お前はお前をフォローしろ。
名護在住の女性M様から「坂爪さんと友達になりたいから一緒にステーキを食べよう」と呼ばれた。おもてなしをしたいから、那覇でレンタカーを借りて私をピックアップしてくれ。そのための金は出すと。私の正しい使い方である。早速那覇でレンタカーを借りて、名護でM様を拾い、フリッパーでジャンボステーキを食べ、羽地の海で泳ぎ、大宜味の山奥のカフェで茶を飲み、湧水を汲み、湧水を飲み、湧水を全身に浴び、車内でM様お気に入りのヒップホップを聞き、私はラッパーになることを誓い、名護に戻って夕飯を食べた。私が全部運転をして、行きたい場所は全部M様が決めた。どちらがもてなしているのかわからなくなったが、実に楽しそうにしているM様を見てよかったと思った。
坂爪圭吾と会うためには悩み相談をしなければならないという誤解が蔓延しているが、違う。M様のような使い方は大正解で、私はみんなと友達になりたい。悩みと付き合うより、俺と付き合えと言いたい。M様の素晴らしいところは「美味いものを食った時には実に美味そうに美味いと言う」ことで、これこそが人生を愉しむ秘訣である。悩みを話しながら飯を食う人は、何も味わっていない。食事が作業になり、誰とも喜びを分かち合えない。目の前にあるご馳走(俺を含む)を無視して、悩みに意識を向けるため、今、この瞬間を味わうことができない。過去や未来に今を奪われ、硬直した能面フェイスになる。簡潔に言うと、残念なブスになる。
悩みに犯された人ほど、各種SNSで様々な人をフォローしている。人からどう見られるのかは異様に気にする癖に、自分から人を愛することや、自分から人の気持ちを想像する思いやりが欠如しているために、ナチュラルに無礼を働き、ナチュラルに嫌われる悪循環に嵌る。海を見て「綺麗だね」とか、ご飯を食べて「美味しいね」と言うだけで喜びは分かち合えるのに、悩みに支配されて「空はこんなに晴れているのに、どうして私の心は晴れないのでしょうか」みたいなことを言ってぶち壊す。悩むなら、明るくポップに悩めと言いたい。明るくポップに「踏んだり蹴ったりです!」と言われたら、聞いているこちらも笑える。深刻に言われると、笑えない。悪意がないことはわかる。問題は悪意ではない。問題は、思いやりの欠如である。
そう言う人に限って「それは坂爪さんだからできることであって、自分には無理」とか言う。私は言いたい。お前はそのまま死になさい。永遠に愚痴り、永遠に言い訳を重ねて、永遠に甘えられる対象を求め、永遠にうだつが上がらないまま死ねばいい。お前は何にもやらねえよ。自分の心の空白を、自分ではなく他人に埋めてもらうことを願い、他者の言葉や情報にすがるゾンビに言いたい。お前はすでに死んでいる。人間になりたければ、フォローを減らせ。他人の言葉で、自分の頭を汚してはいけない。今のお前は汚物である。汚物はお仏壇行きである。お前の部屋は汚物で溢れている。最高だから捨てられないのではない。好きと未練を履き違えるな。いいねを残すな。超いいねだけを残せ。代用品を探すな。自分の体が、自分の心の代用品なのだ。自分の体を使って、自分の欲しいものを取りに行け。縄文の精神を思い出すのだ。
美容と健康を科学するM様から「これを売り歩いて生きろ」と、様々なグッズを貰った。イギリス製の良質な革製のカバン、古道具の椅子、良質なストールに月桃にアロマスプレーにビタミン剤など、なんでもござれである。私はこれらを売り歩く。見たい!聞きたい!触りたい!と思われた方は、私と会おう。私と遊ぼう。私と友達になろう。私は言いたい。感動とは、自己発見である。何かを見る。何かを聞く。そして「なんだこれは。こんなことをやった人間がいるのか。これは俺じゃないか」と感動する。感動した対象の中に、自分を発見する。自分を確認する。自分が不在の感動なんて、嘘っぱちだ。全部、自分だ。自分を置き去りにした感動は感動じゃない。代用品だ。代用品を探すな。お前はお前をフォローしろ。他人の言葉で、自分の頭を汚すな。自分の体を使って、自分の欲しいものを取りに行け。明日から岩国に行く。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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