第6話 人間愛護
シャワーを浴びて、嶺慈は服を着替えた。砂色のジャケットとジーンズと、背格好が似ている秋月の黒いシャツを借りた。パンツは昨日買ってきてもらったものがあるのでいいが、秋月はシャツを失念していたらしい。
服を揃えてくれるだけでもありがたいので、嶺慈は感謝しかない。
だがこんなにいいヒトたちが、陰では人間を殺し、喰らい、人間社会の転覆を目論んでいるのである。
嶺慈は未だ人間的な考えが抜けないことに、かぶりをふった。
えっちのしすぎか、その摩擦のせいで陰茎が痛い。昨日は張り切りすぎた……嶺慈は反省した。今朝顔を合わせた秋月も「若いってのは羨ましいな」と肩を叩いてきたほどだ。
部屋自体は防音性があり、建物は頑丈な鉄筋コンクリートだ。隣の部屋から苦情はないし(まあ隣は慈闇らしいのだが)、問題はないだろう。
シャワー室を出ると、そこには青肌のサキュバス——慈闇が待ち構えていた。先に上がったらしい。
「正式な手続きは後日だけど、秋月に直談判して嶺慈の専属護衛になりました! まあ円禍の処刑人と兼任なんだけどね」
「護衛、ね。確かに俺は満足に戦えないもんな」
「そのための銃を預かってきたわ。はいどーぞ」
慈闇が一挺の拳銃を差し出してきた。
嶺慈は戸惑いつつも受け取る。
「スミス&ウェッソンM610に似てるけど実弾銃じゃないよ。それは妖力を弾丸に変換して撃ち出す妖力銃でね。かっこいいでしょ」
「モデルガンと変わらないんだな」
「観賞用のやつって超リアルだしね。だからケースに入れろってうるさいんだけど。それも人間にとってはモデルガンと同じ用途でしか使えないんだけどね。はい、ケース」
渡された小さなカバンに、嶺慈は拳銃をしまった。それを腰のベルトに吊るすカラビナに固定する。傍目にはそういうオシャレをしているように見えるだろう。
「それにしてもゆうべはお楽しみだったねえ……今夜もか♡」
「さすがにちんこ痛いから勘弁」
「えっ、私ら性病なんて持ってないって! アヤカシそういうのかからないし!」
「腰の振りすぎだよ。摩擦でヒリヒリするんだ」
「なんだあ……まあ、インキュバスや鬼共でもなきゃねえ。ましてまだ鬼憑きだし」
嶺慈は鬼憑きという言葉に渋面になった。
「いつになればアヤカシになれる?」
「それは個体差としか言えないかなあ。でも、焦らないほうがいいよ。功を急いだやつって早死にするし。やっと本気で恋できるオスを失うのは嫌だからねえ」
個体差、か。
まあ画一的にみんながみんな同じ期間で鬼憑きからアヤカシにはならないだろうと思っていたが、てっきり数日くらいでなれるものだと思っていた。
と、シャワー室から円禍と凛が出てきた。
円禍は黒白目なのは相変わらずで、グールとなった凛もそのようになっている。隷属化させられた元人間はグールという低級な吸血鬼となる——という説明を受けた。
人間が吸血鬼化する際には血を与えた側の塩梅が関わっており、血の隷属の術をかければ漏れなくグールとなるらしい。
グールとなったものはある程度の自我と行動の自由があるが、その一切を主人に捧げるために生きることを最大の目的とする。一種の、解けない洗脳状態……自我の上書きと言い換えてもいい。
特に凛は姉を殺され、それを自ら喰ったことで魂は十分死んでいるだろうから、アヤカシ化への変化も早かったのだ。
「東雲……嶺慈」
「なんだよ」
「円禍様は……お姉様は私のものです! あなたなんかに渡しません!」
「そうかよ」
嶺慈はくるりと背を見せ、二階へ向かう。
一応エレベーターはあるが、使わない。必要がないのだ。ましてここは三階である。エレベーターを使うより階段で降りたほうが早い。
円禍は凛の漆黒の髪を優しく撫で、「彼は私の伴侶となる子よ」と言い聞かせる。凛は気に入らない、というふうに歯軋りした。
慈闇は「正妻は円禍かあ」と肩を落とした。
なんで俺はここにきてハーレムを構築しかけているんだ——と思った。
アヤカシは本能的な面が強く、特に男女の関係においては女が男を選ぶシステムだと秋月に言われた。
女がより強い子孫を残すため、最低でも自分を組み伏せられる男を選ぶのだ。そのために誘惑し、苛立たせ、そういう場面に持っていく。まあ、誘惑する時点で何がしか惹かれる要素があることを意味しているのだが(たとえば慈闇は嶺慈の深い絶望と孤独に愛を見出している)。
二階に降りて喫茶店に入る。マスターが「おはようございます」と挨拶を投げかけてきた。嶺慈たちも「おはようございます」と返す。
凛が「ここは?」と聞いた。円禍が「アヤカシ専門喫茶店。あなたのお姉さんと同じものを出すの」と答える。
「お姉ちゃんの? 人間を出すんですね」凛はもう、実の姉に対する感動を失っていた。
吸血鬼は血を媒介し、他者を操る。その強力な催眠・洗脳能力は、一国の主人をもコントロールできてしまう。無論、そうならないために各国には霊能者集団が発足されているわけだが。この国で言えば、それが陰陽寮である。平安時代より、あるいはそれよりも前から人々をアヤカシから守り続けてきた組織。——秋月が言うには、彼らは表舞台から去ったのちも歴史の影で暗躍し、今なおその力を保有しているという。
窓際のテーブル席。外には、人々と車の往来が見える。
溟月市の準工業地域である
嶺慈はウエイトレスが持ってきたプレートを前に、手を合わせた。「いただきます」とそれぞれ言って、フォークでベーコンをつつく。言うまでもなくそれは人肉だ。少し前までなら悲鳴をあげて放り投げていたそれも、まるで抵抗なく、豚やなんかのように頬張れる。
凛も、全く抵抗せず塩胡椒で味付けされた人間のバラ肉を食べた。
サングリアスカッシュの、血のかすかな塩味と酸味、爽やかな甘い蜂蜜風味の微炭酸を喉に流し込み、嶺慈は円禍に聞く。
「慈闇から銃をもらったってことは、今日は何かするのか?」
「ええ、ちょっとね。うちに喧嘩を売ってきている連中がいるの。親人間派のアヤカシが、うちの仕事にケチをつけていてね。秋月から軽く潰してこいと言われたわ」
人間に与するアヤカシ……。
「なんでアヤカシなのに人間の味方をする?」
嶺慈の質問に、慈闇が答えた。
「アヤカシを親にもつ子供は自然とアヤカシになる。彼らは自然と人間を敵、捕食対象と見做すんだけど、ときどき人間的な思想を発露してあっちについちゃうのもいるのね。大抵は陰陽師に式神として飼われるんだけど」
「ふぅん……じゃあ、敵って認識でいいんだな?」
「ええ、それで構わない」
円禍は淡々と答えた。
凛はベーコンの残り一枚をトーストに載せて、一緒に齧る。慈闇も精液以外に血肉になる栄養がいるのか、トーストをクラムチャウダーに浸して食べていた。
嶺慈は目玉焼きの半熟の黄身にベーコンをディップし、口に運んだ。
「俺も早くアヤカシになりたいから、実戦を経験したい。色々教えてくれると助かるよ」
そう言うと、円禍はグラスに注がれた血を啜って頷いた。
「もとよりそのつもりよ。嶺慈を使えるようにするために、今日は仕事をするの」
彼女はそう言って、
×
陽があるうちは、事務所で内勤の仕事をしていた。書類整理に電話番、雑用までなんでも。そのうちに嶺慈は喫茶店の手伝いに向かわされ、そこでウエイトレスたちに気に入られ昼間の持ち場がほとんど決まった。
円禍も喫茶店が持ち場なので、都合がいい。慈闇は肌を人肌色に誤魔化して受付の仕事で、凛は書類仕事をしていた。
キッチンに入るのはまだ早い——ということで掃除やらレジ打ちだが、楽しかった。客層も店員に理解があり、嶺慈が新人と知ると「影法師の新人さんかあ。頑張れよ」とか「今度人狩りのコツを教えてやるよ」とか声をかけられる。
かくして時刻は午後七時半。
喫茶店はバーへ様変わりし、嶺慈はマスターに一言言って上がらせてもらった。制服を脱いでロッカーにしまい、一旦三階に向かう。
秋月がいる管理室をノックしようとしたら、いつの間にか隣にいた円禍がそっと手を重ねてきた。
「慈闇に取られそうで不安」
「別に俺は、誰のものでもないだろ? それは円禍が言ったんだぜ」
「ええ。でも私だって女よ。気に入った男は独占したい」
彼女の後ろで、凛が歯軋りする。
「いきましょうか」
管理室をノック。「東雲です。円禍と凛もいます」と言い、秋月の「入れ」という声を待った。
中に入ると既に慈闇がおり、「熟成された精力もいいかんじ♡」とついさっきまで性行為をしていたことを匂わせるようなことを言った。
嶺慈はそれには触れない。サキュバスが吸血鬼とは違った意味で色情魔であることを知っている。精を啜ること、それ自体が彼女らにとっての食事なのだ。伝承と違うのは人間の男なら誰でもいいと言うわけではなく、鬼憑きの匂いを嗅ぎ分けて現れると言うことのみ。恋人がいようがいまいが、彼女らの「食欲」が枯れることはないのだ。嶺慈だってパン食だけに飽きることがあるし、ジャンクフードや家庭的な味を求めることだってある。それだけのことだろう。
「お疲れ様です、秋月さん。それで、今夜の仕事は?」嶺慈は仕事の内容を聞いた。
秋月はネクタイを締め直しつつ、「うむ」とうなり、
「大方聞いているだろうが、今夜の仕事は親人間派アヤカシ集団〈親人の一党〉と一戦交えることになる」
「親人の一党……円禍から聞いています。要するに人間愛護団体ですよね」
「そうだ。所詮は我らと同じ穴の狢……人間を対等には扱っていない。せいぜいが食物、家畜、庇護対象だ。陰陽師共にも当てはまるがな」
過ぎた力を持った者がどこかしら精神的に変容する——それは、サイエンスフィクションにおいてもときどき取り上げられるテーマだ。ヒトは力を持つと変わる。アヤカシだろうと陰陽師だろうと、彼らは一般人を遥かに超えた力を持つ超越者だ。常識に従えと言う方が無理である。
嶺慈は複雑な気持ちだ。つい最近まで人間だったが故に、その生活が恐るべき生物たちの掌の上に成り立つものだと知って、その程度のことに思い悩んでいたのが馬鹿らしくなったのだ。
自分はたまたま力を与えられただけなのだろうが、ならばこそ、今度は自分の番だと思った。
もう、苦しみ搾取される生活とはおさらばだ。俺は、変わるんだ——。
秋月がプロジェクターを起動し、壁に溟月市のマップを表示した。在川町の東に隣接する
映し出されたのはある廃工場だ。元々はなんらかの自動車整備工場のようである。
「前の責任者が行方不明で取り壊しが進まないとかなんとか……まあそういう建物はごまんとあるから今注目すべきではないが、親人の一党はここをねぐらにしている」
「まるで半グレね。やつら、食事はどうしているの?」
「自殺者の肉を拾ってきたり、犯罪を働いた人間を私刑して食っているらしい。殺しの定めからは逃れられんよ」
円禍の質問に、秋月は端的に答えた。
凛がじっと建物を見つめ、口を開いた。
「陰陽師だった頃にここが話題に上がったことがあります。ですが今は法師陰陽師には手に余るから座視するしかないと」
「そうなの? 陰陽寮なら出張ってくる可能性もある……か。だとしても威力偵察ってとこかしら」
「八部衆に処刑人がいるんだよ? 敵も無理はしないんじゃない?」と慈闇。嶺慈は話についていけない。
秋月が「何はともあれ、今日はここで親人の一党を駆逐してもらう。できるか?」
それが質問ではなく確認であることは明らかだった。
嶺慈たちは力強く頷き、仕事に備えた。
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