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無事是貴人



「太平記」土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事(その2)

斯る処に土岐弾正少弼ときだんじやうせうひつ頼遠よりとほ二階堂にかいだう下野判官しもつけのはうぐわん行春ゆきはる今比叡いまひえの馬場にて笠懸射て、芝居の大酒に時刻を移し、是も夜深てかへりけるが、はしたなく樋口東洞院ひがしのとうゐんの辻にて御幸ごかうにぞ参り合ける。召次御前おんさき走散わしりちつて、「何者ぞ狼籍らうぜき也。下候へ」とぞ罵りける。下野判官行春は是を聞て御幸也けりと心得て、自飛下とんでおりかたはらに畏る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや、此比このころ時を得て世をも不恐、心の儘に行迹ふるまひければ、馬を懸けすゑて、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原きやつばら蟇目ひきめ負せてくれよ」とののしりければ、前駈御随身せんぐみずゐじん馳散て声々に、「如何なる田舎人ゐなかうどなれば加様かやうに狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ」とよばはりければ、頼遠酔狂すゐきやうの気やきざしけん、是を聞てからからと打笑ひ、「に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん」と云儘に、御車を真中に取籠て馬を懸寄せて、追物射おふものいにこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重きんしげきやう、御後に被打けるが、衛府ゑふの太刀を抜馳寄せ、「懸る浅猿あさましき狼籍こそなけれ。御車をとく懸破かけわつて仕れ」と、被下知けれ共、牛の胸懸むながい切て首木も折れ、牛童うしわらは共も散々に成行き、供奉の卿相雲客けいしやううんかくも皆打落されて、御車に当る矢をだに、防ぎまゐらする人もなし。下簾したすだれかなぐり落され三十輻みそのや少々せうせうをれにければ、御車は路頭に顛倒てんたうす。浅猿しと云もおろか也。上皇は只御夢の心地ましまして、何とも思召分たる方も無りけるを、竹林院中納言公重卿御前おんまへに参られたりければ、上皇、「いかに公重か」と許にて、軈て御泪にぞむせび座しける。公重卿も進むなみだを押へて、「此比の中夏の儀、蛮夷僭上ばんいせんじやう無礼の至極しごく、不是非候。しかれ共日月未天に掛からば、照鑒せうかん何の疑か候べき」と被奏ければ、上皇すこし叡慮を慰させ御座おはします。「されば其事よ。聞やいかに、五条ごでうの天神は御出を聞て宝殿より下り御幸ごかうの道に畏り、宇佐八幡は、勅使の度毎に、威儀をつくろひて勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代といふからに、懸る狼籍を目のあたり見つる事よ。今は末代乱悪の習俗にて、衛護ゑごの神もましまさぬかとこそ覚れ」と被仰出て、袞衣こんえの御袖を御顔に押当させ御座せば、公重卿も涙の中に書闇かきくれて、牛童うしわらは少々せうせう尋出たづねいだして泣く泣く還御成にけり。


そこへ土岐弾正少弼頼遠(土岐頼遠)・二階堂下野判官行春(二階堂行春)は、比叡の馬場で笠懸け([馬に乗って遠距離の的を射る競技])射て、芝居([酒宴のために芝生に座ること])の大酒に時刻を移し、これも夜深けて帰っていましたが、間の悪いことに樋口東洞院の辻で御幸と出会いました。召次([院御所で雑事に従った下級の職員])が御前に走り散って、「何者だ狼籍([乱暴を働く者])である。馬から下りよ」と叫びました(「罵」は「口+血」)。下野判官行春はこれを聞いて御幸だと心得て、馬から飛んで下り路端に畏りました。土岐弾正少弼頼遠は、御幸も知らなかったのか、この頃時を得て世をも恐れず、心のままに振る舞っていたので、馬に乗ったまま、「この頃洛中で、この頼遠を馬から下ろすとは何事ぞ、そんなことを言う馬鹿者は誰だ。奴ら一人一人蟇目([大形の鏑矢])を射てやろう」と怒鳴ったので、前駆([馬に乗って、行列などを先導する者])御随身([上皇の身辺および御所の警固に当たる者])は馳せ散って声々に、「如何なる田舎人なればかように狼籍を振る舞うのか。院の御幸であるぞ」と叫ぶと、頼遠は酒に酔っていたのか([酔狂]=[酒に酔ってとりみだすこと])、これを聞いてからからと打ち笑い、「なに院と言うか、犬と言うか、犬ならば射て落とすぞ」と言うままに、車を真ん中に取り籠めて馬を懸け寄せ、追物射([逃げる者を馬上から射ること])に矢を射ました。竹林院の中納言公重卿(西園寺公重)は、後方で馬を打っていました、衛府の太刀を抜き馳せ寄せ、「これほど浅ましき狼籍はない。車をすぐに駆け退けよ」と、命じましたが、牛の胸懸([馬牛の胸から鞍へかける紐])を切られて首木([軛]=[牛、馬などの大型家畜を馬車牛車、舵棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具])も折れ、牛童([牛車を牽く牛を飼い、操る者])どもも散々になって、供奉の卿相雲客([公卿と殿上人])も皆打ち落とされて、車に当たる矢さえも、防ぐ者はいませんでした。下簾([牛車の前後の簾の内側にかけて垂らす二筋の長い布])も皆かなぐり落とされ三十輻(車輪)も少々折れて、車は路頭に転倒しました。浅ましいと言うのさえ愚かなことでした。上皇(北朝初代光厳院)はただ夢の心地して、どうすればよいかも知れませんでしたが、竹林院の中納言公重卿が御前に参ったので、上皇は、「公重かどうにかせよ」と申すばかりで、やがて涙に咽ばれました。公重卿も流れる涙を押さえて、「この頃の中夏([都])の様、蛮夷僭上(野蛮人が身分を越えて出過ぎた行いをすること)無礼は極限に達しておりますこと、申し上げるまでもございません。けれども日月はまだ天に掛かっておりますれば、照鑒([神仏、天皇や上皇がご覧になるの意])何の疑いがござましょう」と奏したので、上皇も少し叡慮を慰められました。「そのことだが。聞いておるや、五条の天神(現京都市下京区にある五條天神社)は都を出ると聞けば宝殿([神殿])より出て御幸の道に畏まり、宇佐八幡(宇佐神宮:現大分県宇佐市)は、勅使の度毎に、威儀を繕う([調える])て勅答を申されると聞く。たとえ武臣無礼の時代といえども、このような狼籍を目の当たりにするとは。今は末代乱悪の習俗(世相)にて、衛護の神もおられぬと思ゆる」と申されて、袞衣([竜の刺繡をした天皇の礼服])の袖を顔に押し当てられたので、公重卿も涙の中に掻き暮れて、牛童を少々探し求めて泣く泣く還御されました。

続く


by balatnas | 2023-09-09 08:46 | 太平記 | Trackback | Comments(0)
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