第10話 終わりなき、闘争の
着物が一枚ダメになった——とはいえ、羽織だけだ。袴自体は問題ない。予備があるので羽織だって全然問題ないし、すぐに連絡を入れて来た道を戻り修繕とさらなる予備の作成を依頼した。
嶺慈がアヤカシとしての姿を見せると鶴野は「やっぱり狐かい」と微笑んで、依頼を快諾。とはいえ相手はプロ、夜伽の腕前とか将来性とかは関係なく、しっかりお代は要求された。
秋月の連絡もあって実質出世払いということと、今回陰陽師を撃退、一名捕縛の報奨金から八割をローン返済にあて、ことなきを得た。
ちなみに、陰陽師というのはアヤカシ側の
互いに表社会では知られぬ存在、知られてはならぬ「異質」であるがゆえ、極論顔を隠す必要はない。街中で顔を合わせても、手出しはしないのが暗黙だ。すれ違いざま「憎き討伐対象」と出くわしても、その場で直裁的なアクションは取らない。
陰陽寮の過激な一派——
今回嶺慈が捕縛した
嶺慈が急に覚醒し、不意を打たれる形で言霊の直撃をくらい、気を失っているが、本来ならばそれで遅れをとることはない相手だ。今回は本当に、運が良かった。
彼を担いでビルに入ると、受付の女が素早く連絡を入れた。すぐに荒事専門と言った様子のカフェオレ色の肌の黒人男性二人——いかついスーツの黒服が現れる。
嶺慈は加賀美を彼らに預けた。
このあとは拷問にかけられ、情報を吐き出される。場合によっては円禍が隷属の術をかけ、手駒に変えるだろう——もっとも、あの術は一定の力量の陰陽師には効かない。心を徹底的に折り、砕き、抵抗できぬようにすれば別だが。
凛の場合は姉の死によって魂を折ったので、効いたのだ。
一見、妖術は万能無敵に思えるがそんなことはない。防ぎ方も、いくらでもある。それこそ嶺慈の言霊だって、相手を直に操る力量が現状ない今、世界に働きかけて衝撃波を生んだりするのがせいぜいだ。あくまで物理的な攻撃であるため、嶺儺がやったように結界で簡単に防げる。
嶺慈は赤い羽織に黒い袴という格好でビルを歩く。ビル内なので、人間に擬態する必要もない。三尾の狐の本性を表す。アシンメトリーに右側だけ長いサイドヘアが赤色に染まり、狐耳と尻尾の先端も血のように赤い。その瞳も、赤い。髪のメッシュと赤いインナーカラーは、人間状態でも出していていいかもな、と思った。
様変わりしつつも元の美しさをより際立たせるように、生き物として変わった嶺慈を、影法師の面々はまじまじと見た。
「一皮剥けたみたいだな」とか「慈闇様がお仕えになられている新入りか」とか、「円禍様の伴侶らしいぞ」とか聞こえてくる。
と、凛が飛び出してきた。
「お姉様、襲撃があったとお聞きしました! ご無事ですか!」
「平気よ。嶺慈が守ってくれた」
「な——このスケコマシがですか!」
「失礼極まりない野郎だな。ってか、どっからどこまでが言葉に力宿るかわかんねえんだよな……どうしよう。なんかのはずみでビルに穴開けたら、流石に秋月さんも怒るよな」
言葉の力? と凛が小首を傾げた。
「嶺慈の術は言霊よ。多分、妖力を込めて具体的なイメージをすることで発動すると思う」
「詳しいんだな」
「言霊なんて初めてだけど、妖術に違いないからね。妖術は想像力が物を言うから。優れた素質があっても想像力が足りてないと、大した効果を得られない。逆にわずかな出力でも想像力で補えば、圧倒的逆境を覆せる」
「少年漫画の台詞みたいだ」
「ですが事実ですよ嶺慈。お姉様の言うとおり、術は妖力よりも想像力のが大事です」
「肝に銘じておく」
嶺慈はそう言って、ドリンクサーバーからサングリアスカッシュを紙タンブラーに注いだ。冷たいそれをぐい、と煽る。
吸血鬼に見出されたからか、それともアヤカシの本能か、血に渇くことがある。サングリアは少量とはいえ血が入っているので、それが紛れてよかった。
「そういえばお姉様、
「あら」
セルバとは、密林の名を冠した大手ネット通販サービスである。
ここに直接セルバが来たのではなく、途中の中継倉庫から紫電物流の職員が配達したのだろう。円禍は「いきましょう」と言って、階段室に向かった。
嶺慈はなんだろうと思いながらついていく。
三階の洗面所で手洗いなどを済ませた彼らは、部屋に戻った。
ダンボールが一つ積まれており、円禍はペン入れに入っているカッターナイフでガムテープを切り剥がす。
「何が入ってんだ?」
「いいもの」
「……?」
やがて円禍が取り出したのは赤いケースだ。外装には「tomato」の文字。
「ワイン? トマトの?」
「ううん。トマトジュース。闇落ちトマトっていう、越冬させたトマトだけを使ったもの。八〇〇ミリで一万円するの」
「マジかよ、そんなトマトジュースあるのか!」
しずしずと取り出したのはボトル。中には、どろりと濃厚なトマトジュースが入っている。
「慈闇が来たら、四人で飲みましょう。運がいいことに嶺慈が目覚めたから、そのお祝い」
「いいですね。この男のお祝いにしては豪勢すぎますが」
「ちくちく言葉をやめろほんとに。……まあいいや、ありがとな」
「冷蔵庫に入れておきましょう。慈闇は七時上がりでしょうし」
現在は十三時である。その時間まで、まだまだあった。
嶺慈はボトルを冷蔵庫に入れ、「円禍、モニター使うか?」と聞く。
「ううん。どうぞ」
「ありがと」
嶺慈は作業チェアに座り、ゲームステーションのコントローラーをラックから取り出した。
スイッチを入れ、ゲームを起動する。
「お姉様、いい子にしてました。私、いいこだったからご褒美、ください」
「いいわよ。まず、その前にご奉仕なさい」
後ろでは円禍と凛の秘め事が始まっていた。
嶺慈は気にせず、ゲームのタイトル画面でオプショントリガーを押し込み、ゲーム本編へと入っていった。
頭の中では家庭のことが渦を巻いていた。
とち狂ったことを真顔で言い放っていた弟。あっけなく認めた近親相姦。父の死に、無感情でどうでもいいという態度の顔。
——思えば母親も、ろくな人間ではなかった。
一見すれば、かつての東雲家は幸せな家庭だっただろう。しかし実際は嫉妬深い母は父にことあるごとに独占と支配を強要し、そこに自由を介在させることはなかった。
嶺慈や嶺儺の部屋には無断で入り、机や棚を漁ってプライバシーを壊す。次第に父は自由を求めて夜の街を出歩き、嶺儺の顔からは明るさが薄れていった。
自分は——諦めていたな。
もうどうにもならないからと現実を諦め、抗う気力さえ失っていた。
思えばあの頃にはもう自分は死んでいた。
今は違う。
戦う力がある。抗う力がある。
気に入らないやつをぶっ飛ばす力が、気に食わない現実を叩き壊す能力がある。
おかしなバイアスが家庭を幸せなものに見せていた——そんなことはなかった。とっくにあの家は、はじめっからクソッタレだった。
弟と会って、はっきりと思い出した。
自分が弱過ぎて、現実から逃げていただけだ。戦うことを決意していれば、自分はもっと早くこっち側に来ていたに違いない。
思い出せば出すほど腹立たしい。
無力だった自分が、それゆえに唯々諾々と負けを噛み締めていた自分が。
あり得ぬたらればだが、あの頃に戻れるなら——身の回りの全てを皆殺しにしている。
激憤が、
確かに今そこで脈打つのは、己の怒りだ。
「嶺慈、顔怖いわ」
後ろから円禍が手を添えてきた。嶺慈が握りしめるコントローラーが、ガチガチと悲鳴じみた音を立てている。
「悪い。昔を思い出して勝手に苛立ってた」
「気にしても仕方ない。今できることをするしかないわ」
「ああ……。ままならない現実がこんなにも憎いものだとは思わなかった」
「そうね。普通はそう。みんな、ままならないものに苛立つ。その通りにいかないことに腹を立てる。折り合いをつけるか、抗うか、殺されるのを選ぶか。私たちはみんな強すぎる敵に殺されて、ここに来た。
……嶺慈、私はあなたの味方だから」
嶺慈は首筋に回された腕を、そっと握り締めた。
じっとりと愛液で湿った、その手を。
愛なんてものは——自分とは無縁と思い、それまでの肉体関係も、所詮は快楽を貪るものだと決めつけていて……実際は違った。
円禍は、無償の愛を。人間にはできない、見返りを求めない愛を注いでくれる。
そもそもからして忖度などない、己が力さえあれば全てであるアヤカシである。本来ならば、相互扶助など必要としないのだ。だからこそ、そこにあるのはお返し不要の、素直な感情なのだ。裏も表もない、本能的なもの。
なぜか昔の家の景色を思い出し、それが嘘偽りであったことを悟り、円禍の顔を見て——全く自覚がないまま、頬に生暖かい水分が伝うのを感じた。
「俺は……全部壊すつもりだよ、円禍。今更正すほどの独善性も俺にはない」
「うん」
「人類も、国も、世界も。——全ての生命が本来あるべき姿で、永遠に終わらない闘争世界を作り出して、全部全部ぶっ壊してやる」
「……うん」
円禍はチェアを回転させて、嶺慈を抱きしめた。
あまりにも深くこの世に絶望し、人間に対する希望を捨て去り、虚ろな心に何かで満たそうと足掻いている少年を、怒りと憎しみで燃え上がるその魂を、円禍はただそっと抱きしめるのだった。
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