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「突然キレだす教師」の種明かしをしてみる―教育学者が語らない教育史(1)

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突然キレだす教師という災難

学校にはたまに「突然キレだす教師」というものが生息している。

何がきっかけなのかワカランが、ヒートアップして怒りモードに入り、児童生徒が、職員室にお迎えに行くという「儀式」を何度か繰り返すことでその怒りを鎮め奉るという、奇妙な習わしがある。

不毛な思いをした方は…かなりいそうだ。
この担任はその後何クラス担任したんだろう?

 

そして、管理職を巻き込んで反撃に出る頼もしいツワモノも…。

たまには、教員に寄りそったこーいう意見もある。


だが、怒りの沸騰~児童の職員室詣の儀式を必要とする教員は少数であり、必ずしもすべての教員がそれをやるわけではない。

教育的指導…というわけでも なさそうだ。

それは、意図的な「演技」かもしれない 

児童生徒が「教師の機嫌」と認識したものが、本当に「教師の機嫌」であったのだろうか?

おそらく違う

なぜなら、戦後日本の教育に集団主義教育が侵入してくる段階で、

「児童生徒の集団の一員としての意識を高める」
「児童生徒に”集団”を認識させる」

等々の目的で、「教師の演技」だの「ゆさぶりをかける」といった方法が横行したからだ。


定番のシナリオはこうだ

①しょうもないことで怒り出すor激しく叱る。
②(先生がなぜ怒ってるのか考えろと言う)
③職員室等に引っ込む。
  ④クラス代表として誰かが謝りにいく。
⑤(わかっていない、話し合えと突き放す)
  ⑥(再度クラス代表が謝りにいく)
⑦頃合いを見計らって「OK」を出して、教室に戻る。
⑧「みんなも考えたようだ」と多少褒めながら説教で締める。

 

タイミングはというと、教師が「子ども達が、慣れてきて集団に厳しさがなくなってダレてきた」「もう少し”集団”を高められるはず」「もうすこし”討論を起こす必要がある”」と感じた時でしかないので、理由なんかあって無きが如しである。

やはり、子どもからしたら「災難」でしかない。

教員が、自身の思惑通りに子どもが「成長しない」と感じたら発動される、地雷のようなものである。

 

「班のある学級」の記述から

『班のある学級 大西忠治 明治図書 1964』に記述された、「通信ノート」に関する「教師の演技」の例である。

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『班のある学級 大西忠治 明治図書 1964 p213-215』


大西のこのケースは、対象が中学生だが、「通信ノート」とやらを勝手に課して、それを「生徒の自主性の発露」に持ち込みたいというのは、かなり虫がいい発想である。

「意外な問いかけ」をするというのは、斎藤喜博が国語の読解で使った「ゆさぶり」手法(全く書かれていないものを問うて議論のアドバンテージをとるやり方)の変形ともいえるが、権威勾配と心理的な反発を巧妙に利用していくあたりは、異なる部分もある。

教科外活動を通して「集団主義に基づいた”とりくみ”のお作法(マナー)」という、世間にも生徒たちにもなじみのない(それゆえに気が付きにくい)、特殊な主張スタイルと価値観に、生徒を誘導していくわけで、いささか信義に外れているような気もする。
 

問題なのは小学生だと、それが意図的に行われている演技だとは見抜けないところ。 反発するにしても忖度するにしても 否応なく巻き込まれてしまう。 

信頼関係もへったくれもない姑息な手法だ。

低学年だと、これで忖度集団いっちょ上がり…ということも起こりうるだろう。

「ヒステリー」とか「またかよ」と受け止めれる子が多ければまだいいが、ビビる子や真面目な子が、教員に忖度を始める切っ掛けにもなるし「不機嫌で人を支配する」を教えてしまう案件でもある。

不機嫌による支配は、昔からある程度の頻度で自然発生するものだとは思う。

 ただ、それが学校という「公」の場面で正当化されたり、推奨されたりする時代があると、それが学習されやすくなり、かつ「変なこと」と認識されにくくなり、発生頻度も増える可能性はあろう。
 

※引用した『班のある学級 大西忠治 明治図書出版 1964』は、国会図書館でデジタル公開されている(利用登録すればオンラインで読める)。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001052080

版元の明治図書によると、なんと28刷という大ベストセラーである。
 

「不機嫌支配」の構造は「権威勾配」+「教師の演技」でつくられるダブルバインド

この手のヤリクチは、学校のあちらこちらに蔓延している。

部活・生活指導(学級運営)・特別活動など、教科でないところに蔓延しているので、保護者がこれを把握することはなかなか難しい。

基本ダブルバインドなので、メンタルダメージにもなりやすい。

ダイレクトにターゲットとならなくても、日常的にこういう不機嫌支配に曝されることは、子どもの成長にとってプラスにはならないだろう。

ダメージを避けるには教師に忖度するしかないのであるから、忖度力養成ギブスでもある。

全ては集団主義の高みを目指して

左翼は日本はムラ社会だと批判する…が、この集団主義教育はマルクス・レーニン主義由来である。

教師は「演技者」「プロデューサー」として、子ども同士の討論を起こし、ときにいがみ合いを起こし、時にある一人に対する突き上げを激化させ、その過程でクラス成員に「集団のよさ」「声をあげてたたかうこと」「集団に連帯すること」などを、さまざまな手法を用いて主体的に「学び取らせる」。

そして、突き上げられるターゲットを循環させ…さらなる高みを目指す…というシステムだ。

その一つの手段として「教師の演技」が重要な要素になっている。

あくまで「児童生徒の自治のチカラを信じ、自発性を尊重」という体裁をつくりつつ、学級集団に討論をさせるための「仕掛け」なのである。

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この「集団主義教育」を国民の大多数が望んだということはないだろう。だが、日教組が強い時代に、教組教研運動経由で学校現場に入り込んでしまった。教科ではないことからその存在すら知らない人が殆どであろう。

そして「これからの時代の教育」という言葉で保護者は煙にまかれてきた。

そして今なお…信奉者がいる。

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テクニックに目が向いてしまうと見えなくなってしまうことがあるのかもしれない。


排除の論理は覆い隠されたが

最後に前述の『班のある学級 大西忠治』からもう少し引用しておこう。

ある貧困状態にある女子を、班編成においてリーダー格の別の女子が堂々と排除するといった事件があったようだ。

全生研方式の集団主義教育における「班編成」というのは、何段階かあるが先に「班長」を決め、班長が公開で班員を選び取るという形がある。

「適当に引き受け手が出るだろう」という大西忠治の期待は見事に裏切られ、班長の班員決定権を主張する子らの「声」にのみ込まれる。

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議論を停止はできたものの「直ちに誤りを正す」…ことはできずに、結局翌日まで持ち越され、説得(裏工作)によって「どこの班にも属せない」という最悪の事態は回避されたように綴られるが…

果たして最悪の事態は回避されたのだろうか?

大西は己が素晴らしいと信じる「集団主義の班編成スタイル」「討議の決定権」の権威性を保つために、「班長達の”班員のえらびとり”の権限を尊重する」という建前をとりながら、この「天野」という少女の尊厳を無視したのである。

こういう場合に「うまく誤りをただす」ために「演技は重要」とするが、そんなことの前にやることがあったはずだ。

人を値踏みするような「班編成」のやり方自体が問題だろう。そして、「集団で人に取り組む」という指向性も、どこまで必要だったんだろうか?

かつて小学校の頃、私も、この手の班編成の「余らせ」を食らった。
「なら一人班で結構!」とやった私は、気が強いゆえに余らせてもいい存在だったんだろうか?

それもまた違うような気がする。

なお、1970年代初頭には、集団主義教育を支える教研団体、全国生活指導研究協議会は「余らせてはいけないケース」を指定して、この問題は、同団体内では「克服された」ということになったようだ。

「誰が悪い?」という分断

子どもたちは、言語化能力が低い低年齢であればあるほど、簡単に巻き込まれてしまう。

うっかり適応した層、反発した層の間で「誰が悪い」の解釈で妙な分断が起こる。

「教師を困らせる子どもが悪い」
vs
「不機嫌をまき散らす教師がどうしようもない」

違うんだよ。

こういう、揺さぶりをかける方式の「指導スタイル」が、流布していたのだ。

なかには、うっかりガチギレしたあげく「これは指導だ」とセルフ言い訳をしていた教師もいたかもしれないが…、スタイルがなければ、それも成立しない。

この手の「指導スタイル」をどんどん作っていたいのは、現場の実践家と呼ばれる教師群であり、それにいちいち正当性を付与するかのような屁理屈をつけて流布・推奨していたのは、左派の教育学者達であった。

教育学者にとっては、掘り返されたくない話だろう。
 
彼らは「左派教員が実践研究で連帯し、自治的な新日本の社会をつくる子供たちを育てる」という理想像を堅持するために様々な屁理屈をつくりつづけてきた。 

なかなか絶妙な本があるので紹介しておこう。

帯が秀逸である、「なぜ行き詰ったのか?80年の軌跡」それは…君らが仕事しなかったからだろ…とツッコミを入れたくなる。

この本は、教育学者が何を隠蔽し何を捻じ曲げてきたのか?といった観点で読めば、かなりの腹筋の運動になるだろう。

 

おわりに

実のところ、この手の「方法論」は、大半の教師にとって「流行り」でしかなかったのだろう。

書籍を手に取り、ちょっと試してみて「ちょっとまずそう」と思えばやらないといった代物だっただろう。

しかし「信奉者」はやり続ける。生徒の主体性を引き出すための「裏技」として、教員サークルを通して劣化した形で伝わっている。

基本「指導者(教師)と集団への帰依」を要求するスタイルであり、「はみ出したもの」への働きかけを是とするあたりは、非常に侵襲的ですらある。

こういった「隠れカリキュラム」の類をもうちょっと表に出して、虫干しをした方がよいような気がする。


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「突然キレだす教師」の種明かしをしてみる―教育学者が語らない教育史(1)|狸穴猫(まみあなねこ)
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