわ。もしビルから誰か出てきたら、こうやって伸びするから」

 まゆみはそう言って、両手を前に突き出して伸びのポーズ。

 私は無言でうなずき、ステーションワゴンの後部に向かう。

 後部のリアゲートの前で、私も右手だけ()(そで)にする。

 その右手でリアゲートのドアノブに手をかける。

 まゆみのほうを見ると、まゆみはゆっくりとうなずいている。


 右手に少しずつ、少しずつ、力を加えていく。

 私は思わず片目をつぶる。


 開いた。

 開いてしまった。

 私はリアゲートをゆっくりと上げていく。

 開く瞬間には少しだけ音がしたが、それ以降は静か。


 私は()つん()いになって、車内に入る。

 後部座席は折りたたまれて格納されている状態のようだ。

 運転席周辺に設置されているカメラがないかを探してみるが、そのようなものは見当たらない。

 茶色の段ボール箱をじっくり見つめる。ここには何が入っているのだろうか。

 一番手前にあるヨドバシの紙袋は、明らかに昨日私がスマホを入れたものとは違う。コピー用紙などが入っているように見えるからだ。

 私はその奥にある紙袋を上から確認する。これはオフィスチェア用のクッションだろうか。だとしたら、これこそがスマホの入った紙袋かもしれない。

 私は()(そで)のまま、その紙袋の中にゆっくりと手を入れる。

 手を入れながら、ちらりとガラス越しにまゆみのほうを見る。

 まゆみは相変わらずゆっくりうなずいている。

 しばらく手で探っていくと、服の上からでも分かる、硬い感触。

 大きさは……スマホぐらいの、大きさ。

 うん。大きさとしては、間違いない。

 もっとじっくり触って確認してからにしようかと思ったが、やはりいったんまずは紙袋から取り出して、自分の目で見てみよう。

 取り出す直前、手が紙袋に触れて、思ったより大きな音がしてしまう。


 私は目を見開いて、紙袋の中から取り出した物体を視界にとらえる。


 間違いない! 私のスマホ。


 私は素早くスマホをポケットに入れる。

 まゆみのほうを向いて、今度は私が激しくうなずく。

 ゆっくりと、車から降りる。

 ()(そで)のまま、リアゲートを少しずつ下ろしていく。

 目をつぶって、ドアを閉める。

 少し大きな音。でも想定内。


 私は早足で公園にまっすぐ戻る。

 歩き始めてから、やはりすぐには公園に戻らずに遠回りしたほうがよかったのかも、と思う。でももう遅い。

 まゆみの前を通り過ぎる時、まゆみのほうは見ずに手だけで「一緒に来て」という合図を送る。

 まゆみが(あわ)ただしくリュックを背負って、私のスポーツバッグも手にとる。

 公園の中を歩き続け、半分くらいまで来たあたりで、まゆみは私に追いつく。ビルとは反対側の公園の入口のあたりで、まゆみは無言でスポーツバッグを私に手渡す。


 私は公園から出て、無言でスマホを取り出す。

 しばらく2人で歩く。

 阪急(はんきゅう)の駅の方向ではあるが、来る時とは違う道。


「よし。一切なし」

「ん?」

「着信とか通知とか。そういうの一切なし。あったらやばかったわあ」

「えっうそ? でも……えっ? えっ? バイブは……切ってたんやんな?」

「いーや?」

「えっ……うそやろ?」

「だって。99.99パーセントないって。確信あったし。アプリの通知はオフにしたのもあったけど」

「ええっ……でも」

「えっ、だってそんなん。バイブも切ってるって。それ、だいぶあやしない? それって完全に、追跡のためだけに用意したスマホやん」

 まゆみは目をつぶって首をふりながら、つぶやく。

「いやいやいや……いやいやいやいや……やっぱなーむ、だいぶ怖いことすんなあ」


 私は奪還だっかんしたスマホを持ち歩くのではなく、どこかに置いておくのがいいかもしれない、と思い始める。


「だちゅらさんの意見も聞いてみたいしなあ……あと、あれやな。どっかで。あのビルが何なのかとか、軽く検索して調べときたいなあ」

「なーむの自宅のパソコンは使いたくない?」

「そうやなあ。家のんはなあ。お金があったら、今日のためだけに中古のノートPC買って、用が済んだらもう今日の夜のうちに破壊して、とか……でも。まあ。お金ないから、無理やけど」


 ここでいったん別れて30分後にJRの駅で待ち合わせをしようと私は提案する。

 私はこのままJRの駅に向かう。まゆみは一人で阪急(はんきゅう)の駅に向かい、自分のスマホを回収してからJRの駅に来るということになった。


 30分後にJRの駅で合流すると、まゆみのスマホで私のスマホの位置を確認する。

 確かに、JRの駅になっている。

 そしてすぐにまたまゆみのスマホはコインロッカーに入れる。

 とりあえずアプリの設定などはそのままで、もっと南に移動し、普段は利用しない阪神電車(はんしんでんしゃ)の駅まで行こうということになった。


 私は阪神の駅に着くとすぐ、コインロッカーに自分のスマホを入れる。

 これで2人とも、スマホがない状態になった。

 私のスマホは阪神の駅。まゆみのスマホはJRの駅。


 結局、私は自宅には戻らずに、コイン式のインターネット端末を利用して探索たんさくしてみようということになった。

 そして逆に、まゆみはもっといろんな準備が必要だということで家に戻ることになった。

 阪神電車でまゆみと一緒に梅田うめだまで移動し、2時間後にあのエスカレーターで会うことにして、いったんまゆみと別れる。


 私はコイン式のインターネット端末がある場所に向かう。梅田のホテルの一階だ。ちょうど4席すべてが空いていた。

 ここは旅行者向けだから、身分証なしで利用できる。それにプリントアウトもできる。でもさすがに制服だと追い出されるかもしれない。


 私は100円玉を入れて、探索を始める。


 ちょっと検索してみただけでは、あのビルが何なのかは分からない。

 入居している会社名などで検索しても、オフィシャルサイトのようなものは存在しないところばかりで、よく分からない。

 私は登記簿(とうきぼ)の取得について調べ始めて、無駄に時間を浪費してしまったかもしれないと少し後悔する。


 だちゅらさんからは、早朝の私からの「ちょっと出かけます。しばらく返信が見れないかも」以降は返信がない。


 YKDG会長のブログが更新されている。

 会長も特設(とくせつ)サイトの内容を確認したようだ。


 また、タイダル・カテドラルが主張している「スターバースト型ジェネルベフト」と「カマイタチ型ジェネルベフト」という新しいタイプについて、フランス人ブロガーの見解を紹介している。


 このフランス人は『Décathédralisation』というタイトルのブログを運営しており、主にフランス国内でのタイダル・カテドラルの活動内容について批判的に書き続けている人物である。

 これまでにもYKDG会長は「驚異的きょういてきな観察力」として何度かこのフランス人の見解を紹介したことがある。


 なお、最初にYKDG会長がこのフランス語のブログに強く反応したのは、タイダル・カテドラルの公式サイトや公式SNSアカウントにおいて、ここ数年「最速」「卓越した」「力強い」といった単語の使用頻度が急激に上昇していることをグラフで示した記事に対してだった。


 今回、このフランス人ブロガーは、特設サイトにある画像のうちの一つに不自然な形で唐突とうとつに「ソニックブーム」という言葉が登場していることに注目している。

 また、特設サイトの中の様々な画像において、「カマイタチ型ジェネルベフト」の文字の位置が少しだけおかしい箇所が多数存在しており、しかもそれが複数の言語のバージョンにおいてその傾向がみられる。


 こういった不自然な点を検証していくと、「カマイタチ型ジェネルベフト」というのは元々「ソニックブーム型ジェネルベフト」にするつもりだったところが、特設サイトのオープン直前になって急遽きゅうきょ「カマイタチ型ジェネルベフト」に変更したと考えると、辻褄つじつまが合うのだという。

 大急ぎで修正作業をする過程において、文字の位置がおかしくなったり、脈絡が分からないまま突然「ソニックブーム」という言葉が登場したり、不自然な箇所が発生してしまったというわけである。

 なぜ「ソニックブーム」から「カマイタチ」に変更したのかは「まったく分からない」としながらも、日本の市場価値を強く意識している可能性はありそうだ、とフランス人ブロガーは推測している。


 YKDG会長はこのフランス人の見解を紹介しつつ、「サイトの修正作業で泣きを見た人がいるようである。同情を禁じ得ない」とブログ記事を結んでいる。元のフランス語のブログを自動翻訳で確認してみた限りでは、この部分は会長独自の見解ということのようだ。


 日本の、市場価値。


 やはりタイダル・カテドラルは日本で何かをやるつもりなのだろうか。


 日本というよりは。

 うちの学校の、近く。

 もっと言えば。あのクジラ。


 きっとクジラをうまく利用して、何かをやるつもりなのだ。


 あのクジラが、タイダル・カテドラルの上層部の何かを刺激したのだ。

 でも、何を?

 タイダル・カテドラルの上層部が、考えそうなこと。それを考えなければ。


 でもタイダル・カテドラルの考えそうなことを考える、などというのは。

 私にとっては、憂鬱ゆううつな気分をもたらす行為でもある。


 自分の感覚からかけ離れていることについて考えるのであれば、問題ない。カネ儲けをしたり組織化をしたり、だとか。「ジェネルベフトスコア」などを設定して競わせたり、だとか。こういったものについては私の発想とは正反対だ。


 でも、半年くらい前から。

 なんとなく、ではあるが。

 部分的には、タイダル・カテドラルと私の発想が似てきてしまっているのではないか。

 そういう疑念ぎねんが少しずつわいてきているのだ。


 例えば、ここ数日だって。

 私もまた、だりあがジェネルベフト型の性格かどうかを完全に確定させるためにあのクジラの存在をうまく利用できないものか、と考えることがあったのだ。


 それに、イエス・キリストについても。

 去年の秋ごろは私も、イエス・キリストはジェネルベフト型の性格だったのではないか、とよく考えていたのだ。

 私としては、これは黒歴史くろれきしだ。

 図書館で原始キリスト教の解説本や、イエス・キリストの正体についての奇抜きばつな仮説を提唱ていしょうしている本、イエス・キリストの若いころの空白期間についての本などを借りる日々。


 タイダル・カテドラルは実は以前から私の存在に注目しており、私の黒歴史を正確に把握はあくした上で、今になって意図的にこういうことをし返しているのではないか、という考えも浮かんでくる。


 今日になって、タイダル・カテドラルの信奉者(しんぽうしゃ)たちはSNSなどにおいて、イエス・キリストはスターバースト型ジェネルベフトだったのだという主張をさかんに拡散し始めている。

 信奉者たちの間で私の存在や過去が(なか)ば常識のようなものとして共有されている可能性はないだろうか。


 どうしてこんなことになっているのだろう。

 もしかしてだりあは、去年の私の図書館での貸し出しの履歴りれきを何らかの形で入手した可能性はないだろうか。

 私は学校の図書館ではなく大阪市内の大規模な図書館を利用していたのだが、時々だりあがどこかから見ているような気がする日もあった。


 一体、だりあはいま、どこにいるのだろう。


 私はメールでだちゅらさんに、服を私が買い取ろうか、と提案する。

 だりあのことがあるから、だちゅらさんは家にいといたほうがいいでしょ?

 だちゅらさんの代わりに、私とまゆみでお店に売りに行く。

 あるいは、売りに行かないかもしれない。

 とりあえず、私が買い取ってから考える。

 段ボールひと箱分くらいにまとまってるとかなり良い感じ。


 メールを送ってから、もっと練った文章にすればよかったかもしれないと思い始める。

 そして、だちゅらさんからの返信を待つべきか、それともいったん離れてコンビニでも行こうか、迷い始める。


 コイン式のインターネット端末は、土曜日だがあまり利用者がいない。

 20代後半あたりのビジネスマン風の外国人が1人だけやってきて5分だけ利用して、何かをプリントアウトしてすぐに去って行った。ああ、残りの5分、もったいないなあ、などと思ってしまった。

 タイダル・カテドラルの関係者かもしれないと少し緊張したが、おそらく違うだろう。


 迷っているうちに15分が経ち、返信がきた。


 「おっけーダンボールひと箱分。じゃあ、お昼の3時に。とりあえずJRのほうの駅で。セブイレの雑誌コーナーにたぶんいるから」

 なるほど。

 私は急いで返信を書く。

 「スマホの調子が悪くて候。2時半ぐらいに公衆電話かどっかからだちゅらさんの電話に、一回、電話入れますんでよろしく」


 送ってからすぐ、後悔が始まる。

 明らかなウソを書いてしまったではないか。

 スマホの調子が悪いんじゃない。もちろん、何かが仕掛けられている可能性はゼロではないけど、現時点で具体的なことが判明しているわけではない。

 私はだちゅらさんが昨日アップロードしたばかりの新作を画面に表示させる。


 いつかちゃんと、今日のことを。何もかもぜんぶ、話せる日が来るはずだと信じるしかない。


 そう、何もかも、ぜんぶ……


 気がつくと、私はモアイ像の運搬方法などについて検索し始めていた。


 こんなことしてる場合じゃない。


 私はモアイ像についてのタブを閉じて、今日の兵庫県の天気予報をチェックしたり段ボール箱の仕様(しよう)について検索したりして、すでに投入したコインの分が終了するまでの時間をなんとか有効に使おうと試みる。


 利用時間が終了し、パソコンが再起動するさまを(なが)めながら席を立つ。

 このホテルも油断はできない。

 実はタイダル・カテドラルの関係者がよく利用するホテルかもしれないからだ。


 私はホテルを出る。

 すぐ近くのコンビニへ行き、おにぎりを物色する。

 いくら醤油漬(しょうゆづ)けのおにぎりを手にとろうとすると、となりに立っていた女の人が同じおにぎりを手にとろうして、手が触れ合う。

 私が急いで手をひっこめると、その人は急に顔を近づけてくる。

 そして私の顔をのぞきこんで言う。


「あっ……これ……運命?」


 まあ、当然ながらというか、何というか。

 それは知らない女の人なんかではなく、まゆみだった。


 近くで見ると、まゆみの目には赤いアイラインが引かれていることが分かる。

 おそらく昨日もそうだったのだ。

 昨日の朝に感じた違和感は、アイラインのせいもあったのかもしれない。


 コンビニを出ると、ヨドバシカメラの建物が目に飛び込んでくる。

 大都市のど真ん中の巨大な建物。

 昨日から始まった追跡のスタート地点。

 私の犯行現場からは離れているが、たしかに同じ建物ではある。

 いくら醤油漬(しょうゆづ)けのおにぎりを袋から出しながら私は言う。

「あんな、まゆみ。だちゅらさんに、な。会う約束した」

 しばらく、まゆみは無言。

「……えっ。まじで。えっ今日?」

「そう。今日。学校の近くの駅。JRのほうの。でな、服をな、私が買い取ることにした」

「うーん。うん? 服を? 買い取る? なーむが?」

「そうそう」

「なーむが買い取んの?」

「そうそう」

 まゆみは納得がいかないというような顔。


 おにぎりをほおばりながら、私は歩き始める。

「まあ、あとで話すわ」とだけ言う。

 振り返って、ちらりとまゆみのほうを見る。まゆみも歩き始める。

 まゆみは見慣れないリュックを背負っていた。


 ひとまずJRで西へ移動。


 今日はもう、阪神電車(はんしんでんしゃ)は使えないだろう。


 電車の中では、当然ながらタイダル・カテドラルのことは一切話さない。

 クジラのことについては、それぞれの情報を持ち寄る。

 まゆみには、実際にクジラを見に行ったという経験がある。ネットの情報について独自の角度から検証できるという強みがある。

 ただし、クジラの場所から海が見えるのかどうかということについては、まゆみにもよく分からないのだという。

 水曜日にまゆみが写真を撮影したいくつかのポイントということなら、そこはすべて海が見える場所ではない。でももしかしたら、クジラの上に乗って海の方向を見れば、やはり海が見える場所だといえるのかもしれないのだという。

 海からクジラをとらえた映像や写真が出回っていないということは、クジラの体の大部分はやはり海からは見えないと考えるのが妥当(だとう)だとまゆみは考えている。確かにそうだろう。

 しかし26メートルという体の大きさを考えると、どこかに海が見えるポイントがあるのだとしても、おかしくはない。

 特に、クジラの体の上に乗った時であれば。

 これはつまり、メタンガスを抜く作業をしている人の中には、海が見えるかどうかを知っている人がいる可能性もあるということだ。


 もう武庫川(むこがわ)か。時間が経つのが早い。


 私は『ふぁむふぁむクンの発生と死』のコピーをスポーツバッグから取り出してまゆみに見せる。


「あっ……これって」

「そうそう」


 そう、これはだりあの最後の作品。

 まあ、最後というか。私たちにとっては、これが最後。

 この作品のことはまゆみもよく覚えているはず。


 私は漫画を真剣に読み返すまゆみの横顔を見ながら、昨日ネットカフェで観た映画のことを考え始める。

 だりあも観たかもしれない映画。


 映画を観ている時、私は何度か声をあげそうになった。まゆみを起こそうかと思ったシーンもあった。でも横でまゆみはスヤスヤと寝ていたのでそのままにしておいた。


 私は映画の中で主要登場人物の一人が段ボール箱を抱えて徒歩で移動するシーンのことを思い出す。

 ほとんどセリフがないシーンだが、なかなかに印象的ではあった。

 だりあにとっては、どうだったのだろうか。


「そういや段ボールってな……段ボール箱って……ほら。目立つかなやっぱ」

「何が?」

「土曜の午後、私服で。段ボール箱かかえて歩き回る高校生」

「目立つかどうか? うーん。目立つかどうか。なーむ、目立ちたくないん?」

「目立ちたくないっていうか……記憶に残るかどうかっていうか。人々の記憶に」

「記憶に、なあ。うーん記憶。人々の記憶。まあ、なーむの場合、20代っぽくは見えんなあ。やっぱ中高生って感じやなあ。段ボール箱。うーん段ボール。どんくらいの大きさの段ボールかによるんちゃう」

「ああ……うん。大きさ。そうやなあ」


 私はさっきの車に積んであった段ボール箱を思い出す。

 まったく同じ大きさの規格品(きかくひん)が6つ。


「さっきのさあ。奪還(だっかん)した時のさあ。あの車にあった段ボールとか。茶色の。あれってさあ。たぶん、ほら。日本郵便(にっぽんゆうびん)のやつ。普通に窓口で売ってるやつ」

「うん? 日本郵便(にほんゆうびん)? て郵便局?」

「そうそう。日本郵便(にっぽんゆうびん)。あれのさあ、あの。たぶん一番大きいやつ。120のサイズの。380円で売ってんねんけど。郵便局の窓口で。そういうやつ。段ボールとしては」

「そうなんや。それは……あれなん? あの……組織の人が、郵便局に買いに行ったってこと?」

「分からん。どうやろ」


 実際のところはどうだろう。いろんな可能性がありそうだ。あんな風に大きさが(そろ)っているということは、積みやすいというメリットはある。

 日本法人として、一括(いっかつ)で大量に購入したりする可能性もあったりするのだろうか。


 だちゅらさんが持ってくる服の量はどれくれいだろう。

 段ボールひと箱といっても、大きさによってかなり容量は変わる。

 いや量など関係ないのだ。服なのだから。

 必要な分だけ活用すればいいのだ。


 もし一部をこっそり廃棄などしたら、だちゅらさんは怒るだろうか。


 学校の最寄り駅につくと、まゆみはコインロッカーからスマホを取り出す。まゆみは「14時10分」とつぶやく。15時までは、まだだいぶ時間がある。まゆみのスマホから、だちゅらさんにメールで何か送っておいてもらったほうがいいだろうか。


 それよりも。あの車は今、どうなっているのだろう。

 もう一度確認したい。

 今のうちに、車が同じ場所にあるかどうかだけでも、確認したほうがいいだろうか。


 私とまゆみは、しばらく駅前のバス停のベンチでぼんやりと時間を過ごす。


 しばらくすると、段ボール箱を抱えた女性が歩いてくるのがみえる。

 そうそう、あんな風に段ボール箱を抱えている場合……

 高校生くらいの……

 いや、あれは? だりあ? もしかして、だりあなのか?


 いやちがう。だちゅらさんだ。

 だちゅらさんが早めに駅に来たのだ。

 抱えているのは、日本郵便の段ボール箱ではなかった。

「ふふふ。よかったああー」

 だちゅらさんは笑いながら言う。

「いや、なんかなあ、先になあ、これ駅に持ってきといてな……。でな、コインロッカーに入れとこうかな、とかな。そういう。なんか、先に買いもん、行きたかったっていうのもあってなあ。だから駅に置いとこうかなあって」

「ああ……」私は立ち上がりながら言う。

 まゆみも立ち上がる。

「でもよかったわあ。2人がおって。この大きさやと、ここのコインロッカーやと、入らんかもしれんっていうな、それに気づいてな。でも2人がおったからよかったあ。えっもしかして、ダンボールって。ほら。もうちょい小さいのん想定しとった? なーむちゃん」

「ああいや、もうかなり。かなりジャストなサイズで」


 近くでよく確認すると、段ボール箱はビックカメラのものだった。初めて見るかもしれない。

 私とまゆみは段ボールの中身を手早く確認する。


 私が買い取るのではなくタダでもらうという話になってしまいそうだったが、とりあえず私は強引にだちゅらさんに千円札を渡す。

 タダにするのかどうかで駅前で押し問答のようになってしまったため、何か話題を変えたほうがよさそうだ、と考え始める。そしてベンチに座り、だりあの漫画をスポーツバッグから取り出す。まゆみとだちゅらさんもベンチに座る。


「あの。だちゅらさん、この……漫画ってどう思います?」

「えっどれ?」

 私は『ふぁむふぁむクンの発生と死』のコピーをだちゅらさんに手渡す。

「ああ……うん。そうやなあ。だりあの絵やなあ。ふふ、そうかあ。うん。なんか。でも……あああ。うん。なるほどなあ。でもなんかこれ、ちゃんと。4コマ漫画になってんなあ。なんかあんまりこんな風にちゃんと漫画になってるやつって。あんま見たことなかったなあ。こういうのも描いとったんやなあ」

「あのそれ、コピーやけど。学校にある、アナログのコピー機で、コピーしたやつで。あの……それって。私とまゆみにとっては、最後の作品っていうか。これ、一年前の。中3の始業式の、日の……」

「もしかして……なーむちゃん。この作品から、だりあがなんで学校行かなくなったとか、また来るつもりがあるかとか、そういうの読み取れないかとか、そういう感じの……」

「えっああっまあ、その」

「ふふ。うん。なんかな……。うん。だりあの行動の理由って。こう、理由とかをあれこれ考えんのって、あきらめたほうがいいっていうか。こう……過去については、分からない。で、未来については、あらゆる可能性が、ありうる。ていう。うん……うん。そうかあ……うん。コピーなあ。わざわざ、アナログの。うん。うちの学校にもあるなあ。アナログのコピー機。誰も使ってへんらしいけど。そうかあ。なんか。ふふ。なんか、うん。ありがと」

「ああっいや。なんか。ははっ」

「ふふ」

 だちゅらさんは、しばらく山のほうを見つめる。

「だりあ、クジラ見に行ったんかなあ……」

 だちゅらさんは静かにつぶやく。


 私はまゆみを見る。

 まゆみは肩だけで「分からん」というしぐさ。


「あのクジラって……骨格とかって。どうなるんかな」

 私はあえてだりあと関係ないことを言ってみる。

「えっ骨格? ああ、骨格なあ……どう……なんやろ……」

「なんか、折り曲げるとな。ちょうど。うちの学校のプールに入るから。プールにな、水ためるんじゃなくてな。骨格の標本、展示してくれんかなあ、とか……思って」

 水曜あたりからずっと考えていたことをだちゅらさんに話す。

「えーと、えっ? ああ……プールが……25メートルやからってこと?」

「そうそう」

「そおかあ。私なあ、小学校んときな。プールは25メートルじゃなくてな。20メートルとかやったなあ。そうかあ。だりあたちの学校、プールあるんやなあ。私の学校な、プール。ないねん。だから私、中学に入ってから、学校の中でプールっていうのは、な。一回もないなあ」

 だちゅらさんは、私に『ふぁむふぁむクンの発生と死』のコピーを手渡す。

 そうなのか。だちゅらさんの学校は、プールがないのか。地図でみる限りでは敷地はかなり広そうだけど、プールがないということもあるのか。

 そして小学校の時は、だちゅらさんとだりあは同じ小学校。だりあも小学校の時、学校のプールが20メートルだったわけだ。


 だちゅらさんは相変わらず山のほうを見つめながら言う。

「そういやなんか。冬休みあたりやったかな。まあ、いまだりあ、学校行ってへんから。冬休みもくそもないけど。正月あたりっていうか。そう。あのう……正月にな。なんか。性格分類にハマっとったなあ」


 性格分類?

 だりあが、性格分類に。ハマっていた?


「あっそろそろ……いちおうほら家にいとかんと。だりあ帰ってきとうかもしれんし」

 そう言ってだちゅらさんは立ち上がる。

「あっほら。写真でも()っとかん?」

 私はうんうんとうなずく。

 でも私のスマホは阪神の駅のコインロッカー。

 スマホは調子が悪いとだちゅらさんにメールで書いたんだっけ。

「おっいいねえ。ちょっと待って」まゆみは立ち上がって言う。「ちょっといま、デジカメ調子悪いしなあ。スマホで撮るかなあ」

 まゆみはデジカメを操作しながら、険しい顔でデジカメの画面を見つめる。

 スマホで写真を撮ってしまって、大丈夫なんだろうか。

 昨日、服と一緒に私が安物のデジカメを購入しておくべきだったのかもしれない。


 まゆみのスマホでタイマーを使用し、3人で並んで写真を撮る。


 まゆみは撮ったばかりのものをだちゅらさんに見せる。

 少し引いたアングルが1枚。その後、少しアップが1枚。

 だちゅらさんは軽くうなずきながら言う。

「また送っといてーー。でな、あの……地図を……な。まだだりあにはな。もろもろは話してへんから。いきなり来るとだりあはびっくりするかもしれんけど。でもまあ、いちおう、な。いちおう持っといてほしいねん」

「あっ、ああ……じゃあ……」私は地図を受け取る。

 だちゅらさんはまゆみにも地図を渡す。

 私にはB5のルーズリーフに手書きの地図。まゆみにはそのコピー。


 うっ、この地図は……


 センスを感じる。


 私なら、絶対こんな風には描かないだろう。

 このルーズリーフは、私が使っているものとは少し違うようだ。おそらく、だりあが漫画を描いていたものとも。

「じゃあまあ、そういうことで」

「あっあの、ありがとう今日は。なんか、持ってきてもらったりして」

「ううん。片付いてよかったあ。もう、長年の懸案(けんあん)事項がなあ。もう。今日片付いて、よかったわほんま。1000円も、もらっちゃったりもして。もう、その服は、どんな風に扱ってもらってもええから。まあ、そういう感じで。んじゃまたねー」


 私とまゆみは手を振る。


「ビックカメラかあ……ビックカメラの箱っていうのを、どう考えればいい?」

 私は段ボール箱の側面の「BicCamera」と書かれたあたりを右手でさする。

 まゆみは首をひねって言う。

「うーんどうやろ。段ボールの評論は容易ではない」

 私はそれぞれの面をじっくり確認する。

「これってたぶん、通販でビックカメラ利用したってことやんな……店舗での買いもんやと、こういう段ボールって、もらうことってないやんな?」

「いやどうやろ。ちょっと分からん。でもまあ、普通に考えれば通販やと思う人が大多数なんちゃうん」

「通販やとなあ……通販の利用の履歴とかそういうのから、特定できてまうかもしれんなあ……もしAmazon(アマゾン)の箱とかやったら、同じ通販でも、すごくありふれてるということにはなりそうやけど……あっでも、Amazonの箱も謎の数字とかあったりするし、あのへんで特定できたりする可能性ってあんのかな」

「えっちょっ待って、なーむ、服が欲しかったん? 段ボールが欲しかったん?」

「それは……」


 私は箱を地面に置き、「両方」とつぶやく。


 バスが停車し、人が次々と乗っていく。

 いったん埋まったベンチが空いたので、また座る。

「結構な量、あんなあ」まゆみがつぶやく。

「まあ、子供服やしなあ……では問題。さあこのうち、何点がユニクロ?」

「ユニクロが3点でGU(ジーユー)が4点!」

 まゆみが即答する。

 もっとじっくり考えるかと思った。

 ユニクロが3つね。うん。なるほど、GUのほうが多いと見たか。


 私はしばらく考えてから、段差がつくられていて座ることが可能な場所に移動する。

 まゆみは段差の上にどかっと座る。

 私はまゆみから50センチほど間隔を空けて横に箱を置く。

 私は低い位置でしゃがんで箱から服を取り出し、まゆみと箱の間のスペースに乗せていく。

 まゆみは駅前の人々をぼんやりと(なが)める。


「えー。というわけで正解は。ユニクロが5点でGUが2点」

 まゆみはこちらを見ずに、大げさに渋い顔をする。

 私は服を箱の中に戻していく。

 ほとんど戻し終わったところで、まゆみが言う。

「あのさあ。腕時計って。持ってたやん……だちゅらさんて。あれって本革ほんがわやと思う?」

「ああどうやろ。ちゃんと見てへんかった。ていうか、まあ。ちゃんと見ても、そういうの分からんけど」

「持ち歩いてる腕時計のベルトが本革ほんがわの10代の女性は、ジェネルベフト型である可能性が高い」

「そうなん?」

「いや、いま適当に考えた。これってあれちゃうん。ほら。なーむが()ってた。ショットガン・プロファイリングってやつ?」

「えっあっそうそう。うん。そう。それはまさに、ショットガン・プロファイリング。そうそうそう。まさにそう」


 私が服をすべて箱の中に戻すとまゆみは少し心配そうに言う。

「これってさあ。けっこう珍しいデザインのんとか、まあまあ、あるんちゃうん、これ。どうすんの?」

「そうやなあ……」

 私は駅前を見渡す。

 私たちに注目している人間はいない。

 私は山のほうを見る。

 どこか木々のすき間から私たちを超望遠で観察する者がいたりするだろうか。

「とりあえず……セブイレ行こか」

 私とまゆみは、駅と一体化しているセブンイレブンに向かう。

「あっごめん、ちょっと。箱は見といて。まあ子供服やし、盗む人おらんと思うけど。でもたぶん、人がいたほうが、記憶には残らん可能性、高そうっていうか」

 私は段ボール箱をセブンイレブンの入口に置く。

「ああ、まあいいけど」


 店内に入ってすぐ、クセで雑誌のコーナーに向かう。漫画雑誌の表紙が目に飛び込んでくる。ここはヒモで(しば)られていて、立ち読みができない。そうだ、だちゅらさんの新作のクジラのイラストの話題を出すのを忘れていた、と()やむ。

 今日会ったら絶対にその話をしようと思っていたのに。


 私はゴム手袋と紙パックの乳酸菌飲料だけを購入する。


「なにするつもりやねん」まゆみはゴム手袋に気づいて、笑いながら言う。

「あっ!」

「どした」

「ガムテープも、買っとかんと……もしかしてまゆみ、ガムテープ持ってきた?」

 まゆみはあきれたように首をふる。


 私は再び店に入って確認する。ガムテープは2種類置いてある。

 オーケー。そうだ。そうこなくては。

 必要なのはこの、「布テープ」のほうなのだ。私はこの布テープも購入する。


「これがな、必要やねん。さっきのな、車の中にあった段ボールな。この布テープのほうでな。閉じられとった」

 まゆみは笑って何も答えない。

「あとな、箱がな、欲しいわけ。箱そのものも……な。いったん、な。こう。中身を移し替えるというか、な。日本郵便(にっぽんゆうびん)のな。120サイズのな。箱に。ぜんぶ移し替えとこっかなあっていう。この服を」

 まゆみは少し考えてから、困ったような、今にも笑い出しそうな、妙な顔をする。

「うーん、うーん……まあ……任せるけど……」

「あのほら、あれ。あそこの郵便局ってな。あれやんな。土曜日って、窓口とか。ないやんな」

 私は駅の近くの郵便局を指差す。

「ああ、うん。あそこはたぶんあれやろ。ATMだけやろ」

三ノ宮(さんのみや)まで……行くかあ」

「まあええけど」


 まゆみは再びコインロッカーにスマホを入れる。

 私は私で、子供服がつまった段ボール箱をコインロッカーに入れる。まゆみがスマホを入れたものとは違う大きさのところでないと、入らない。


 私たちは、JRでさらに西に向かう。

 探せばもっと近いところで土曜日も空いている郵便局の窓口があったりするのかもしれないが、今はあまり電子デバイスを利用して検索などをしたくない。

 私は電車の中でゆっくり紙パックの乳酸菌飲料を飲む。


 三ノ宮(さんのみや)に着くと、私たちはまっすぐ地下街の郵便局に向かう。

「うっげ! まじ混んでる! うっげー!」

 私はつぶやく。郵便局の窓口に並んでいる人々を見て、失敗したかもしれないと思い始める。

「どおしよっかな……ここで待っといてもらうのもなあ。あ、ジュンク堂で待っといてもらおかな……あの、ほら。センター街じゃなくて。オーパのほうの。オーパ2のほうの。」

「オッケー。じゃあ、まあ。ずっとジュンク堂いるかは知らんけど。今から20分後にはジュンク堂いとくわ。7階の」

「おっけじゃあそれで」


 私は並んでいる間、周囲の人々の会話に耳をすます。

 窓口担当者と客とのやり取りにも。

 みな、ごく普通の善良な市民として、健全な目的でこの郵便局に来ている。

 土曜日の午後、地下街にある郵便局の長蛇の列に並ぶ高校生。

 これ自体はごく普通だ。

 でも私の目的を正確に把握(はあく)している人間はおそらく誰もいない。

 私は途方もないことに手を出そうとしているのではないかと考えて、鼓動が速くなる。


「うわばり()んどう」


 入口付近から大きめの声が聞こえてくる。

 小学生の男の子だろうか。私と同じことを思ったようだ。

「えっちょお、これ。あとで()ようやあとで」

 男の子の集団4人は並ばずにどこかに行ってしまった。


 ようやく私の番がやってくる。

 まゆみはもうジュンク堂にいるかもしれない。

「あの、ゆうパックの。120……サイズの。箱。ひとつください」

 緊張で声がうわずる。

 何か聞かれるが、そのままでいいですと答える。

 想定どおり、380円。

 でも窓口担当者が奥から持ってきた段ボール箱は、想像以上に大きい。

 そうだ。たたまれた状態で渡されるのだ。この状態だと、かえって目立つかもしれない。駅や電車の中でずっとこれを持ち歩くのだろうか。


 とりあえず私は、()(そで)の状態で折りたたまれた段ボールを受け取る。何食わぬ顔ですぐに郵便局を出る。

 指紋を付けない目的で()(そで)にしているということは今の窓口担当者にバレているだろうか。今ごろ、警察を通じて世界中の警察や情報機関に私のことが伝わっているという可能性はあるだろうか。

 そして警察から情報が()れてタイダル・カテドラルにも伝わってしまうことはないだろうか。


 まゆみは雑誌のコーナーにいた。


「ちょお、まゆみ、これ……」

 まゆみは段ボールを見て、笑い出す。

「そうかあ、たたまれた状態。そりゃそうやなあ。ていうか別に。あれちゃうん。組み立てればええんちゃうん」

「まあそうやけど」

「ああ、でも。どやろ。どっちが目立つやろなあ」

「あのさあ。あの……バスで帰らん?」

「ああ、ええよ別に。こっから、学校の近くまでってことやんな?」

 私はうなずく。

「ええんちゃう別に。まあ、そうやなあ。バスのほうが、全体的に目撃者が少ないかもなあ」

「あんな、こっからっていうか、な。2号線をな。しばらく歩いてな。20分か30分かそんくらい。で、そっからバス乗ってみいへん?」

「まあええけど」


 私とまゆみは、しばらく無言で2号線を歩く。


 10分ほど歩いたところで、まゆみは言う。

「これさあ。目立ちたくないんやろ? 2号線走る車に乗ってる人から大量に目撃されてるって可能性ない?」

「うん。ちょっと思う。ていうかさあ、これ……2号線じゃなくてな。1本、入ろか。北へ。1本か2本。あのほら、西国街道(さいごくかいどう)に入りたいんよなあ……もうすぐ川があるはずやねんけどな、その川を超えたらな、ちょっと道変えよ。2号線と平行に走る、別の道あんねん」

「うんまあ、任せるわ」


 しばらく歩くと、生田川(いくたがわ)

 この川を越えてから、私は左に曲がる。私は左側を指差して、まゆみに合図。

 まゆみはうなずく。

 私はすぐに、記憶とは少し違っていたことに気づく。

 川を越えてから曲がらなくてもよかったようだ。


 西国街道に入ってから、まゆみは言う。

「実はさっきな。ジュンク堂で道路地図、買った」

「えっうそ?」

「見たい?」

「いや……やめとく。記憶との違いを楽しむ」

「そうか」


 西国街道をしばらく歩くと、ローソンらしき看板。こんなところにローソンがあったのか、と思っているとまゆみが言う。

「あっキリン堂あるやん。ちょっと寄っていい?」

「えっうそ? あっほんまや。ええよ。寄ろ寄ろ」

 こんなところにキリン堂も。記憶とはまったく違う。

 私は黄色い柵に腰掛けて「待っとくわ」と言う。

 まゆみは無言でうなずいて、キリン堂の中に入っていく。


 私は段ボールを組み立ててみようと試みる。

 指紋を付けないように注意しながら組み立てるのは少し面倒だ。

 実際に箱の状態にしてみると、何の変哲もない段ボール。

 日本中に星の数ほどある規格品(きかくひん)


 まゆみが店から出てくると、私は「段ボール見といて。あっ指紋つくから触らんとって」とだけ行ってローソンのほうへ向かう。サンドイッチと紙パックのココアとイボ付き軍手。


「キリン堂は? なんも買わんで大丈夫?」

 ローソンから戻ってくると、まゆみは何かを食べながら聞いてくる。

 そうだね。今のうちに……

「ちょっと待ってや……ちょっと待ってや……えーと。うん。やっぱちょっと。買いもん」

 まゆみは無言でうなずく。私はローソンで買ったものをスポーツバッグの中に入れる。そしてそのバッグを再び箱の中に戻し、キリン堂に入っていく。


 アルコールのウェットティッシュ、さっきセブンイレブンで購入したものより薄手のゴム手袋、裏起毛(うらきもう)レギンス、下着、靴下、ヘアゴム、花粉対策メガネ、カロリーメイト、毎日果実、ペットボトルの水。

 レジでお金を払う時、しまった買いすぎたかもしれない、と思う。


 私はサンドイッチを食べて紙パックのココアを一気に飲み干してから、すぐに軍手をはめる。指紋をつけないための()(そで)は疲れる。

 私はキリン堂で買ったものはスポーツバッグには入れず、そのまま段ボール箱の中に入れる。そしてその箱を抱える。


 私たちは再び、西国街道(さいごくかいどう)を東へ移動。

 西国街道とアーケードが交差する地点に来ると、右に曲がってアーケードの中を進み、2号線に戻る。

 2号線に戻ってからまた5分ほど東へ歩き、バス停でバスを待つ。

「あっ時計がないんや」まゆみはつぶやく。

「あっほんまや」

 そういえばそうだ。100円均一ショップがあれば、時計を買っておいたのに。

 オーパ2にダイソーか何かが入っていた気もする。

 あるいは、キリン堂に実は腕時計があったりした可能性はないだろうか。

「よく考えたら、デジカメの時計機能があるわ」まゆみは下を向いてデジカメを操作している。


 バスは5分も待たないうちに来た。

 最後部の座席がすべて空いている。

 私は段ボール箱を最後部の左の窓際に座らせる。その隣に私が座る。

 まゆみは最後部ではなく、その一つ前の一人席に座る。座ってすぐに、ジュンク堂で購入した道路地図を無言で私に手渡す。バスが走り出すと、すぐにまゆみは寝始める。


 気づいたら私もウトウトしていた。

 道路地図を落としそうになって、ちょうど降りるタイミングだったということに気づく。私は(あわ)てて「次停まります」のボタンを押す。

「まゆみ、まゆみ、降りんで」

「んあっ」

 2人とも、急いで小銭を出す。

 私は財布の中から小銭を出す時だけ右手の軍手を外す。金額分を取り出すと、すぐにまた軍手をはめる。

 運転手さんに段ボール箱のことを何か言われるだろうかと思ったが、特にそういうことはなかった。


 ようやくこのあたりに戻ってきたか。

 私はぼんやりした頭でバスが去っていくのを見つめる。

 まゆみと阪神(はんしん)バスに乗るのは初めてかもしれないな、と思う。


 私は段ボール箱を抱えたまま、歩き始める。

 そういえば、ずっと軍手をはめたままバスに乗るというのも初めてかもしれない。

「ひとまず……そうやな。あの……ひとまずさっきのだちゅらさんの。ビックカメラの段ボール、出そっか」

「んんー」

 まゆみはまだ寝ぼけているような声。


 私はJRの駅のコインロッカーからビックカメラの段ボールを取り出す。

「このビックカメラのほうはな、私が持つわ。ちょっと重いし。まゆみはそっち持って」

 そう言いながら私はまゆみに軍手を渡す。

「んんー……ん」まゆみは眠そうに軍手を受け取る。

 ふと、制服姿の中高生が一人、視界に入ってくる。同じ学校の生徒だ。

 向こうはこちらの顔を知っているだろうか。

 私服で一体何をしているのかと思うだろうか。

 おそらく、中学の二年の生徒。あるいは一年かもしれない。改札をくぐっていくのをじっくり見届ける。

 中学でしかも一年生だとすると、私がJRを利用していたころのことは知らないはずではある。


 私とまゆみは、それぞれが段ボール箱を持って、またさっきの公園へ向かう。


「これ……あんまこのへんウロウロせんほうがええんちゃうん?」

 まゆみはだるそうに言う。

「まあ、すぐ終わるっていうか……ちょっと確かめるっていうか」

「確かめる。うん。いや、ちょっと確かめるって。なんやそれ」

「いやだから。こう。段ボールの仕様(しよう)とかそういうのを調べようと思って」

「ふふ」

「まあ、あの。さっきのあの、ビルの前の車の、な。中でな……こう。大きさを、な。比較っていうか。本当に(おんな)じ大きさかどうか、とかな。並べた時の感じとか……色は本当に完全に(おんな)じか、とか。まあ調べなあかんことって、いっぱいあるわな。それでな、やっぱほら、(おな)じ箱やから。デザインも大きさも。まったく(おな)じなわけで。やっぱこう、どうしても間違えてまうことっていうのが。あるじゃないですか」

「あるじゃないですかって()われましても」


 しばらく私たちは黙ったまま、歩き続ける。

 私は何度も何度も、頭の中でシミュレーションをする。


「だりあのことは、あれやろな。だりあにしか分からん」まゆみは静かに言う。


 そうだね。うん。そうだろう。


 つい、あれこれ考えたくなってしまう。あらゆることを推測したくなってしまう。なぜだか分からないけど、推測が可能であるような、そんな気がしてしまうのだ。でも肝心なことは、本人にしか分からないのだ。


「あんな。なんか……やばそうやったらな。置いてくるだけ。この箱を。(なん)も持ってこない。私はな。単にな。この箱を車の中に置いてな。それで、終わり。それで今日は解散」

「うーん」

(なん)もなくなってないんやったらな、そんなに大きな騒動にはならんはずやねん。誰かがな、間違えて積んだっていう。若いスタッフかもしれん。近所の人かも。業者かも。中は子供服やから、(なん)の害もない。あっちょっと待って」

 私は抱えている段ボール箱を地面に置く。

 そしてまゆみが持っている段ボール箱から、さっきキリン堂で購入した花粉対策メガネを取り出す。

 私はメガネをかけて、まゆみにニッコリ笑いかける。

「誰やねん」まゆみは静かに言う。


 やがて私たちは再び、ビルの前の小さな公園にたどり着く。そしてさっきと同じベンチに座る。

 あの車はまだそこにある。ずっと動かさないつもりだろうか。

 今度は、公園の中で子供が3人、ボールで遊んでいる。大人の姿は見当たらない。これは吉と出るか、凶と出るか。


 何の変哲もない土曜日。2人の高校生。


 でも今回は、子供服がつめこまれた段ボール箱も一緒。

 買ったばかりの段ボール箱も一緒。

 高校生のうち1人は、メガネをかけている。


 私は薄手のゴム手袋を取り出して、1セットをまゆみに渡す。

 そして私も装着する。


「とりあえずぜんぶ、指紋をな。拭き取ってくわ。このな、ボタンのとことか、そういう。そういうとこだけな」

「あー。うん。あああぁぁーー……」

 私はビックカメラのほうから服を取り出しては、アルコールのウェットティッシュでボタンの部分など硬い箇所を拭き取っていく。そして新品の段ボールのほうに入れていく。

 まゆみは(なか)呆然(ぼうぜん)と、その作業をみつめる。


 もうほとんど終わりという時になって、まゆみは眠そうに言う。

「しゃあないなあ。究極の奥義おうぎを使う時がきた」

 そしてリュックからレポート用紙とマジックを取り出す。

 レポート用紙にマジックで「しましま6」だとか「レギンス4」だとか「NLは広島へ」だとか「※Fが計20になるか要確認」だとかスラスラと書いていく。

「Fってなんなん?」

「知らん。私にも分からん。てきとうに書いてるから。でもこうゆう感じのん散りばめといたら、なんか在庫とかそういうなんかの管理とかそういうがらみの。そんな感じになるかなあ、て。中高生じゃなくって、業者っぽい感じになるかなあ、て。タイダル・カテドラルの側もな、ええー? Fってなんやろ? どういう種類の業者やろ? とか。広島ってあったら、広島に拠点きょてんがある業者やろか、とか。いろんな無駄な推理を始めてくれるかなあ、て」

 まゆみは「計20」の下に何度も線を引く。

 そしてこのデタラメなメモが書かれたレポート用紙を段ボールに入れる。

 開けるとすぐこのメモが目に飛び込んでくるように、ということだろうか。

「なーむって、広島に友達とか親戚とか、おる?」

「いや、おらん」

「おし。じゃあ完成やな。最後にテープはんのは、ガムテープのプロのなーむに、おまかせするわ」

 あまり乗り気でないように見えたまゆみも、ニセの業務メモの完成度に満足したようである。


 新しい段ボール箱にすっかり移し替えられると、服の量が少し減ったように思えてくる。実際は新しい箱のほうが少し大きいということなのだろう。


 私は立ち上がって、ガムテープを慎重に貼って段ボールを閉じる。

 まゆみは、ほんとにやるの? という顔で私を見上げる。

 私は笑顔でまゆみの顔を見つめる。

「私はもうこれ、はずすで」

 まゆみはゴム手袋をはずす。

 私もゴム手袋をはずし、軍手につけかえる。


 私は目を閉じて、段ボールを持ち上げる。

 私は段ボールを持ち上げた状態のまま、しばらく目を閉じる。

 そしてゆっくりと目を開ける。

「TIDAL CATHEDRALって……書いてない」

 私はつぶやく。

 車のナンバーは確かにさっきと同じ。

 同じ車のはずなのだが。

 でもさっきとは違うところがある。さっきは「TIDAL CATHEDRAL」と側面に書かれていた。昨日もそうだった。

 でもこの車は、側面に何も書かれていない。

「紙袋もなくなってる」

 まゆみは「ほんまや」とつぶやく。「どうすんの?」

「そうやなあ……まあ……やばそうなら……置いてくるだけ」

 私はまゆみのほうを見ずに歩き出す。

 まゆみも立ち上がって移動する音が聞こえる。


 もし車から持ってきた段ボールが、お金、貴金属、そういうもののたぐい。

 もしそうだった場合は、すぐに戻そう。

 うん、そうしよう。


 私にとって、一番のビンゴは内部資料。


 なんとかして、内部資料が入った箱を引き当てたい。


 私は公園から出る。ゆっくりと車の後部に近づいていく。

 この車の扱いの雑さが(わな)ではないとしたら、おそらく箱の中身は高価なものではない。

 公園のほうを振り返ると、まゆみはうんうん大丈夫、とうなずく。

 車の後部まで来て、リアゲートを開けるために段ボールをいったん地面に置くべきかどうか、迷う。

 この車。確かに、昨日と同じ車だ。

 近くで見ると、ステッカーらしきものががされていることがよく分かる。

 なんのために?


 私は段ボールを地面に置かずにリアゲートを開けることにする。


 そしてリアゲートのドアノブに手をかけようとしたその時、後ろから鼻歌が聞こえてくる。体がフリーズする。


 自転車に乗ったおじいさんが愉快そうに鼻歌を歌いながら通り過ぎる。

 こちらにはまったく意識を向けていないようだ。

 歌のメロディーは知っている。でも曲名は思い出せない。


 私はまた、公園のほうを振り返る。

 まゆみは激しく、うんうん、大丈夫、とうなずく。

 子供たち3人は反対側の入口付近で遊んでいる。こちらの様子はよく見えないはず。

 そっと、リアゲートのドアノブにかけた指に力を入れていく。

 ドアの開く音。

 もう後戻りはできない。

 リアゲートの窓ガラスに私の顔が映っている。メガネをかけた、見慣れない顔。

 誰やねん。

 私はまゆみの口調をまねて小声でつぶやく。

 リアゲートを上まで上げてみると、やはりさっきと同じ車であることがより一層よく分かる。

 でも紙袋はほとんどなくなっている。


 段ボールの箱同士のほんのちょっとしたすき間などから、段ボール箱についてはおそらくまったく手がつけられていないことが分かる。


 やはり、スマホの奪還(だっかん)は午前中しか無理だったのだ。あのタイミングを逃すと、紙袋はビルの中に運び込まれてしまい、誰かがあのスマホの存在に気づいてしまうことになったのだ。


 あっ、移動してる?


 私はさっきとはマンホールの位置が違うことに気づく。

 もちろん、マンホールが移動したわけではないだろう。

 車のほうが、さっきとは少しだけ違う位置に停車しているのだ。


 だが、後戻りはできない。

 私はまず、持ってきた段ボール箱を空いているスペースに置く。

 ふうっ、とため息。


 私は()つん()いになって車内に入り、窓越しにまゆみのほうを見る。

 まゆみは顔の半分だけが私から見えるような位置でゆっくり何度も深くうなずきながら親指を立てる。

 運転席周辺に、車内が映るようなカメラが本当にないのかをあらためてじっくり確認する。

 目立つようなカメラはない。でも実際のところ、よく分からない。

 おそらく、ドライブレコーダーのようなものもない。


 私は車の右側に移動し、左側の窓越しでまゆみが常に私の視界に入った状態になるようにする。

 もし誰かがビルから出てきたらまずフロントガラス越しで人の姿が見えるはずではある。でも私は、車の前方から入ってくる視覚情報を完全にあきらめることにする。


 まゆみの合図のみに集中するのだ。


 もし誰か来たというサインを受け取ったら、車の前方のほうは一切見ずに、すぐに逃げる。そうすれば、ビルから出てきた人間が私の顔をじっくり確認するタイミングはないはずだ。


 私はまゆみの顔が常に視界の端に入っている状態で、段ボール箱を少しずつ動かしていく。


 もともと車に積んであった段ボール箱のうちの一つを、少しずつ手前に。

 その箱を、慎重に車の外に出して、そろりそろりと地面に置く。

 しまった、想像以上に重い。

 まさかこんなに重いとは。

 紙の資料がいっぱいにつまっているのかもしれない。

 まゆみはゆっくり何度もうなずく。

 私は顔をまゆみの方向に向けたまま、自分の体を再び車の中にすべり込ませていく。

 そして子供服がつまった真新しい段ボール箱を、まるでずっとそこにあったかのように置く。

 微妙な位置調整も済ませると、完璧に元通りになったように思える。

 段ボールが新品だと目立つかと思ったが、そんなことはなかった。

 もともと車に積まれていた段ボールも、新品同様だったのだ。

 ガムテープも完璧。

 私は窓越しにまゆみを見据えて、大きくうなずく。 


 私はリアゲートを閉め、地面に置いた段ボール箱を抱える。

 うっ、これは重い。こんなに重いのか。

 でも運ぶしかない。


 私は公園の入口にまっすぐ向かう。

 まゆみはずっと、ゆっくりうなずく動作。


 午前中と同じように、まゆみのほうを見ずに前を通り過ぎる。

 まゆみはリュックを背負い、ビックカメラの段ボールを持って追いかけてくる。


 子供の注意を()かないように、2つの段ボール箱は木の陰に隠す。

 子供たちからも、さっきの車からも見えにくい位置。

 私とまゆみは、さっきとは違うベンチに座って子供たちの様子を(なが)める。


「はよ帰れ……はよ帰れ……」まゆみは手を不気味な動きでクネクネさせる。

「なに?」

「念を送ってんねん」


 10分ほど待つと、子供たちはいなくなった。


「とりあえず……いったん開けてみよか」

 私は段ボール箱の近くにしゃがむ。

 上部のガムテープをゆっくりとはがし、スポーツバッグに入れる。


 私はゆっくりと、箱を開ける。


 箱の中身は……


 内部資料では……ないようだ。


 実際に入っていたのは、粘土のようなものばかり。

 これは、どうとらえればいいのだろう。

 レクリエーションのための何かだろうか。

 内装工事に使うものか何かだったのだろうか。


 粘土を包んでいるパッケージには「C-4」と大きくプリントされている。


「C-4……C-4って……なんやろ?」

「えっ! C-4……?」まゆみは驚いて、のぞきこむ。

「知ってんの」

「いや。これ。なんていうか。ゲームとかの中に登場するC-4やったら。プラスチック爆弾やけど」

「えーと……えっ?」

 プラスチック爆弾? まゆみは何を言っているのだろう。

 私は立ち上がって、さっきの車の様子を見る。

 特に変化はない。

 ビルの中も、さっきと同じ。すべての階が、いるのかいないのかよく分からない。


 爆弾。

「えーと。いや。ちょっと待って」

 プラスチック爆弾?

 こんな、ただの粘土のようなものが?


「これってだって。こんな、粘土みたいな……」

「いや本物のC-4も、粘土みたいな感じやと思うけど。まあ本物って見たことないけど」

「いや、いやいやいや。ないやろ。本物のプラスチック爆弾とか。そんなん。だって。あんな、普通の車とかに乗せて。振動とか与えたら……あっあれって普通の車じゃないとか?」

「ああ、いや、もし本物のC-4やったら、振動で爆発とかはせえへん」まゆみは冷静に答える。

「そうなん?」

「そうそう。振動で爆発したりせえへんからこそ、あらゆるところで使われるっていう感じ。ちゃんと作られた起爆装置がない限り、爆発っていうのは、せえへん。この段ボールの中身も、もしほんまに全部、本物のC-4やとしたら。いきなり爆発とか、そういうのはまずありえへん。たとえガッツリ火が燃え移ったりしても、いきなり爆発っていうのはせえへん。ちゃんとした起爆装置がないと」

「そうなんや……でもこれ……ええぇぇ……ええええええ……マジこれ、粘土にしか見えんな……ていうか、うーん……これ、実際はやっぱただの粘土で、表面にC-4って書いてあるだけって可能性ないん?」

「ありうる。それは。うん。ありそう。C-4はあまりにも有名やから、とりあえず混乱させるとか、そういう目的で。ただの粘土とかでも、使いみちはあったりすんのかも」

「これってでも、簡単に見分ける方法とか、あったりするもんなん?」

「なんか昔は、甘い味とかしたらしいけど。本物のC-4は。でも最近のC-4って、人間にとっては毒になるような感じのもんとか混ざってるから、なめたりかんだりしたら絶対あかんっていう」

「へええ……」

「ところでこれさあ。こっちのビックカメラのやつって、もう要らんやんな?」

「えっああ、うん。要らん」

 まゆみはあぐらをかいて座り、ビックカメラの箱をビリビリに破き始める。そして破片を自分のリュックに詰め込む。


 簡単には爆発しない……


 だからこそ、あらゆるところに……あらゆるところ……


 あらゆる? 本当に、あらゆるところ?


 例えば、クジラも?


 まゆみは私を安心させるためにそんな風に段ボールを破いているのだろうか。

「とりあえず、駅のコインロッカーに入れとこ。これ。ちょっと重すぎる。あと危なすぎる」

 まゆみは無言でうなずく。

 私はふんっ、と声をあげて箱を持ち上げる。

 さっきの車のほうを振り返るが、やはり変化はない。

 もう私がここに戻ってくることはないだろう。


 私は歩き始める。

 重すぎるので、どうしてもゆっくりした足どりになる。

 爆弾。プラスチック爆弾。これが? これが爆弾?

 いま私は、爆弾を持ち歩いているのか?

「やっぱり……あれちゃうん。単に混乱させるだけなんちゃうん。これはただの粘土で……いくらタイダル・カテドラルでも、本物の爆弾を日本に持ち込んだりする?」

「なんか春休みあたりやったか、日本の自衛隊の中にもな。タイダル・カテドラルの信奉者(しんぽうしゃ)がいるとか、そういう感じのネットニュースの記事な。見かけた気はすんで」

 まゆみは相変わらず冷静に答える。

 なるほど、自衛隊の中に。


 もしタイダル・カテドラルの中に元自衛隊員がいたら、私の動きをどう思うのだろうか。


 私はふと気づく。

 だりあなら。もしだりあだったら。同じことを思いつくのではないだろうか。

 私が今日、やったこと。

 段ボール箱の入れ替え。

 というより、私が何を思いつくのかということを、だりあは一番推測しやすい立場にいるといえるのではないだろうか。


 この段ボールは、すでにだりあによって入れ替えられたものという可能性はないだろうか。

 そういえばさっき、地下街の郵便局でだりあが見ていたような気がする。

 そうだ。だりあはあの映画の内容を知っているのだ。

 だりあなら、私が段ボールを何のために購入しようとしているのか、すぐに分かるかもしれないのだ。

 きっとだりあは、あの公園の木にもカメラを仕掛けていて、遠くで私とタイダル・カテドラルの両方の動きをチェックしていて……


 でもこの可能性をまゆみに言っても、混乱させるだけかもしれない。


 だめだ。もう手が限界だ。


「ごめん! 交代! まゆみ、持って」

「オッケーオッケー任せときなさい」


 まゆみは余裕(よゆう)しゃくしゃくという構えで段ボール箱を受け取る。


 それにしても、あの映画はいったい、何なのだろう。

 そもそもあの映画を観るというのは、だりあが誘導したのではないだろうか。


 いや、待て。それはない。あの時、本屋で雑誌を立ち読みするまで、私はあの映画の存在を知らなかった。いや、タイトルは知っていたのだが、だりあと結びつけて考えることはなかった。私が昨日、どの雑誌を立ち読みするのかなんて、だりあが誘導できるわけがない。


 だりあが誰かを誘導しているというより、だりあとタイダル・カテドラルは対等な関係で密接に連携しているという可能性はないだろうか。

 例えば、特設(とくせつ)サイトで語られていた、26000年に一回だけ誕生する「ジェネルベフト型ジェネルベフト」を探し出すという、タイダル・カテドラルの新しい目的。

 これが誰なのかは最初からもう決まっているのではないのか。

 これから探し出すという話ではなく、だりあのことなのではないのか。


 タイダル・カテドラルはこれまで、明確な広告塔を持っていなかった。

 そういう役割の人を用意したとしても、短命に終わることが多い。

 生涯にわたって広告塔をやり続けてくれそうな、若い才能を求めているのではないか。


 だりあを、新しい時代を象徴する何かとして祭り上げるつもりではないのか。


 JRの駅に着くと、すぐに爆弾の入った箱をコインロッカーに入れる。

 果たして今日、何度目のコインロッカーの利用だろう。

 この駅のコインロッカーの歴史の中では、最も危険なものかもしれない。


「これ、あれやな。万が一、ここで爆発してもうたら。私のスマホも、おじゃんかもな。いったん、出すで? スマホのほう」

 私はうなずく。


 それにしても、疲れた。

 ひとまず、あれは爆弾ではなかったのだ、と思うことにしよう。

 あれは本当は、粘土なのだ。

 粘土だから、まゆみも本当はスマホが爆風でやられるかどうかなんて、気にする必要がないのだ。

 誰かが誰かを、混乱させようとしているだけだ。

 誰が誰を混乱させようとしているのかは、まだ分からない。

 本物のC-4かもしれないという連想が生まれるような、ただの粘土による混乱。


 もちろん、少なくともひと箱については、実際に私の手元にある。


 私が意識的に誰かを混乱させたりすることも、できるのかもしれない。


 私は駅前に同じ学校の生徒がいないことを確認する。

 私とまゆみは駅前のバス停のベンチに座る。

 座るとほとんど同時に、大きなくしゃみの音が聞こえてくる。


 5秒くらい経って、再び大きなくしゃみ。


 うん。実に良い響きだ。

 私は音の発信源のほうを見る。

「んん?」

 駅前にいる人物を凝視(ぎょうし)する。

「んんん?」

 外国人の男性。

 今、この男性がくしゃみしたのだろうか。

「どした」まゆみは表情を変えずに聞く。

「あれ……たぶん……会長やわ……」


 間違いない。YKDG会長。


 実物を見るのは初めてだ。

「えっと……? ええっ? YKDGの?」

「そうそう」

 こんなところで何をしているのだろう。

 若い外国人男性3人と、立ったまま何か話し込んでいる。

 というより、話しているのはこの若い3人だけだ。

 3人のうち1人は、黒人だ。

 全員YKDGのメンバーなのだろうか。

 会長は、もう一度くしゃみが出そうで出ない、という状態が続いている。


 くしゃみの衝撃で、さっきの爆弾が爆発してしまったりしないだろうか、とふと考える。いま爆発してしまうと彼らにもケガを負わせてしまうかもしれない。

 でもC-4は振動では爆発しないんだっけ。

 いやでも、会長のくしゃみには何か特殊なパワーが備わっているような気がしないでもない。


 会長の左手の小指には、直径2センチか3センチくらいの赤い球形のものがくっついているように見える。

 よく見ると、それは指輪だった。


激写げきしゃ!」

 まゆみはそう言って会長たち4人の男性を写真におさめる。

 シャッター音とほとんど同時に、大きなくしゃみの音。

 5秒ほど経ってから、もう一度大きなくしゃみの音。

「あの指輪ってさあ……なんなんやろ」

 私がそうつぶやくと、まゆみは会長の左手をアップにしてもう一枚。

「激写!」

 赤い球形のものを画面上で拡大して確認しながら、まゆみは心配そうに言う。

「これってでも。あれちゃうん。私らがYKDG会長に興味を持ってるってことは。知られんほうがええんちゃうん」

 確かにそのとおりだ。

 YKDG会長がこれからどこに行くつもりであるのかは、とても気になるところではある。

 でもとりあえずは、自分たちの安全を最優先だ。

「そういえばそうやわ。これはまあ、あれやわ。変な指輪が珍しかっただけであって。どこの誰かとかそういうのは知りまっせーん」

 まゆみは何も答えず、しばらくスマホのカメラ機能を使って会長の手元をじっくり確認する。そして「知りまっせーん」と言うと同時に最後の写真を撮り終え、スマホをポケットに入れる。

 私とまゆみが話している間も、何度も何度も大きなくしゃみの音が周囲に響きわたる。

「ていうかあの会長さん。日本に来てから、くしゃみしかしてへんっていう説ない?」

 私はつい、大きな声で笑ってしまった。


 駅前には同じ学校の生徒はいない。というより、中高生は私とまゆみだけだろうか。

 会長がここにいるのは、予測しようと思えばできたのかもしれない。

 クジラを目指して日本に来たのだから。


「あっ、この鳥。この鳥、なんて言うんやったっけ」

 まゆみはいつの間にかまたスマホを取り出している。会長たちがいる方向とはまったく別の方向にスマホのカメラを向ける。

 まゆみが向いている先には、体の大部分が青い鳥がいる。

「分からん」私はそっけなく答える。

 デジカメが壊れてしまい、スマホのカメラをなるべく使用しないという抑制はどこかに行ってしまったのかもしれない。

「なんか小学校のころって、あんま見かけんかった気がすんねんよな。この鳥。気のせいかもしれんけど」

 まゆみはそう言って何枚か写真におさめる。

 そうしている間も相変わらず、会長のくしゃみの音が響きわたる。

「いま撮ったん、見ていい?」

「どうぞどうぞ」

 まゆみはスマホを私に手渡すと、立ち上がって大きく伸びをする。


 鳥の写真をしばらく見てから、YKDG会長の写真に戻る。拡大して指輪を見てみる。この赤い球形のものが何なのか、さっぱり分からない。

 さらに何枚か戻っていくと、さっきだちゅらさんと3人で撮った写真。

 おお、忘れていた。こんな風に写っていたのか。


 左から、私、だちゅらさん、まゆみ。


 うちの学校の同級生に見せたら、ほとんどの人は真ん中でピースサインしているのはだりあだと思うだろうな。

 あるいは、同級生の中にもだりあの顔を忘れている者がいたりするだろうか。

 私は写真を拡大して、だちゅらさんの顔をじっくり確認してみる。


 やはりこれは……


 これは本当はだりあなのではないだろうか。


 木曜日の電車の中からのことは、何もかも嘘なのではないだろうか。


 私は本当はずっとだりあと話していたのだという可能性について考える。

 でも、どうしてだりあは嘘をつくのだろう。

 私を傷つけるためではないと信じたい。

 きっと何か、事情が……


 私はあらためて写真を見る。


 あるいは、この写真の人物は確かにだちゅらさんではあるのだが、実はもうだりあは死んでいるということはないだろうか。

 だりあがもうこの世にはいないという事実から気をそらせるために、わざと電車の中で私に接触して……


 あるいはやっぱり、あのクジラはだりあなのだ。

 だちゅらさんは、そのことを知っているのだ。


 そうだ! だちゅらさんがだりあを運んだという可能性はないのだろうか。


 なぜその可能性を考えなかったのだろう。


 だりあはクジラになった時、まださほど大きくはなくて。

 もし、山の上に運ばれてから巨大化したのだとしたら?

 それなら、運ぶのは比較的容易だ。

 運ぶ時のことを誰にも目撃されていないのがなぜなのかの説明もつく。


 ある朝だりあが目覚めると、ベッドの上でクジラになっている。クジラの形はしているが、まださほど大きくはない。だちゅらさんは最初に異変に気づくが、だりあは家族には黙っていてほしいと告げる。だちゅらさんはだりあとそっくりなのを利用してうまく一人二役をこなしながら、だりあがクジラになってしまったことが誰にも知られないように周囲をあざむく。でもだりあは、単にクジラになっているだけではない。少しずつ巨大化もしているのだ。ある日だりあは、もうこのままでは駄目だ、山に自分を捨ててきてほしいと頼む。だちゅらさんは、そんなことはできないとこばむ。いずれにせよいつまでも家にはいられないと言うだりあ。そして先週の日曜、あるいは土曜日の深夜あたりかもしれない、ついにだちゅらさんは、あきらめる。2メートル50センチを超えるまでになっただりあを運び出す決心をしたのだ。だりあの希望で、学校の裏がいいということになる。誰にも気づかれずに運び終えただちゅらさん。だりあは、自分の姉に告げるのだ。ここでお別れだね、騒ぎになったとしても、絶対に見にきちゃ駄目だよ、と。だりあは激しく痙攣けいれんをはじめる。だちゅらさんは急いで山を下りる。だりあは巨大化をはじめる。これまでだりあは、巨大化しすぎないように莫大ばくだいなエネルギーを使っていたのだ。すべてをあきらめただりあは、もう巨大化するに任せることにしたのだ。ごめんね、だりあ。ごめんね、何もできなくて。だちゅらさんは泣きながらそうつぶやいて、山を降りていく……


「そういやなーむってさあ。昨日と今日、学校に電話とかした?」

「えっ、あっ、なにって? えっと……学校? 電話って?」

「ほら。休むの」

「えっああそうか。うん。電話は。してへんなあ」

 そういえばそうだ。

 学校には休むという連絡は一切していない。

 急に現実に引き戻され、頭が混乱する。


 だりあが、あのクジラなわけは……ないよな。


 でもだちゅらさんは、あのクジラがだりあかもしれないと思ったことは一度もないのだろうか。

 そういえば、だりあはだちゅらさんのことを家でなんと呼んでいるのだろう。


 再び、3人が写っている画面に目を戻す。

 さらに1枚、戻る。

 少し引いたアングルの3人。


「あっ……あっ!」


 私は重大な可能性に気づく。

「どした」

 まゆみは表情を変えない。

 途方もないことに気づいてしまったかもしれない。

 私は写真の中の、自分の姿をゆっくりと拡大していく。


 間違いない、これは。


 この、しゃがんだ私の、ヒザの上にのっている白い紙。

 紙の3分の1ほどが写っている。

 そう、写っているのだ。

 写真の中に。

 デジタルデータの中に。

 写り込んでしまったのだ。

 だりあの漫画が。

 線のタッチなどはよく見えない。

 でも確実に、だりあの描いた線の一部は、写真に写り込んでいる。


 これまでずっと、誰かが写真を撮ろうとしている時は細心の注意をはらってきた。でもさっきはだちゅらさんという、慣れない要素が加わって注意が散漫さんまんになっていた。


 まゆみがスマホをのぞきこむ。

「まゆみ、これ……。この、ヒザの上の」

 まゆみはスマホを手にとって、写ったものをよく確認する。


 しばらく静かだった会長は、くしゃみを再開する。


「これって。コピー……やんな」まゆみは静かに言う。

「えっ? ああ、うん。そう。オリジナルの原稿は、まゆみの家にあるはず。これ……『ふぁむふぁむクンの発生と死』って名付けたやつで……」

 まゆみは無言で拡大したり縮小したりして、何度も何度も確認する。

 一部分しか写っていないから、この写真だけではどの作品かまではまゆみにも分からないはず。


「コピーが写っただけやし、半壊はんかい程度におさまってくれへんかな」

「えっ?」


 ハンカイ?


 阪堺? 半壊? 半壊テード?


 ああ、そうか。半壊程度。うん。


 そう。だりあの作品をデジタル化すると、宇宙が消滅する。

 でもさっきデジタル化してしまったのはオリジナルの原稿ではなくコピー。

 だから、全壊ぜんかいではなく半壊はんかいぐらいになってくれないか、ということか。

 だがどうなのだろう。それは希望的観測というものではないだろうか。

 半壊程度ですむという保証など、どこにもないのではないだろうか。


 まゆみはリュックからアルミホイルを取り出して、スマホをぐるぐる巻きにし始めた。


「なにしてんの?」

「電波を遮断しゃだんしてんねん。こうすりゃ、できるんやろ? 遮断。電波」

「そうやけど……」


 まゆみはどんどんアルミホイルを巻いていく。

 50センチくらいを出して、出た部分を手で何度も握ってシワをつけてからスマホに巻きつける。そしてまた新たに50センチくらい出して、シワをつける。巻きつける。これをずっと繰り返している。


 私は黙って手際のよいまゆみの手付きを見つめる。


 時々、会長のくしゃみの音とシンクロしているように思える時もある。


 やがてアルミホイルの(かたまり)広辞苑(こうじえん)ぐらいの大きさになる。

「うっし……行くかぁ」

 まゆみはうめくようにそう言うと、アルミホイルのかたまりを両手でかかえたまま、歩き出す。

「あっちょっ待って」

 私も自分のスポーツバッグを手にとって、まゆみを追いかける。

「おーいどこ行く?」

 まゆみは何も答えない。

「ちょぉー、歩くの速いって」


 会長のくしゃみの音が、少しずつ遠くなっていく。


 まゆみは無言のまま歩き続ける。

 10分くらい歩いたあたりで、私は息があがり始める。

 途中で「イノシシにエサをあげないで」という巨大な看板の前を通り過ぎる。


 だめ、速いって。


 坂が急になってくる。

 後ろを振り返ると、町並みが見える。

 うちの学校の校舎も見える。

 遠くに海も見える。

 もうちょっと歩きやすい靴をはいてくればよかっただろうか。

 再び、「イノシシ注意」の看板。

 もし今イノシシが突進してきたら、私はひとたまりもないかもしれない。

 ところどころ、枯れ葉が大量に落ちている箇所を通り過ぎる。

 特定の種類の木だけが枯れかかっているようにも見える。

 今って、そういう時期なんだっけ?

 春なのに?


 あるいは、これは……


 宇宙の半壊はんかいがすでに始まっているということだろうか。


 舗装ほそうはされているものの、少しずつ、山道やまみちといえるようなところに入ってくる。

 もしかして、クジラのすぐ近くまで来ているのだろうか。


 まゆみはふと立ち止まり、腕を組んだまま登山道のような道の入り口を見つめている。

 私は疲れて座り込む。

 まゆみはどうするつもりなのだろう。

 登山道に入るのか、入らないのか。

 まゆみは黙ったままだ。


 もしまゆみが登山道に入っていこうとしても、私は行かないという選択肢もある。


 これは大いなる分岐ぶんきかもしれない。


 私はどうするべきだろう。


 ふと、ジェネルベフト分岐という概念がいねんのことを思い出す。


 ショットガン・プロファイリングはジェネルベフト型の性格という枠を超えて広がった概念がいねんである。同じようにジェネルベフト分岐ぶんきもまた、ジェネルベフト型の性格そのものには強い関心を持っていないような広範囲の研究者に影響を与えた概念である。


 ジェネルベフト分岐とは、遺伝的に似通った特徴を持つ2人が、別々に育った場合はある性格の要素が双方に発現し、一緒に育った場合は片方にのみ発現はつげんしやすくなる現象のことだ。

 このような分岐が起こるのが、ジェネルベフト型の性格以外にも様々な性格要素において発見され、ジェネルベフト型の性格とまったく関係のない性格要素についてもジェネルベフト分岐と呼ばれるようになった。


 このようなジェネルベフト分岐は、親子間などにおいても見いだせると主張する研究者もいる。

 例えば、親がジェネルベフト型の性格だった場合、その親の元で育った子供はジェネルベフト型の性格になる可能性が少し下がる。

 逆に、親がジェネルベフト型の性格でない場合、その親の元で育った子供はジェネルベフト型の性格になる可能性が少し上がるのである。

 ただし、親子間の場合はまず単純に世代の違いがあり、親子にもジェネルベフト分岐の概念がいねんを適用するのは慎重であるべきと考える人も多い。


 まゆみは銀色のかたまりを両手で大事そうにかかえたまま5分ほど考えたすえ、その登山道に入っていく。


 どうしようか。

 ふと、視線を感じる。

 もしかして、だりあ? だりあが、いる?

 どこかでだりあが、私やまゆみのことを見ている。

 そんな気がする。


 私はあたりを見回すが、人の気配はない。

 私はメガネを外してポケットに入れる。

 そして私も立ち上がり、登山道に入る。

 舗装ほそうされた道はここで終わりだ。


 こんなところに入っていって、戻ってこれるのだろうか。

 私は山道の中を時々振り返って、戻る時のための道を確認する。

 ところどころ、木にテープが巻き付けてある。巻き付けてから何年も経っていそうなものが多い。帰るとき、目印になってくれるだろうか。


 しばらく登山道を登ると、少し(ひら)けた場所。

 ベンチが2つ、置いてある。

 海が見える。

 まゆみはリュックとアルミホイルの巨大なかたまりをベンチに置く。

 私はスポーツバッグを地面に置き、もう一つのベンチのほうに寝っ転がる。

 もうあたりは暗くなってきている。


 まゆみはしばらくベンチに座ってぼんやり何かを考えてから、つぶやく。

()き火でもすっか」


 えっ焚き火?

 ここで?


「焚き火台、持ってきてるし」

「えっと……焚き火台? そんなん……ここで広げて大丈夫?」

「うん? こういうやつやで」

「え、ああ……そういう……」

 まゆみは手のひらサイズの焚き火台をリュックから出した。

 もっとこう、折りたたみ式になっていて広げると巨大なものになるような。

 そういう何かを想像していたのだが、まったく違ったものだった。

 まゆみが持っているのは、直径10センチくらいの円柱形だ。

 まゆみに焚き火台だといわれないと、そういう主旨のものだとは気づかなかっただろう。


 まゆみは地面の上にそのミニサイズの焚き火台を置き、手際よく金網をセッティングしていく。


「なんかそれ、あれやな。新手あらてのスマホ用のスピーカーとか言われても信じてまうかも」

「ふふ」

「それ、持っていい?」

 私はアルミホイルのかたまりを指差す。

 まゆみは「ああうん、どうぞ」と言う。

 私はそのかたまりを手にとって、軽く振ったりしてみる。

「意外に、軽いなあ」

「うん。まあ、アルミホイルとスマホだけやしな」


 まゆみは()き火台に火をつける。

 まだ真っ暗とはいえないからか、火はそんなに目立たない。

 でももうちょっと暗くなったら、それなりに目立つものにはなりそうだ。

 そうは言っても、もうこの時間帯に誰かがこの近くを通りかかったりしそうな気配はほとんどない。


「置くで?」

 私はアルミホイルのかたまりを両手で持ったまま言う。

 まゆみは黙ってうなずく。

 私はゆっくりと、金網の上にアルミホイルのかたまりをのせる。


 アルミホイルのおかげで、すぐにはスマホに熱は伝わらないはず。

 でも、このまま熱し続ければ、確実にもうこのスマホは使い物にならなくなるだろう。

 バッテリーにも熱が伝わり、どこかの時点で爆発するかもしれない。


「宇宙が……半壊はんかいしても、な。私らって。それに気づくことができへん可能性もあるな。完全に消滅してもうたら、それはそれで宇宙そのものがないわけやから消滅したことに気づくこと、できへんわけやし。半壊はんかいの場合でも、すでに半壊はんかいしたってことに気づかんと過ごしてる可能性って、ありそうやな」

 まゆみはそれには何も答えない。


「まあ……どうせ中古のやすもんのスマホやし。水没したから捨てたとか、親には適当にうわ。あるいは、あえて同じモデルのんまた中古で買って、電池が熱くなるかどうか、試してみてもいいかも」

 まゆみはそう言って笑う。


 私はふと、コインロッカーのカギをどこに入れたか分からなくなっていることに気づく。

 私はスポーツバッグの中をまさぐってみる。少し硬い感触。いつもはカバンに入れていないものだ。手で触った感じでは何なのか、まったく見当もつかない。

 取り出してみると、昨日レンタルしたDVDだった。すっかり忘れていた。


 DVDを取り出すのとほとんど同時に、ロッカーのカギは服のポケットに入れていたことを思い出して安堵あんどする。

 DVDを右手に持ち、左手でコインロッカーのカギが2つポケットにあることを確認する。

 一つは、阪神の駅。私のスマホ。

 もう一つは、JRの駅。粘土が入った段ボール箱。


 私はDVDを手にとってながめる。

 別に持ってくる必要はなかった。

 透明のケースには、セロテープで伝票が貼ってある。

 私はディスクを取り出して、表面をチェックする。

 キズがないかチェックしたり、鏡のように映りこんだ自分の瞳を見つめたり。

 そして焚き火台の炎もディスクに反射させてみる。


 しばらく鏡像の炎をながめていると急に風が強くなって、ディスクが吹き飛ばされる。

「ああっ! もう」

 私は転がっていくディスクを追いかける。

 ディスクをキャッチすると同時に体勢がよろめきかけるが、何とか持ち直す。

 派手に転がっていったものの、表面に目立つキズなどはついていないことを確認する。


「あんな、なーむ。ルーズリーフって。持ってるやんな?」

「ああ、うん。あるある」

「そのルーズリーフって、今日はまだ一回も使ってへんやんな?」

 私はうなずきながらディスクをDVDケースにセットして、バッグの中に入れる。そしてB5のルーズリーフを一枚取り出してまゆみに手渡す。

 まゆみはルーズリーフを受け取りながら言う。

「そのDVD……普通のレンタルやんな。それは私が返却しとく」

 私はまゆみの顔を見つめる。

 思いがけない提案だったが、確かにまゆみに返却してもらったほうがいいのかもしれない。

 私はDVDを再び取り出してまゆみに手渡す。まゆみはDVDケースを手に持ったまま、自分のリュックからボールペンを取り出す。

 私はついでに、ポケットからコインロッカーのカギも取り出す。

 粘土のほうではなく、私のスマホ。

「あのさ、このさ。私のスマホのほう。阪神(はんしん)の駅のほう。これ。どっかに水没させといて。どこでやんのかは、任せるわ。たぶんな、私じゃなくてな、まゆみがやったほうがええなあって。なんかくくりつけてな、絶対に浮かび上がってこんようにしてな。川がええのか、海がええのか、ちょっといま分からんけど。そのへんは任せるわ」

 まゆみは真剣な顔でうなずく。

 そしてコインロッカーのカギをリュックに入れる。

 まゆみは腕を組んだまま、しばらく無言でペンまわしを続ける。

 ルーズリーフをじっと見つめている。

「描いとくで。このあたりの。地図。クジラのあたりがどのへんか、とかそういうのも。水曜日にいろいろこのへん探索たんさくして、だいたい頭に入ってるし。警備が多い場所とか、少ない場所とか。水曜日から状況変わってるから、推測もかなり入ってまうけど」

 まゆみはDVDケースを下敷きにして、B5のルーズリーフに地図を描き始めた。

「ああ、うん。ありがと。地図な……うん。地図。地図あると、助かる。そうやなあ……そういやさあ、変なアプリ、入ってるかもぉーーって。それって、いつごろから思っとったん?」

「うん? いやいや……なーむがったからやん」

「なにを?」

「いやだから、スマホって変なアプリがあるからって。だから自分はガラケーでええんやって」

「そうやったっけ?」

「ええっ? ていうか中1ん時にめっちゃってたって。スマホはそういうアプリを簡単に入れられるから。なーむがそううから、あの発熱の原因も、もしかしたら親が変なアプリ入れてるからかも、て思い始めたわけやん」

「いや……ったかもしれんけど……」

「いやいやいや。めっちゃ。めっちゃっとったで。もう。かなり」

「そうかなあ……まあ……っとったん、かなあ……なんか、中1ん時に、な。自分の部屋の中でスマホが爆発するという夢をな。3日連続で見たことあって。私はスマホ持ってないのに、なんでこんなって。あん時は3日連続やったから。かなりインパクトあったけど」

「逆にそれは初耳やわ」

 まゆみは再び、地図を描くことに集中する。

 描き始めてから、まゆみが少しだけ焚き火の近くに移動する。

 まゆみがこんな風に真剣に紙に何かを描いている姿を見るのは久しぶりかもしれない。


 まゆみは描き終えた地図を私に手渡す。

 おお、実に分かりやすい地図。


 私はスマホの加熱状況のことが心配になってくる。

「これ……な。こんな風に、な。スマホって。ずっと加熱しとったら。突然、爆発するってこと、ないんかな?」

「あああ……どうやろ」まゆみはしばらく考えてから「ちょっと離れよっか」とつぶやいて立ち上がる。

 私も立ち上がって、少し離れることにする。


 こうして、私とまゆみは火から3メートルほど離れる。

 そして黙って火のゆらめきを見つめ続ける。


 もうあたりは、ほとんど真っ暗といえるくらいになってきた。


 火のゆらめきに合わせて、まゆみの顔の陰影いんえいもゆらゆら動く。


 まゆみからも、私の顔はそういう風に見えているのだろう。


「だちゅらさん、さっき。だりあが性格分類にハマってたってってたな」

「ああ、うん」

「どんな性格分類なのかは、聞くの忘れたけど。意外でもあるし、でもありがちな話でもあるんかもなあ、て。ジェネルベフト型の性格の人はな、ジェネルベフト型性格という概念にかれやすいことが分かってんねん。ただしこれは、アメリカ在住の25歳以上の男性をターゲットにした調査やから、果たして日本で生まれ育ったこうこうせ」

「いやうんそれは分かった。うん、それでな。今晩って、どうするわけ? あの、謎の粘土は。あれは、あのまま? コインロッカーに入れっぱなし?」


 私は何も答えず、しばらく()き火台の炎を見つめる。

 そしてポケットからコインロッカーのカギを取り出して、手のひらに乗せる。

「人が死ぬのはナシやで」

 低いトーンでまゆみがつぶやく。


 そうだね。


「誰も……死なんて」


 一瞬だけ風が強くなって、炎が(あわ)ただしく踊る。


 まゆみの顔が見えにくくなる。


「死体農場って知ってる?」


 まゆみは黙って首をふる。


「小学校んとき、雑誌でな。その死体農場の写真がな。2ページ見開きの写真で載ってて……死体農場ってのは、実際に人間の本物の死体を放置する実験場みたいなやつで。死体にむらがる昆虫とか細菌とかそういうのから、死亡した時期を推定したりするための研究。犯罪捜査に役立てるっていう。テキサス州かどっかやったと思うけど。あとオーストラリアにもあったかも。この写真がな、もうなんか。もう。目に焼き付いてな。もちろんあれやで、そこの。ちゃんとそこの死体農場に実際に放置してある死体がな、写ってる写真でな……」

「グロい?」

「うーん……グロいっていうのとはちょっと違うっていうか……

 ほんでな、この死体農場な。これ、おもろいのがさあ……まあ、おもろいっていうか、当たり前やねんけどな、希望者だけなわけ。生きてる間に希望した人だけが、そこに行けるわけ。

 生きてるうちにまず死体農場というものがあるということを知ってな、その上でな、自分が死んでからその実験場に自分の死体を提供しますっていう。そういう意思表示をするわけやん。


 んで、な。中1ん時に読んだ本でな。日本では大昔、人間の死体が腐敗ふはいしていったりするのは、そんなにむべきものとみなされていなかったかもしれないってのがあって。家族が死んでもな、山の中に死体を放置するみたいな感じで。風葬ふうそうみたいなことする場合も、あったって。毎日のように登ってる山の道の途中にな、自分の家族の死体があったりするわけ。家族がちょっとずつ腐敗していくのを横目に見ながら、登っていったりとか。


 それ読んだ時にな、なんか。小学校ん時に見た雑誌の死体農場の写真、思い出してな。イメージが混ざるっていうか。


 実は大昔、日本中に死体農場があったとしたら、おもろいのになあ、て。

 日本中の山が、死体の腐敗のための研究に使われとって。

 そういう研究のために自分の死体を提供するのが当たり前やったとしたら、おもろいのにって。

 全員がそうやから、もう、そこに疑問を持つとかありえへんわけ。


 なんか昔はさあ。その……科学的知識っていうか。科学的な視点自体を、権力がさ、こう。権力が、独占しとったわけやん。

 そんなにうほど昔じゃないような、例えば1000年くらい前やったらな。日食になるタイミングとか。そういうのも。

 なんかいくさとかでさあ。今日が日食になる日ぃやってことをあらかじめ知ってた側が勝った、とか。あるわけやん。


 だからな、なんかな。日本中の山が死体農場やったって仮定してもな、今の時代の観点からみたら、そんなんするメリットないわなあ、ていう感じには、なるけどな。

 でも例えばな、ある時代にはな、死亡した時期がいつごろかっていう、そういうことを判定すんのがな、なんかもう、極めて重要な意味を持つ、みたいな。そういう状況がもし、あるとしたらな。

 まあ、それってどんな状況やねんって感じではあるけど。

 それがどんな状況なんかは知らんけど、でももしな、そういう前提があったとしたらな。

 それぞれの集落が競って正確な死体鑑定(かんてい)技術を持つために、死体の腐敗状況を研究してな。

 で、より正確な鑑定スキルを獲得した集団が生き残っていってな。他の集団を併合へいごうしていったりとかしてな。


 ほんで時が経つにつれて、そういう鑑定スキルはあんまり必要のないものになっていったりしてくるとな、そういう知識が少しずつ忘れられていったり、とか。

 何のために山の中に死体を放置したりすんのかとか、そういうことすら、分からんような世代が出てきたりとか、してきて。

 そうやって、考えていったらな。

 なんか理屈っていうもんってな。こう、あとから結構、強引につけられてまうなあ、とか思って」


 まゆみは何も答えない。

 私とまゆみはしばらく()き火の炎を見つめる。

 私は、まゆみの顔をこっそり盗み見る。


「その、中1んときに読んだ本って。覚えてる?」

「ああ、うん。タイトルは、忘れたけど。探したら絶対、家にあるから。また、貸すで。まゆみに。どの本か、分かったら」

「これからの……今日のな、これからのなーむの行動に、な。私はあんま、制限を加えたくないっていうか。約束してまうと、制限になるかもしれんから。だから、私がなーむからその本を借りる日が来るんやとしたら、その日を楽しみにしてる、ていうことはっとくわ。約束じゃなくて、な。あと、ジェネルベフトの本も。借りたままやし。あれもまあ、返せる日が来るんやとしたら、その日を楽しみにしてる」

「ははっそういえば貸しとった。すっかり忘れてた」

 そうだすっかり忘れていた。あのハードカバー。

 でももうすぐ改訂版が出る。古いものはもう、あげてしまってもいいのかもしれない。


「私は天気予報をチェックしてただけ」


 まゆみは小声でつぶやく。


「木曜日になーむがクジラを見られへんかったことは、たぶんなんか意味がある」


 私は何も答えない。


「なーむがすべきことは、なーむにしか分からない」


 やはり私は何も答えない。

 すべきこと。うん。

 また少し強い風がふく。焚き火台の炎がゆらめく。


「小説でも書くかなあ」


 私の唐突とうとつな宣言に、まゆみは笑いながら私の顔をのぞきこむ。


 いや、うん。

 分かっている。

 これも。ジェネルベフト反応、あるいは、ジェネルベフト反応の副次ふくじ的な反応の一種であるとみなす人がいることも、私には分かっている。


 そう、ジェネルベフト型の性格の人が身近にいると、人は小説を書きたくなるのだ。

 その人を題材にした小説を書いてみたいという強い衝動(しょうどう)

 このため、ジェネルベフト型性格の人物は小説家をつくる存在である、と表現されることもある。


 最近イギリス人の歴史学者が出版した本の中に、様々な国の様々な時代の小説家について書かれた本がある。

 そこで紹介されているすべての小説家について、その処女作や代表作が書かれる直前にジェネルベフト型性格の人物との出会いがあったのだと主張している。

 最も古い例として『源氏物語』が挙げられている。


 ただし、この歴史学者の本は、強引な推測や飛躍が多すぎるとして、大きな議論を巻き起こしている。


 なお、この歴史学者は、いざ小説になるとジェネルベフト型の特徴が消えてしまうのだと主張している。

 そのため、完成された小説を読んでも、モデルとなった人物のジェネルベフト型らしさを読み取ることは難しいのだという。

 そしてこのことが、ダグラス・ジェネルベフトが提案するまでなぜジェネルベフト型の性格は発見されることがなかったのかという謎の答えになるとしている。


 そう、これはジェネルベフト型の性格を考える上での最大の謎ともいわれているのだ。

 ジェネルベフト型の性格はその概念がいねんを理解することが難しいとされているが、いったん理解してしまえば、ああ、そういえばこういう人いるなあ、と誰もが感じる。

 そう感じるからこそ、人類史において今まで誰もジェネルベフト型の性格というものを指摘してこなかったことが、まったく信じられないのである。


 一体なぜ、誰もこの分類を思いつかなかったのか?


 なぜこの性格要素を抽出ちゅうしゅつすることができなかったのか?


 その答えが、小説という営みの特性にあるというのだ。

 古今東西ここんとうざいの有名小説をいくら入念に読み込んでも、モデルとなった人物のジェネルベフト型らしさというのは、さっぱり分からない。

 これこそが、発見が遅れた最大の要因だというのだ。

 なお、ダグラス・ジェネルベフトが姿を消してから発表された、ジェネルベフト型性格の概念に影響を受けて書かれたと思われる多数の小説も分析した結果、たとえ作者がジェネルベフト型性格の概念がいねんを正確に理解していたとしても、やはり小説になると特徴が消えてしまうのだという。


 また、この歴史学者は自分でも小説を書いており、ジェネルベフト型性格の特徴が消えないように慎重に小説を執筆するということを何度か試みた。しかし、強引にジェネルベフト型の性格の特徴が分かるようにしようとすると小説が崩壊してしまい、何度やっても完成に至らなかったと主張している。

 この経験から、ジェネルベフト型性格の特徴を強引に組み込もうとすると小説が崩壊してしまう現象のことを、この歴史学者は「ジェネルベフト崩壊」と名付けている。

 ただし、この概念がいねんはあまり広く受け入れられていない。


 なお、この歴史学者の主張を受けて何人かの小説家が「ジェネルベフト崩壊など存在しない、自分なら崩壊せずに完成に導ける」と宣言して小説を書き始めたが、これらの作品はまだ発表されていない。また、なぜ発表されないのかを誰も公表していない。このため、やはり実際に小説が崩壊するのではないかと考える人が増え始めている。


 もし、この歴史学者の言うことが正しいとしたら。

 私がだりあのことを小説に書こうとしても、やはり小説が崩壊してしまうというのだろうか?

 あるいは、崩壊が起こらないように注意して書こうとすると、ジェネルベフト型の特徴がきれいさっぱり消えてしまうのだろうか?


 だがこれは、やってみなければ分からないだろう。


 きっと、私なら。

 もし私がだりあのことを書くんだったら、崩壊なんてしないのでは?

 だりあという存在が。


 私とだりあの存在が、世界で最初の反例(はんれい)ということになるのでは?


 だりあの存在。だりあの生きた証。だりあのジェネルベフト型らしさ。

 そのすべてを。

 すべてを小説の中に。


「小説なあ。どんなん? 私も、登場すんの?」

「えっ……うん。そうやなあ……まゆみも……登場してまうかもしれんなあ」

「してまうかも……しれんかあ」


 私とまゆみは、黙って炎をみつめる。


「まゆみ、あんな」

「うん」

「ここから先は、な。まゆみは、知る必要はないし。今日、これから、私が何をするか」


 まゆみは黙ってうなずく。


「まあ、知ってしまったら、それはそれでしょうがないねんけどな」


 まゆみは再びうなずく。


 私は目を閉じる。


 私は、まゆみがゆっくりと立ち上がる気配を確かめる。


 まゆみの声が頭上から聞こえる。


「この()き火台は、うん。なーむに、あげる。まあ、消耗品しょうもうひんやしな」

 まゆみはベンチのほうに歩いていく。

 そして、おそらくはデジカメや燃料や懐中電灯や予備の金網や本の道路地図など。

 そういったものもベンチに置いていく音が聞こえる。


 私は目を閉じたまま、まゆみの行動をずっと見つめる。


 ベンチに多種多様なものをひととおり並べ終わると、何も音がしなくなる。

 私は目を閉じたままなので、まゆみがどんな様子なのかは分からない。

 遠くでバイクの音が一瞬だけ聞こえるが、すぐに遠ざかっていく。


 またしばらく、静かな時間。


 もしかして、まゆみはふっと消えていなくなってしまったのではないかと思い始めたころ、まゆみはようやく歩き始める。


 20歩くらい歩いたところで、いったん立ち止まる。

 そしてまた歩き出す。

 さっきの舗装された道に出る方向へ。


 まゆみの足音は、少しずつ遠くなっていく。

 木の枝を踏んで、パキッと割れる音が聞こえる。


 足音は問答無用で、どんどん小さくなっていく。

 虫の声や、山のふもとからかすかに聞こえる音のほうが大きくなっていく。


 私は、まゆみの足音が聞こえなくなるまで、目を閉じたまま耳をすます。


 完全に聞こえなくなってからも、もしかしたらまだ聞こえているのではないかと思って耳をすます。

 あ、ほら、今、一瞬だけ足音が聞こえた、と思ったら、実際には別の何かの音だということが分かる。


 しばらくして、いや本当はまだ聞こえているのでは、と期待して耳をすます。


 また一瞬、足音のようなものが聞こえたような気がする。


 でもやはり勘違いだったことに、気づく。

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