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ID非表示さん
2015/1/18 14:41
沖縄在住者です。こちらの歴史に興味頂き、有難う御座います。 ご指摘の両者が「中国使節歓待」の為に用いられた事は事実で、「国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた」との意味では両者の意図は同じと言えます。 しかし、全く同じかというと、少々異なる部分があります。 朝鮮の迎恩門が中国使節歓待主体意図であるのに対し、琉球の守礼門は「首里城の通常門の一つ」としての役割が大きく関与しています。時代に伴い守礼門の意味合いは変遷していきますので、以下に詳細を記載致します。 ①門成立当時 最初、門は「待賢」の看板を上げていました。この時期は薩摩侵攻もまだの時期で、門の意味合いは海外使節歓待の意味に過ぎません。後に「首里」の扁額が掲げられる様になり、その後6代尚永王の時に「守禮之邦」も使用。 中国冊封使が来ている間は「守禮之邦」看板を掲げ、それ以外の期間は「首里」看板を掲げるという形で使い分けされていました。元々「守禮」は中国皇帝から琉球側に与えられた単語ですから、中国使節歓待時だけ中国側に礼をとり、使節がさった後は通常門の首里を使い分けいていた事になります。 この部分は朝鮮の門とは大きな違いですね。
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質問者からのお礼コメント
詳しい説明ありがとうございます。よくわかりました。
お礼日時:2015/1/19 12:53