第2章 修行の幕開け
第8話 休息日の一幕
「にゃあああああああああああああご!」
味噌汁と焼き鮭、だし巻き卵とほうれん草のお浸し、納豆ご飯の朝食を済ませた後、稲尾菘は四尾の猫又少女——
七月二十日の日曜日。燈真が稲尾家に来て十日ほどが経っていた。
退魔局から五等級退魔師資格を受け取り、稲尾家での修行が始まり、先週の木曜日から村立魅雲高等学校の一年二組に通い始めた。新生活をスタートさせたと言っていい。停学の一件に関しては、稲尾家の発言力と燈真の無実が確定的であるという証拠——学校の監視カメラにその姿が映っていたことから明らかとなり、取り消しとなった。
とはいえ、警察の逮捕歴取り消しには至らず、なぜか余罪がある、という見方をされていた。まあそれに関しては日頃の素行の悪さが原因だし、仕方ない。
日曜日は早朝の走り込みだけで、あとは自由と師匠——九尾の柊から言われている。というのも彼女が昼間から飲みたいだけが理由なようだが、伊予も質の良い休息が修行の質を左右すると言っていた。
「どしたの菘ちゃん。まり姉ちゃんと遊ぶ?」
「おりいって、おねがいがあってだな……」
「お願い?」
姫カットヘアの猫耳少女。それが万里恵の外見を端的に表した表現だ。
裡辺の獣や妖怪は大きい傾向にあると聞いたことがあるが、だからか万里恵も椿姫も、伊予も柊も胸が非常に大きい。戦闘時は術で縮めるようだが、日常生活にだって邪魔でしかないサイズに思える。
まあ本人たちは気にしていないので、別にいいのだが。
ところで万里恵は椿姫に仕える忍者である。同時に竜胆や菘が外敵に襲われないように護衛する役割も持っていた。
有名な妖怪、あるいは人間でも術師の一族にはよくあることだが、戦えない年少者を攫い、その血を我が物にしようとする悪辣な『呪術師』がいるものだ。
退魔師と対をなす呪術師は、妖術を人妖に仇なし敵と見做せば一般人さえ呪い殺したりするために使う連中である。呪術師犯罪といえば、退魔師とは無縁の一般人にも脅威として知られ、その非道な術から身を守るための護符を買い求める者は多い。
霧島家といえばその源流を平安時代に持ち、室町時代から霧島として明確に存在し、稲尾柊を暗殺しようとして失敗、逆に配下に置かれた有名な忍者一族である。妖怪の中でその名を知らぬ、稲尾家の懐刀というわけだ。「霧島がいるから稲尾家の子息は平和に過ごせる」と言われるほどである。
いざとなれば手段を問わない暗殺者としての側面も持つが、そんな末裔の万里恵は朗らかな女性のそれだ。外見は十代後半、二十代ほどにも見えるが年齢不詳と言った方が、表現としては正しい。
「んと……うつみやの……モンブランパンがほしくてね」
うつみや。
燈真は隣の竜胆を見た。
「ベーカリーうつみ屋。村のパン屋だよ」
「へえ」
菘のお願いを聞いた万里恵は「ああ、いいわよ。買ってきてあげる」と二つ返事で応じた。
「ありがと! きょうはいよと、おりょうりのおべんきょがあってね……いけないから」
「偉いじゃーん。どこぞの誰かと違って傲慢じゃないしほんと可愛いわあこの子」
万里恵の小脇を、椿姫が肘でつついた。
「誰が傲慢よ」
「誰でしょうねえ? 誰かな? んん? いだだだだ!」
猫耳を摘んで、椿姫が顔を近づけて「お? 誰よ? 言ってみな、怒らないから」と問い詰める。
「ごめんごめんって! もー、すーぐ怒るんだから。椿姫はなんか欲しいもんある?」
「んー……退魔局本局の、局長席。本局の局長席から下界を睥睨したい」
「はいはいいらないのね。じゃあ菘ちゃん、すぐ買ってくるから!」
「ありがと!」
万里恵がすっと立ち上がった。一見普通の動作に見えたが、体のどこに力を入れているのかわからない動きであった。予備動作も、動作後の硬直もまるでない。
燈真は人知れず感心しながら、高校の課題に向き直った。数学の課題である。英語の和訳は終わっていたので、あとはこの問題集を半分解けば終わりだ。
ちなみに光希はさっさと課題を終わらせており、今は自室兼アトリエで油絵を描いているのだそうだ。絵の具臭いから入らない方がいいぞ、と言われた。光希自身もハクビシン系雷獣で鼻が良いが、どうやら妖術とマスクで防いでいるらしい。
しばらくカリカリとシャーペンを動かして、問題を解いていく。悔しいが、昨日椿姫に教えてもらったことが生きていた。
課題提出範囲のページが終わると、燈真はペンを筆箱にしまう。ノートと問題集を閉じ、掌をひらひら振った。
時計は九時半。万里恵が家を出てから一時間ほどだ。菘は現在、伊予と料理の勉強として厨房で簡単なドリンクを作っている。まずは、比率を学んでもらうらしかった。
空は、晴れ渡っている。裡辺地方は比較的寒冷な土地だが、気温は余裕で三十度。去年の地獄のような気温を思えば、まだ良い方か。
冷房はつけておらず、扇風機と打ち水で対処していた。妖怪は種族にもよりけりだが、冷房特有の冷え方だと体調を崩す者もいるのだ。
「よし、俺も日曜日を満喫するぞ」
「燈真、『鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス』って誰だっけ? 家康?」
「家康は待つ人だな」
「処しちゃうのは信長だから、秀吉か。ありがと」
竜胆は学校には通っていないが、勉強はしている。浮奈が説いた勉強の大切さを、椿姫から教えられたらしい。
強さとは術の巧さにあらず。それは全ての妖怪が知っていることだ。力で倒せる敵は、せいぜい格下。だが知恵さえあれば、格上をも打ち倒せる。
孫氏の兵法でも「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」とあり、事前に準備をしたものの方が勝つと言われているのだ。そしてその準備とは、学ぶことであると妖怪は解釈している。
燈真も最強の退魔師を目指す以上は、勉強から逃れられない。
「……読書するかな」
「漫画?」椿姫が聞いてきたが、燈真は首を横に振って、
「小説」
「あんなのよく読めるわね。私二、三行読んだらぐっすりよ」
なんてやつだ、と思った。その割にレシピ本やファッション誌なんかは読んでいるし、教科書や参考書は生真面目に取り組むから、不思議なこともあるもんだ——と思って、俺はその真逆だし、椿姫にもそういう不思議なやつと思われてんだろうな、と思った。
三十分ほど、燈真は時代小説を読んでいた。作家でシンガーソングライターでもある
八十神玲奈は文章も曲も、どこか仄暗いものをチョイスする。この作品も、帯には「残酷で不死合わせな純愛」とあった。
「たーだいま!」
玄関のガラガラという音と、万里恵の底抜けに明るい声。
縁側の向こうの池は地下で玄関前の池と通じているらしく、岩場に貝音が乗り上がって、稲尾家の団らんを見守っている。ときどき椿姫が読書(レシピ本だが、まあ広義には読書だろう)に疲れると草履を履いて、池の鯉を眺めていた。
「みんな、ちょーっと早いけど軽食。柊、いいでしょ」
「十時を少し過ぎたくらいか。ああ、いいぞ。午後のおやつは控えめにしような」
万里恵は両手に紙袋を抱えていた。
竜胆も日本史の勉強を中断し、椿姫はレシピ本から顔を上げた。柊はネットモフリックスでやっているお笑い特番を見ていたが、そんな柊が燈真に、
「光希のやつを呼んできてやれ。竜胆は、菘たちを」
「わかった」「はーい」
燈真は立ち上がり、二階に上がった。光希の部屋には木製のプレートで「みつき」とある。
ノックすると、「おー、誰かわかんねえけど入れよ」と返ってくる。
「よう。万里恵がパン買ってきた」
「マジ? ……だいじょぶか、独特な匂いするだろ、油絵」
窓全開、サーキュレーターが回るその部屋に満ちるのは独特な刺激臭だった。
光希の部屋には油絵——自身の肖像画や、田園風景などから、木彫りの置物に至るまでが置いてある。燈真の部屋より広いのは、こうした作品作りのためだろう。奥の方に簡素なパイプベッドがあり、本棚には画集や技法書、漫画が並んでいる。
「筆洗油は無臭のやつなんだけどな。テレピンはどうしてもな。窓開けねえとえらいことになるからこの時期は暑くてきつい」
「絵描かないからわかんねえけど、大変なんだな」
「水彩ならそうでもないけどな。厚みっつうか……なんていうか、深みの出し方が違うからな。いや、外でスケッチするときは水彩なんだけどな」
好きなことなんだろう。饒舌に、楽しそうに喋る。
「っと。わり。……下で待っててくれよ。筆洗ったら行くわ」
「わかった」
光希が描いていたのは、雷雲と仏塔であった。素人目に見ても、コンテストで金賞を貰えそうなほどに上手い。
雷雲の黒々としたおどろおどろしさを、稲妻の光の照り返しで表現しているのだ。そして如何に高度が低く地上を覆っているかを、仏塔との距離感と対比で描いている。
光希のエプロンは絵の具で汚れ、木製のパレットには硬い油絵具が盛り付けられている。
燈真は真剣な顔で作業を中断する彼の邪魔をすべきではないと思い、部屋を静かにでた。
一階に行くと、みんなでパンを選んでいた。
「燈真君はお菓子無理って聞いてたから、テリヤキチキンパン買ってきたよ。どぞー」
「ありがと。……菘、お目当ては買ってもらえたか?」
「うん!」
モンブランパンを嬉しそうに受け取る菘が、満面の笑みで頷いた。
ドリンクはレモネードであった。伊予が、「ほとんど菘ちゃんが作ったのよ」と微笑む。他にも実は午後に食べるおやつの仕込みをしていたらしい。
ジュース系の甘いものは比較的大丈夫なので、燈真も問題なく飲める。
座布団に座って少し待っていると、光希が降りてきた。
「おー、うつみ屋のパンじゃん。俺フルーツのカスクートがいい」
「言うと思った。ほら」
万里恵が袋から出したそれを、光希が「ありがとさん」と言いつつ受け取った。
全員にパンが回ると、菘が「じゃあ、いただきまーす!」と言って、合掌した。
燈真たちも手を合わせ、「いただきまーす」と口にする。
竜胆はワッフルを口いっぱいに頬張った。いつもはクールぶっている彼も甘いものを食べる時は年相応の少年に戻る。人間に換算すれば十四歳ほど、実年齢は四十三歳の彼は両親と親のように振る舞う姉に対して反抗期真っ只中であるが、不思議と燈真や光希には普通に接する。
椿姫はそれを悔しがる一方で、自分にも経験があるから好ましいことだと思っていた。愚痴を聞いたり味方になる相手がいるだけで、だいぶマシだという。
燈真の反抗期はいまだに続いているといえばいいか。義母との会話は全くと言って良いくらいなく、実父とも滅多に話さない。刺々しくなるのではなく、無視して自分の世界に引き篭もるタイプの反抗期だった。むしろ攻撃的な衝動が喧嘩に向くというどうしようもない有様だ。
もぐもぐ口を動かす竜胆が、燈真を見た。
「どうしたの?」
「いや、美味そうに食べるなって」
「……? いや、美味しいし……燈真も食べなよ」
「ああ」
燈真は己のテリヤキチキンパンを頬張った。甘じょっぱい味付けの照り焼きチキンに、アクセントのとうもろこしの食感がシャキシャキと活きている。
柔らかめの米粉パンのフワッとした食感と合わさって、その味わいは非常に調和の取れたものとなっていた。
大きな一口で一気に三分の一も食べてしまったが、それくらい美味い。
「うみゃ、うみゃ」
菘が奇妙な鳴き声を漏らしながらモンブランパンを食べていた。隣から椿姫が「お姉ちゃんがおっきい栗もらってあげようか?」とか言って、菘が「だめっ!」と怒っている。
そのやりとりを見た柊が笑いながら「菘で遊ぶでない」と言った。そんな柊はツナマヨパンを食べている。上下半分にスライスしたバゲットの上にツナマヨとチーズを乗せて焼き上げたパンだ。
椿姫は己の生クリームとあんこの、あんクリームフランスを食べながら「だって可愛いんだもん」と言い訳する。
大事そうにモンブランパンを食べる菘は、確かに可愛らしい。少女趣味がない燈真にとっては、純粋に妹ができたみたいな感覚だが、危ない趣味の大人に拐かされそうな可憐さがある。
……まあ、それは万里恵や椿姫が防ぐのだろうけど。
万里恵はクロッカンというアーモンドやその他のナッツ類とキャラメルを使ったお菓子を食べていた。ナッツ類を砕いて固めた菓子——なぜ菓子嫌いの燈真がそんなことを知っているのかといえば、義母がキャラメルっぽいデロデロした何かで、ベタベタにコーティングされた「未鑑定のクロッカン」的なものを食わしてきたからだ。味は、燈真は聞かれても答えるつもりはない。まして食事中に言うことではない。
が、もちろんプロのパン職人がそんなものを作るわけがない。飴色のコーティングがされたナッツ生地を齧るザクッとした音、そして万里恵の顔から美味だろうことが想像できる。
「まりえ、ひとくち、こうかんしたい」
「えっ」
万里恵が凍りついた。
一口ずつシェアが嫌な子もいるだろうが——そういう感じではない。
「椿姫とじゃだめ?」
「だめ。なっつ、たべたい」
「……ほんとに一口だけだからね?」
「まかしてまかして」
燈真の隣の光希が、忍び笑いを漏らしていた。
万里恵がモンブランパンを齧る。栗のクリームが、甘い香りを広げた。
続いて菘が万里恵のクロッカンを、大きな口で頬張った。バリバリ、と齧って、あろうことか三分の一も食べてしまう。
「わああ菘ちゃんなにすんの!」
「うみゃ」
「燈真、間違っても稲尾の狐に一口って言われたら、一口で済むなんて思うなよ」と光希。経験があるのか、言葉の重みが違う。
「なんで僕を見ながら言うの?」
燈真は曖昧に笑いながら頷くことしかできない。
「伊予、そのフルーツサンド一口くれんか」
「絶対嫌よ」
上座の方では、柊と伊予がそんなやりとりをしていた。
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