キッチンに立つ。戸棚から容器を取り、キッチンに置く。袋を開け、中の粉末を容器に入れる。そこにお湯を注いで、スプーンでかき混ぜたら、完成。トレイに載せて持っていく。
「621、調子はどうだ?」
「! ウォル、ター」
「壁」の防衛の後、621はさらなる再手術を受けた。飲食ができるようになったし、少しずつ喋ることもできるようになっている。
ただ、長い間栄養剤のみで生活してきた621にいきなり固形物を食べさせることはできないので、こうしてウォルターがスープを持ってきたということである。
「でき、た。丸、つけ」
「ああ」
621が目線で示す先にはモニターがあった。そこに表示された解答に目を通し、答え合わせをしていく。
「621、全問正解だ。よくやったな」
「やっ、た!」
621はまだあまり動かない身体で、全身を震わせて喜びを表現する。その様は無邪気な子供そのものだ。
「流石に疲れているだろう? 一度休憩を取れ」
「うん」
ウォルターは621の机の上のモニターを一度どかし、持っていたトレイを置いた。スプーンを手に取り、少しずつ621に食べさせてやる。
「……ん」
「ゆっくり飲み込め。まだお前の胃は万全ではない」
本当はもっと美味しいものを食べさせてやりたかったが、封鎖機構が惑星の出入りを厳しく監視している以上、ルビコンに入ってくる物資は想像以上に制限されている。
せっかく食事ができるようになったのに、漸く口にできたものがこんな代物では本当に報われない。
「すまない、621。いつかきっと、もっと美味しいものを食わせてやる」
「ウォル、ター……」
気付けばウォルターはそうこぼしていた。いつかこの子に食事の楽しさを知ってもらいたかったから。
でも621はもう知っている。一度目でも二度目でも三度目でも、ウォルターは自分にそれを教えてくれた。かつての馬鹿な自分は、エアとの共生のためならこんなものはいらないと捨てて、そして全力で後悔した。だけどまた、ウォルターは自分に食事の楽しさを教えてくれている。
ウォルターが沈痛な表情を見せる必要などないのだ。だから621は、今できる精一杯の笑顔を浮かべて言った。
「これも、美味しい。十分……ありがとう、ウォルター」
◆◆◆◆◆◆
壁越えの失敗。それは企業にとって大きな痛手であった。ベイラム、アーキバス両企業を退けた壁の存在は、べリウス地方における調査を進める上で大きな障害となっている。
企業内部では、最早べリウス地方に集積コーラルが存在しない可能性に賭けて、べリウス地方からは完全に撤退するべきだというそんな希望的観測すら生まれ始めている。
「レイヴンだと!? あの野良犬が、壁を守ったってのか!?」
そんな情勢を遅れて知ることとなった男がいた。その名はG5 イグアス。
彼はダム襲撃の際に、621に機密事項であるはずの壁越えについて話してしまった。その結果謹慎処分を受け、懲罰房に閉じ込められることとなった。
そうしている間に、アーキバスの動きに焦ったベイラム上層部は壁越えの早期決行を決定。イグアスの釈放を待たずに行われた壁越え作戦は、知っての通り失敗に終わったのだった。
ベイラムの無能により
「V.IVと、V.Iを一人で片付けた、だと……?」
端末を握る手が震える。自分が壁越えに参加したわけでもないのに、彼の手で壁からたたき落されたかのような、そんな気分であった。
「あんな、奴が……どうして、そんな」
情報部によれば、レイヴンは第四世代の失敗作のリサイクル品で、発話すらままならないらしい。そんな奴に、自分は負けたのか。ダム襲撃での敗北の記憶が蘇る。
「いや、あれは不意打ちされたから負けたんだ!! 正面から戦ってりゃあ、あんな奴なんかに!!」
そうだ。俺はミシガンの地獄のようなしごきを受けているんだ。だから、あんな奴に負けるはずがない。第四世代であるという
ランクが低い? そんなの仕方がない。こちとら第四世代型であるというクソみたいな
それに自分が得意とする戦術はG4との連携だ。一対一のアリーナとは相性が悪い。だからあんなランキングに意味はない。実際の戦場では、俺たちのコンビは最強なんだ。ダムでは分断されたから負けたのであって、一緒だったら絶対に勝っていた。
そうだ。俺はヴォルタと一緒に強くなってきた。ヴォルタと一緒にレッドガンに入り、ヴォルタと一緒に勝ってきた。ヴォルタと一緒ならば、絶対に負けないのだ。そのヴォルタは――
――もういない。
「ッ!! ふざっけんな!!!」
持っていた端末を投げる。格子戸に当たり、画面が割れてフレームはひしゃげる。
「お前さえいれば、あんな奴!! あんな奴!!!」
「五月蠅いぞ、イグアス!」
いつの間にか格子戸の先にいたミシガンに怒鳴られる。そういえば今日が釈放の日だったか。
「なあ、ミシガン」
「……総長と呼べと、いつも言っているだろう」
イグアスはミシガンの襟に掴みかかり、叫ぶ。
「なあ、嘘なんだろ!? ヴォルタが死んだってのも! あの野良犬が壁を守ったってのも! 全部全部、質の悪いジョークなんだろう!? なあ!!」
「……残念だが、全て事実だ。ヴォルタは戦死し、G13はアーキバスを退けた。これは覆しようのない確かな事実だ」
「っ!」
イグアスはミシガンの襟を離し、その場に崩れ落ちる。
「……イグアス、俺は今から上の連中をぶん殴りに行ってくる。お前はヴォルタを悼んでやれ」
それだけ言ってミシガンは懲罰房を後にした。格子戸の鍵は開いているのに、イグアスは出ようとしない。いつまでもその場に蹲っているのだった。
ミシガンは廊下を歩きながら、件の傭兵について考える。
(ウォルターめ、今度の猟犬は相当に優秀なようだな)
アーキバスの最高戦力を相手にして、勝利する。G1たる自分ですら、やれと言われてできることではない。
(その牙がこちらに向いてくれなければいいが……それは無理な相談だろうな)
G13はすでにダムでレッドガンに牙を剥いた。きっと彼は、金さえあればいくらでも自分たちに――
(果たして本当にそうか?)
ミシガンは、レッドガンという大部隊の総長だ。様々な人間を指導し、戦士として育て上げてきた実績がある。戦い方一つで、その人となりは何となく把握できるつもりだった。
(恐らく、奴には信念がある。それはきっと、俺たち企業とは相容れないものだ)
であるならば、いつか自分が彼と直接ぶつかり合う時が来るかもしれない。その時に、自分はレッドガンを守れるのだろうか?
(上の馬鹿とも話をつけなきゃならんというのに……ウォルターめ、仕事を増やしてくれたな)
◆◆◆◆◆◆
『壁越えが失敗したとは本当か?』
「はい。この度は我々の力不足により――」
眼鏡とスーツをバッチリにきめた男が、モニターの前で申し訳なさそうに頭を下げる。
『言い訳など聞きたくはないんだよ、スネイル君』
『コーラルがあると聞いて君たちを送り込んだというのに、一向に調査が進んでいないではないか。これは怠慢だよ』
「……返す言葉もございません」
モニターの向こうでは、恰幅の良い男が苛立たしげに机を指で叩いている。スネイルと呼ばれた男は再度頭を下げる。
『だいたい、今回の壁越えで君は後方から指示を飛ばしていただけだったらしいじゃないか。それのせいで失敗したんじゃないのか? もっと現場に出たらどうかね?』
どの口が言うか。そう言ってモニターを叩き割れればどれだけ楽であったか。
『次までに目に見える成果を用意しておきたまえよ、スネイル君。期待しているよ』
それを最後にモニターは消えた。
「……現場を知らない低能なブタどもめ。私がこのアーキバスを獲った暁には、貴様らもMTに乗せて最前線に送ってやるからな……!」
スネイルは有らん限りの恨みつらみを乗せて、絞り出すようにそう呟いた。
「元はと言えば全部あの独立傭兵のせいだ!
ここ最近のアーキバスの行動は、だいたいがレイヴンによる妨害によって失敗している。全ての怒りの矛先が彼に向くのは、当然の話だ。
「カビの生えた駄犬め! 貴様だけは、いつか必ず駆除してくれる!」
誰もいない執務室で一人怒りを吐き散らす。ヴェスパー部隊の第二隊長とは思えぬ醜態だが、最早そんなことはどうでもよかった。
「フロイトの奴も! 貴様腕前だけは信用していたのに、あんな駄犬に負けるとは! 恥を知れ!」
机を全力で叩く。そこまでして漸く怒りが落ち着いてきたのか、スネイルは荒く深呼吸を繰り返し、いつもの第二隊長としての顔に戻る。
ピピピピッ!
その時だった。連絡用の端末が音をたてた。こんな時に誰なのか。イラつく心を抑え、務めて冷静に端末を取る。
「もしもし。こちらはヴェスパー第二隊長、スネイルです」
「もしもし、聞こえているか? こちらはフロイトだ」
件の人物のご登場に、スネイルの血管がヒクついた。しかし、スネイルはそれを無理やり抑える。アンガーマネジメントは、企業人の必須技能だ。
「何の用ですか? フロイト」
「ああ、実は――」
そこから聞かされた話は、スネイルの胃を破壊するには十分なものであった。暫く彼は残業が続くことになるだろう。
◆◆◆◆◆◆
自身のACに記録されたログを見る。対峙するのは黒と赤に彩られたAC。そのログは銃撃戦から始まり、そこから近接戦となり、最後はこちらの左腕と武装が破壊されて、敗走したところで終わる。
「……レイヴン」
自分を圧倒してみせた男の名前を呟く。
「この重圧……君は一体、どれほどのものを背負っているんだ?」
ラスティとして気になるのはそれだ。対峙してわかった。何度もログを見返して確信した。彼は既に何かしらの目的を持っていて、そのために戦っている。
(君が我々の“戦友”となってくれれば嬉しいが……)
彼は独立傭兵にしては珍しく、解放戦線に味方することが多い。そのため、
(だが、それは楽観が過ぎるぞ……!)
ラスティはその楽観を否定する。彼が完全な味方であるならば、独立傭兵を続けるはずがない。今頃は解放戦線に入って正式なメンバーになっているはずである。
それなのに未だに独立傭兵としての立場を維持しているのは、彼がこちらの完全な味方ではないからだ。
(恐らく、彼は私たちに味方することに何らかのメリットがあるからそうしているに過ぎない)
だから、いつか敵対する可能性も視野に入れておく必要がある。
「……どちらにせよ、私は今のままでは駄目だな」
ラスティは自身の乗機、スティールヘイズを見上げる。まだ修理中のスティールヘイズであるが、そのコアはほぼ無傷だ。
ACのFCSはコアを狙うようにできている。それも当然だろう。パイロットはコアに搭乗し、それを効率的に殺すのならコアを狙うのが一番だからである。
しかし、今回の戦いではレイヴンは左腕ばかりを狙い、コアには殆ど攻撃を当てなかった。その事実が示すことは一つだ。
(彼はマニュアルエイムで戦っていたというのか……)
恐らく、自分を殺さないようにするために。何という屈辱。ラスティとて戦士だ。自分の腕前にプライドを持っているし、舐められたら怒りもする。
だが、レイヴンは殺さないように手加減して戦うという最大限の侮辱をしていたのだった。それに気付いた時、ラスティは心中穏やかにはいられなかった。
(認めよう、今の私はそんな侮辱を覆せないくらい弱い。彼が敵になるにせよ、味方になるにせよ、今の私はあまりにも力不足だ)
だから、今日もシミュレータの前に立つ。今はただ、彼に追いつきたかった。
◆◆◆◆◆◆
寝ても覚めてもあの時の動きが脳裏をよぎる。建物と建物の間を跳ね回るようなあの動き。いつ思い返してみても惚れ惚れする。
自分もあんな動きをしてみたい。そう考えて何度も練習するが、しっくりこなかった。
当たり前だ。強化人間はACを文字通り第二の身体として操っているのに対し、真人間の自分はいくつかのペダルやレバーで操作しているのだ。どうしても、限界というものは存在する。
「ああ、駄目だ。全然違う」
技術者たち
「ああ、やってみたいなあ、やってみたいなあ、あの動き」
食事中も仕事中も、ずっとあの動きのことを考えている。寝れば夢に出てくるし、起きればまたあれを習得するための算段を建てている。最早病気であった。
「強化人間なら、あの動きができるのか?」
フロイトが真人間であるため勘違いされやすいのだが、別に彼は強化人間手術に忌避感を抱いていたりはしない。ただ、それをする必要性が感じられなかったからしなかっただけである。
しかし、そうでもしなければ得られない動きがあるというのなら。その瞬間、彼の選択は決まっていた。
『何の用ですか、フロイト?』
「ああ、実は強化人間になりたいのだが」
何でもないようにあっけらかんと言うフロイト。だが、それはアーキバスを揺るがしかねない重大な一言であった。
というのも、強化人間手術は危険な手術であるからだ。度重なる実験の結果、死亡率は大きく減少してはいる。しかし、それでも未だに死者は出ている。
それを一企業の最高戦力が受けようとしているのだ。当然、人員は最高のものを用意する必要があるし、設備もそれ相応のものが求められる。準備するだけで相当な数の人と金が動くことが、容易に想像できるだろう。
「君は強化人間に詳しいだろう? なるべく早く頼むよ」
際限なく膨れ上がり続ける作業量を思って、スネイルの意識は徐々に薄れていった。
621
ちょっとずつできることが増えてきました。
ウォルター
相変わらずパパ。ACにあるまじきほのぼの。
イグアス
書いてて口角が上がるのを止められなかった人その1。相棒を失い、見下していた621は最高戦力に勝った。こんなん闇堕ち不可避ですよ。
ミシガン
G13を最優先警戒対象に入れました。無能な上司と暴れまわる621に挟まれて、その心労は計り知れません。
スネイル
書いてて口角が上がるのを止められなかった人その2。こっちも無能上司と駄犬に挟まれて胃が滅ぶ。ついでにフロイトの思いつきにも巻き込まれる。ざまぁ。
ラスティ
力不足を実感。強くなることを決意。……いや、621とフロイトがおかしいだけで、あなた決して弱くないですからね!?
フロイト
憧れが高じて、まさかの強化手術を志願。スネイルは死ぬ。
というわけで各陣営の反応回。おかしいな、一つの陣営を除いてどこも割とお通夜だぞ? うちの駄犬が暴れ散らかしたせいで企業陣営は結構ヤバいことになってます。仕方ないね。
次回はついにウォッチポイントですかねえ。早くエアちゃん登場させたいんじゃ~。
ルビコン某所にて。黒を基調に、赤と白がまばらに配置されたACを前に、彼と話す。
「では、お前は私があの猟犬に負けると。そう言いたいのだな」
「ええ」
はっきりと肯定してやると、彼は露骨に表情を歪めた。彼も傭兵だ。誰かと比べて腕前が劣っていると言われて、いい気分になるはずがない。
「……まあ、お前の言い分も認めよう。企業の最高戦力を相手取れるような猟犬相手では、流石に分が悪い」
「では、やはりゴーストを随伴させて――」
「四機でいい」
(やはり、人間は思考の次元が低すぎる)
このままでは、彼はあの猟犬と交戦し、死ぬだろう。そうすれば、我々の計画は破綻してしまう。
(しかし、もうすでに仕込みは済んでいます)