今回は、個人的には1秒たりとも安心できないという状況を回避するための根底をなす、超重要な内容です。
※たぶん、かがぷれでもこの考え方はベースとなりそうです。
といっても、今回は可能性の話で、正しいかどうかの裏付けは基本出来ないか、出来る方法があったとしても限りなく難しいと思いますが、この観点がないとやばいケースが無数に考えられます。
ですがどちらかというとこれ、『創作目線』みたいな感じで言及したい話ではあります。
そうじゃないと実は誰一人として一度も地獄を見ずに済む方法はないかもしれないためです。
もちろん、どのような視点で読むかはお任せします。
以前から、複数の箇所で輪廻転生が過去に対しても起こり得るのではないか?という話をしたと思います。
その考えをさらに、究極まで拡張すると…?
もしかして、全ての生命(および霊的存在)は自分自身の生まれ変わりという可能性はないだろうか?
※後日、これを『全自分仮説』と呼ぶことに
ひと繋ぎのなんとやら?でしょうか
お釈迦さんがおっしゃった「天上天下唯我独そん」っていうのが、最後の1文字が「尊」じゃなくて「存」になってたら、かなりイメージが近いかというところ。もっとも、本来は「存」在は全て「尊」ぶべきもの、って感じのつけたしがあったら、それはそれで通じます。
・もし無限に不死で生き続けることが出来なければ、生まれ変わらないと無に帰す?
・宇宙には寿命はあるのか?もしあるとしたら、少なくとも過去へのタイムワープや別の世界への移動なしでは誰も無限に生きられない。
・そして、無限に生きていると「ただしく断言できる存在」であれば、その方にはおそらく無限の記憶が必要。無限の記憶って何?記憶ってどっかに格納しておかざるを得ないものなのではないだろうか
・もしも魂が不滅のものであり生まれ変わり続ける必要がもしあるなら、同じ一生を繰り返すか、もしくは別の一生として転々と移り変わっていくことにならないか?
あるいは、今まで経験したことの無い「別の」存在として生まれ変わり続けなければならない、そして全ての生涯を経験する必要がある、となっている可能性も…
もしかして
宇宙の時間の果てまで行くと、宇宙が終わる瞬間に、ブラックホールの特異点のように通常の科学的計算では測れない特殊現象が起き、宇宙の終わりの向こう側に到達したかに見えたまさにその瞬間に意識が過去に弾き飛ばされ、システムからは決して逃げられない、とかいうことが起きたりしないだろうか?
ジグソーパズルが完成するには全てのピースが必要である、というような何かの力が働いて
例え「避けたつもり」の危機があったとしても、
自身の魂視点におけるはるか先の未来において、未体験の箇所をすべて回収する必要性に迫られるかもしれない。
というか、もっと考えを押し進めると、そうでなければ逆に、「ではなぜ自分ではない何者か」のみが、その理不尽な目を経験しなければならなかったのか、という疑問はずっと残ることにならないか、という点があります。
(もし嫌なことを出来る限り先送りしていった場合、後になるほど、それはより決定的、膨大になるかもしれない)
もしその上さらに、仮にジグソーパズルが完成しなかったら三千世界の外に出られないとかの設定だった場合だと、内側(不完全な一部としての記憶の状態)から、そのこと(なぜ不公平に見えることが起きたのか、それはそのままでいいのだろうか?)を誰なら完璧に説明できるのだろうか、という疑問は残るのではないか、という恐れがあります。
もちろん、あるいは転生そのものが必ずしも必要ではないかもしれません
しかしです。仮に直接必要じゃなかったとしても代替手段はまたあり得そうな気もします。
パシフィック・リムという映画で出てた「ブレイン・ハンドシェイク」みたいなイメージで 現在の感覚に加え、記憶や意識が共有されるような技術か何かがあるか、もしくはアセンションとか、死とかで高次の世界へと移り変わったり、「ソース」に還る際に、同様の事が自動的に起きて記憶や体験を実質的に共有するに等しい形で、より大きな一部へと融合することになったりするかも。
実際、この記事の話によると、現時点でもそれっぽい事が可能な「技術」はあるらしいです(工作員等による創作のダミー情報じゃなければ)
捕らえられた際に大規模な抵抗があった場合、光の勢力は、彼らが今世、そして他の人生で他の魂にしてきた苦しみを全て感じさせることができる。
この経験は純粋に感情的なものであり、瞬きをするだけの間でもある。しかし、それだけで十分なので、これらの個人の捕獲と除去は簡単に実行することができます。
もしも全ての存在が実際には自分自身に等しいもの(あらゆる体験は不可避)である場合は、何重にも苦しみが増幅されては欲しくないため「被害者が受けた苦しみはなかったことになる」かわりにそっち(加害者側)に飛ばす、みたいな事が出来るならその方が「実はすべてに生まれ変わる必要はない」場合でも妥当になるかも、なので……とは思いますが、正確な状況は人間の立場では現状不明なのでなんとも
ともかくこれ(「全ては自分自身、かもしれない」のやばさ)はゆるふわスピリチュアル的なイメージで聞くと全然本質を捉えられないと思います。
「全て」であるなら、これはマジで甘くない話です。
普通にのほほんと生きてきた一般人からすると、おそらくとんでもない話です。
よろしいですか?
もし実はそうなのであれば(その運命からいかなる者も決して逃げ切ることが出来ないのであれば)
すべての拷問・虐殺の被害者もまた、自分自身であるという事になります。
いかに、同時に別の場所に存在しているかに見えたとしても。
過去に戻って転生し、全ての生涯を経験することが回避できないのであれば。
もちろん、幸福につつまれた生涯を送れる者にも全て生まれ変わることにはなります。
もしもそういう事なのだとハッキリ分かった場合、そのシステムは誰の目にも、この上なく公平だとすぐにわかるし、そして平等でもあります。
そのケースでは、知れば知るほど、あるところではとてつもない希望があるものの、とてつもない絶望も、またあるということです。
むしろ、地球上で生まれ変わるときに、通常記憶を完全に失う…というのは、覚えてるととても正気を保てない程絶望に満ちた状態だったから、それに対する慈悲…という事かもしれませんが、逆に記憶を失った状態で騙されたり洗脳される為、これまで、いつまでたっても地獄のような現象がなくならない……という流れだったのかもしれません。
ただ、例え避けられない、絶対嫌と思うようなことがあったとしても、無限じゃなければ、いつかは終わる。
嫌なものは嫌ですし、避けられるものなら避けたいと思うのが人情でしょうが
しかし逆に、もしこの考えを全力否定してかかろうとすると、それをはるかに上回るとんでもない恐怖に見舞われる恐れがあるのです
遥かに高度な技術を持った存在から、悪意のようななにかによって無限タイムリープを食らう恐れです。
公になっている技術の中では、少なくとも今現在、人類に、過去や極端な未来への即座の時間移動は出来ないはずです。
ましてや一般庶民になんて太刀打ちできるわけないでしょう。
しかし、それでいて現実として地獄のような残虐行為が、高次の悪魔的な意図を持った勢力によって行われていたことを示唆するような情報は、ネット上に多く散見されます。
もしも、万が一、自分の意志と無関係な自動(?)の無限タイムリープを食らった存在がいたとして、それを果たして確認することができるのかどうかも、正直ちょっとよくわかりません。
ただ、宇宙はとてつもなく広いです。
果たしてサイコパス化した高度な技術を持つ存在が、一時的にかもしれないが悪意に染まって、誰かを抜けられない地獄に嵌める可能性がないと、言い切れるのでしょうか?
もしも考えられ得るもっとも苦しい瞬間を無限タイムリープに嵌められる可能性がこれから先0%ではないとしたら……そのうえで、魂が実質寿命がなく無限に存続する、という話が本当で、そしてさらに過去にも転生は起き、少なくとも全ての生涯をコンプリートするまでは無尽蔵に生まれ変わり続けないといけないとしたら…?
ゼロじゃない確率と、無限にも思える無尽蔵な時間の掛け算です。
限りなく100%に近づくという恐怖から逃れられるでしょうか?
※正確には 「(1.0 - 1プランク時間あたりの被害確率)の(全転生での合計時間÷1プランク時間)乗」ぐらいが、完全回避確率かもしれませんが(被害率でいうなら (1.0 - 完全回避率) また、%で表すならここに×100)
仏教の地獄説に出てくる、最下層の地獄が「無間(むげん)地獄」という字であることが、断崖絶壁感を引き立てていることがお分かりいただけるでしょうか?
ただし、だからこその『全自分仮説(全ては自分自身、かもしれない)』です。
その可能性が否定されない限り、誰も他者を無限タイムリープに嵌めたいとなど思わず、思いとどまってくれる可能性が、逆にほぼ100%になるはずです。
また、その場合だと、誰か一人でも無限ループにハマるとそこでバグって宇宙が終わるような感じになりかねない可能性も考えられそうな気がするため、宇宙が成り立っているように見えるって事は、それ自体が、いまだかつて(実際は今後も?)そういう事はどこにも起きてない可能性が高いのでは?という希望的な推測にもつながります。
もちろん、確証はないでしょうし、証明もほぼ不可能かもしれないですが
とはいえ、やはりその可能性が否定できないなら、最悪の事態は防げるかもしれないし、それならもうここはいっそ、あらゆる存在にとって嫌な事がより少なく、楽しい・うれしい・喜ばしい・心地よい事ばかりの世界にしていかざるを得ないという気分になるのも、お分かりいただけるのではないでしょうか?
死ぬほど……いや、すぐに死ぬよりずっと嫌すぎることが、もしも避けようがなかったのだとしても、その何億倍、いや何兆倍、いやそれ以上に最高な世界が広がっていれば、まぁたまにはしょうがないと割り切れる、かもしれないという想いです。
ただ、この認識が伝わったとしてもそれでもまだ完全に安全といいきれるわけではないかもしれません
というのも
もし全ての存在への輪廻転生を極度に恐れた、高度な科学力・無制限な寿命を持つ存在がいたとしたら、意図的に過去へのタイムワープを繰り返したりするのだろうか?
という謎が残ります。
しかしもし、それが無限に繰り返されたら、とてつもなく広くはあるが無限の牢獄に閉じ込められるに等しい可能性は…?
その存在にとってそれは本当に幸せと言えるのか…?
ただ、その場合はその場合で、今度は逆に全存在転生説はどうなるのか、という疑問はあります
ただし、もし無限の寿命を持つ存在が過去へのタイムワープを無限に繰り返した場合でも、自分を含めた未来を「すべて」事前に把握することは出来るのでしょうか?
それはやはり「無限の情報・記憶」です。
宇宙が有限である限り、宇宙中のエネルギー・物質を使っても意図的に固定させられるとは俺には思えません。
・・・となると、その「無限・有限」の論理自体を逸脱できない限りは、本当に無限の寿命を持ち、決して生まれ変わることがないと「証明する」事は出来ないのではないでしょうか?(たぶん)
なので、その状況下でもなんらかの予期せぬ現象や事故の確率を完全に0だとは証明できない、となってギリギリセーフの(=全自分仮説を否定はしきれない)可能性はあります。
いずれにせよ、高次の存在が時間移動してタイムラインをめぐる争いをしているという情報が色々なところから流れて久しい今日この頃
今一度確認しておきますが
無限タイムリープのハメを決してくらいたくない、という想いに対して決定的な希望があるとすれば、このこと(全自分仮説)以外は直接確認は困難です。たぶん。
一見頼りないが、その可能性を認識する者にとっては残虐な事を他者(その時点での)に対して行うのを積極的に避けようとする強い後押しに「なり続ける」可能性が高い。
おそらくは、どんなに高い力・技術であったとしても、もしもそこに「未知な点」が素粒子1つぐらいでもあったとしたら、全知全能ってわけではないので……それを上回る力が、現状認識できていない、より高い世界から加わってきて、恐るべき想定外の事態が起こることが絶対ないとは、いつでも言い切れないはず。
※なお、もしも三千世界が生じる原因となった、かつ三千世界の外側から観察できる方(創造主様?)がいらっしゃったとして、その方が外側から三千世界を見る・操作するという行動を内側の住人からみると、それは全知全能に等しい、という事がもしあり得たとして、しかしそのお方が三千世界に「ログイン中」みたいな感じになってるときは、ルールに従って適宜記憶を失ったり法則の制限を受けたりするようにしてある、ということはありえそうな設定って気はしますww その場合は、内側にいる存在はどれほど高い力を持っていても、『個』であるうち…つまり「自分のいる世界の内側に自分以外の存在がある」ならば、それ自体の理のために全知全能とまではいかない、という事も起こり得るかもしれない。そうなると、究極の詳細は三千世界の内側の者に完全には、証明する形で知る・特定することは不可能な可能性も…w
※これはあくまで、想像上の話ですが
ここで、一旦別の可能性を考えてみます。
というのも、一方で仏教には、輪廻から抜ける方法というのが説かれています。
ただし、です
極楽と涅槃は正確には違うという話…
極楽浄土は人間の感覚で言うとだいぶ、桁違いに幸福そうかも…?
という内容がいろいろ説かれていますが、実は涅槃っていうのとはまた別らしいというのがあり、少なくとも個人的には涅槃という状態の「正確な状況」がよく分かっていません。いろんな説があるみたいですが
むしろ言葉とかで説明不能みたいにされてる場合も?
(極楽に行ってもなお涅槃を目指して修行するらしい…?というのが大筋のお話?)
また、無住処涅槃というのもあるらしいです
意味するところは「智慧有るが故に生死に住せず、慈悲有るが故に涅槃に住せず 」ような感じらしいです。
慈悲によって涅槃に留まりきらない、ということが起こり得るならば、過程はどうあれ、また選択は自ら行うかに見えたとして、結果でいったら完全には涅槃だけで済むことにはならない、とは言えるはずです。
もし涅槃に至れるならそれぐらい慈悲深い、ということだと…
生死の世界が惨状になっていて、それを知りながら慈悲の心によって涅槃に留まり続けることは出来ない(一切衆生の救済が究極の望み)となると、自分だけで完全に100%コントロールできないという観点「だけ」で見れば、違ってはいないはずです
そして、きついのは生きている間は確実なことは確認できないという話
極楽や涅槃の正確な状態とかが、生きている間はおそらく観測自体がまずされ無い上に、そもそも例外中の例外ってことは、それだけ不測の事態への「サポート」可能性が乏しいということは・・・?
うまくいけばうまくいくかもしれないが
もしかすると、知識不足の素人が土足で悟りの道に挑もうとして微妙に失敗すると5億年ボタン(自分の意志では出られない何もないところに長期間幽閉)みたいになる可能性は、全くないのだろうか…?
というあたりがちょっと怖いところ
それに加えて、仏教の基本的戒律 (不殺生戒等々)は別途あることになっています。
もしもそういう事(業: カルマ)とかと一切無関係で「悟れば」涅槃に至れるとか、特定の条件満たせば極楽浄土に行ける
って事の場合、そういう戒律が必ずしも必要と考えない者が出てくる可能性がある
しかし
そういう事にはなっていない。
そういう事にはなっていない。
悪いカルマが残ってたら輪廻から外れることは出来ない、どころか、そもそも悟りに至ることすら「許可」されないとかなんだろうか?
その辺の設定は(現代に伝わってる仏教の解釈とお釈迦さんの意図がどうなってるかも含めて)詳細は不明ですが、ある程度以上の悟りの段階に至った方々は揃いも揃って残虐行為は避けるべきと言う感じに皆なっていたと思うので、変な深読みをするまでもない気もします。
どういうルートで真相らしきものに至ったとしても、ダメそうなものはダメそう。
もちろん輪廻転生からは、教えの通りホントに抜ける道があるかもしれない。特に否定する気はないけど
それにしたってしかし、有余涅槃(悟りは開いたが、まだ生きている間)は、『涅槃としては不完全説』はあるわけで
それなら生きてる間は無事じゃないといけない(無限タイムリープは決してくらいたくない)って点は同じなんでは?
となると、高い力を持つ存在が、悪意によってとてつもない地獄に突き落とすということを、たぶんまずないはずと思うためには
全自分仮説の認識こそが、やはり最後か、最後に近い頼みの綱ではないかな?というところです。
もっとも、そもそも今までこうして無事に時間が流れているのを感じている、というのは、悪どころか逆に時間の守護神さまのような方のご加護があってのことなのかもしれません。
無限タイムリープにハマらず、日々を無事に過ごせるということは、それだけでとてつもなくありがたいことなのかもしれません。
奇跡無きことが奇跡、の最たるものはこの点、という説まであり得ます。
日月神示 第五巻 地(九二)つ巻 第二十五帖 (一六二)
新しくその日その日の生まれ来るのぞ、三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。旧の八月の十一日、ひつ九のか三。
ただしもちろん、「無尽蔵輪廻転生説」の方についての確実性、という点についていうと、そうだと確実に言う事も出来ないはずではないか
というのはあります。
なので、無限に見捨てることはないかもしれないが、ひとまず各々が自分でやったこと(積んだ業)の対価を払うような形になるのは変わらない、でなければ、もしすべてが自分自身である必要が必ずしもなかった場合に、自由意志を悪用したものと他者を思いやる行動をとったものの扱いが同じでは全くフェアではない。
やはり、一時的には別々と見なしたような対応はしてもいい(というか、すべき?)はずだと思っています。
キリスト教では、イエスさんを信じる者は最終審判後に永遠の命に入るという話があります。
これはただ、ここでいう永遠とは無限とは違うかどうか、具体的内容は?
など「分岐後の果てしない未来」についての正確なところが詳細までは説明されていないので、宗派によって色々な解釈があるらしいのもあり、深い言及はパスしておきます。
(その色々な解釈自体はイエスさん自身の解説ではなかったはず、という点もあるため。)
ただ、最近のスピリチュアル関連の情報を踏まえて考えると、悪どすぎる者はもう魂そのものまで消滅させられる(純粋なエネルギーか何かに戻りリサイクルとか…?)方がいらっしゃる可能性・もし肉体の寿命は必ずしも無限ではなくとも(だいたい、実際の無限と、言及されている永遠は違うかも) 魂が不滅かつ生まれ変わるときの強制記憶喪失システム(?)が、その後はなくなる(免除?)とかの可能性……なども考えられます。
もちろん、寿命なしの肉体ありで復活も神には普通に可能かもしれないし起こるかもしれません。
キリスト教的発想でいけば、そうなったときに実際何をやるのかは当然神様が決める事だと思いますので、人間に推し量ることは極めて難しいのではないかと。
しかし、もともと一番最初の頃(エデンの頃)は、世界全体において残虐行為らしきものがあったと個人的に思ってないので、(意図的に悪行を選ぶような者に対しては別かもしれませんが、基本的には)あらゆる存在に対して慈悲・思いやりの心をもって接するということ自体は全然否定されないし、むしろ素晴らしい心がけではないか、とは感じます。
そういう意味では、輪廻転生のことは一旦ぼかしておいても「全ては自分自身かもしれない」という「ぐらいの心構え」で、万物の調和を目指そうとすることは全然問題ないはずとは思います。
といっても、キリスト教(新約聖書)において非常に興味深い記述が見られます。
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
(略)
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』
(略)
そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』
確定的とは言えないかもしれないが
この記述は、個人的には非常に全自分仮説とのマッチ度が高く感じてしまします。
(マタイによる福音書26章の出だしを見ればすぐ分かるように、この内容自体はイエスさんの言葉による預言に含まれるという事は確かってことのはず)
それにさらに加えてこういう事もあります。
新約聖書では,ヨハネの黙示録において,アルファでありオメガである主が啓示されている.父なる神御自身が「わたしはアルファであり,オメガである」と宣言され,永遠に存在される方として,万物の支配者として,最後の審判をなさる方として,また新天新地を来らせる方として記されている.またこのことばは,御子イエス・キリストについて用いられている.「わたしはアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである」 (黙示録22:13.参照1:17,2:8)と言われるのである.
これは全自分仮説とは別に、つまり「絶対神とその他の被造物は完全に別」説で読んでももちろん話は通るかもってとこだとは思いますが、仮に、全自分仮説だけでなぞったとしても、それもそれでまた何の不思議も無く説明できてしまう内容とはなってしまっている感じです。
(おそろしぃぃ…(ww))
微妙に表記のゆれはありますが、日月神示でもそれらしい内容が書かれていました。
山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。
第31帖
一切が自分であるぞと言うことは例えでないぞ
そなたは、食物は自分ではないと思っているが
食べるとすぐ自分となるでないか
空気も同様、水も同様ぞ、火も同様、大空もそなたぞ
山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ
人間は横の自分ぞ、神は縦の自分ぞ
自分を見極めねばならん、自分を疎おろそかにしてはならん
これらもやはり確定的とは言えないかもしれないが、個人的には非常に全自分仮説とのマッチ度が高く感じてしまします。