<土曜訪問>自己認識 疑う大切さ 思想書『構造と力』40年 浅田彰さん(京都芸術大教授)

2023年12月16日 13時27分
 1983年に勁草書房から出て「ニューアカデミズム」と呼ばれる知の潮流の先駆けとなった思想書『構造と力』が近く、中公文庫からも刊行される。40年の節目に古典として定着させるのが目的かと思いきや、著者で京都芸術大教授の浅田彰さん(66)はこう強調した。「僕が主張したことは意味を失っていないはずだ」。空気を読んで他者とのあつれきを避けようとする傾向が強い今こそ、本書を手に取る意義があるという。
 「自分が何者であるか、という認識は絶対不変じゃない。他者との関係の中で、他の自分に変わり得る」
 晩秋の明るい陽光に包まれた京都市内の同大キャンパス。オブジェのいすに腰掛け、こう切り出した浅田さんが危ぶむのは、社会の多数者(マジョリティー)のみならず少数者(マイノリティー)にも見られる「自身のアイデンティティー(自己認識)を絶対化する傾向」。LGBTなど性的少数者を一例に挙げた。
 個人の自己認識を尊重する立場に共感する浅田さんは、性的少数者は社会に「恥ずべき異常者だと信じ込まされてきた」と、まず指摘した。LGBTなどの枠組みで自らを認め、社会にも認めさせることは「差別の解消に不可欠だ」。ただ、自分の性別をどう認識するか、恋愛や性的関心の対象はどちらに向かうのかなど人間の性的な自己認識は多様だ。もし「ゲイ(男性同性愛者)はかくあるべし」といった認識に縛られたら、「日本男子はかくあるべし」といった保守派の自己認識と同じ息苦しさがはびこりかねない。
 浅田さんは、性的少数者の自己認識はLGBTという枠組みを超えて「第2段階」に移り、「アイデンティティーは可変と認めるべきだ」と主張する。他者と関わる中、性自認も性的指向も自由に変化していい。この第2段階に通じるのが『構造と力』と、翌84年に世に問うた『逃走論』で提案した生き方だった。
 浅田さんが、自分が何者かを決め付けない生き方に着目する背景には、戦後の日本人が陥った「誤った主体主義」への反省がある。
 中高生だった70年代、それぞれ「モーレツ社員」「純粋な革命的主体」と自らに言い聞かせ、心身を擦り減らしていくサラリーマンや新左翼の活動家らを、冷めた目で見ていた。
 20代半ばに京都大人文科学研究所の助手としてニューアカデミズムの論壇に身を投じた。フランス現代思想の概念を借りて、自分が何者かを決め付けて自縄自縛になることを<パラノ>と呼んで論文などで批判。既存の制度や秩序から逃れ続ける生き方は、<スキゾ>という概念で示した。
 『構造と力』『逃走論』は、思想書としては飛ぶように売れて同世代の若者らに読まれた。バブル経済直前の当時は「僕の論考がおしゃれなファッションのように消費されたことは否めない」と認める。
 しかし、浅田さんが今また、自己認識を疑うことに「意味がある」と考えるのは、少数者がより生きやすい世界を模索するためだけではない。「革新派」と保守派との対立が両極化していることへの懸念もある。
 浅田さんは、一部の革新派の政治家の政策について「貧富の格差を解消する再分配では保守派と大差ないこともある」。ただ、少数者差別などに敏感な「目覚めた優等生」としての振る舞いが目立ち、「通俗道徳に親しみ清濁併せのむ保守派には、エリートの偽善に見えることもある」と指摘。真面目でなければと自ら決め付けず、「下世話な世界に飛び込み、時にはワルを装う懐の広さがほしい。保守派を笑わせながら論争する余裕を持って」と願う。
 その場の雰囲気を理解し、他人と異なることをしたり言ったりしてはいけない。相手の気分を害するようなことは避けるべきだ-。そんな態度を、浅田さんは「上から目線で手心を加えるのと同じ。本当に他者を尊重するのなら、必要なときは真っ向から論争すべきだ」と批判する。
 「意見の同じ人と群れるのはつまらない。意見を異にする人とこそ付き合い仲良くけんかしてほしい」。そうした真剣勝負を通じて「お互いが変化し続ける。そんな活気にあふれた社会を目指していくべきです」。 (林啓太)

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