共感ってそんなに善いもの?という疑問から

現代の軋轢の多くに共感が関わっている

巷にあふれる議論をみていくにつけ、
 
「オレに共感せよ」vs「オレに共感せよ」
 
「Aに対する共感力を上げよ」vs「Aに共感できない私に共感せよ」
 
といった構図が目につく。

とりわけSNSでの「炎上」案件では上記のような構図が多発しているように思う。

つらつら眺めていて思うのは「第三者的な見方ができないと…岡目八目効果は得られないだろうな」ということである。

どこまで行っても平行線であるし、折り合いのつけようはなさそうである。

 

「共感=善」の公式が蔓延っているのはどうやら日本に限ったことではないらしい。

「反共感論―社会はいかに判断を誤るか 2018/2/2 ポール・ブルーム (著), 高橋洋 (翻訳)」にも、「共感=善」の公式の蔓延の様子が多数描かれている。西洋語由来のだから当然といえば当然かもしれない。

 

「共感性(力)を高める」といったことをテーマにした書籍も多い。

これもまた洋の東西を問わない模様。

  

「共感」の語源を探る

「共感」は今日では巷にそれを知る人を探すのが難しいであろう用語である。

一体いつ頃から使われているのか?

たまたま我が家にちょいと古い辞書があったので「共感」「empathy」を引いてみると。どちらにもその語は存在していない。

辞書

画像の上は明治44年発行の三省堂模範英和辞典、下は大正6年初版で大正10年増補版の、講談社「大字典」の復刻版。

大正時代の日本においては「共感」という語、そして概念は普及していなかったと見て良いだろう。

さて、欧米ではどうだったのだろう

これによるとempathyの語源は、ドイツ語の美学・心理学用語の「Einfühlung」であった模様。

アメリカン・ヘリテージ辞書によると、“Identification with and understanding of another’s situation, feelings, and motives”(他人の境遇、感情、動機を自分のことのように認識、理解すること)と定義される

 

どうやら、19世紀後半に、ドイツ・ロマン主義の美学において、Einfühlung 美的体験をどうとらえるかという議論の中で発生した(ロベルト・フィッシャーが提唱)もので、英語圏に流入したのは20世紀に入ってからの模様。

「共感の現象学」序説 池田喬・八重樫徹『行為論研究』第 3 号 行為論研究会 2013 年 3 月(11-35) (下記リンク)

 

初期の意味合いにおいて対象は「自然」や「美的体験」であり、人の情動ではなかったようだが、後年、テオドール・リップス(Theodor Lipps)によって人の情動にもその範囲が拡大された模様。

リップスはフロイトに影響を与えたとされる人物であるので、そこから心理学への接続がなされた可能性は高い。

英語圏では、ヒューム、A. スミスの道徳論における「sympathy」に合流し、さらに、心理学と紐づくことによって知覚に近い概念として「empathy」が定着していったのではないだろうか。

 

共感はいかにして「善」と結び付けられたか?

「共感:他人の身に起こったことを自分の身に起こったように感じる」というのが「善」のベースであるような言説が多い。
 
カール・ロジャーズがカウンセリング理論に「共感」概念を持ち込んだ影響が大きかったのではと推測する。

ロジャーズの主張自体に「共感=善」は含まれていないが、それがカウンセリング理論であったがために

カウンセリング=気持ちを楽にする手法→→→共感は善いこと

という単純な図式が出来上がったといった部分はあるだろう。

哲学者もしばしば「共感」という用語を使うが、ハイデガーやフッサールの時代では「共感」は「善性」とは強固な接続はなされていないように見受けられる。

労働思想、共産思想方面でみると「共感」は自他の心理的境界を融解させる側面があるので、マルクスの「疎外からの解放論」や、共産主義での「集団主義的利他」との相性が良かったかもしれない。

「疎外された者」への共感を、集団の全体意識へと高めて連帯(solidarity)を目指すのは労働運動のみならず「キリスト教民主主義」にもみられる考え方である。

 

ともあれ、第二次大戦後あたりから、洋の東西を問わず、経済思想を問わず、巷には「共感=善」の公式が広まっていったように思う。

  

「共感」は生贄を求める(共感性ヒエラルキー)

個人の意見も社会問題も「共感が足りない」という批判のターゲットになってきた。

政策の不十分な部分は「弱者(当事者)への共感が足りない」ことによるものとされ、「弱者」の主張に共感しないことはしばしば差別的であると解釈される。

相手の立場になって「心的動きを考える」はできても「感じる」ができないことは多々あるが、
 
「共感=善」の公式が適用されている空間では
 
「共感しない、できない」は「悪」に分類されがちだ。

  

「相手(当事者)の身になってみればわかるはず」といった「共感的でないこと批判」は多い。
 
知覚特性や、身体特性、経験の多様性によってその批判は的外れになりうるが、そこには蓋がされたまま批判され、「想像力での共感性の拡張」を求められるといったことも多い。

 

共感の需要化

ロジャーズのカウンセリング理論では「傾聴」というものがある。

かんたんに言うと。カウンセラー聴き方として「ジャッジメント」「先入観」を排してクライアントの話を受容的に聴く態度を「共感的」とするものである。この場合の「共感」は「情動的な共感」ではないと考えた方がいいだろう。

だが、ロジャーズのカウンセリング理論はともかくも、カウンセリングの普及に伴い「共感」は「してほしいこと」すなわち需要と化してくことになる。

「共感してほしい」は「心理的に楽になりたい」人の需要へと変化する段階で「評価されるもの」という方向へ変化していったのだ。

 

共感性のヒエラルキー

「共感=善」という価値観の元では「共感性(力)」の有無によるヒエラルキーが生じるのは当然の流れである。
 
サイモン・バロン=コーエンの提唱した「心の理論」はその流れを加速したように思う。

バロン=コーエンが自閉症児の研究で見出した「心の理論」、これは自閉症児者の「知覚」の研究に繋がった部分はあるが、そのベースは「共感性=心」といった認識だろう。

「自閉症児者」の状態を「Mind Brindness」と表現したことから、それは明らかではないだろうか。

また、バロン=コーエンは「The Science of Evil: On Empathy and the Origins of Cruelty 2012」でも「共感力の侵食」が「悪」の本質であると主張している。

 

共感せよという圧力

「共感性=善」の図式は、「福祉」「コミュニケーション力」が強調される時代にあって「共感しない人々」への圧となっていく。
 
「弱者に共感せよ」
「相手の身になって考えよ」

一見よさげな…場合によっては必要ではあるが…万能薬ではないこれらを、マスコミも識者も、社会問題の処方箋として、そして「弱者の苦悩に共感せよ」「共感性を高めよ!」をまき散らしてきた。

日本の場合、小中学校を中心に1960年台後半から「集団主義的生活指導」が普及してしまい「クラスの連帯」を良しとする層や「重点指導対象層」への「共感性を高める」が大っぴらに追求されてきたがため、「共感=善」という公式は「文句を言えない不文律としての善」として社会に浸透しやすかった部分もあるように思う。

  

マスメディアと共感

紛争、公害問題、障害者福祉、反差別等のジャンルでは特にその傾向は高く、「弱者当事者」をクローズアップし、彼らの気持ちを取り上げることが「平等で公正な世界を達成するための唯一の善」であるかの如く喧伝され、マスメディアはその類の情報を流し続けた。

わかりやすく共感しやすい物語に仕立てるというのが、新聞やテレビの制作側のスタンスであったのだろう。

一般市民が世間に発信する手段が非常に限られていた時代にあっては、それまで可視化されにくかった人々の権利の確立において全く実効性がなかったとは言えないが、ある時期から実効性以外の側面が目立ってきた。

障害者福祉における、実体と乖離した過剰な演出での「感動物語」に、ときとして当事者からの非難も起こるようになっただけでなく、TV等で映像化しにくい弱者とそうでない弱者の分断も起こる。

さらにいえばSNSが普及するまで「共感しない者」が不可視化されてきた。

「共感」は反論を許さないのだ。

  

「共感せよ」の作る権力勾配

共感は基本対象への没入感覚である。それはすなわち一人称の主観的なものである。

が、「Aに共感を!」という要求形となった場合、「共感される側」が発生する。

すなわち「共感される側」が「共感された」と感じるまで「共感が不十分だ」が言えてしまう。

この段階で「要求したもん勝ち」という権力勾配が生じる。


「共感=善」の世界に住む限り

「弱者の苦悩に共感できないのか?」

に抵抗できる人は少ないだろう。「悪」の立場に立ちたい人はめったにいない。

 

「共感せよ」は「共感されたい」を加速する

「共感せよ」の圧が強くなるほど、人々の中に封殺されるものは多くなる。 

さよう、共感は「没入的に感じる」がベースであるので、一部をとりだして「考える」「検討する」は基本的に否定される。

「共感」の範疇に入らない熟慮や検討は表だって表明しにくくなる。

息苦しいものだ。

その息苦しさは「思考の放棄」にも繋がりやすい。

何を言っても否定されるのであれば、当然学習性無力感が生じてくる。

思考への意欲は減退するだろう。

   

ただ「息苦しさに」だけは、それを「共感されたい」に回収してしまえば同じ「共感要求」の形で吐き出すことはできる。

これが、「共感要求vs共感要求」の構図である。

 

 

過去の傷つき感情を「被共感欲求」(共感ニーズ)に回収してしまうこと

人間生活というもの、全くも順風満帆であることはあり得ない。かなり運河いい人だろうと、辛いことや理不尽なことには遭遇する。

特に幼少期の傷つき体験や、深刻な傷つき体験などでは、リアルタイムで本人がそれを正確に認識したり言語化したりすることができない場合も多い。

トラウマからの回復には丁寧にその事態や感情を把握していくのが良いといわれるのであるが、ここに「共感=善」の公式と、それに連なる「共感欲求」が絡むといささか厄介なことが起こりかねない。 

過去の傷つきや辛さ、悲しさを、うっかり「共感されたかった」に回収してしまうといったことも起こりやすいし、トラウマを抱えた現在の辛さを「共感されたい」に回収しやすくなる。

プロのトラウマ治療者やカウンセラーなどでは「(認知的な)共感的対応」を通して回復につなげていくが、世の中プロはさほど多くない。

 

共感を他者から表明されることには孤独感を癒すことはあるが、共感が経験依存の面があり理解されにくい体験をした場合には必然的に共感は発生しにくく、話したとしても共感される可能性は低くなる。

あたりまえだが「期待とズレた反応」が返ってくる可能性も高くなるし、「共感欲求」が満たされる可能性も低くなる。

世に「共感=善」が蔓延するにつれ「共感」への期待も増大する。つまりその欲求が満たされる可能性はさらに下がる。

そこに発生するのは「共感されるべきなのに共感されない=理不尽な扱いを受けた」という怒りの無限ループである。

 

「(情動的)共感」は自然発生的なものなので「稀なこと」だと思っておいた方が楽である。

 

共感性ヒエラルキーと発達障害

残念ながら、「共感」概念の発生から長い年月を経て

「共感しない」は「悪しきこと」として糾弾されうる要素になっていった。

喋れる発達障害児者が見いだされ、その存在が知られるようになって「共感性に基づく心のヒエラルキー」へと転換していく。

言語を持つ自閉症のことを少し前まで「アスペルガー症候群」といったが、その語を使った「アスペ」が罵倒語として使われるようにもなった。
  
(やれやれ…)

他者の気持ちを我が事のように感じる…これは自然発生的な現象としてのそれは「似た経験」「似た知覚」にかなり依存する
  

自閉症児者も自分と似た体験には共感するという研究はすでになされている。

自閉症スペクトラム障害のある人は、他の自閉症スペクトラム障害の人を助けますか?自閉症スペクトラム障害の成人における共感と動機づけの調査 『Do Individuals With Autism Spectrum Disorders Help Other People With Autism Spectrum Disorders? An Investigation of Empathy and Helping Motivation in Adults With Autism Spectrum Disorder. Hidetsugu Komeda 1, Hirotaka Kosaka 2 3, Toru Fujioka 3, Minyoung Jung 3, Hidehiko Okazawa 3

  

「共感性」は実のところ能力ではなく「経験の類似性」+「自他境界の曖昧さ」の総和といったところだろう。


共感性優位世界への過剰適応

過大な「共感性要求」には、反発も生じるだろうが「共感=善」の価値観に縛られれば、想像で共感性を拡張しようとする「共感性世界への過剰適応」も生じるだろう。
 
「共感的であらねば」

といったストレスはそれが「共感=善」といった倫理観に基づくために「無意識化」されやすい。

「共感的であらねば」といったストレスがが無意識化されれば、その負荷にあえぐことから生じる「共感されたい」も無意識化される。
  
慢性的なストレスが生じる。
 
「共感」の過大評価はそういったリスキーな面がある。

 

共感的であることを組織の理念に持ち込むこと

慈善や対人支援を行う非営利組織などではしばしば「共感性をもって」「共感的であること」などの文言が組織理念に盛り込まれる。

これは実はリスクになり得る。

とりわけ「共感的である」の対象が規定されない場合、

「組織外部に共感的であろうとする」ことと「成員同志が互いに共感的であろうとする」といった二重の縛りが生じる。

「情動的な共感」と「認知的な共感(これは情報収集と思考である)」をしっかり区別しないまま、共感的であろうとすることは、トレードオフの生じるトラブルなどで、往々にして対応の決定に不公正さが生じやすい。

「共感」は「対象へ没入」であるため、別種の二つの対象に対しては生じ得ない。ある他者に共感的であろうとするのと同時に、利害を異にする別の対象へ共感的であることは難しいのだ。

そして「(情動的)共感」は、ともすると付き合いの親しさを優先しやすい。

組織の理念において「共感」を前面に出すことは実はかなりリスキーである。

 

共感性アピールしぐさ

「多様性の尊重にはまず共感を」
 
よく聞かれるセリフではあるが、この主張はそもそもが破綻している。

破綻しているので、対立が起こるか、「共感性アピールしぐさ」に終始するしかなくなる。
 
誰かの提示した「共感性アピールしぐさ」に追従することにもなりやすい。

そこでまた「提示者」-「追従者」の権力勾配が発生する

「望ましい共感スタイル+感動イメージ」が固定化すればするほど、「共感性ヒエラルキー」も増強する。

 

スクールカーストと共感的スタイル
  

学校の「スクールカースト」にもそれに近いものがあるだろう。学校で「共感=善」の前提に立つと

「職員室的な望ましい共感のありよう」「学級ボス的な望ましい共感のありよう」

の二重の共感ヒエラルキーが発生する。

学校の「いじめ対策」で「共感性を高める」「連帯」をベースに指導を行うのはかなり危うい。

「共感性の高い自己への変容」を規範として強く求められるのだ。

参考:学校のいじめのメカニズム IPS理論、群生秩序、コスモロジー、自己裂開規範を用いて 内藤朝雄 2021 精神医学第63巻第2号

 

共感しにくいことはスルーされやすい 

「共感しにくいこと」をなかったことにする心理にも繋がる。

特に悲惨な体験に関しては「共感」が苦痛を生むこともありうる。

「目をそらしたくなるような出来事」は「目をそらしやすい出来事」でもあり、類似性の低い他者におきたそれはより目をそらしやすものである。 

ここで「共感されやすさ」のヒエラルキーが生じる。

 

「弱者への共感」の盲点

なんらかの配慮や支援が必要な弱者が、必ずしも「共感されやすいか?」というと、案外そうではない。

その対象に自分との類似性が見いだせれば共感しやすいかもしれないが、自分と類似性がなさ過ぎれば「共感しよう」と想像力を働かせることのハードルも高くなる。

概して「見えにくい弱者」はスルーされやすい。そして「共感性ヒエラルキー」の下層にいる人々はよりスルーされやすくなる。

「共感されやすさヒエラルキー」が発生する。 

いじめ事件の対応で教委や学校側が下手を打ちやすいのも、共感をベースにした組織で「身近な者」「共感されやすい者」への共感が先に発生しやすいといった側面が大きく関わるように思う。

  

共感と断罪

さらに言えば「弱者Aに共感を」を主張する側が「共感しない他者を断罪すること」へのハードルは低くなる。

スポットライト効果で「共感=善」「弱者に味方する=善」という二段構えの「お墨付き」があるかのように感じてしまう。

「マイノリティに共感的でない=差別だ」あるいは「弱者に共感的でない→悪いシステムだ」という論法がまかり通りやすくなる。

他者への要求としての「共感」は、その是非が、要求者(ニーズの代弁者も含む)が共感と感じられるかという、主観的な尺度で測られるがため、いついかなる時にも「共感が十分でない」を言えてしまう、案外不確かなものであるのにも関わらずだ。

 

ブラック部活も「子供たちがかわいそう」から歯止めがかかりにくい状態だ。

公務員を減らせ(税金の無駄遣い=搾取である)は、非正規雇用を増やした。

「共感」は、スポットライト的にしか機能しないため、視点が狭くなりやすい。

ある意味、他者の口封じにもつかえるし、イデオロギー闘争にも利用しやすいのである。


共感を他者に求めることの侵襲性 

「共感を他者に求めること」は「自分と同じように感じろ」であるので、基本的にかなりの侵襲性をもっている。

「共感=善」の公式が浸透すればするほど「共感性」を持たぬことに罪悪感を生じやすい。その価値観に幼少期からどっぷりつかる羽目になると自己肯定感は下がりやすくなる。

権力・権威勾配がある場合に、権力・権威が強い側から「共感」を求められれば、なおのこと容易に拒否しにくくもなる。

「共感=善」の公式を否定しない限りは太刀打ちできない。

メディアやアカデミズムの発する「弱者への共感を」が時として押しつけがましく感じられるのにはそういったメカニズムがある。

 

共感と対人支配

「共感=善」とする空間において「共感要求」は、さまざまな場面で対人支配の道具に使われやすい。

とりわけ「共感」が「思いやり」「優しさ」「利他」といったものと結び付けられているとそれは起こりやすい。

いわゆる「毒親」や「DV」でも「察しない=悪」といった図式で「共感要求」が支配の道具になることが多いし、ブラック企業や組織内ハラスメント等にも「共感要求」が利用される。

無茶な要求であってもそれを拒否すると「共感性が低い=優しくない、思いやりがない」いう罵声が返ってくる閉鎖的な場では、低い側に追いやられた人の人権なぞあったものではない。

人格を否定されないためには「共感性アピールしぐさ」をするしかない。

これが「忖度」である。

 

幸福感と共感

「共感」が幸福感をもたらすことはある。

文学作品や芸術作品に触れたときに引き込まれる、恍惚とした感覚、それは紛れもなく「幸福度」を上げるものだし、人生を豊かにするものだ。

それを否定するつもりはさらさらない。

そしてそれは、稀に対人関係においても起こるし、それは「人の間」にいきる人間には歓びとなりうるものだ。

子供にとって、共感的な養育態度は自己肯定感や社会性をはぐくむために必要なものでもあろう。

 

とはいえ「共感される」は幸福感の必要条件ではない。

「共感される」を唯一の拠り所に幸福観が構築されてしまうと「一人でかみしめる」といったことは疎かになりがちだし、他者の存在や他者の承認に依存することになりやすい。

自他の境界が曖昧になりやすい。それは、傷つきやすさにもなるし、かつ、他者への侵襲に対して無自覚になりやすいということでもある。

 

(参考自他の境界については、だいぶ前に図解を作っている 下記)

 

共感希求と錯覚 

 

人間は自分の感覚すら騙す動物である。

「共感」や「共感性」をあまりに希求すれば「共感しあう感覚」が生じてしまうこともあり得る。

祝祭的一体感というのはそれと似た感覚であるが、時間や空間で「祝祭」から離れれば通常感覚に戻れるという点で多少異なる。

だが根本が「共感」への希求であるならば、それは非日常として分離されることはない。日常的に自他境界は融解され続ける。

「過度な共感指向」は「連帯:solidarity」を求めるイデオロギー闘争や、カルト集団には都合がうってつけのしつらえなのだ。

 

まとめ

さまざまに考えを巡らせてきたが、「共感=善」をベースにし、それを必要不可欠なこととしてしまうと、ダブルバインドどころか「コンプレックスバインド」が発生する。

これは「無意識の偏見:アンコンシャスバイアス」の元になる。

自然発生的な「共感」を否定する必要はないだろうがが、共感や共感性はそれを追求するほど巨大な価値のあるものではない。

むしろ「共感=善」の公式から導き出されるものの多くは、個人を、そして社会を熟慮から遠ざけるものあるだろう。  

   

普段なにげなくつかってしまう「共感!」の代わりに使える語は案外たくさんあるかもしれない。

 

 



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