大和特攻、悲劇へ急転 天皇に忖度、わずか1日で 参謀の証言発掘
戦艦大和が1945年4月7日、水上特攻作戦で沖縄へと向かう途中、米艦載機の攻撃を受けて撃沈されてから来年で80年。航空特攻全体の戦死者数に匹敵する約4千人以上が亡くなった無謀な作戦は、なぜ決行されたのか。埋もれていた証言を発掘したところ、大和の沖縄特攻作戦は昭和天皇が海軍首脳に水上艦艇の運用について「ご下問(質問)」した4月4日に突然浮上し、翌5日には決定された可能性が強くなった。▼5面=現場へ!
従来の通説では、ご下問は特攻作戦が決まる1週間前の3月29日とされていた。日本海軍を研究する戸高一成・大和ミュージアム館長は「これだけの規模の作戦としてはあまりに早く、天皇の言葉が海軍に与えた衝撃がうかがえる。天皇の発言への過度の忖度(そんたく)と海軍の体面を守りたいという意識が決定を急がせ、ずさんな作戦運用にも影響を与えたのでは」と話す。
今回、記者が発掘したのは、連合艦隊の三上作夫参謀(1907~96)が88年、旧海軍・海上自衛隊の親睦団体・水交会で証言した録音だ。録音は非公開の扱いだったが、遺族の許可を得て聞くことができた。
証言によれば、三上さんは鹿児島・鹿屋に出張中の4月4日、連合艦隊司令部の神重徳(かみしげのり)参謀から「軍令部総長が陛下に(沖縄での航空特攻作戦について)奏上した際に陛下が『もう海軍に艦(ふね)はないのか』と言われ、恐懼(きょうく)して御前を下がった」「それで急きょ、特攻作戦を考えることになった」との電話を受けた。
「戦艦大和ノ最期」著者の吉田満らが75年にまとめた「日米全調査戦艦大和」(現行タイトル「ドキュメント戦艦大和」)ではご下問があったのを「3月29日」とし、大和特攻への影響も間接的としていた。しかし、この説の根拠とされる「太平洋戦争日本海軍戦史」(第二復員局編)に「艦はないのか」という質問はなく、儀礼的やりとりだけが記されていた。
一方、三上さんの手記「大和特攻作戦の経緯について」(70年)では、神参謀から「本日ご下問があった」との電話を受けたのは「四月」とだけ記され、何日だったのか分からなかった。一部では「四月」を「四日」の誤植・誤記と判断し、「ご下問は4日」とした論考もあった。録音を直接聞けたことで、三上さんが「4日」と証言していたことが確定した。
三上さんは当時、特攻作戦の立案には関わらなかったが4月6日、草鹿龍之介参謀長と共に大和に赴き、特攻部隊を指揮する伊藤整一・第二艦隊司令長官の説得に当たった。草鹿の「一億総特攻のさきがけになって欲しい」という趣旨の言葉に対し、伊藤は「作戦の狙いは何か」「どれだけの期待をしているのか」と問うた。三上さんが「最後に沖縄に乗り上げて、斬り込みまで考えている」と告げたところ、「そういう戦理に反するような戦(いくさ)ならよく分かった」と応え、話は終わったという。
翌7日、大和は沖縄に向かう途中で米艦載機の猛攻を受けて沈没。その後、生き残った特攻部隊幹部を長崎県佐世保で迎えた際には「言葉を極めて罵倒された」という。
録音で三上さんは長い間絶句した後、こう語っている。「この作戦は『大和』の部隊では非常に不服だったんですよね。それを無理やりに押し出したような形になっとるんですよ……」(太田啓之)
■天皇は無益な作戦望まず 明治大・山田朗教授
45年4月1日、沖縄に上陸した米軍は重要拠点の飛行場を占領した。米軍に痛撃を与えた上での講和を望んでいた昭和天皇は、戦況に強い焦りを抱き、3日には陸軍首脳に「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」と厳しく問うている。戦況が悪化したこの時期のご下問だったとすれば「大和ら水上艦艇も何とか戦力化し、劣勢を挽回(ばんかい)できないか」という天皇の思いがうかがえる。
天皇は大和沈没後の4月30日、「大和以下の使用法不適当なるや否や」と問い、海軍も「突入作戦は早すぎた上に周到な準備を欠き、窮屈な計画になった。作戦指導は適切とは言えない」と返答した。天皇が望んでいたのは大和の合理的な運用による戦果であり、無益な特攻作戦に投入するなど思ってもいなかったことが分かる。
■戦艦大和の沖縄特攻・時系列表
<1945年3月29日> 昭和天皇が大和など水上艦艇の運用についてご下問?(従来の通説)
<4月1日> 米軍が沖縄に上陸
<2日> 三上作夫さんらが鹿児島県・鹿屋に出張
<3日> 航空特攻「菊水一号作戦」が決定。天皇が陸軍首脳に「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」と問う
<4日> 天皇が水上艦艇の運用についてご下問?(三上さんの手記・証言に基づく)
<5日> 水上特攻作戦が決定
<6日> 三上さんらが大和を訪れ伊藤整一長官と対話。その直後、大和は出撃
<7日> 米軍機の攻撃で大和沈没
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