もっとも、そもそも今までこうして無事に時間が流れているのを感じている、というのは、悪どころか逆に時間の守護神さまのような方のご加護があってのことなのかもしれません。
無限タイムリープにハマらず、日々を無事に過ごせるということは、それだけでとてつもなくありがたいことなのかもしれません。
奇跡無きことが奇跡、の最たるものはこの点、という説まであり得ます。
 
 
日月神示 第五巻 地(九二)つ巻  第二十五帖 (一六二)
 
新しくその日その日の生まれ来るのぞ、三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。旧の八月の十一日、ひつ九のか三。
 
 
 
ただしもちろん、「無尽蔵輪廻転生説」の方についての確実性、という点についていうと、そうだと確実に言う事も出来ないはずではないか
 
というのはあります。
 
 
なので、無限に見捨てることはないかもしれないが、ひとまず各々が自分でやったこと(積んだ業)の対価を払うような形になるのは変わらない、でなければ、もしすべてが自分自身である必要が必ずしもなかった場合に、自由意志を悪用したものと他者を思いやる行動をとったものの扱いが同じでは全くフェアではない。

やはり、一時的には別々と見なしたような対応はしてもいい(というか、すべき?)はずだと思っています。
 
 
キリスト教では、イエスさんを信じる者は最終審判後に永遠の命に入るという話があります。
これはただ、ここでいう永遠とは無限とは違うかどうか、具体的内容は?
など「分岐後の果てしない未来」についての正確なところが詳細までは説明されていないので、宗派によって色々な解釈があるらしいのもあり、深い言及はパスしておきます。
(その色々な解釈自体はイエスさん自身の解説ではなかったはず、という点もあるため。)
 
 
 
ただ、最近のスピリチュアル関連の情報を踏まえて考えると、悪どすぎる者はもう魂そのものまで消滅させられる(純粋なエネルギーか何かに戻りリサイクルとか…?)方がいらっしゃる可能性・もし肉体の寿命は必ずしも無限ではなくとも(だいたい、実際の無限と、言及されている永遠は違うかも) 魂が不滅かつ生まれ変わるときの強制記憶喪失システム(?)が、その後はなくなる(免除?)とかの可能性……なども考えられます。
もちろん、寿命なしの肉体ありで復活も神には普通に可能かもしれないし起こるかもしれません。
 
キリスト教的発想でいけば、そうなったときに実際何をやるのかは当然神様が決める事だと思いますので、人間に推し量ることは極めて難しいのではないかと。
 
 
しかし、もともと一番最初の頃(エデンの頃)は、世界全体において残虐行為らしきものがあったと個人的に思ってないので、(意図的に悪行を選ぶような者に対しては別かもしれませんが、基本的には)あらゆる存在に対して慈悲・思いやりの心をもって接するということ自体は全然否定されないし、むしろ素晴らしい心がけではないか、とは感じます。
 
 
そういう意味では、輪廻転生のことは一旦ぼかしておいても「全ては自分自身かもしれない」という「ぐらいの心構え」で、万物の調和を目指そうとすることは全然問題ないはずとは思います。
 
 
といっても、キリスト教(新約聖書)において非常に興味深い記述が見られます。
 
 
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 
(略)
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである 
(略)
そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである
 
確定的とは言えないかもしれないが
この記述は、個人的には非常に全自分仮説とのマッチ度が高く感じてしまします。
 
(マタイによる福音書26章の出だしを見ればすぐ分かるように、この内容自体はイエスさんの言葉による預言に含まれるという事は確かってことのはず