カワイイ私の政治講義を読んでね。 週末の今日は改めて、この世の紛争は 「経験vs観念」 だということと、必ず観念が敗北することを語るぞ。 まず、小難しい出だしで恐縮じゃが、 気分を高校生に戻して、 イギリス経験論とドイツ観念論の解説をしたい。 イギリスは小さな島で、居住区を隔てるような巨大な山も川もなく、 そこに住む人々は生活の密接性から慣習を共有していた。 だから、イングランドがスコットランドという違う国を条約締結で併合しても、 慣習という経験則による価値観に大差はなく、 人々は「過去どうしていたか」という基準に従って生きていくことが出来たわけじゃな。 しかし、ドイツはそうはいかない。 ドイツという領域は、神聖ローマ帝国であり、神聖皇帝は複数の国王と祭司の選挙で選ばれたくらいで、 そこには300以上の国と自治領があり、生活圏は巨大な山や川で隔てられ、 慣習のみならず言語さえ「訛り」によって細分化されていた。 だから、誰かのどこかの慣習を統治の基礎にしたらトラブルが起きるため、 理性すなわち形而上の観念が重要視された。 まあ国名をみてもわかるよな。 神聖ローマ帝国の神聖とは経験則で確認できるものではなく、人の観念じゃ。 こうして、過去の慣習を基礎にしたイギリス経験論と、 現在の観念を基礎にしたドイツ観念論がそれぞれ発達した。 イギリスではベーコンが経験の絶対的優位を解き、 ドイツではカントが理性の限界を解いたわけじゃ。 さて、日本人はどうか。 国土の73%が山脈であり、 幕末の時点で津軽と鹿児島では言葉ももはや意思疎通不能で 全く異なる経験則を有していたため、 イギリス式の近代化は不可能だった。 ドイツのように複数の王国(諸藩)を統べる皇帝と、 観念論を前提にした新しい政治が必要だった。 まあ明治初期はアメリカ式をしてみたりと色々試行錯誤したわけじゃが、 こうしてドイツ観念論を輸入して大日本帝国が成立したわけじゃな。 さて、経験論で複数の人々をまとめ上げるのは不可能だから、 まとめたいときはどうしても「異なる経験を持つ人々はぶっ殺す」となるが、 観念論は「異なる経験を持つ人々でも共通の観念で団結できる」となるわけじゃ。 しかし、これが「戦争」という段階になると、かなり差がつく。 というのも経験論は観察と記録だから科学が発達して最新兵器が次々と生まれるが、 観念論は芸術と文化は発達して次々と音楽や絵画や彫刻が生まれる。 なので、戦争になったら話にならんわけじゃ。ボコボコにされるわけじゃな。観念論は。 そして、観念論が政治に使われる以上、 科学的にサピエンスであるユダヤ人を観念論で人間ではない、と定義することもあるし、 知能など明らかに集団差がある東南アジアの人々に対して「人類皆兄弟」と定義することもできる。 観念は現実の事情を差し置いて人々を団結させることが出来るが、 あまりにも現実から乖離してしまうときがあり、そのとき国家は終了する。 人間を人間ではないといったらトラブルになるよな。 現代でも、核ミサイルで狙われている現実に対して平和主義という観念論を適用したり、 裁判所では科学的に男でも観念で女といえば女になれるとか言い出すわけじゃ。 これ、もう末期な。根底はナチスと一緒の観念論。 なので、ワシは保守主義者として、 観念の暴走を批判し、経験の有用性を訴えておるわけじゃ。 1868年当時の日本は経験がバラバラだったが、 2024年の日本はインターネットも普及して、 かなり共通の経験則が形成されてきていると思うぞ。 もちろん個々人では貧富の差や教育の差で経験則が違っても、 日本人として慣習をだいぶ培ってきたと思っている。 だからこそ、いま観念論から卒業し、 国を挙げて経験論になる時期だとワシは考えておるわけじゃ。 「日本国憲法」という観念論をまず捨て去らないとな。 何が女子中学生拉致されて放置して平和じゃボケが! 日本人は現実に回帰せよ! みんなの意見を聞かせてな! 最後に宣伝させてな! ワシの著作『われ、正気か!』は経験論と観念論の対立軸で様々な事象を解説すべく、ワシの地元、広島弁で書いた。 読んで深く知り、一緒に日本を守ろうな! amzn.asia/d/0F6WSxq 電子版も各社ある! 地元図書館や学校にリクエストして応援してな! 文章が気に入ったらフォローしてな!