前回少し書いたのですが、1951年前後くらいから、
日本⇆ハワイ⇆アメリカ西海岸の日本人(日系人)プロレスラーの人の流れ・動きが活発になります。

「七人のトーゴー」の中から、まず、ミスター・モト(不知火、ヤング不知火、チャーリー不知火)が1948年にアメリカ本土進出。

1950年にはハロルド坂田(トシ東郷)がアメリカ本土進出。アメリカ西海岸出身のデューク・ケオムカ(田中久雄、マーチン田中久雄)もアメリカ本土へ帰ります。

1951年にはオーヤマ・カトー(シン宮城、スタン宮城、スタンリー宮城)がアメリカ本土進出。

1952年にはやはり西海岸出身キンジ・シブヤ(ボブ・シブヤ)もアメリカ本土に帰ります。

他にも、1950年には、1940年から10年間に渡ってハワイ・マットを支え続けてきた工藤嘉衛門(キマン工藤)もアメリカ本土へ帰ります。

この動きは最初「全米TV中継のスタートやグレート東郷の大ブレイクにより、アメリカ本土での日系悪役レスラーのニーズが高まったからか?」と思ったのですが。

ミスター・モトとか、まだグレート東郷がブレイクする以前に本土に渡っているし、必ずしもそればかりではない。

いろいろ調べると、1948年くらいから、GHQの占領政策が転換(中国国内の国共内戦に共産党軍が勝利。また日本国内でも共産勢力が台頭。そのため、日本を共産主義の防波堤にすべく、旧勢力も利用した復興の支援へ)、日本人や日系人の移動制限が緩和された?という国際情勢・政治的な理由もあったからのような。

1948年の沖識名のハワイ帰島や、1950年の太田節三のハワイ来島にも説明がつきます。

また同時に、占領政策の一環でもあったと言われる、日本でのプロレス興行の実現に向けての動きがスタートしたのもこのあたり(1948〜1950)か?

まず初めに日本からハワイに来島したのが木村政彦(同行した坂田保幸はプロレスラーとしての活動はせず、柔道指導に専念)

(ハワイ・タイムズ1951年1月27日号)
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山口利夫は次便で来島したようです。


そして4月22日に木村・山口のプロレス・デビュー戦が行われます。

木村の対戦相手は、カール・ゴッチが「最強の一人」と称えたベン・シャーマン!

(ハワイ・タイムズ1951年4月23日号)

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シャーマンとは5月20日にも対戦してます。

(ハワイ・タイムズ1951年5月22日号)
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そして5月26日が木村・山口のハワイの初来島時での最終戦になります。

(ハワイ・タイムズ1951年5月25日号)
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この時期は、前述の通りハワイ在住の日本人(日系人)レスラーがほとんどアメリカ本土に行ってしまい不在(キンジ・シブヤは未デビューで、またベテランの沖識名も「スポーツマン・バー」の開業で!?試合出場が少ない)、木村と山口のハワイ来島は日本人レスラーの不足を補う意味もあったのではないかと思います。

(ハワイ・タイムズ1950年12月6日)
「スポーツマン・バー」、モダンでかっこいい!
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その後はあのエリオ・グレイシー戦が行われるブラジルにむかいます。

そして翌1952年1月6日、木村・山口に続いてハワイのリングに上がったのは、力道山…









ではない!

なんと現役大相撲力士の大ノ海(のちの第11代花籠親方)と藤田山なのです!

前年6月からの、引退した横綱・前田山主宰のアメリカ巡業からの帰りに、この二人の力士がハワイのプロレスのリングに上がっているのです。

(ハワイタイムズ1952年1月7日号)
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ちなみに大ノ海は、力道山の二所ノ関部屋の先輩力士!

力道山は2月17日に対チーフ・リトル・ウルフ戦でハワイマット・デビューをしているのですが(ハワイ来島は2月3日)、実はそのわずか一ヶ月前に部屋の先輩力士が、現役の力士のままプロレス試合をしているという!

これは「たまたま」とは思えない!

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これはもう、前田山一行も、木村・山口と同様、相撲公演(柔道公演)を口実にして渡米させて、のちにプロレス転向させてしまおう、という流れだったのではないだろうかと(プロレス転向を強力に誘われたとか、相撲協会からの引き止めもあったとかはいろんな文献に残ってます)。藤田山は、結局、のち1954年(力道山・木村組とシャープ兄弟の一戦から、日本のプロレス興行が本格的にスタートした年)にプロレス転向しています。


参考文献



※購入して精読しました。自著です。すごい本。

これによると、大ノ海はアメリカ本土&ハワイでプロレス試合を30戦以上も行ったとか。力道山がプロレスラーに転向する以前に、現役力士、それも二所ノ関部屋の先輩力士が本格的にプロレスをやっていたのです!そして大ノ海はのちに花籠親方として横綱・輪島大士を育てるのですが、輪島もプロレス転向するという!
あと、大ノ海の四股名を継承した石川敬士も。この辺、全然知られていないですよね!


また、この力道山のハワイ・デビュー戦の同時期(わずかに前。木村と山口は2月17日同日にアメリカ本土に到着)に、実は木村政彦と山口利夫もハワイでプロレス興行に出場しているのですが、邦字新聞記事の記録が全くありません。

なぜかというのは、だいたい想像がつく(同じ時期に誰がハワイに来ていたのか、どういうイベントがあったのか、ということ)のですが、まあ、前回のハワイ来島→プロレス興行出場が、各方面に波紋を呼んだのだろう、ということです。

そして二人は、ハワイを経由した後アメリカ本土に向かい、"ラバーメン"樋上をマネージャーに、西海外を中心にサーキットを行います。
木村と山口はまたアメリカ本土から日本への帰国途中にもハワイ・マットに上がるのですが、その際の新聞記事も少ないです。


そのアメリカ本土遠征の帰り道。


1952年4月27日には、木村政彦と別れ途中帰国の山口利夫が力道山とチームを組み、タッグ戦に出場します。
(ハワイ・タイムズ1952年4月25日号)
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さらに7月27日。帰国途中の木村政彦は、遠藤幸吉とチームを組みタッグ戦に出場。
※遠藤幸吉(コウ東郷)はグレート東郷と空手家の大山倍達(マス東郷)との「東郷三兄弟」としてのアメリカ・サーキットからの帰国途中。



(ハワイ・タイムズ1952年7月25日号)
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この時点で木村政彦、山口利夫、力道山、遠藤幸吉という、日本のプロレスの創成期の主要メンバーがハワイで出揃っているという。

これは推測なのですが、1948年くらいからのGHQの占領政策の転換→日本でのプロレス興行の実現に向けて、全日本王者クラスの柔道家や横綱クラスの力士のリクルートがその頃から始まっていたのではないでしょうか。


1951年3月帰国の太田節三とか、アメリカ在住が長く英語が堪能な上に、日本の柔道界に強力な人脈を持ち、かつ帰国直前までハワイマットの重鎮である樋上蔦雄とともに柔道(&アマレス&プロレス)道場をやっていた訳ですから、そういったプロレスラー候補のリクルートに一枚かんでいた可能性があるんじゃあないかとか。

※やはり1947〜1948年くらい(太平洋戦争終結からわずか2年強!)から柔道家や力士のリクルートは始まっていたようです(2022.12.8加筆)
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そして、日本での本格的なプロレス興行開催に向けて、戦前からの在米日本人(日系人)プロレスラーやプロレスラーOBたちが、日本⇆ハワイ⇆アメリカ西海岸で、それぞれ連携した動きをしていたのではないかと思うのです。

※ちなみに、アメリカ人プロモーターによる日本での本格的なプロレス興行開催と、そのための日本人レスラー候補(有名力士や柔道家)のリクルートの計画というのは、実は1930年代後半にすでにありました(大会自体は1937年に実現も、当初予定されていた規模にはならず)。日本にほとんどその記録がないのに、海外の邦字新聞にはけっこう残っています。