序章 全ての始まり

序幕 狐を妻とした英雄譚

 狐をとして子を生ましめし縁


   日本霊異記上巻第二より


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 それはすでに遠い過去の出来事だ。

 遡ること八四一年。

 寿永三年——西暦一一八四年。日の本の国が源平合戦の真っ只中にある、平安末期。


 各地で繰り広げられる源氏と平氏の争いによる血と不浄、治世の悪化による混沌は、人々の負の感情をこれでもかと煽った。

 魔の物、物の怪、魑魅魍魎——異形の怪物どもが蔓延り、悍ましい雄叫びと人と妖の悲鳴が迸るような時代。

 現代と違い、科学など皆無と言っていい時代。不気味なものは不気味なものへ、ダイレクトにその感情がぶつけられる。


 ある雪が降る夜、それは現れた。具現化した、と言っていい。

 澱のように積み重なった負の情念は、その無限の瘴気はとうとう行き場を失い顕現し、他ならぬ生みの親であるヒトへ、その爪牙を振るい立てた。


 重苦しく立ち込めた赤黒い雲を破り、巨大な龍が裡辺りへん地方東海岸から接近したのは十一月の終わり。現在の単位で一二〇〇メートルの全長に、直径一〇〇メートルの巨体。総重量は、予想で約三万三〇〇〇トン。その背中には樹木が生え、脚はムカデのように生えそろい、絶えず瘴気と不浄を織り交ぜた赤黒い血を流していたとされる。

 出雲の地に現れたヤマタノオロチ——その再臨と恐れられた邪龍は、ヤオロズ、と呼ばれた。


 各地の城が臨戦体制に入り、まず東の海沿いで数千の兵士、農民が武器を取った。あるいは、術師が立ち上がり、抵抗した。

 しかしいかなる矢も、術もヤオロズには効かなかった。

 射かけた矢は猛然たる息吹に吹き飛ばされ、火術も破魔術も濃密な瘴気に阻まれて意味をなさない。それどころか産み落とされる不浄の怪物——魍魎もうりょうの対処で手一杯だった。


 龍が顕現して一夜で、東海岸の町は陥落した。

 攻撃らしい攻撃などしていない。ただ、降りてきてその全身で大地を擦り潰しただけだ。

 二夜で、内陸の町が三つ消えた。


 三夜目で、ある妖狐が現れた。


 月白の体毛。九つの尾。紫紺の双眸。魅雲みくもの地で月白御前げっぱくごぜんと呼ばれ、人間の男を旦那に選んだその物好きな女狐は、苛烈な猛攻でヤオロズと対峙した。

 旦那の術師も共に戦い、金色の龍神を渾式神こんしきがみとして使役し、さらには女狐に惚れ込んだ異邦の半神が手を貸した。

 白銀の神炎が、活殺を自在とする結界が、四つ腕の剛力がヤオロズを焼き、その瘴気をも完全に防ぎきり、怪力が怪物の牙と骨を砕いた。

 七日七晩続いた激闘は、やがてヤオロズの著しい衰弱を招いた。だが、それでも死に至らしめることはできなかったという。


 最終的に月白御前はその龍に永劫の眠りをもたらしたのだった。

 それは、月白御前自身が神の如き力を失うのと引き換えにした封印術。

 龍は光に飲まれ、その肉体を、永遠なる無窮へと封じられた。


 かくして英雄の女狐と人間の夫婦は、後の世に稲尾という姓で子孫を繁栄させた。

 人の身であった旦那はその後、妻に看取られて他界。当時不治の病であった、肺結核であった。女狐は旦那をその腕に抱き、生涯でただ一度だけ声を放って泣いた。


 それは、遠い昔の話。

 九〇〇年近くも昔の、大勢に忘れ去られた英雄の物語。

 語る者も、聞く者もいない、けれども確かにそこに在った、歴史に刻まれなかった英雄譚だ。


 狐を妻にした男は、生涯を通して波瀾万丈であったことだろう。

 しかし、その最期が驚くほど穏やかだったことは、子孫たちだけが知っている——それはある種の、誇り高き先祖の血を引いているということへの感謝であり、自負であった。

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