幕間 狂乱の誘い

 魂が死んでいる。

 最近そう自覚することが多い。


 日常生活に充実感を得られなくなったのはいつからだろう。少なくとも大学を出て二年くらいは、それなりに人生を楽しめていたはずだ。

 それでも三十路手前になってくると先の見えない不安や日々の仕事、ストレスに押しつぶされそうになって、酒をかっくらって適当な相手を抱いて寝ていた。

 周りはあんなに頑張っているのに、俺より若い奴がうんと稼いでいるのに——それに比べて、畜生。

 三十半ばも過ぎると嫉妬さえ消える。何もかもがどうでもよくなり、場当たり的な会話しかせず、つまらないミスが増え始めた。


 その日も本間昭久ほんまあきひさはコンビニでビールと値引きされた弁当を買って、帰路についていた。店員の、女子大生であろう若い女性が明久を見てあからさまな侮蔑の表情を浮かべた——ふざけやがって、その気になれば手足をへし折って蹂躙できるんだぞ——そう思いながらも、そんなことをする度胸など当然ないので、黙って買い物を済ませた。

 高架線路沿いのうるさい安アパートが自分の寝床だ。

 三十半ば——独身が珍しくないとはいえ、同世代はもっといいところに家を持っている。なぜ俺は……。

 幸せそうな周りが、無性に憎い。親も親類も鬼籍に入るか疎遠となって天涯孤独。友らしい友だっていやしない。

 畜生、なんで俺だけ。

 ……死ぬ前に、なんかでけえことしてえなあ。


 そんな益体もないことを考えながらアパートのシリンダー錠を捻った。

 八畳間ワンルーム。バストイレ付き。単身赴任者用の、築三十年のボロアパート。我が愛しき寝床。

 そこの灯りが、ついている。

 消し忘れ……だろうか。今朝は——いつものことだが——バタバタしていたし。とはいえ今日は朝から快晴で電気なんていらなかった。昨晩消さずに寝落ちしたのか?


「よう」


 居間に入ると、美しい、男でも女でもないような青年が窓辺に座っていた。

 狐の耳、九つの尾。毛先は、血のように赤い。髪は右サイドだけ長めに伸ばされている。

 喉仏が出ているのに、胸はかすかに——Bカップほどの膨らみがある。声は、低かった。


「邪魔させてもらってるぜ。本間昭久」

「な……なんだ、君は……」


 妖怪だ。

 なぜ——その思いが、胸を突く。

 妖怪がみだりに人間に危害を加えないことは知っている。だが、あくまで伝聞系だ。中には悪意のある妖怪だっているだろう。

 人間なんかではどう足掻いても敵わない相手が、平然と自宅に侵入し、値踏みするような目で頭のてっぺんから爪先まで見回している。


「お前の魂は九分九厘死んでるなあ」


 青年は懐から取り出した銀色のケースから紙を取り出し、器用に煙草を巻いて唾で接着し、ジッポーで火をつけた。

 一応この部屋は禁煙だが、言ったところで聞かないだろう。


「でもお前は、いつ死ぬかじゃなくて、いっそ死ぬなら、って考えてるタイプだ。泣き寝入りする前に、でっけえ花火を上げてえって思ってんだろ」


 なんでわかるんだ……。

 青年は紫煙を口だけでくゆらすのではなく、肺の奥にたっぷり吸い込んでから、吐き出した。本格的なスモーカーだ。


「俺と来い。殺す自由を教えてやる。気に食わねえ野郎をボコって手足をもぐ楽しみを教えてやる。ムラついたら女攫って犯せばいい。貧困以外の全てをくれてやる」


 ——ああ。

 とうとう俺にも、悪魔が取引を持ちかけてきた。


 だが昭久は、そこでその甘い取引を突っぱねるだけの精神力など、とうに使い果たしていた。

 コンビニ袋を落としてフラフラと近寄り、青年の袴に縋る。


「僕は……負け犬なんかじゃない」

「ああそうだ。俺たちは負け犬なんかじゃねえ。教えてやるよ、俺らのやり方をな」


 青年は獰猛な、手負いのウサギを前に涎を垂らす狐のような凄絶な笑みを浮かべた。

 まさしく悪魔のような、地獄の底から這い上がってきた魔王の如き表情だった。

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ゴヲスト・パレヱド ― 孤独な鬼は気高き狐に導かれ最強の退魔師を目指す ― 裡辺ラヰカ @ineine726454

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