第2話 アヤカシの居室

 ビルはひんやりとしていた。七月の終わりの熱帯夜——雨が湿度を上げ、蒸し暑くしているとは思えないほどに。

 空調が効いているのだろうか——廊下や、階段にも? うなじがソワソワするほどに?


「アヤカシの気配を感じ取れるのなら、やっぱりあなたは鬼憑きで間違いない」

「気配?」


 五階建ての雑居ビルを降りて行き、三階の通路を進む。オフィスビルなのだろうが、改築され、さながら居住を前提にした、フロアそのものを家に見立てた構造物になっていた。

 炊事室、洗濯室、風呂場というボードが縫い付けられたドア。トイレ、そしてあとは、番号が振られた部屋。奥に、管理室とある。円禍がノックしたのはその管理室だった。

 二回、ノック。トンチキマナー理論的には二回のノックはトイレを連想するため三回にしろとのことで、嶺慈は大学受験やら就職試験の講義の都度そのように教えられているが、実際には、そんな決まりは存在しないのだ。少なくとも、円禍はそのようであった。

 ドアの向こうから「入れ」と低い声が返ってきた。

 円禍は「失礼」と言って、管理室に入る。


「帰ったか、円禍」

「ただいま。素質のある子を拾った。前に言ってた子」

「前? つけてたのか?」


 嶺慈は思わず口を挟んだ。円禍は悪びれもせず頷く。


「狙っていたわけじゃない。ただ、鬼憑きには独特の気配があるからそれを探ってたの。あなたはまさにそれに当てはまっていた。今日のようなことが起こらなければ、まずあなたは信じなかった」


 ぐうの音も出ない正論である。

 嶺慈は黙り込んだ。

 黒檀の机と革張りの椅子に座っている四十絡みの男が、嶺慈をじっと見た。嶺慈は慌てて頭を下げる。


「確かに鬼憑きだ。だいぶ進んでいるな。陰陽師は?」

「撒いた。連中、相当焦ってたわよ」

「さもありなんと言ったところか。アヤカシ化一歩手前だ。気配を隠す術を身につけられる前に芽を摘もうと必死だったに違いない」


 男が立ち上がる。上背は、嶺慈より頭一つ大きい。ゆうに一九〇を超える身長を持ち、細身だが、全身から奇妙な圧力が——妖気、ともいうべきものが立ち上っている。


紫電秋月しでんしゅうげつだ。種族は雷獣。君の名は」

「東雲嶺慈です。……種族は、……今は、人間です」

「鬼憑き。人間じゃない。うちに、人間はいないし、いれないからな。言葉に気をつけたまえ」


 静かに叱責され、嶺慈は「すみません」と素直に謝った。秋月は優しく微笑む。


「私も八部衆でね。知っているかな、八部衆は」

「いえ。でも、円禍が漆方ちっぽうとかなんとか」

「そう。一方、二方から続き、漆方、そして八開はっかい。八部衆は影法師の幹部のことで、円禍はああ見えて八部衆のナンバーツーだ」


 嶺慈は無言で突っ立っている円禍を二度見した。

 ということは彼女は、組織でもかなりの力を持つ幹部ということじゃないか。


「かくいう私は六方だ。君は円禍が沙汰を決めるだろう。だが、だからといって他の八部衆や仲間を軽んずべからず、だ。いいね」

「はい……」


 外で、雷が鳴った。


「しばらく続きそうだな。……嶺慈君の個室はまだ用意できない。円禍、君の部屋で寝させてあげなさい」

「わかった。おいで」

「あ、ああ。……えと……お世話に、なります……」

「よろしい、礼儀はしっかりしている。アヤカシは、礼儀正しい者が好きだ。いろいろあっただろうが、少しゆっくりしなさい」


 嶺慈は管理室を出た。円禍がバックパックを背負い直し、歩く。


「それ、何入ってんだ?」

「万引きしてきたお菓子。今月のお金使い切っちゃってるから」

「普通に犯罪じゃないか。足がついちまうんじゃないか?」

「うん……。いざとなれば、目撃者は消してたよ。私たちはカメラには映らないし、人間の目にも映らない」


 あまりにも衝撃の事実に、嶺慈は顔色をなくした。


「ま、待ってくれ。じゃあ俺も……」

「そのうち人間からは見えなくなる。もちろん、見せるようにすることもできるけど、普通は見せずに行動する」


 そういうものか——いや、だからこそアヤカシとかいう連中は人間の目を欺いて生活してこれたのかもしれない、と思った。

 魂が死んでいることがアヤカシになることの条件であるならば、半分死んでいる彼らは、人間の『目』という器官から除外される何かに成り変わるのだろう。

 嶺慈は勝手にそう納得した。

 円禍が、己の部屋の前で止まって扉を開ける。


「入って」

「……お邪魔します」


 嶺慈は一言断りを入れて、円禍の部屋に入る。

 そこは、狐のグッズで溢れた部屋だった。

 黒と狐色の家具やカーテンで揃えた八畳間。二段ベッドがあり、何やら凄そうなパソコンがおいてあって、本棚とぬいぐるみが並んだ棚と、クローゼットがある。

 隅に空調がおざなりにおいてあり、彼女はそれのスイッチと冷房のスイッチを入れた。部屋の電気は、薄い青色のライトを灯す。

 海の中のようなそこで、円禍は言った。


「ベッド、下ね。ちょっとしたスタンドとライトならあるから、本を読んだり書き物のときはそれを使って」

「ありがとう。準備がいいんだな」

「可愛い後輩のためだから。それに私、吸血鬼だから、同じ部屋になると寝てる間にミイラにされそうって怖がられてて……」


 ……なるほど。


「決めつける気はないけど、吸わないよな」

「事前に許可を求めるに決まってる」

「ならいいけどさ」

「その代わりってわけじゃないけど、机の上のノートPCは自由にしていい。一昨日届いた。動作確認と調整は済ませてあるから」

「気前がいいんだな。……じゃあ、ありがたくもらう」


 嶺慈は机の上のノートパソコンを手に取った。

 こういうマシンには詳しくないが、随分と近未来的なデザインである。開いてみると、ピカピカの新品というのは本当のようだ。

 なんだか高価そうだ。スペックも、きっと高いのだろう。

 本棚に並んでいるのは、民俗学の本や純文学、ライトノベル、少年漫画、ポルノ雑誌、同人誌——闇鍋状態だ。

 ぬいぐるみ棚には大小様々な狐のぬいぐるみが飾られている。出窓の部分にも狐の置物が並んでいた。どこか間の抜けた顔の一頭身の狐が、現実にはあり得ない色使いのそれらが陽気な存在感を放っている。


 部屋の真ん中にあるガラステーブルのそばに座った円禍は、テーブルの上にバックパックの中身をおいていった。しっかりジャンル分けしているようで、大きな瓶の中に分けていく。分けられないスナック菓子は、テーブルの下のカゴに入れていった。


「冷蔵庫に飲み物がある。好きに飲んで」

「助かる」


 嶺慈は本棚の隣の縦長で細い冷蔵庫を開けた。中にはエナジードリンク、トマトジュース、そして酒類が並んでいる。

 酒は、ウイスキー。モルトウイスキーだ。洒落たラベルの瓶である。


「お酒に興味あるの? 初めて飲むなら酎ハイにしておいた方がいいと思うけど」


 嶺慈は視線を冷蔵庫に戻す。三本、缶酎ハイがあった。嶺慈は妙にそれが飲みたくなった。嫌なことを、現実を忘れたい。自分が人間じゃない何者かになるというなら、人間を縛るための法律を遵守する必要だってない。

 言ってしまえば、いい子ちゃんをしていた反動が、十七歳になって溢れ出したのだ。

 グレープ酎ハイを一本つかんで、冷蔵庫を閉めた。

 円禍の対面に座って、「いただきます」と言いながら缶のプルを引く。カシュッと炭酸が抜ける音。じゅるじゅる溢れてきた上澄みを啜ると、酒というよりはジュースに近い味が口に広がった。

 アルコールの風味こそあれ、きつさはほとんどない。ジュース感覚で二口、飲み込む。


 つい一時間前まで、自分の部屋で弟の喘ぎ声に苦しんでいた自分が、トラックに轢殺されかけた挙句陰陽師とかいう平安時代の亡霊に撃たれて見知らぬ少女と逃げ込んだ先で、あろうことか女の部屋のふかふかの黒い絨毯にあぐらをかいて、酒を飲んでいる。

 人生——妖生じんせいとは、思いがけずなかなか愉快なものだ。

 円禍はミニドーナツの袋を開けた。駄菓子コーナーによくある、四つ入りのあれだ。ザラメがまぶしてあるそれを、嶺慈にも渡してくる。


「悪い」


 一言言って、嶺慈はドーナツをもらった。歯が溶けそうなくらい甘いそれを咀嚼して、飲み込む。

 思えば晩飯を食っていない。一口ドーナツを食べると、胃が空腹を訴えて「ぐぅう」と大きく鳴った。

 円禍がきょとんと目を丸くして、「少し待ってて」と言って部屋を出ていく。

 嶺慈は気恥ずかしさやら申し訳なさやらで耳を赤くして、酎ハイをぐい、と呷った。五分ほどして、円禍が戻ってくる。その手には、カップ焼きそばを持っていた。


「これくらいしかないけど、どうぞ」

「ありがたい……いただきます」


 嶺慈は焼きそばを割り箸を割って啜った。ガツンとくる濃いソースの味が、口に広がる。

 麺を啜って咀嚼し、飲み込む。夢中で掻き込んで、あっという間に完食した。

 口の周りをティッシュで拭い、手を合わせる。


「ごちそうさま……生き返った」

「いろいろ調べたけど、相当な生活送ってたのね。……まあ、魂が死ぬ人間って失踪しても警察がおざなりな調査しかしない程度には、荒れた生活をすることが往々なんだけど」

「円禍もそうだったのか?」

「ええ。私は父親にレイプされ、兄に犯され、父と兄が私をめぐって殺し合った。それで魂が死んだ」


 淡々と告げられた地獄のような告白に、嶺慈は何も言えなくなった。


「ここにはそんなアヤカシがごまんといる。珍しくないし、自慢にもならない話だから」

「……みんな、相応の絶望を抱えてるんだな」

「そうね。その魂は非業、といえる死を迎えたのよ」


 嶺慈はカップ焼きそばの空箱をゴミ箱に突っ込んだ。

 酎ハイを、最後の一口を飲み込む。空き缶入れのカゴにそれを入れて、うなじを掻いた。


「なんで……俺にキスした?」

「何かで繋ぎ止めておかないと、肉体的な死を選びそうだったから」


 円禍はそう言って、四つん這いで近づいてきた。するっと手を伸ばして、嶺慈のシャツを捲り上げる。ズボンのベルトに手をかけてチャックを下ろし、パンツ越しにペニスを撫でた。


「続き、してあげようか?」

「……そんなこと、」

「いいのよ。私はしたい。……似たもの同士だから。私はあなたを繋ぐ楔でありたい」


 そう言って円禍はパンツを下ろした。嶺慈のシャワーも浴びていないそれを咥え込んで、刺激を加え始めた。

 嶺慈は人生で初めてのセックスがこんな状況で始まるとは思わず、間抜けにもすぐにあっけなく射精してしまった。

 結局、二回戦は無理だった。緊張と妙な興奮が、勃起を邪魔したのだ。


「残念。大丈夫。したくなったら、いつでもしてあげるから」


 そういって円禍は微笑んだ。

 嶺慈はどう返せばいいかわからず、「今日は……ありがとう」と、それだけをなんとか捻り出すのだった。

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