詩人中原中也が友人に転居を知らせた手紙で示した地図通りの場所に、その家はあった。「スペイン式窓」があるとも書いている。京都市上京区の河原町通と今出川通の交差点近く。ここで17歳の中也が三つ年上の長谷川泰子と暮らしていた。
昼は恋人たちが散策する鴨川。夜になると軒を並べた納涼床の明かりが川面に映る=京都市で |
泰子が初めて小林秀雄に出会った中野の借家があった付近。今は飲食街に=東京都中野区で |
中也が最期を迎えた寿福寺あたり=神奈川県鎌倉市で |
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中也と泰子 |
通りに面した2階に小窓がある。1939(昭和14)年からこの家に住む中川忠幸さん(80)は「なぜ、スペイン式と言ったのかわからない」と話す。急な階段を上ると、6畳ほどの部屋に出る。窓は胸ぐらいの高さにあった。
「子どもの頃、2階の北側の窓から、竹ざおの上に矢がついた風向計が見えました。中也が京都を懐かしんだ詩『ゆきてかへらぬ』で『僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であった』と記した風信機かもしれない」
40年ほど前から中也のファンが訪ねて来るようになり、99年に亡くなった妻輝子さんが応対していた。病床の妻に「早く治して、山口の中也記念館へ行こうと励ましたのですが、かないませんでした」。8年前に、昔の写真と同じようなひさしを「スペイン式窓」に取り付けたという。
中也と泰子を結びつけたのは直感で発した言葉だった。23(大正12)年暮れ、女優を志していた泰子に、立命館中学3年の中也が、自作のダダイズムの詩を書いたノートを見せた。「おもしろいじゃないの」。泰子は片仮名の多い字面をそう感じて言った。翌年4月、ふたりの生活が始まった。
「電球の入れ方も知らない」泰子に、中也は父や兄のように世話を焼き、詩ができると聞かせた。泰子は涙を流し、「ぼくの詩がわかるのはきみだけだ」と中也は喜んだ。
「中也は、自分を理解してくれる泰子と疑似家庭を作ろうとした」。京都の中学・高校の国語教諭で中也研究者の二木(にき)晴美さん(52)はそう見る。山口から身寄りのない京都の中学へ転校し、詩人として生きる道を探り、文学を語り合う友を求めていた。「泰子は中也に恋したというより、女優としてはうまくいかず、頼らざるを得なかった。自意識が強く、自立できない自分がもどかしかったと思います」
「京都の暮(くら)しは二人がいちばん静かな生活を味わったときでした」。泰子は74年に「婦人公論」に掲載された「中原中也との愛の宿命」でそう振り返っている。
ふたりは京都から25年春に上京。泰子は芝居ができると希望をもった。
ところが中也は詩に夢中で、泰子を顧みない。所在なく暮らしていた泰子に、中也の友人小林秀雄がささやく。「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」。そして「どっちにつくんだ」と迫った。泰子は女優になるため、中也との生活を清算したいと考えていた。その年の11月、中也に言った。「私は小林さんとこへ行くわ」
文士たちを振り回した感性
長谷川泰子は女優として成功はしなかったが、70代になって1本だけ、主演映画を残した。1976(昭和51)年制作の「眠れ蜜」だ。
黒っぽいスカーフで髪を覆った泰子が小林秀雄との日々を語る。「好きと言えず、愛情を確かめるためにいじめた。男に甘えきって自分がわからなくなった」。そして「聞かせてよ愛の言葉を」をフランス語で歌い、「アランフェス協奏曲」に乗って即興で踊る。情念がこもり、圧倒的な存在感だ。
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監督の岩佐寿弥さん(72)は言う。「男は振り回されズタズタになる。愛憎で七転八倒するだろう。多かれ少なかれ女性はそういう面を持っている。泰子は典型で、男がいとしいと思う女性の魅力はそういうものではないか」
映画は「女とは何か」をテーマに、3人の女優が自分を表現しながらドラマを作り上げていく3部作だ。泰子は新しい手法の構想を聞くと「波長があいますね」と出演を即断。「鋭い人」と岩佐さんは感じた。
脚本の佐々木幹郎さん(59)は無邪気な泰子を思い出す。街を歩いていて、20代の佐々木さんに安物のブレスレットをねだった。女王然としたところもあった。「新宿のバーで店にはないワインを飲みたいと言い出す。2、3時間、助監督が探し回って帰ってくると、一口飲んだだけで満足していた」
泰子は「潔癖症」だった。周りの物を汚いと感じ、何もできなくなってしまう。小林と暮らし始めるとそれが高じ、じっと暗い部屋に座り込み、思い通りにならないと錯乱状態になる。小林は2年半、徹底的に尽くすが、疲れ果てて去った。
喜んだのは中原中也だ。泰子が戻ってくるかもしれない。だが泰子は中也の反対を押し切り、映画会社に入社。一方で中也と京都へ旅し、中也の勧めで同人誌に詩を発表した。中也が多くの恋愛詩を書いたのはこのころだ。
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東京の中野、高円寺かいわいは、泰子が中也や小林と住み、後に文士や演劇人と交友した地域だ。文士たちが住む「文化人村」があり、たまり場になっている酒場があった。
27歳のとき、東京名映画鑑賞会が募集した「グレタ・ガルボに似た女性」に応募し、1等になった。中也が詩人の素質を持つと認めた感性もあった。このころ、泰子のスナップを雑誌に発表した写真家は「彼女は新しい女です」と書いている。
大岡昇平や青山二郎といった文化人との付き合いは晩年まで続いた。「文学仲間は思想を育てていく酵母で自分もその一員。男女の付き合いではなかった」。74年に泰子から聞き書きして自伝『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』にまとめた作家村上護さん(65)に、そう話した。
泰子は出版後も村上さん宅へふらりと訪ねて来る。2日ほどたつと、大岡が心配して引き取った。泰子にとって大岡は昔の文学仲間の年少者という意識があったので、文壇の大御所の前でも堂々としていた。そんな泰子に大岡は苦笑いしていたという。
酒場で知り合った演出家との間に望まない子どもが生まれると、中也は茂樹と名付け、かわいがった。おもちゃを買い与えたり、けがを案じて傷薬の名を速達で教えたりしている。
泰子が石炭商の富豪中垣竹之助と結婚した翌年の37(昭和12)年10月、中也は30年の命を閉じる。葬儀は神奈川県鎌倉市の寿福寺で営まれた。
雨上がりの朝、ひっそりした寿福寺の参道を歩いた。非公開の本堂の前に、ビャクシンの大木が見えた。幹は荒々しくねじれ、天へ駆け上っていく。70年前、ここに泰子、中垣と息子の茂樹、小林、大岡、河上徹太郎ら文学仲間が顔をそろえていた。中也は死の直前に詩集の出版を小林に託し、無名の詩人を小林が世に出した。
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結婚後の泰子は戦時中も東京・田園調布の屋敷から千葉までタクシーでゴルフに行く生活。だが夫に頼る生活で再び潔癖症が現れる。救いを求め、敗戦直後、夫と別居して世界救世教に入信。57歳でビル管理人になった。
「自分一人で生きていけるようになりました。それが、とってもすばらしいことのような気がするんです」と中也の弟に言ったという。女優を目指して家出するほどの行動力があり、常識にとらわれず自分の感性で生きる強さもあったのに、「男の人をお父さんにしてしまう」性格でもあった。その矛盾に葛藤(かっとう)があったのだろう。
中也は文学仲間に毒舌を吐き、けんかを売り、仲間を閉口させた。泰子も「風のように気儘(きまま)に生き、間違いだらけの女」だった。中也が泰子を「邪魔にならない女」と評したのは、似た者同士だったからなのだろう。
文・吉野園子 写真・内藤久雄