コーラ挟んで向かい合った父「なんだい?」 受け止めてくれた日から

二階堂友紀

 父は損害保険の代理店を営んでいた。バイクのカブに乗って、毎日、集金に回った。帰って来た音がすると、家族そろって「お疲れさまでした」と出迎えた。

 1936年、福島県富成村(現・伊達市)の養蚕農家に生まれた。10人きょうだいの末っ子だった。高卒後、東京へ。米軍住宅のガーデナーや、菓子問屋の経理として働いた。勤労青少年向けの「青年学級」で、母と出会い、結婚した。

 3人の息子が生まれ、保険業を始めた。営業成績は全国でも上位だった。都内に土地を買い、家を建てた。

 威厳のある父。幼い頃は、何を考えているのか分からなかった。ボーイスカウトの隊長で、小学生向けの「カブスカウト」に入れられたが、嫌で嫌でやめた。父と兄と弟でする野球のノックやキャッチボールも、好きになれなかった。

 成長するにつれ、距離は縮まった。兄弟の誰より、父の昔話を聞いた。知識欲が旺盛で、人前で話すのも上手な父。周囲からは「お父さん似だね」と言われた。でも、胸につかえている思いは話せなかった。

 ずっと、男性として生きることが苦しかった。27歳の時、女性に性別移行した仲間と出会う。「心の内は女性なのかもしれない」。打ち明けた相手は、母だった。

 2年後の97年、性同一性障害のシンポジウムが都内で開かれた。そのニュースが流れる食卓で、母が父に告げた。「あの子は今日、ここへ行っているのよ」。父は早々に寝床に入った。

 仲間との打ち上げを終えて帰宅し、母から一部始終を聞いた。「明日、お父さんがあなたに『出て行け』と言ったら、私も家を出るから」

 翌日、父の好きなコーラをグラスに注ぎ、「話したいことがある」と切り出した。新聞を読んでいた父が顔を上げた。

 「なんだい?」

 その一言に、受け止めようとする思いが詰まっていた。2時間語り合った。父の言うことは、母と同じだった。

 当事者団体の中心メンバーとなり、「上川あや」の名で活動を始めた。性別を移行し、女性として社会生活を送るようになった。ただ、戸籍の性別を変える法律がなかった。選挙に女性として出ることで、その問題を訴える方法を考えた。

 家族に相談すると、父が言った。「社会の偏見は、すぐには変わらないかもしれない。キワモノのように扱う人もいるだろう。それでも訴えようと言うなら、反対する理由はない。正しいと思うことをやりなさい」

 2003年、世田谷区議選に立った。事務所開きで、父が「うちのせがれ」と口走ったのは笑い話だ。その年、戸籍の性別変更を可能にする特例法が成立した。

 あれから6回の当選を重ねた。「ちいさな声」に耳を傾ける政治を心がけてきた。根幹に、父の言葉がある。

 13日夜、父が逝った。母が7年前に亡くなり、家業を継いだ弟一家と暮らしていた。眠っているように見えた。額と額を合わせて、2人だけの時間を過ごした。

 議会が忙しくて、88歳の誕生日に会いに行けなかった。ごめんね。

 晩年の定位置だったテーブルに、1冊のファイルを見つけた。新聞を隅から隅まで読み、記事を切り抜いていた。「上川あや資料集」。背表紙に父の字があった。(二階堂友紀)

「朝日新聞デジタルを試してみたい!」というお客様にまずは1カ月間無料体験

この記事を書いた人
二階堂友紀
東京社会部

人権 LGBTQ 政治と社会