八欲王の生き残り   作:たろたぁろ

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目覚め

 

 どうなってんだよ!!

 

 

 

 

 本気でやる気なの?じゃあ、覚悟決めないとね。

 

 

 

 

 

 

 どこに…どこにいるんだ…君は…。

 

 

 

 

 

 こ、こここ殺した…殺しちゃったんだよおおおお!!!!!

 

 

 

 

 もう俺には、耐えられないよ…ごめんなぁ。

 

 

 

 

 

 あいつさえいれば、あの女ぁ嬲り殺しにしてやるからな。

 

 

 

 

 

 イリスくん。そこにいるなら聞いて欲しい。この子らを…この世界を…。

 

 

 

 

 

 んじゃ、いっちょ行ってくるわ。また…会おうな。

 

 

 

 

 

 

 さよなら、茜

 

 

 

 

 

 

 「もう…この子は相変わらず寝坊助だね。早く起きなさーい。」

 

 

 

 

 

 「おねーちゃーんおきろー!!」

 

 

 

 

 ハッと目が覚めた。

 随分と長い夢を見ていた気がする。とても悲しくて…苦しい夢を。泣き続けた後のような脱力感と虚しさが身体を蝕んでいる。

 埃っぽい臭いがする。ひんやりとした地面の硬質な感触が、酷く心地悪い。本来ならベッドの上に寝ているはずなのに、寝ている間に落ちてしまったのだろうか。いや、家のフローリングでさえもう少しマシだ。じゃあここはどこ?

 ガバッと身体を持ち上げる。掛け布団を振り払いイリスは周囲を見渡した。初めに荒々しく削られた様な岩肌が目に入った。

 上に視線を伸ばすと、浅黒い色をした巨大な蜘蛛の巣が、崖の上まで縦横無尽に張られ、その所々に罠にかかる哀れな獲物を待つ様に、これもまた巣のサイズに比例するかの如く巨大な蜘蛛が潜んでいた。

 

 どこだここ。それが第一の感想だった。そして、それがどこか理解した後、何故ここにいる。という第二の疑問がイリスの頭を駆け巡った。

 

(あれ…何してたんだっけ?確か…ん?みんなで花火して…モリオが死んで…神秘の森に行って…落ちた?)

 

 何故だろう。眠っていたとして、せいぜい数時間前のはずなのに、何年も昔のことに感じる。

 

「ドラモン?さんの罠で動けなくなって…あっ!!」

 

 身体が動くことを思い出し、イリスはログアウトする為にコンソールを出そうと指を動かして…苛立ちに顔を顰めた。

 

「システムコマンドが出ない?なんで」

 

 これじゃあログアウトできない。それはつまりこの面倒臭い状況を、きちんと整理しなければならないということだ。

 イリスはうんざりしながら上を見上げ…目が合った。獲物を待つ8つの眼と。イリスを見つけたそれは、ほぼ垂直な壁を驚くほどのスピードで駆け降りてきた。

 イリスはその巨大な蜘蛛が崖下に到達するより早く、掛け布団だと思っていたそれを頭からがっぽりと被った。

 イリスという獲物を見失った巨人蜘蛛は、少しの間イリスの周辺をぐるぐると回ると、惜しむ様にそのそのと上に上がっていった。

 『エルダー・ブラックスパイダー/古の黒蜘蛛』とは先程の巨大蜘蛛の名称である。

 レベルは80ほどで、飛行中の敵に対して攻撃力が3倍になるという特殊能力を持ち、追尾性能のある毒針をマシンガンの如く放ってくる。

 また、彼らの張ったクモの巣は、引っ掛かれば行動阻害に対する完全耐性を持っていたとしても、何故か10秒ほど完全に拘束してくるという嫌がらせ地味た効果がある。そして顔よりも大きい二本の巨大な牙は、噛みつけば20%の確率で相手を即死させる恐ろしい物だ。

 と、確かに恐ろしい相手なのだが、100レベルプレイヤーからすれば、警戒するべきダンジョンの雑魚敵の1匹にすぎず、イリスであれば難なく崖下の蜘蛛全てを始末できるだろう。

 

 では何故イリスは慌ててワールドアイテムに隠れてしまったのか。

 それは単純に、恐怖からだ。80レベルのモンスターが怖かったのではない。説明するのが難しいが、その大蜘蛛という存在そのものを、五感全てでもって、恐れてしまったのだ。

 悍ましい牙の間から滴る赤黒い粘液、イリス身体よりも太い8本の腕にびっしりと生えた針の様な毛、毛の隙間から見え隠れする、てらてらした深緑色の艶のある皮膚。丸々と太った腹の下には、小さな子蜘蛛がこれまたびっしりと蠢いている。

 一言で言えば描写が細かすぎるのだ。テクスチャが書き込まれすぎていると言ってもいい。もっと分かりやすく言うと『リアル』すぎるということだ。

 イリスがプレイしていた時はこんなにリアルじゃなかった。腕の毛なんて全く気にならなかったし、腹に子蜘蛛がいるなんて今の今まで気がつかなかった位だ。

 それが今では毛の一本一本の生え方の違いや、子蜘蛛一匹一匹の動き方の違いまではっきり分かる。分かってしまう。

 極め付けはその臭いだ。昔家族で行ったコロニーに一つしかない動物園のゴリラコーナーで、フワッと臭ってきた思わず顔を顰めてしまうほどのゴリラ臭を、100倍に濃縮したかのようなどギツイ異臭がした。

 臭すぎる。そんな物が突進してきてハイそうですかと戦えるほど、イリスの心は強くない。

 起きた時から薄々気がついてはいた。__ひんやりとした地面の感触、埃臭い空気、岩壁の極僅かな隙間に吸い込まれていく風の感触。本来ユグドラシルにはあるはずのない触覚、嗅覚が完全に再現されているということに。

 普通の大人なら、この時点で異常事態だと割り切ることができただろう。異世界に転移してしまったなどという有り得ない仮説を立ててしまえる者もいたはずだ。

 だが、ここに至ってイリスは…ただの能天気な女子高生だった月本茜は、ユグドラシル2が始まったのだと思い込んでしまっていたのだ。

 

(はっはっはドラモンさん、エルモアさん、あんた達の考えていることは…全て丸っとお見通しだ!!)

 

 自分の予想が当たったことに多少機嫌を良くしたが、状況が悪いことには変わりない。第一にシステムコマンドにアクセスする方法が分からない。これではgmコールで運営に問い合わせもできないし、ギルメンにメールも送れない。フレンドのログイン状況の確認も不可能だ。

 何回かそれっぽく空中をなぞってみたが…ダメだった。

 

 そして第二の問題、リアル過ぎ問題だ。バージョンアップに基づいて作品のクオリティーが上がるのは良いことだと思うが…このリアルさは受け入れられない。きっとコンソールで嗅覚と触覚は遮断できるのだろうが、このグラフィックは駄目だ。もう完全に実写。

 ゴーレムなどの無機質なモンスターなら気にならないかもしれないが、アンデッド系のグロテスクなモンスターが全て『古の黒蜘蛛』クオリティで出てくるとなると…ユグドラシル2はもういいかな、というのが正直な感想である。

 ドラモン達には悪いが、ログアウトできたらもう二度とプレイすることはないだろう。それくらい強烈だった。寝起きの大蜘蛛は。

 

 そして第三の問題、ギルド拠点にもかかわらずモンスターに襲われたということだ。

 これについてイリスは幾つか仮説を立てた。

 一つはユグドラシル2になったことにより、全てのダンジョンが一新され拠点の所有権がなくなり、また一から攻略しなければならなくなったというもの。正直これが一番あり得ると思う。      

 こう考えると、ドラモンの時間停止&睡眠ガストラップがモンスターに置き換わっている説明もつく。だがこの説だとダンジョンの最奥近くで、ぐーすか眠っていたイリス自身の説明がつかない。バグだと言ってしまえばそれまでだが。

 二つ目は単純にイリスの寝ている間に維持費が無くなった、又はギルド武器が破壊されるなどしてギルド拠点が崩壊し、またダンジョンに戻った説。

 もしこの説が当たっていたとしたら、原因は当然レアアイテムを持ち出した挙句寝てしまったイリスにある。この説は…当たってほしくない。

 せっせとアイテム収集していたドラモン達になんと言って謝ればよいのか…。

 だが眠っていたであろう数時間の間にそんなことが起きるだろうか?あれだけゴールドがあって?よってこの説は恐らくあり得ない。

 そして三つ目、ここのモンスターだけが特別に、ギルドメンバーも無差別で攻撃できるように設定している説。

 セキュリティの為に無差別モンスターやトラップを設置することはよくあることだ。現に猫缶がそれでよくやられている。よってこの説も有力だが…正直『古の黒蜘蛛』よりも、ドラモンの罠コンボの方が数段強力なので、わざわざ置き換える意味がわからない。節約だろうか。

 

 何にせよここから脱出しないことには何もわからない。となると、必要になってくるのは自分の状況把握だ。何ができて、できないか。

 イリスは『死神の隠蓑』の中で、モゾモゾと試行錯誤を試みることにした。

 『死神の隠蓑』の性能は先程の過程で実証済みだ。なら後はアイテムの出し方だが…。

 イリスがアイテムを出したいなーと思いながら手を伸ばすと__手がぞぶりと別の空間に沈みこんだ。これはもしや、と思いつつ手をスライドすると、窓を開く様に空間が開かれた。

 そこにはイリスが眠りにつくまでに集めた数々のアイテムが、ずらりと並んでいた。 

 当然、神秘の森で手に入れた超級のアイテム達も同様にそこにあった。

 イリスは小さく息を吐き出した。呼吸に合わせて胸が上下するリアルさにももう慣れた。

 とりあえず一安心だ。これだけのアイテムがあれば…脱出までゴリ押すことも可能だろう。

 魔法とスキルの発動も確認したいが、それをすると上の蜘蛛達に気づかれる可能性があるので後回しにする。

 

 イリスは立ち上がるとバサリと骨の翼を広げた。

 『死神の隠蓑』は身体の大きさや、状況に合わせて変化するので、翼を広げようが巨大化しようが、装備状態にある以上、その性能に問題はない…はずだ。

 完全に無意識にした行動だったが、イリスは自分手足と同じか、それ以上に翼が身体に馴染んでいることに驚いた。翼の付け根から先端に至るまで、イリスの意識が浸透している。

 

(さ、最近の科学はすごいなー)

 

 改めて浮上してきた仮説を、暴論で飲み込んだ。今は考える時じゃない。

 ついでに尻尾も生やす。これも無意識だ。親指の骨を握って鳴らすくらいの無意識でもって、イリスの尾骨辺りから骨で組み上がった長い尻尾がズルリと伸びる。

 イリスの意識に合わせてフリフリと動く尻尾が面白く、しばらく遊んでいたくなるが、今はそんなことをしている場合ではない。

 

(さて、いきますか。)

 

 蜘蛛の巣の張り巡らされた崖を見上げる。

 飛び方は…わかる。きっとユグドラシルで飛んでいた以上に軽やかに、そして素早く飛ぶことができるだろう。全力疾走するのと同じだ。蜘蛛の巣は全て躱す。一瞬で崖上に到達してみせる。

 イリスは覚悟を決め、地を蹴った。

 

(うおおおおお!!)

 

 一瞬で地面が遠のいていく。

 顔に打ち付ける風、流れていく景色、恐らく人生で初めてであろう空を飛ぶという行為に、イリスは感動した。こんな状況でなければ、きっと叫んでいたはずだ。

 そしてもう一つ驚かされたのは、高速で飛翔しているにもかかわらず、目の前に迫る蜘蛛の巣の、一本一本の細部に至るまで見分けることのできる自身の知覚能力の高さだ。

 これだけ見えるのであれば、今の数倍の速度で飛んだとしても、余裕で躱すことができるだろう。

 心に余裕ができたので、イリスは空中で宙返りをしてみたり、敢えて蜘蛛の巣の隙間ギリギリを回転しながら通過したりと、自分にできることを試しながら頂上を目指していった。

 遊びながら飛んでいたら、あっという間に崖上まで到達してしまった。イリスは石でできた吊り橋の上に軽やかに舞い降りた。

 感覚としては走っているのと同じだが、汗ひとつかかず、疲労一つ感じないのは、少し奇妙な感覚だった。

 頭は人生で一番冴え渡っている気がするし、五感もこれでもかと研ぎ澄まされている。最高の気分だ。蜘蛛の側を通った時の臭いがなければもっと。

 

「何者だ、貴様」

 

 突然声がかかった。

 イリスは驚いて声のした方を振り向き…硬直した。

 そこにいたのは巨大な男。ただの男ではない。 筋骨隆々の体に鯨の様な下半身。白髪頭に見事な黄金の冠を被り、堀の深い顔に鋭い眼光、口元には髪の色と同じ真っ白な髭を蓄えている。

 そしてその手には、神話の生物をも突き殺せそうなほど巨大で鋭利な黄金の三叉槍を握りしめている。

 彼こそは天空城ラヒュテルのネームドボス、神秘の森の守護者『ポセイドン』。

 

 唐突なネームドボスの登場に面食らったが、それ以上にイリスが驚いたのは、彼が喋りかけてきたことだ。本来なら問答無用で戦闘が始まったはずなのだが…。 

 

「どうも、こんにちは」

 

「こんにちは、ではない。我輩は貴様が誰なのかと問うておる。」

「えっと…ここの前の住人?ていっていいのかな?です」

「前…だと?ふむ、つまり今の住人ではないと言うことだな?」

 

 心なしかポセイドンの槍を握る力が強まった気がした。

 ゲームのキャラと言葉が通じてしまっている。これはもうわからない。ここに来てイリスの混乱も極まってきた。だが、コミュニケーションが取れる以上、交渉の余地があるということだ。

 もしかしたら戦闘することなく脱出させてもらえるかもしれない。なんとか怒らせないように話をしなければ。

 

「いや、さっきまで下で寝てたので…今もここの住人です!」

「むぅん!!!!」

 

 風を切る音と共に、イリスの眼前に黄金の槍が突きつけられた。

 

「貴様、先程は前の住人と言ったにもかかわらず、その舌の根の乾かぬ内に今の住人とぬかすか。我輩はそれを嘘と呼ぶ。嘘をつく者は侵略者だ。大体貴様の様な同胞は知らぬ。ここで死ぬが良い。神秘の森へは行かさぬぞ」

 

 三叉槍に電光が走る瞬間、イリスは後ろへ飛び退いた。轟音と共に槍の先端から電撃が打ち出され、イリスの目の前を焼き払う。

 明らかに殺意のある一撃。さっきの位置にいたら大ダメージを負っていたところだ。

 一瞬で交渉決裂してしまった。自分の話術の低さに落ち込むが、相手はネームドボス。元々交渉などできる相手ではないのだと傷ついた心を慰めた。

 

「npcの癖によく喋るじゃん。てかそんな糞森になんか興味ないっつーの!」

 

 ≪トランスソウル/ノーマル≫

 

 イリスは変身を解き通常状態に戻る。状態異常トラップのない今なら、スケリトルドラゴンの形態は寧ろマイナスだ。

 イリスは尻尾を生やした要領で、完全竜化の直前まで変化する。

 イリスは軽く笑う。以前の自分より格段に強くなったと確信して。

 変身の手間が以前より格段に少ないのだ。前は変身部位をいちいち叫ぶか、コンソールで選択しなければならなかったのに対し、今は考えるだけでノータイムで変身できる。

 一瞬が命取りになるこの状況で、この差は途轍もなく大きい。

 イリスは飛び上がり、空中で助走をつけてポセイドン目掛けて突進した。スキルを発動させる。

 

 ≪残滅の破爪Ⅴ≫

  弾丸の様なスピードで瞬く間にポセイドンの懐に飛び込むと、三叉槍をにぎるその太い右腕の肘先めがけて思いっきり爪を叩きつけた。

 衝撃と共に、ポセイドンの腕に太い傷が入る…が、傷の幅こそ広いが、深さで言えば全くである。 

 ポセイドンも最初は面食らったようにたじろいだがすぐに余裕の表情に戻ると、目の前のイリスめがけて鯨の様な尾ヒレを振るう。

 イリスは尋常じゃない速度で迫り来るそれを、空中で回転することでいなして躱し、回転の勢いのままもう一度、先程と同じ箇所に鋭い爪を叩きつけた。

 結果はさっきと同じだが、自分の攻撃が当たらず一方的に殴られていることに業を煮やしたのか、ポセイドンは三叉槍を滅茶苦茶に振り回し、目の前を小蝿のように舞うイリスを振り払うと大声で叫びちらした。

 

「糞森とはなんだ!!下品な小娘よ!!口も汚ければ戦い方も低俗ときたか!!恥を知れぇ!!」

 

 どちらかと言えば正々堂々戦っているつもりだが…何が気に入らないのだろうか。

 

「もーただの頑固じじぃじゃん。喋んない方が格好いいと思うよ?」

 

 今、ポセイドンに同情する点があるとすれば、ポセイドンは神秘の森の扉の前から一切動けないのに対し、イリスは後退し放題飛び放題なところだろうか。 

 事実、この状態のポセイドンであれば魔法などの遠距離攻撃で一方的に攻撃できる。ポセイドンにできる遠距離攻撃は三叉槍による直線的な雷撃しかないのだから。

 だが、イリスは近接攻撃を止めない。それはこの後の展開を知っているからである。この段階での行動で勝敗が決まるのだ。

 イリスはポセイドンから罵詈雑言を浴びせられながら、そろそろ8発目になる≪残滅の破爪≫を叩きこんだ。

 迫り来る三叉槍の強烈な突きを既で躱し9発目の爪を打ち付ける。ポセイドンはこれだけ食らっても何ともない様に腕を振るい、イリスに槍を突き出す。

 

 ポセイドンとしてもいい加減気持ちが悪くなってきていた。目の前の敵が、自分の攻撃を幾度となく躱す能力がありながら、かすり傷にもならない様な見掛け倒しの攻撃を繰り返しているのだから。

 

(この小娘…明らかに何か企んでおる。ならば早々に決着をつけるまでよ。)

 

 ポセイドンは三叉槍を天高く構えると、超位魔法を発動させる準備に取り掛かった。

 腕を突き上げたポセイドンを囲む様に、巨大なドーム状の魔法陣が浮かび上がった。

魔法陣が浮かび上がると同時に、半竜の小娘が血相を変えて飛び掛かってきた。先程よりもより苛烈に、狂ったように突き上げたポセイドンの右腕を攻撃している。全くもって無駄なことだ。この娘の攻撃には全く痛痒を感じ無い。

 

 超位魔法は発動するのに時間がかかる上に、その間使用者は身動きが取れなくなる。つまり今のポセイドンは全くの無防備だ。

 それにもかかわらず、強力なスキルを使うわけでもなく、魔法を撃ってくることもなく、鋭利な武器で攻撃してくるわけでもない。ハエの様に飛び回り、ダメージの無いか弱い爪による攻撃を繰り返すだけ。

 ポセイドンはこの五月蝿いハエに、憐れみすら感じていた。

 必死に何かしようとしているのだろうが、もう遅すぎるのだ。この娘は死ぬ。既に超位魔法の詠唱は完了した。

 

「小娘よ…嘘をつき、神秘の森を愚弄したことを許そう。ここで死に…我が眷属の餌となることでな。」

 

 超位魔法_≪カタクリズミック・レインストーム/天罰の大涙≫

 

 発動と共に小娘が距離をとる。

 魔法陣が弾け、天井の岩肌を塗り潰す様に巨大な雨雲が出現する。雨雲が広がるや否や、上から押し潰すかの如く大粒の雨が滝の様に降り注いだ。そのあまりの水量は互いの姿が全く視認できなくなる程だ。

 肌を叩く水の感触が実に心地良い。

 大量の雨が崖下に吸い込まれていくのを見て、ポセイドンは破顔する。あと数分もしたら崖が水で満たされ、巨大な湖となるだろう。そうなればポセイドンは自由に泳げるようになり、この忌々しい足場に頼る必要もなくなる。

 その時がこの哀れな小娘の最期だ。

 ポセイドンの持つ黄金の三叉槍≪トライデント・オブ・アトランティカ≫の真の力をとっくりと味わってもらおう。…最もそれまで小娘が生き残ることができたらの話だが。

 

  眼を凝らす。この濁流のような豪雨では、飛ぶことすらままならないはずだ。つまり足場となる目の前の小道以外警戒する必要はない。真っ直ぐ駆けてきたところを串刺しにしてやろう。

 ポセイドンは右腕を引き絞るように下げ、三叉槍を肩口に構えた。…そして。

 

 下から突き上げるように右腕に衝撃が走った。

 

 慌てて腕を見る。小娘が…いた。濡れた赤黒い髪を振り乱し、黄色い瞳…縦に亀裂のように走る黒い瞳孔が、ポセイドンを真っ直ぐ睨みつける。

 感心した。この豪雨の中にあって、その飛翔は全く衰えていない。加えてこの視界の悪さをものともせず、正確に右腕を撃ち抜いてきたのだ。

 痛みは無い。先程までと同じ無意味な殴打。この期に及んでまだ爪でくるのというのか。

 かち上げられた腕を振り下ろし、三叉槍の柄を地面に突き立てる。

 

 ≪神の怒り≫

 

 ポセイドンからドーム状に広がるように衝撃波が飛び、周囲の全てを吹き飛ばした。束の間の静寂__周囲の雨が止んだかのように静かになり、すぐに轟音の帷を下ろした。

 

 執拗に右腕、それも同じ箇所ばかりを狙ってきている。小娘の狙いは恐らく、業腹だがこの右腕の破壊で間違い無いだろう。右腕を破壊されれば、三叉槍の力を引き出せなくなる。

 あのやわな爪で壊せるほど脆くは無い。だが狙いを知って尚それに付き合うつもりもない。

 時間を稼ぐ。水が満ちればお前の負けだ。

 

 ≪眷属召喚__マーメイドシャーク/人魚鮫≫

 

 嬌声が爆発する。豪雨と共に美しい人魚が大量に降り注いできた。

 艶めかしい鮮やかなピンクの長髪。見るものをたちまち虜にしてしまうような可憐な黄金の瞳。

 そして耳まで裂けた大口に、重なるように生えた牙。腰から伸びるのはただの魚の体ではない。力強い大鮫のそれだ。

 ポセイドンからすれば、それはまさに美の化身なのだが、ユグドラシルプレイヤーにこれを綺麗だと思う者はいないだろう。

 というのも、ウルウルとした瞳と口のバランスが絶妙に噛み合っておらず、見るものに不安と恐怖を与えるデザインとなっているのだ。

 所謂不気味の谷現象の極地と呼べる見た目をしており、下手なゾンビよりよっぽど精神にくると感じるプレイヤーも多い。

 そしてそのレベルは70。100レベルプレイヤーであれば一体一体であれば苦戦することはないが、ポセイドンは≪天罰の大涙≫の発動している間、無限にこれを召喚することができる。まさに数の暴力。並のパーティでは即彼女達の餌食となるだろう。

 

 これは余談だが、ゲームという性質上、当然処理落ちというものが存在するため、ユグドラシルであれば同時に出現できるのは20体までである。

 が、この場において…何故かその制限は存在しない。

 人魚鮫達はまさに豪雨の如く降り注ぎ、崖下の大穴を埋め尽くしてゆく。

 ポセイドンは満足そうに頷いた。時間稼ぎとは言ったがこれではもう生き残ることは不可能だ。

 

「神秘の森へは何人たりとも近づくことはできんということだ、小娘」

 

 雨と眷属の降り注ぐ世界のどこかにいるであろう、半竜の娘に声をかける。最早聞こえてはいないだろう。既に肉塊と化していてもおかしくない。

 感謝しよう。眷属の供物となってくれたことを。感謝しよう。この数百年誰も訪れることのなかったこの地に挑んできてくれたことを。

 ああ…こうしてまた神秘の森に静寂が__

 

「だから、糞森になんか興味ないって言ってんでしょーが」

 

 ≪ワールドブレイク/次元断切≫

 

 無礼な言葉が耳を突いた次の瞬間、世界が割れた。

 それは比喩でも何でもなく、まるで画用紙に書かれた風景画を引き裂いた様に、落とした鏡に亀裂が入った時のように、眼前の世界が一直線に砕け、陥没し、そしてひび割れて、穴の空いた空間に吸い込まれるようにして世界が、色が、収束して…

 けたたましい怒号と共に空前絶後の大爆発が巻き起こった。

 

 なにが起きたのか理解などできない。肩口から袈裟斬りにされ、血の吹き出した体を抑え、ポセイドンは激痛のあまり顔を歪めた。

 額から大量の汗が流れては、大粒の雨に洗い流されてゆく。下をみれば眷属たちの肉片が無数に散らばり、ポセイドンの足元を真っ赤に染め上げていた。

 右下から怒鳴り声がした。あの小娘の耳触りな声が。

 

「これで50!!!!」

 

 右腕に跳ね上がるような衝撃が走った。今までとは違う__耐え難い激痛と共に。

 クルクルと目の前を舞うこれはなんだ。三叉槍を握ったまま崖下へ落ちてゆくあれはなんだ。

 あれは我輩の…。

 

「ぬ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"」

 

 ≪ゴッドブロー/神の一撃≫

 

 ほぼ反射的にポセイドンの放ったスキルが、拳が、技を放った硬直後のイリスの腹に突き刺さった。

 イリスはまるでピンボールの様に吹き飛び、雨を切り裂きながら、爆音と共に向かいの壁に激突した。衝撃で壁に無数の亀裂が走り、破片が舞う。

 激痛がイリスの全身を支配する。視界が揺れ、雨によって滲んだ世界がぐるぐると掻き混ざる。

 咳き込むと同時に大量の血が口からこぼれ落ちた。

 油断した。完全に失敗した。

 

 通常ならばイリスの動きは間違いなく最善のはずだった。あの場でポセイドンの腕を破壊できなければ、敗北は必至だったのだから。

 ≪残滅の破爪≫とはデミドラゴンの種族が使用できる部位破壊専用のスキルである。

 それは特定の部位に決められた必要回数攻撃を当てると、相手のhpや耐久値にかかわらず必ず部位破壊できるというもの。

 必要攻撃回数は対象のレベルによって上下する。ポセイドンの場合、腕50回・頭70回・尾ヒレ30回といった具合だ。

 大抵の場合普通に攻撃した方が早いので、対ボス戦で使うことは滅多にないが、今回のような一人での戦い且つ、部位破壊によって勝敗が大きく左右されるような状況では有効なスキルだ。

 ポセイドンの右腕を破壊しないまま水が満ちた場合、ポセイドンは湖を縦横無尽に泳ぎ回りながら、<浸水状態の対象>に必中効果のある防御力無視の雷撃スキルを乱発してくるようになる。

 この<浸水状態の対象>とは水の中、もしくは≪天罰の大涙≫の効果範囲に入っている者である。つまりこのフィールドにいる以上逃げ場なく、常に攻撃にさらされることになるのだ。そうなれば勝ち目はほぼ…というか0になる。

 その事態を避けるために、イリスは被弾覚悟で特攻し、無理矢理攻撃回数を稼いでいたのだ。

 思ったよりずっと早く超位魔法を撃ってきたことと人魚鮫の多さには面食らったが、詠唱中に何度も攻撃することができたので人魚鮫が降ってくる頃には部位破壊まで後一回の状態だった。

 最後は≪ワールドブレイク≫によって怯んだ隙に、懐に飛び込んでからの一撃で簡単に破壊することができた。

 と、ここまでほぼ計画通りにことが進んだにもかかわらず1発貰ったくらいで何が失敗だと言うのか。

 

 それは…この敵と戦ったことそのものだ。

 たかがエリアボスがこんなに豊かな感情を持っているなんて知らなかった。≪ワールドブレイク≫のスケールのデカさを見誤った。npcから血が、臓物が飛び出すなんて知らなかった。

 

 殴られるのがこんなに痛いなんて知らなかった。 

 こんなゲーム知らない。こんなのゲームじゃない。きっとここで死ねば本当に死ぬ。理屈じゃなく本能で理解した。理解できてしまった。

 

 込み上げてきた血を吐き出し、雨と涙で滲んだ視界で周囲を確認する。

 どうやら洞窟の端まで吹き飛ばされたらしい。

 チラリと後ろを見ると、宝物庫の方へ繋がる扉が見えた。

 再び前方に視線を戻すと、人魚鮫の群れがイリスに食らいつかんと全力で這ってくるところだった。 

 一か八か…イリスはアイテムボックスから腐るほどあるワールドアイテムの内一本を抜き出すと、前方に向けて思い切り投げつけた。

 槍は洞窟の中央あたりで人魚鮫の一体に突き刺さり、その効果を発揮する。光がだだっ広い洞窟全体を照らしだす。そして全てが照らされるより早く、耐性無視の力の暴力が炸裂した。

 それは降り注ぐ大量の雨と人魚鮫を瞬く間に蒸発させたかと思うと、一瞬で洞窟の端から端まで焼き尽くした。

 『インドラの矢』の効果10回に渡る多段攻撃だ。イリスは迫り来る波動に合わせてスキルを発動した。

 

 ≪次元断層≫

 

 ワールドチャンピオンの持つ絶対防御のスキルである。自身を別次元へ移動させ、あらゆる攻撃の干渉を不可能にする…らしい。

 発動時間は束の間だが、瞬間的にワールドアイテムの効果でさえ無効化することができると、ネットで話題騒然となったスキルだ。

 通常は24時間に3回しか使用できないがイリスは…というかほぼ全てのワールドチャンピオンが特別クエストと課金アイテムにより10回まで増やしている。

 つまり、タイミングさえ間違えなければ『インドラの矢』を防ぎ切ることが可能ということだ。

 ユグドラシルではきっと成功しなかっただろう。だが、今なら…知覚能力が極限まで引き上げられている今のイリスなら…上手くいくはずだ。 

 一つ目の波動が迫る。スキルを発動したイリスの身体が白銀の光に包まれ半透明に透ける。波動がイリスの身体を通りすぎて__続けて9回の大爆発が洞窟に激震を齎した。

 

 

 洞窟の内部は蒸発した水分により発生した霧と爆煙に覆われ、一寸先も見えない状態だ。

 

「小娘め、このような切り札を持ち合わせていたとは。だがこの爆発だ。無事では済むまい」

 

 あの徹底的な破壊の後でさえ、ポセイドンは健在であった。そもそも『インドラの矢』はエリアボスモンスターに対して効果を発揮しないので当然ではあるが。

 眷属が皆殺しにされてしまった。天は裂け、雨雲は掻き消えてしまった。もう絶対に許すまい。

 霧が晴れたと同時に全ての力をもって叩き潰してやる。ポセイドンはそう決心した。

 

 霧が晴れる。左腕を硬く握りしめ、スキルを発動しようとしたポセイドンの見たものは、もぬけの殻となった洞窟と、対岸で粉々に砕け散った石の扉だけだった。

 

 

 静寂を取り戻した神秘の森の洞窟で1人、ポセイドンは憤怒の咆哮を上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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