「汚れつちまつた悲しみに…」「サーカス」等の詩で知られ、多くの人たちに読み継がれている詩人・中原中也(1907~1937)。青春の切なさや人生の哀しみをうたった繊細な詩を350篇以上も紡ぎだし、三十年という短い生涯の中で、「山羊の歌」「在りし日の歌」という二冊の詩集を残しました。その詩に込められた思いは、今も現代の作家や詩人、アーティストたちを揺り動かし続けています。中原中也生誕110年を迎える2017年、彼の詩に新しい角度から光を当てながら、瑞々しい感性が貫かれた中原中也の「詩のことば」の深い意味を読み解き、私たち現代人にとって「詩」がどんな意味をもつのか、「詩」を味わうとはどういうことなのかを浮き彫りにしていきます。
中原中也は、山口市湯田温泉に陸軍医の息子として生まれ、少年期は「神童」と呼ばれるほどの優等生でした。しかし、16歳のときにダダイズムの詩と運命的な出会いをしてから人生が一変します。言葉のもつ大いなる力に目覚めた中也は、やがて詩人を志し、その思いの全てを原稿用紙にたたきつけ始めました。富永太郎、小林秀雄ら友人たちとの出会い、長谷川泰子との恋と別離、そして結婚後の子どもの誕生と死。さまざまな苦悩と葛藤しながら、中也は、誰にも真似できないような激しく鮮烈な言葉を手にしていきます。一人の詩人がここに誕生したのです。
こんな中也の詩が多くの人々の心をとらえて離さないのはなぜなのでしょうか? 作家の太田治子さんは、中原中也ほど、詩とは何か、詩人とは何かということを一途に考え続けた人はいないからだといいます。詩と生活が一体であると思えるほどに、全身で詩について考え、詩を作った中也。だからこそ、その強い思いがときを超えて私たちの心を揺さぶるのではないか、というのです。
SNSでの短いフレーズの氾濫、ネット社会の中での暴力的な言葉の横行……等々、「ことばに対する感受性」が劣化しつつあるといわれる現代社会。作家・太田治子さんを指南役に招き、中原中也の瑞々しい「詩のことば」を現代の視点から読み解いていきます。また、詩人の佐々木幹郎さんや歌人の穂村弘さんにも、実作者の立場からの解説を交えてもらい、「私たちの人生にとって、ことばとは何か?」「何かを表現するとはどういうことか?」といった普遍的なテーマを立体的に浮かび上がらせていきます。
【MC】伊集院光/礒野佑子アナウンサー
<各回の放送内容>
第1回 「詩人」の誕生
【放送時間】
2017年1月9日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】太田治子…『明るい方へ』『時こそ今は』『夢さめみれば-日本近代洋画の父・浅井忠』『星はらはらと-二葉亭四迷の明治』で知られる作家。
【VTR解説:佐々木幹郎】…詩集「死者の鞭」「蜂蜜採り」で知られる詩人
【朗読】森山 未來…俳優、ダンサー。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」「モテキ」「怒り」等に出演。
ふだん「詩」に接することが少ない私たちでも、ときに「詩のことば」が胸を貫くことがある。
では、人はなぜ詩を書くのか? そして、人はどんなときに詩を読みたいと思うのか? 中原中也が自らの言葉を見つけ、詩人になっていくまでの人生を見つめていくと、そうした疑問がするするとほどけてくる。第一回は、「汚れつちまつた悲しみに…」「春の日の夕暮れ」「少年時」といった代表作を読み解き、一人の詩人が誕生するまでを見つめることで、「人間にとって詩とは何か」という根源的なテーマに迫っていく。
第2回 「愛」と「喪失」のしらべ
【放送時間】
2017年1月16日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】太田治子…『明るい方へ』『時こそ今は』『夢さめみれば-日本近代洋画の父・浅井忠』『星はらはらと-二葉亭四迷の明治』で知られる作家。
【VTR解説】佐々木幹郎…詩集「死者の鞭」「蜂蜜採り」で知られる詩人
【朗読】森山 未來…俳優、ダンサー。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」「モテキ」「怒り」等に出演。
長谷川泰子との恋、小林秀雄との三角関係、そして別離。その苦悩が中也を詩人にしたともいわれている。切ないまでの恋心、そして別離の哀しさ。溢れ出すような激烈な思いが「ことば」として結晶していくとき、そこに「詩」が生まれるのだ。第二回は、「盲目の秋」「朝の歌」といった中也の詩を通して、「愛」や「喪失」が人間に何をもたらすのかや、そうした苦悩にぶつかったときに生まれる言葉の奥深さを明らかにしていく。
第3回 「悲しみ」と「さみしさ」をつむぐ
【放送時間】
2017年1月23日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】太田治子…『明るい方へ』『時こそ今は』『夢さめみれば-日本近代洋画の父・浅井忠』『星はらはらと-二葉亭四迷の明治』で知られる作家。
【ゲスト】穂村弘…歌集「シンジケート」「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」で知られる歌人。
【朗読】森山 未來…俳優、ダンサー。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」「モテキ」「怒り」等に出演。
中也の代表作「生い立ちの歌」「月夜の浜辺」を読み解いていくと、「悲しみ」や「さみしさ」という感情が幾重にも織りつむがれた複雑なものであることをあらためて感じさせてくれる。そして何度も繰り返されるリフレインは、まるで包み込むようにその「悲しみ」「さみしさ」を鎮めてくれる。中也は、「悲しみ」「さみしさ」をさまざまな言葉でつむいでいくことで、私たちにその感情の奥深さをあらためて教えてくれるのだ。第三回は、歌人の穂村弘さんをゲストに招き、中也の詩を通して私たちにとっての「悲しみ」「さみしさ」の意味をあらためて見つめなおすとともに、それを癒していくものとしての詩の力を浮き彫りにしていく。
第4回 「死」を「詩」にする
【放送時間】
2017年1月30日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】太田治子…『明るい方へ』『時こそ今は』『夢さめみれば-日本近代洋画の父・浅井忠』『星はらはらと-二葉亭四迷の明治』で知られる作家。
【ゲスト】穂村弘…歌集「シンジケート」「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」で知られる歌人。
【朗読】森山 未來…俳優、ダンサー。映画「世界の中心で、愛をさけぶ」「モテキ」「怒り」等に出演。
言葉にならないような肉親の死の悲しみを繰り返す「夏の夜の博覧会はかなしからずや」。晩年の中也の詩には、「死」がつきまとう。幸福の絶頂にあった中也を襲った息子、文也の死。あまりにも痛切な出来事が中也を変えた。「春日狂騒」といった詩では、まるで中也の存在を「死の影」が食らい尽くしていくように、言葉を深い闇が覆っていく。しかしそんな中でも、必死で「光」を見出そうとする姿もかいまみることができる。第四回も、歌人の穂村弘さんをゲストに招き、中也が「詩」によって死とどう向き合ったのか、「詩」は絶望から人を救うことができるのかを考えていく。
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☆番組プロデューサーAが、番組内容に即して、今回の番組の一番の見どころをご紹介します。
中原中也の詩の魅力を「立体的に」伝えるには?
中原中也の詩はまるで、さまざまな感情が複雑に織りつむがれた「テクスチャー(織物)」のようだ……と教えてくださったのは、詩人の佐々木幹郎さんでした。だからこそ、読む人ごとにさまざまな解釈が生まれ、司会の伊集院光さんの言葉を借りれば、あたかもそれぞれの読み手にとって、自分のために仕立てられた「オーダーメイド」のように胸に迫ってくるのではないか。そんな中也の詩の魅力を浮かび上がらせるには、どうしたらいいのか……というのが、番組制作過程でもっとも頭を悩ませたことでした。
いろいろな複雑な経緯はありましたが、作家の太田治子さんを講師に抜擢しようと考えたのは、NHK出版のテキスト編集長から、あるカルチャーセンターの講座で、太田さんが東日本大震災と中也の詩をからめて講義をされていると聞いたのがきっかけでした。太田さんの著書を愛読していた私ですが、太田さんが中也の大ファンであることを寡聞にして知らず、「あの素敵な文章を書く太田さんが論じる中也はどんなものになるのだろう」と想像が膨らみはじめました。
また、「100分de名著」で詩を取り上げるのは初めての試みで、いきなり詩を専門的に分析するといった視点では、敷居が高すぎるのではないか、とも思い始めていました。太田さんは、もちろん詩の専門家ではないのですが、詩の初心者を含む視聴者と「詩の世界」をつなぐという役割を果たしていただけるのではないか。そう考えたのが抜擢の一番の理由であり、太田さんは見事にその役割を果たしてくださったと思います。
中也愛にあふれる太田さんの語り口の魅力は、ご覧になった皆さんも感じられたことと思いますが、先に挙げた、さまざまな感情が複雑に織りつむがれた「テクスチャー(織物)」の魅力を浮かび上がらせるには、何かもう一工夫が必要だとも感じていました。もちろん太田さんの解釈も魅力的なのですが、太田さんご本人もおっしゃっていたとおり、「それぞれの人が自分なりに自由に解釈できる」というのが中也の詩の魅力の大きな部分です。頭を悩ませていたところに、アイデアを出してくれたのが担当したディレクターでした。
太田さんの魅力的な解説をあくまでベースにしながら、多様な解釈の魅力を伝えるために、中也の詩を深く研究している専門家の立場や、実際に短歌や詩を実作している創作者の立場からの解釈も加えてみる。そうすることで、「それぞれの人が自分なりに自由に解釈できる」という中也の詩の魅力が立体的に浮かび上がってくるのではないか。ディレクターのアイデアは私が考えていたこととも響きあい、詩人であり中原中也研究の第一人者である佐々木幹郎さんのVTR解説、歌人・穂村弘さんによるゲスト解説が加わるという最終形ができあがったのです。
むしろ、一色の解釈で塗りつぶすよりも、番組というキャンバスに、いろいろな色の解釈をのせてみる。それこそが中也の魅力を、本当の意味で立体的に浮かび上がらせることにつながったのではないか。番組の最終試写を終えての私自身の実感です。もちろん太田治子さんファン、穂村弘さんファン、佐々木幹郎さんファン、それぞれの方がいらっしゃり、自分のひいきの人の解説がもっとたくさん聞きたかったという人も多いかもしれません。私自身も、太田治子さんファンの一人だったので、実は個人的には「もう少し」という気持ちはあるのですが(そういう人はぜひ番組テキストで味わってください!)、そういう個人的な思い入れとは別の論理が働いてくれたおかげで、少し客観的に、中也の詩の魅力に迫れたのではないかと思います。あくまでの主役は、中原中也の「詩」そのものなのですから。
多様な解釈が展開したこの番組を通して、あなたなりの、世界に一つの「解釈」を見つけてくださったら、これ以上の幸せはありません。
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「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。(中略)名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、やはり「かせがねばならぬ」といふ、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならぬ」といふ意識は芸術と永遠に交らない、つまり互ひに弾(はじ)き合ふ所のことだ。_中原中也「芸術論覚え書」より_
中原中也が表現しようとした世界を端的に示したとされる「芸術論覚え書き」の一節です。中也が表現しようとしたこの世界は、「名辞以前」という一言で語られることもあります。
今回「100分de名著」で初めて「詩集」を取り上げようと考えたのは、SNSでの短くて画一的なフレーズの氾濫、ネット社会の中での暴力的な言葉の横行といったことがずっと気になっていて、もしかしたら私たち現代人の「ことばに対する感受性」が劣化しつつあるのではないかといった危機感をもったことが理由の一つでした。かくいう私自身も他人事ではありません。愛用しているSNSに、友人たちに向けて近況などを書き込むのですが、家族から「また、そんな紋切り型の表現を使って!」とたしなめられます。あまりにも気軽に発信できてしまうこともあって、大切な人に手紙を書くときのように文章を練ることもなく、「反射神経」のようなもので書いてしまっていることに気づいて愕然となることもあります。
思えば、思春期の頃は、小説の一説や好きなアーティストの歌詞に心を揺さぶられ、「この言葉は、ぼくのためだけにあるのではないか」とさえ感じられたこともよくありました。あるときは、それが「言葉」にもかかわらず、何かに刺し貫かれるような痛みすら感じたこともあります。それらの経験は、自分が今までうまく表現できなかったもやもやがはっきりと結晶化されて、「ああ、自分がいいたかったのはこれだったんだ」と発見させられた感動の瞬間でした。いわば、世界に初めて生まれ落ちてきた言葉に出会ったような衝撃というものが確かにあったのです。
歌人の穂村弘さんは、「悲しいと口に出す前の悲しみとか、好きだって口に出す前の想いとかってありますよね。実はそれらの方が純粋なんです。『悲しい』とか、『好きだ』とか口に出していってしまった瞬間から、それはもう『この世のもの』になってしまう。それは、秘めていたときの無色透明の純粋さが失われるような感覚ですよね」と、見事に、中也のいう「名辞以前」「名辞以後」の違いを表現してくださいました。
中也のやろうとしたことは、世界の全てを「名辞以前」で感じ取るという、いわば無謀な試みでした。たとえば、ブランコのゆれを「ぶらーんぶらーん」といった、誰もが使える万能ツールではなく、「ゆあーんゆよーん」という、今まさに生まれ出た、この世に二つとない専用の言葉を使って、全てを書き尽くそうとしたのです。だからこそ、中也の詩の言葉は、あれほどまでの強度で、私たちの胸に迫ってくるのでしょう。
翻って、私たちが今置かれているネット社会の中で、流通している言葉をみてみるとどうでしょう。もちろんわずか140文字という制限の中でも煌くような表現をしている人もいます。しかし、圧倒的な量で流通しているのは、相手を中傷したり、攻撃したりする暴力的な言葉たち。しかも、そういう言葉に限って、どれも似通っています。細やかな差異を全く無視し、十把一絡げにレッテル貼りして事足れりとしている。どれもが借り物の言葉で、その人自身が生み出したオリジナリティの片鱗もありません。手垢のつきまくった陳腐な言葉では、人の心は決して動かないと思います。
自分自身の反省も含めて思うのですが、中原中也の詩の言葉に触れると、私たちは、「言葉」という無限の可能性をもつ大切な存在をあまりにも粗雑に扱いすぎていないか、「言葉」に対して思考停止しているのではないか、ということに気づかされます。安易に「言葉」を使いそうになったとき、この「名辞以前」という言葉を思い出して、自分にしか生み出せないような豊かな言葉を紡いでいけたらと思います。
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