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『夏日狂想』 「悪女」から見た昭和文学史

『夏日狂想』
『夏日狂想』

『夏日狂想』窪美澄著(新潮社・1980円)

この夏、直木賞を受賞した窪美澄さんの最新作。すこしマニアックになるので帯文などには記しませんでしたが、主人公・野中礼子は長谷川泰子をモデルにしています。

泰子は中原中也、小林秀雄と三角関係になった実在の女性で、文学史では〈2人を苦しめた悪女〉などと語られがちです。窪さんは「泰子は男たちによって悪く言われ過ぎでは?」と考えました。

女優であり、詩も書いていた泰子が、中也や秀雄のように、「書く女」として人生を全うしていたら…というifを小説として結実させたのが今作。大正から昭和40年代までの激動の時代を背景に〈あり得たかもしれない、もうひとつの文学史〉を迫力と情緒たっぷりに描き出します。

まだ女性がものを書くこと自体が「偉そうだ」と白眼視されるような時代ですから、中也や秀雄をモデルにした男たちと別れた後も、主人公=礼子の苦闘は続きます。やがて坂口安吾、青山二郎、林芙美子、中原淳一らしき人物たちが彼女の人生と濃密に交差していくのも読みどころ。

礼子がついに自分の居場所を見つける終盤も感動的ですが、同様に強く記憶に刻まれるのが空襲のくだり。隣組の女性たちと火消しに追われた礼子が思わず「燃やすなら、さっさと燃やせ! 殺すならさっさと殺せ!」「おなかいっぱい食べさせろ!」「戦争の馬鹿野郎!」と叫ぶと、周りの女性たちも声を合わせて叫び始め、一緒に笑い合います。窪美澄版「戦争は女の顔をしていない」と呼びたくなる、鮮やかな名場面です。

(新潮社出版部 楠瀬啓之)

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