ボカロ楽曲に見る「不安」

こちらは、私の所属大学にて課せられた宗教学の講義のレポートをそのまま掲載したものです。よろしくお願いします。

ボカロ楽曲に見る「不安」

このレポートでは、私の知っているボカロ楽曲をいくつか挙げた上で、そこにみられる「不安」がどのようなものであるか、また、その「不安」は楽曲の中でどのように扱われているのかというのを、これまでの「心の不安と宗教A」講義で学んだ知見や、私自身の知識を援用しながら見ていこうと思う。私がこのレポートで取り上げる楽曲は、『不安』(にほしか)、『うらみ交信』(稲むり)、『ごめんね ごめんね』(きくお)、それと『クロマグロがとんでくる』(ころんば)である。

1. 不安とは何か

「心の不安と宗教A」講義では、まず、「不安」の定義と、その「不安」をどのような種類に分けることができるのかということについて学んだ。ここでまず、講義で学んだ「不安」の定義についてもういちど確認してみよう。

『日本大百科全書』によると、人間が不安を感じるときというのは、総じて「自己保存の傾向」が脅かされそうな時、すなわち、何らかの自分自身の恒常性が揺らがされそうなときである。また、人間に不安をもたらす最も決定的な要因は、この先どうなるのかがわからない「未来という無」が、常に私たちの目の前に存在し続けていることと、やがて自分自身を必ず失わせる「死という無」が、未来の果てに待ち構えていることである。

自分が自分でいられなくなるとき、人は不安を感じる。その不安を最も決定的にもたらすのは、どうなるのかわからない未来、そして死である。

私たちの世代は、インターネット上に無数に立ち現れるボーカロイド楽曲とともに暮らしてきた。その無数のボーカロイド楽曲は、私たちの世代の人々が日常において遭遇する感情を色濃く反映するものである。ここからは、そうしたボーカロイド楽曲群の中から4曲を選び取り、そこに現れた現代日本人の不安を見ていく。

2. 『不安』に見る「身体不安」

「不安」は、いくつかの特徴に基づいて次の三つに分類できる。身体・生命にまつわる不安である「身体不安」、現在の人間関係のゆくえにまつわる不安である「関係不安」、それと自分自身の承認にまつわる不安である「承認不安」だ。

にほしかによる楽曲である『不安』は、その題名のとおり、作者自身の生に関する不安を描いた楽曲であるが、この講義で扱われる不安、特に「身体不安」というのをよく表した秀逸な楽曲だと思う。以下にその歌詞の最初の一節を転載する。

わかりゃしないよ この先どうなるかなんて
わかりゃしないよ 死んだらどこにいくかなんて
わかりゃしないよ 生まれかわるかどうかなんて
ただひたすらに積もっていく不安

この一節からも、この楽曲が「不安」という概念の本質をよく捉えていることがわかるのではないだろうか。ここに現れている不安の中心には、未来や死への不安がある。ここで提示された語り手の不安は、このあとどのように扱われるのだろうか。以下に見てみよう。

生きていられるうちに、できるだけ 満足のいく生活を
やりたいことだけやって 自由な日々を過ごしていたいんだ
わがままでいられるうちに、できるだけ 満足のいく活動を
やりたいこと成し遂げて 残りの日々を充実させたいんだ

作者自身の不安は、「これからは満足のいく生活を送っていこう」という決意によって対応される。満足のいく活動を行い、やりたいことを成し遂げて、いつか必ずやってくる「死」までの日々を充実させることによって、「身体不安」に対応しようというのだ。

私は、以上の不安への対応方法を、ハイデガーによる概念「死へとかかわる存在」を援用して評価したい。

ハイデガーは、自らの死を意識し、それを引き受け、自分独自の生き方を貫こうとする人間を、死の不安から逃避し、自分自身の独自性を忘れ、世間一般の人間として生きていく「ひと(das Man)」と対比して「死へとかかわる存在」と呼び、高く評価した。『不安』に見られる決意も、この「死へとかかわる存在」としての決意だと言えるだろう。

にほしかによる『不安』という楽曲では、この先の人生がどうなるかわからない、死んだらどうなるかわからないといった「身体不安」を引き受け、「死へとかかわる存在」となることによって、この不安を乗り越えていく道が示されている。

私は、この楽曲に描かれた不安の克服のあり方を高く評価したい。「死へとかかわる存在」として不安と戦う生き方は、やはり自分自身の不安をその奥底から直視しなければ成り立たない生き方だろう。

死の不安を忘却し、日常生活の中に埋没し、自分自身の独自性から逃避する「ひと」としての生き方ではなく、わがままに、やりたいことだけをやって、自分自身の満足のいく生き方を選び取ろうという決意は、誠実な精神によってしか成されない。私は、そういった人生への誠意に満ちたにほしかの楽曲を高く評価する。より多くの人々の間に彼の楽曲が広まることを願いたい。

3. 『うらみ交信』に見る「関係不安」

作者自身の「身体不安」が中心に描かれていた『不安』に対して、稲むり制作の『うらみ交信』という楽曲は、自分自身の人間関係が失われていくことに対する不安である「関係不安」を中心に描いた楽曲であると言えよう。この楽曲に見られる「関係不安」とはどのようなものだろうか。

覆水盆にもう返らない
盆が終わっても 帰らないでいて
恨まれて 呪われても 構わない 構わないよ
修学旅行に ついてきて 取り憑いてきてよ

『うらみ交信』は、以上の歌詞に始まる。作者によるコメント「人が死んだら悲しいねという歌です。」からも分かるように、この楽曲は語り手の仲間(「君」)が死んでしまい、それを悲しんでいる様子を描いた楽曲である。

「盆が終わっても帰らないでいて」や、「修学旅行についてきて、取り憑いてきてよ」という歌詞にも見られるように、この楽曲の語り手は「君」の死をいつまでも受け入れることができない。故人が帰ってくる日である「盆」が終わっても、いつまでも死者の世界に帰らないでほしいし、自分が呪われても構わないから、修学旅行に一緒についてきて、取り憑いてきてほしい。そういった「君」への思いが、この曲では一貫して描かれている。

これはどういうことだろう。人間関係が失われていくことに対する不安が「関係不安」であった。この楽曲ではどうなっているだろうか。語り手と「君」のあいだの人間関係は、物語の開始時点で「君」の死によってすでに失われている。語り手はその「すでに失われた人間関係」に対して不安を抱いているのである。

ここから、先ほどに見た『不安』の「身体不安」の構造とはまた違ったこの楽曲特有の構造が読み取れる。『不安』では語り手の決意によって「身体不安」が乗り越えられていく様子が描かれていたのだが、この楽曲で描かれているのは過去の「関係不安」をそのまま引きずりつづけている語り手の姿なのだ。

であるから、この楽曲では不安の克服などという物語は決して描かれない。「大切な他者との関係が壊れる不安」は、そのまま「大切な君に会えない不安」として引き継がれ、いつまでも語り手を苛んでいく。近しい人を亡くした悲嘆を乗り越えるグリーフワークの困難さが、この楽曲からはありありと思い起こさせられる。

私としては、他者の死を引き受けられない語り手の姿は、人間として当然の姿だと感じた。「もし君が今裕福なとこの飼い猫になってれば(幸せな猫に転生していれば)、それが良いけどさ」などと言い、自分自身を納得させようとするも、「盆が来てももう戻らないですか(お盆が来てももう会えないだろうか)」などと、二度と会うことのできない「君」への想いに囚われてしまう語り手の姿は、とても人間的な姿である。

私は死者を想うというところに人間や生命の本質を見出す立場だ。私の思想に照らし合わせてこの楽曲を見ていくと、この語り手が失った「君」のいのちは、語り手が「君」に二度と会うことができないにしても、過去の語り手の体験という形式で語り手や世界の中に永遠に保存され、死ぬことはなく生きていく、ということが言える。それにこの語り手が気づくことができれば、語り手は自信を蝕む「関係不安」を乗り越えていけるのではないだろうか。

4. 『ごめんね ごめんね』に見る「承認不安」

きくおによる楽曲『ごめんね ごめんね』は、語り手の父への強烈な「承認不安」を、グロテスクなまでに率直に描いた楽曲である。歌詞を1節目から見てみよう。

肋骨を開けて私のスープを飲むの 胃から直接口付けで
私は何の味もしないと思うけど パパに喜んでもらえるなら

早速グロテスクな歌詞を見せられて面食らわれた方もいらっしゃるかもしれない。この楽曲における「私」は、「パパ」に喜んでもらうために、自分自身の身体を差し出す。いわゆる人肉食である。歌詞は以下のように続く。

黄色い脂肪をストローで吸って おしっこもそのまま刺して吸って
うんちもそのまま詰めて切って焼いて パパのために体が崩れていくけど

さらに面食らった方もいるだろうか。「私」は、「パパ」のために全てを差し出す。汚い排泄物まで、「パパ」に「食べて」もらおうとするのだ。

これを分析するために、歌詞の話から少し方向を変えて、「承認関係」の3類型を確認してみよう。誰かに自分を承認してもらえるかどうかに関する不安である「承認不安」において、そこに要求される承認関係のあり方は次の3つに分類される。「ありのままの自分」が無条件に受け入れられる「親和的承認」、「自分に課せられた役割を全うする」ことを受け入れられる「集団的承認」、そして「社会の倫理に基づいた行動」を受け入れられる「一般的承認」である。

これを踏まえて『ごめんね ごめんね』の歌詞を見てみよう。すると、自分自身の身体を、内臓から排泄物に至るまで、全て食べてもらおうとする「私」の行いは、汚い部分を含めた「ありのままの私」を「パパ」に肯定してもらおうとする「親和的承認」への欲求だと見ることができる。この楽曲は、「パパに対する私の親和的承認への欲求」が、最もストレートな形式で描かれた楽曲であるというのが私の見立てである。

この楽曲の歌詞は以下のように展開する。

ごめんね やっぱりよくない気がするの 知らないお兄さんが教えてくれた 
ああ 崩れた私の体は可哀想だって 優しく手を引くの

ごめんね ごめんね 私きっとダメな子だから
許して 許して かわいそうな私を
ごめんね さよなら パパから逃げるのは悪い子
ごめんね 許して パパじゃない人を好きになるわたしを

お兄さんは羊水をごくごく飲んだり 固いお腹を割って中身を触ったり
食べたりしないでそっとしてくれる 崩れた私は醜くてダメだって

ここで「知らないお兄さん」という人物が登場する。彼は「私」に、「崩れたあなたの体は可哀想だ」と伝え、「パパ」の元から引き離す。「パパ」の元から逃げる「私」は、「パパ」に何度も謝り、自分自身を責める。

「パパ」は「私」にとって、自分自身の身体の全てを承認してくれる存在であった。それに対して、「知らないお兄さん」は、身体なんて差し出さなくても、私を承認してくれる。というより、身体を差し出して傷ついた「私」の身体を拒絶する。

ここから、「私の身体の全てを承認するパパ」と、「身体を差し出さなくても承認してくれるが、崩れた私の身体だけは承認してくれないお兄さん」という構造が見えてくる。これを踏まえてさらに続きを見てみよう。

ごめんね それじゃいけない気がするの お兄さんはきっと私が嫌いなの 
ああ 崩れた私の体は気持ち悪いって 閉じ込められておわり

ごめんね ごめんね 私きっとダメな子だから
許して 許して 寂しがりな私を
ごめんね さよなら パパのところに戻る悪い子
ごめんね 許して ひどいパパしか好きになれない私を

「私」は、「お兄さん」は自分を嫌っていると推測し、「ひどいパパ」のところへ戻る。それはなぜかというのは、先ほどに見た構造を援用して考えることができる。

「私」が「お兄さん」ではなく「パパ」を選んだのは、「パパ」は自分の身体の全てを愛してくれる、つまり「親和的承認」を「私」に与えてくれるのに対して、「お兄さん」は「自分の身体を傷つけない」という条件の上でしか自分を愛してくれない、つまり「集団的承認」的な段階でしか自分を愛してくれないからである。

ここで、「親和的承認>集団的承認>一般的承認」という構造がいかに理にかなっているかというのが思い知らされる。たとえ未来に死が待っているのだとしても、「集団的承認」の段階では満たされず、ひたすら「親和的承認」を求めてしまう「私」の深い「承認不安」がここから見て取れる。ただ、「お兄さん」が集団的承認を与えてくれていたのも確かである。だから、「私」は「お兄さん」にも、何度も謝り続ける。

では、この「私」はいかにして「承認不安」を乗り越えていくのか、歌詞の続きを見てみよう。

帰るとパパはたくさんの人と一緒で
私が戻ってくるって信じてたって言ったの
崩れた私を最後まで食べつくしたい そう言ってくれたの

ごめんね ごめんね 私きっとダメな子だから
許して 許して かわいそうな私を
ごめんね おいしい? それは温かいハートの味
ごめんね いたいけど 満たされた心臓を

ごめんね ごめんね 私きっとダメな子だから
許して 許して 寂しがりな私を
ごめんね 痛いけど おいしそうに食べてくれるだけで
嬉しい さよなら ハートじゃないところはみんなで食べて

「私」の「承認不安」を唯一解消することのできる「親和的承認」は、私の身体の全てを「パパ」や「たくさんの人」に食べてもらうことによって成される。ここでついに、「私の心臓は満たされる」のである。心臓を食べられるという承認は、自分自身の生命と引き換えに、自分の生命の中心を承認してもらえるということを表す。本当の「親和的承認」とは、こういうものなのだ。

おわかりだろうか。この楽曲では、非常にグロテスクな形で描かれてはいるのだけれども、「私」を蝕んでいた「承認不安」は確かに解消されているのだ。この物語で描かれた「私」の「承認不安」への対処方法とは、自らの生命の中心、すなわち心臓まで「パパ」に食べてもらうことで、ありのままの自分自身の全てを受け入れてもらうことであった。

私はここに、「承認不安とそれへの対処」というテーマの最も根源的な形式を見る。「他者からの承認というのは、本質的には自らの身体を食べてもらうことなのであり、誰かへの無条件の愛というのも、本質的には相手の心臓を食べることなのだ」。そういう示唆を行っているのが、『ごめんね ごめんね』という楽曲である、と私は考えてみたい。

私は、以上の示唆を受け止めた上で、「他者からの承認」というものへの不信感をますます強めてしまった。「他者からの承認」というのがやはりそういうものなのであれば、私はそんなものを求めたくない。承認を受けるというのは、痛いことである。自分への承認というのは常に自分自身の手によって行われなければならない。そういう思いは、これからも厳然と自分の中に存在し続けるだろう。

5. 『クロマグロがとんでくる』に見る「不安の奇妙な不在」

最後に、変わり種として、不安というテーマが奇妙にも失われている楽曲を紹介する。ころんばによる楽曲『クロマグロがとんでくる』である。

この楽曲では、「身体不安」「関係不安」「承認不安」のうちのいずれの不安も見つけることができない。奇妙にも省かれているのである。この楽曲で描かれるのは、「クロマグロの飛来による死」というテーマだ。どう考えても、並の人間であれば不安に囚われ、慌てふためくような状況である。しかし、この楽曲ではそれが描かれない。この楽曲で不安を感じるのはむしろ聴き手の方である。

クロマグロがとんでくる
あしたの ひるすぎ
ああ ぼくらを めがけて ふってくる まぐろ
ころされる

ああ キハダが とんできて
かわらを つきやぶる
ああ まぐろの はりには どくがある
ささると できしする

この楽曲では、以上の歌詞が2回にわたって反復される。見ての通り、そこには何の感情表現もない。不安もなければ悲しみもなく、怒りもとまどいもない。ただ、現状をありのままに報告するのみである。しかも、その現状とは「明日の昼過ぎ」のこと、未来のことなのである。

この楽曲を、どう捉えればいいだろうか。なぜそこに不安が存在しないのか。

これを考えるにあたって、本レポートの冒頭で確認した不安の発生条件をもう一度見てみよう。「人が不安を感じるのは、自分が自分でいられなくなるときであり、その不安を最も決定的にもたらすのは、どうなるのかわからない未来、そして死である」。

これを踏まえて、『クロマグロがとんでくる』を見てみる。この楽曲において、確かに語り手の死という未来が示されている。やはり、語り手は不安を感じるべきなのである。しかも、降ってくるのはクロマグロ、それにキハダマグロである。それらが「僕ら」を目掛けて降ってきて、「僕ら」は殺されるのである。どうなるのかわからない未来どころではない。意味不明な、「不条理な死」だ。

そう、この楽曲で描かれているのは「不条理」なのである。ここで私はカミュの「不条理(absurdité)」という概念を援用したい。フランスの作家であるカミュは、理性では割りきれず、理由のわからない「不条理」を、著書『異邦人』や『シーシュポスの神話』で描き出した。カミュは、これらの著書で描かれるような不条理な人生を、それでも肯定できるのかと問うのが人間の実存であるとする。では、『クロマグロがとんでくる』はどうか。

以上の「不条理」という概念を踏まえれば、楽曲の全体的な雰囲気にも説明がつく。この楽曲にはMVが付いており、そこでは先ほどに見た歌詞を歌いながら、跳ねたり、踊ったりする「ころんば4号」らの姿が見られる。音楽の方にも注目してみよう。この曲は「死」を描いているにもかかわらず、曲の雰囲気は決して絶望的なものではない。やるせなさを含みながらも、どこか楽しく、希望を感じさせさえする、そういう楽曲である。ああこの楽曲は最初から不安とは無縁だったのかもしれない。そこに描かれているのは、未来に待ち受ける不条理な死に不安を抱き、それに囚われて絶望する人間の姿などではなく、その死をまっすぐに引き受けるという力強い姿勢である。

これはもはや、ニーチェの言った「運命愛」の領域だ。ニーチェは運命愛という概念で、無意味な生が未来において無限に繰り返される永遠回帰の運命を、それでも愛し続ける「超人」の生き方を描き出した。

「なぜかはわからないけれども、明日の昼過ぎにマグロが飛んできて、それで僕たちは死ぬ。そんなことで不安なんて抱いていられない。僕らはただ、歌い、踊るだけだ」。この楽曲で本来描かれるべきは不条理な死に対する「身体不安」だったのかもしれない。だが、ころんばはそれを描く道を選ばなかった。彼は不条理な未来に対する不安の克服、運命愛を、見事描き出してみせた。そのために彼が選び取ったのが、あらゆる感情表現を省いてただ不条理な未来を描く、そういう表現方法だったのかもしれない。

私は、こうした楽曲を作り得た彼の技量に感嘆と敬意を表したい。カミュらの文学が「実存文学」と呼ばれるように、この楽曲を「実存音楽」と呼びたいくらいだ。というのも、私が以前やっていた作曲活動は、この『クロマグロがとんでくる』を聴いたのがきっかけなのである。当時からわだかまっていたこの曲への想いを、このレポートで記述することができたのは幸いである。

私は、この楽曲で純粋に描かれた超人の生き方に憧れる。どんな不条理な運命も引き受け、それが何度繰り返されてもいいというくらいに愛する。そういう生き方は、真に不安を滅却する立場なのではないだろか。

6. 結び

ここまで、数あるボーカロイド楽曲の中から4曲を選び取り、そこに描かれた不安を見てきた。このレポートをきっかけに、ボーカロイド楽曲に思想を照らし合わせて論考を行う人が増えていってほしい。「ボカロ曲」だと言って侮ることはない。以上に示したとおり、「ボカロ曲」を思想的に扱うことは十分に可能なのであり、そこに現れた文化的価値は他の媒体とも引けを取らないのである。

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ボカロ楽曲に見る「不安」|摩須健太朗
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