仏教をはじめとした各思想における苦しみ観の比較

本文は、私が宗教学の講義で書いたレポートをそのまま掲載したものです。

仏教をはじめとした各思想における苦しみ観の比較

本レポートでは、仏教をはじめとしたさまざまな思想における「苦しみ」の捉え方(以下、「苦しみ観」とする)を解説した上で、それぞれの苦しみ観を仏教と比較していく。本レポートで仏教と比較する思想は、一神教の流れを汲む世界宗教であるキリスト教、近年注目を集める反出生主義の思想、そして筆者自身の思想である〈弔おうとする意志〉の思想とする。

仏教における苦しみ観

仏教の開祖であるブッダは、もとはシャカ族という部族の王子であった。何不自由のない環境で育った彼は、その豊かな暮らしにもかかわらず、やがて人生の苦しみというテーマに心をとらわれるようになった。そして29歳の時に出家し、6年間の苦行を経た後、ブッダガヤーの地に生えた一本の菩提樹のもとで悟りを開いた。この時彼が悟った真理こそが、やがて世界宗教となるすべての仏教の教えのルーツである。人生の苦しみに悩んで出家したブッダが、その修行の果てに行き着いた苦しみ観とはどのようなものだろうか。

ブッダは人生における主要な苦しみを「四苦」にまとめた。この「四苦」は生老病死、すなわち生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみという4つの苦しみを指している。ブッダはこの他にも、愛するものと別れる苦しみ(「愛別離苦」)、嫌な人と会う苦しみ(「怨憎会苦」)、欲しいものが手に入らない苦しみ(「求不得苦」)、そして体と心の機能が働く苦しみ(「五蘊盛苦」)を挙げた(「四苦」と、これらの4つの苦しみを合わせて「八苦」と言うこともある)。ブッダはこのような人生の苦しみの根本原因は世界の真理を知らない無明であると捉え、この無明の解消のためには「縁起の法」を悟ることが必要であると説いた。縁起の法を悟ることが、あらゆる苦しみの滅却に繋がる。

ところで、この仏教の核心に位置する縁起の法とはどのようなものだろう。「縁起」という語が意味するのは、「縁(よ)りておこる」ということである。ブッダによれば、あらゆる存在には実体がない。あらゆる存在は相互の寄り合いの結果として成立しているにすぎない。

これを理解するために、人間について考えてみよう。人間の実体はどこにあるだろう。人間の身体はさまざまな組織(神経系、筋組織、臓器など)によって構成されている。この見方で言えば、人間とはさまざまな体組織の集合体である。この体組織は何によって構成されているかというと、無数の細胞である。細胞はさらにミクロな何かの集合体であり、その全体としての人間のどこを探しても、それを人間たらしめる主体というようなものは見当たらない。人間の存在は、これらの諸条件が集合した結果として成立しているにすぎない。縁起の法が言っているのは、このようなことである。人間の成立条件も、やはりさまざまな条件(臓器、細胞など)の寄り集まりであり、これらの寄り集まりがなければ、それは人間として成立しないのである。

この縁起の法を踏まえ、ブッダは苦しみを見つめる。先ほどの例で言えば、臓器や細胞などが寄り集まらなければ、人間の存在は成立しないのであった。あるものが成立する時は常に、それを成立させる原因・条件が前提として存在しているのであり、その原因・条件を消滅させれば、その結果も成立しないのである。先ほどに見た苦しみも、それを成立させる原因・条件を消滅させることができれば、滅却することができる。ブッダは縁起の法に則って、このように考えた。

すなわち、ブッダにとっての苦しみは、人々が自身の手によって無明を解消し、諸々の苦しみの根本原因を滅却することによって対応が可能なものなのである。筆者はここに、キリスト教的世界観との決定的な違いを見る。というのも、キリスト教的世界観では人々は原罪を背負った罪人であり、ここから人々を救済するのは神以外にはありえないからだ。この先では、そんなキリスト教の世界観を見ていこう。

キリスト教の苦しみ観

キリスト教は、パレスチナに生まれたイエス・キリストの教えに基づいて信仰されている世界宗教である。このキリスト教には母体がある。イスラエル人の民族宗教であるユダヤ教だ。イスラエル人たちは、自分たちの民族こそが神と契約を結んだ「選ばれた民」であるという選民思想に基づいて、神との契約の遵守においてのみ自分たちの民族は救済されると信じた。自らの救済を神という強力な表象に委ねるキリスト教的立場の萌芽をここからもすでに見ることができる。このユダヤ教の神は永井の言う「絶対的な債権者としての神」である。

では、これがキリスト教になるとどうだろうか。永井はキリスト教の本質について、「個々の人間が唯一の神に対して負債を、しかも自力ではけっして償うことができない負債を負っている、という解釈の創造にある」としている。ユダヤ教においては単に神の律法を犯すことが罪なのであったのに対し、キリスト教においてはその罪の意識は内面化され、あらゆる人が自分自身のうちに存在する罪を自覚することが要求されるのである。永井による次の記述はこのことを簡潔に言い表している。

自分ではけっして償うことのできない罪――だが、この解釈こそが人間を救うのである。はけ口を失った不安な生は、「罪人」という烙印を押されることによって、はじめて意味を持つからである。人間の生全体を「罪」という観点から意味づける、新たな強力な道徳空間が、こうして成立する。

永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書,1998年,第3章.

原罪を背負い、罪の意識を自覚し、それに悩まされる人々は、その人々の罪を十字架の上で贖ったイエス・キリストへの信仰によってのみ救済される、そういう構造がキリスト教には組み込まれている。これは、自分自身の手によって無明を自覚し、苦を滅却することを目指す仏教の教えとは異なるものである。キリスト教においての苦しみとは、人々が自覚しなければならない原罪のことであり、それを贖うためには、神への信仰を続けるほかはないのだ。

反出生主義における苦しみ観

近年注目を集める思想がある。雑誌『現代思想』でも特集が組まれた「反出生主義」という思想である。森岡によると、反出生主義とは「生まれてこないほうが良かった」という思想を広く指す立場である。南アフリカ共和国の哲学者であるデイヴィッド・ベネターは、生まれてくることはその子にとって常に害悪であるとする「誕生害悪論」を唱えた。森岡によると、この誕生害悪論は「苦痛が存在するのは悪いことである」「快楽が存在するのは善いことである」という前提に基づいている。これを前提とした上で提出されたベネターの主張を森岡が次のようにまとめているので見ておきたい。

まとめておけば、快楽に関しては、「ある人が存在して、その人が快楽を経験しているのは、善いことだ」ということが言えると同時に、「ある人が存在しないからそこには快楽もまた存在しないのは、けっして悪いことではない」ということが言える。

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』筑摩書房,2021年,第2章.

つまり、生きることには必ず苦しみが伴うのにもかかわらず、生まれなければ何の苦しみも生じない上、それは決して悪いことではないから、あらゆる存在は生まれるべきではなかったし、今後新たに生まれてくる命を可能な限り減らすべきだというのだ。生きることはどこまでも苦しみであるというベネターの主張は、一見すると仏教の「一切皆苦」に通じているようにも見える。しかし、両者の間で決定的に異なっているのは、一切皆苦では無明によって生じるとされていた苦しみが、誕生害悪論では快楽と苦痛の非対称性という生命それ自体の構造に起因するとされているところだ。

だから、この誕生害悪論が推奨する生き方は、「苦しみに過ぎない新たな生命の出生数」を削減することと、「すでに生まれてしまった手遅れな人々」がよりマシな人生を送ることにとどまっている。苦しみに過ぎない生を生きているという、人々にはどうすることもできないような構造を指摘した上で道徳的論理を展開するという点においては、先ほどに見たキリスト教的世界観との類似を指摘することも可能かもしれない。しかし、誕生害悪論における苦しみからの救済方法は神への信仰ですらない。初めからそのような救済はなく、この論理においてすでに生まれてきてしまった手遅れな人々は「苦しみにすぎない新たな生命が生まれないようにする」ことによってよりマシな人生を送るほかはない。このような反出生主義について木澤はこのように述べている。

反出生主義はニーチェ的な価値転換を、言い換えれば、いかなる超人の誕生も歓待しない。反出生主義は人間の「乗り換え」を志向しない。反対に、それはどこまでも人間からの倒錯的な「逸脱」を、怪物への生成変化すらも厭わないほどに志向する。

木澤佐登志「生に抗って生きること」『現代思想』2019 vol.47-14.

実は筆者は、元々はこの反出生主義の信奉者の一人だった。次章で見る〈弔おうとする意志〉の思想は、筆者自身の内に根を張る反出生主義との格闘の中で編み出されていったものである。発展途中の拙い思想ではあるが、このような反出生主義に対抗する新しい立場を示すためにも、概要だけでもぜひ本論で紹介させていただきたい。

〈弔おうとする意志〉における苦しみ観

〈弔おうとする意志〉は、筆者(以下、適宜「摩須」と表記する)が提唱している概念であり、人間やあらゆる生命を弔いへと突き動かす衝動を表す。この〈意志〉という語は、我々が日常で使う語としての「意志」ではなく、ドイツの哲学者ショーペンハウアーが主著『意志と表象としての世界』で提唱した〈意志 Wille〉のことである。ショーペンハウアーのいう〈意志〉とは、我々の目の前に立ち現れる世界の全てを成立させる力のことである。この〈意志〉は哲学者カントの言う〈物自体〉に対応するものであり、つまりは〈意志〉とはこの世界のあらゆる現象の背後にあり、それ自体では変化しない得体の知れないなにかのことである。

ショーペンハウアーは、この〈意志〉の本質として〈生きようとする意志〉を見定めた。森岡はこの意志について次のように説明している。

「生きようとする意志」は、盲目的であり、抑制不可能な衝動である。「生きようとする意志」は、無機物、植物、動物、人間を含む自然世界全体を、その背後から動かしている。すなわち、とにかく生きよう、生きようとする意志が、この自然世界のすべてを動かしているのである。

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』筑摩書房,2021年,第3章.

ショーペンハウアーはこのような生きようとする意志の概念を構築した上で、悲観主義的な世界観を描き出してみせた。森岡はこの悲観主義的な世界観を次のように説明する。

この世界を冷徹な目で見てみよう。すると分かるのは、世界は苦しみに満ちているという事実である。あらゆる生物個体は「生きようとする意志」によって突き動かされているわけであるが、その生きようとする努力は、かならずどこかで挫折する運命にある。他との闘争に敗れることも多いし、最終的には死によって生は敗北する。すべての生物個体は「苦しみ Leiden」を余儀なくされる。人間だけでなく、植物や動物もまた至る所で努力を挫折させられており、苦しんでいる。(中略)「いっさいの生は苦しみである alles Leben ist Leiden」というのがショーペンハウアーの結論である。

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』筑摩書房,2021年,第3章.

摩須はこの立場に新たな展開を加える。個体単位で見れば、〈生きようとする意志〉によって突き動かされた生は必ず死によって挫折するのであるが、我々人類にはその死者から何がしかの贈り物を受け取る能力が備わっているのではなかったか。摩須は、死によって断絶される生物個体の生が、その後に生き続ける生者の〈弔い〉によって意味を与えられ、死者という存在形式において永遠に生き続けるという可能性を示唆する。そのために必要な〈生きようとする意志〉という言い方の代替案が〈弔おうとする意志〉である。

摩須は、ここでいう〈弔い〉について、単に葬儀を行うことを指すのではないとしている。摩須は、あらゆる過去の結果としての未来を生成すること全般を〈弔い〉と捉える。

すべての存在は実際に過ぎ去っていくと言われることに対して、実存分析は次のように主張します――本当に過ぎ去っていくのは可能性だけ、価値実現の機会だけであり、われわれが創造や体験や苦悩のために有している機会だけである、と。そしてわれわれがこれらの可能性を実現するや否や、それらはもはや「過ぎ去る」ものではなく、むしろ「過去になった」もの、過去としてあるものになるのです。それらはまさに過去存在として「存在する」と言ってもよいでしょう。というのは、それらはまさに過去存在というあり方において保存されているからです。ですから、もはや何ものもそれらに手出しすることはできません。ひとたび起こったこと、ひとたび過去になったことは、もはやこの世から消し去ることはできないのです。ひとたび過去になったこと、それは一回的かつ「永遠に」過去になったのです。

V・E・フランクル(山田邦男監訳)『意味への意志』2002,第2章.

〈弔おうとする意志〉の思想は、以上のフランクルの立場を全面的に採用する。あらゆる創造も、体験も、苦悩も、死者のものとなったまさにそのあり方において過去の中に永遠に保存され、未来の人々に弔われる。弔う人々が存在しなかったとしても、この世界はその死者が生きた後の形式でしか存在し得ないのであり、世界はその死者の存在した結果としての未来のみを生成し続けるのである。これが摩須の言う〈弔い〉である。

では苦しみについてこの思想はどのように扱うのだろう。〈弔おうとする意志〉の思想は、人生における苦しみを解消しようとする思想ではない。先ほどに見た反出生主義のやり方のように、我々の人生に深く結びついている苦しみを悪と結びつけてしまっていては、快楽と苦痛の非対称性といった立場によって「全ての生命は生まれるに値しなかった」という結論に回収されてしまうからである。先ほどの木澤の発言で言うところの「人間からの倒錯的な逸脱」からの方向転換、「ニーチェ的な価値転換」、これがこの思想の目指すところである。

このような価値転換を志向する〈弔おうとする意志〉の思想は、人生における苦しみを問題視しない。むしろ、苦しみや死といったものは弔いの対象として積極的に引き受けられるべきものであり、弔いをその本質とするあらゆる生命活動において必須の条件であるとみなすのである。

であるから、〈弔おうとする意志〉の思想が危惧するのはむしろ〈弔い〉という営みの人間疎外である。

葬祭も私たちの日常から遠ざかっています。(中略)葬祭の場は自宅や寺院から葬祭センターへ、一般葬は家族葬へ置き換わりつつあります。加えて、葬儀全体の会葬者の人数、会葬者への接待費の金額なども減少傾向にあります。これらの変化は、(中略)死生観や文化に与える影響も小さくありません。なぜなら葬祭の場が日常から非日常へ、地域のものから専門家のものになると、私たちが死に触れる機会、そうして死生観をかたちづくっていたプロセスが省略されてしまうからです。(中略)この、ゆりかごから墓場までが医療化され、人生の出入り口が専門家の領域に締め出されてしまった文化の中で持ち得る死生観とは、健康な人間と生産年齢人口しか見えない〈生生観〉とでもいうべきものではないでしょうか。

熊代亨『人間はどこまで家畜か』ハヤカワ新書,2024,第3章.

熊代が以上に指摘するように、現代は人々が苦や死に触れる機会が減少し、〈生生観〉とでも言うべき死生観に囚われてしまう時代である。このような〈生生観〉の時代において、苦しみや死はそのリスクを管理されるべき対象としてみなされる。摩須の提唱する〈弔おうとする意志〉の思想は、そのように苦しみや死をリスク管理の対象とすることではなく、人間やあらゆる生命活動において必須の条件だと捉えた上で、それらの苦しみや死を引き受け、自分自身として生きていくことを推奨する。そうでなければ、人々は自分たちの人生から苦しみと死を疎外し、「清浄と汚濁こそ生命だということ」を忘れ、人間や生命をただひたすらに貶めることになるからである。

以上が幼少時代から筆者の頭を悩ませた反出生主義との格闘の中で編み出された〈弔おうとする意志〉の思想である。まだ学術的な整備はできていないが、苦しみ観を扱うレポートということで紹介させていただいた。仏教との比較を行うなら、〈弔い〉という概念の縁起説との類似を指摘することができよう。客体としての縁起を見つめるのが仏教であるならば、〈弔おうとする意志〉の思想は縁起という摂理を主体として生きることを説く思想であると言える。

結び

以上、キリスト教、反出生主義、そして筆者自身の思想である〈弔おうとする意志〉の思想について概観し、苦しみ観というテーマを中心にそれぞれを仏教と比較した。そこで立ち現れた苦しみ観はやはり様々であり、苦しみにどのように対応するか、そもそも対応できるのか、対応すべきかというところから異なっていた。ここから言えることは、人が苦しみを捉える方法は多様に存在し、そこから導出される生き方も多様であるということである。筆者は引き続きこの〈弔おうとする意志〉の思想を学術的に洗練していき、いつか世に送り出したいものである。

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仏教をはじめとした各思想における苦しみ観の比較|摩須健太朗
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