Z李氏の「えんとつ町のプぺルを見に行ったけど見なかった話」を読んで頭に浮かんだのは「学校」によくあるヤバさだった
Z李氏が、何かと話題の 西野亮廣氏監修の映画「えんとつ村のプペル」をチケットを買って映画館まで行ったにも関わらず、なんらかの抵抗感が生じて結局見ないで帰ってきたという話だ。
なかなかおもしろい…そして、芋づる式にいろいろなことが頭に浮かんだ。
Z李氏が見に行くことにした自問自答から
でもよ。てめえの目で見てもいないものをあれこれ論じるっていうのも男じゃないだろ?
それで映画館に行くことにしたんだ。
まてよ、このくだり、小中学校でよくあるシーンを彷彿とさせやしないか?
多くの学校で行われているクラス対抗の「合唱コンクール」をちょいと思い出してみる。
なんで「合唱コンクールやらなきゃいけないのか私には全然理解できないのだが、放課後の結構長時間を使って練習とか…あるんだよね。
嫌そうな顔していると
みんなで頑張っているのあなたは協力的でない
という非難がどこからともなく(ということにしておこう)飛んでくる
あなたは真剣に取り組んでみもしないで、無意味だと決めつけるのか?
というのも定番パターンである。
こちとらおつきあいなんだから、せいぜい15分~30分くらいで勘弁してくれよ…とでもでも言おうものなら
クラスのみんなが頑張っているのにあなたはその気持ちを傷つけるのか?
とかいう人もでてきて、帰りたそうな人の存在はなかったことにされる。
帰りの学活のあと、練習にとっつかまる前に、逃走をはかりでもすれば、これまた後が大変だ。
みんなが力を合わせてがんばっているのにあなたは身勝手すぎる
(いや、みんなって誰さ?お付き合いでしかない顔してるほうが多いとおもうけど…)
かくて、秋の夕方(合唱コンクールという行事は秋が多い)、日が落ちて薄暗くなっていくのを教室の窓から眺めながら「あー、めんどくさい、かえりてー、帰って○○したい」という気持ちを飲み込む日々…
「心の声」封殺してしまったら「死んだ目」になれるのかもしれない。
ごく一部の「みんな頑張ってるを主張したい人」だけがやけに盛り上がるってな手合いの、全員参加的学校行事でおしつけられがちな
あなたは真剣に取り組んでみもしないで、無意味だと決めつけるのか?
これを内面化してしまうと「異論・反論」を躊躇する要因にもなりやすい。
Z李さんが映画館に足をむけたのは、このあたりの呪縛があったのかもしれないと感じた次第。
Z李さんの「見るな~」という心の声はなぜ生じたのだろう?
ふと思い出したのが、その昔の教員向け生徒指導の本にかいてあった記述である。
生活場面で班競争をさせ、ビリ班を日直に発表させるという手法が出てくる。
たるんだクラス全体への喝入れの方法として
「大事な場所の掃除をサボる〇〇班には掃除は任せられません、もっとやる気のある班はありませんか」
というのが紹介されていた。
「ビリ班」ラベリングという屈辱をベースに、掃除をする権利に価値を付与して
掃除する権利を班同士で競って奪い合うようにする
というものがある。
(参考文献:集団づくりと個人の変革:北林正著、竹内常一解説 国土社、1978年)
私はこの手の「ビリ班設定」方式をやる担任教師にあたったことがあるが、方式自体、非常に不愉快であった(いじめも発生した)。
あれは
屈辱や恐怖をベースにした価値の捏造による支配
でしかない。
(「不愉快」を完全封印してしまうことは私には無理だった)
そういえば、イベントの準備や片づけの権利をクラウドファンディングのリターンにするという、西野氏の手法と非常によく似ている気もする。
もしかしたら西野氏は小学校時代にそういったヤバミな手法を体験したのかも…というのは確認しようもないが、手法はとにもかくにもよく似ている。
さて、「えんとつ村のプぺル」に話を戻すと、
その制作過程において、西野氏がオンラインサロンやクラウドファンディングで制作協力者をつのり…割り振りをし…という形であったらしい。
Z李氏の「みたくない」という心の声は、氏がえんとつ村のプぺルの周辺にそういった学校などでありがちな「支配構造」を感じ取ったから生じたものなのではないだろうか?
真剣にやってみもしないで批判していいのか?
これは、卑怯な支配構造に巻き込む呪いの言葉でしかないが、
初等教育の学校教育の場で使われがちであるため、無意識に入り込みやすいと思う。
いちいちやってみるほど暇じゃねーわ
で呪いをといてよし、なのである。
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