347.閑話 入学試験直前
「結構速いんですね」
ミトは、初めて乗った昇蓮船から、ゆっくりウーハイトンの下台の景色を見下ろした。
いつも慌ただしく、足元の「龍の背中」の段差ばかり見ているので、よくよく考えるとちゃんと見たことがなかった。
いつもは走っている時間の石階段の横を、十名くらい乗れそうな大型単船ですーっと降っていく。
観覧船でも観光船でもない一般人移動用の乗り物なので、降る速度はなかなか速い。
「走るのは慣れた?」
ミトとニアは、毎朝走っている。
リノキスは食事の準備や細々した雑事がある上に、あまり屋敷を留守にするわけにもいかないので、修行の時間がずれているのだ。
朝の修行風景を見ていないリノキスには、まあ、一緒に住んでいる同僚程度には気にしてくれているようだ。
「『龍の背中』には慣れましたけど、どうしてもニア様には慣れません」
石像を担いで突っ走るあの少女の姿は、いつ見たって違和感しかない。
しかし今日なんて――
「たぶんですけど、私がすごいって思ってる以上にすごい人なんだと、ようやく気付き始めてます」
しかも今日なんて、入学試験に向けて体力温存をするため、ミトの朝の修行は軽めにするということで、ニアが直々に下台からの水汲みをしたのだ。
――入学祝の餞別でもあるからよく見ておけ、と。
確かに、一見の価値があるものだった。
同じことをやってきたミトだからこそ、ニアの動きが尋常じゃないことがよくわかった。それと同時に、己の未熟さも思い知った。
石像を担いでいる時となんら速度が変わらず、当然水はこぼさない。
あれだけの速度が出ているのに、体幹のぶれが驚くほど小さいということだ。もはやミトがただ歩いているよりも安定して走っているのではないかと思えるほどだ。それも全力疾走じみた速度でだ。
武客。
いまいちどういうものなのかよくわかっていなかったミトも、なんとなく、ウーハイトンという国がニアを歓迎する理由がわかってきた気がする。
「ああ、お嬢様は本当に別格だから。あまり気にしなくていいわ」
そう言うリノキスもまた、ミトにとっては「すごい人」なのだが。この人も間違いなく、圧倒的に強い。
――とまあ、恐れ多くもニアが用意してくれた朝風呂にゆっくり入って身綺麗にして、リノキスがサイズを調整してくれた新しい服に袖を通した。
マーベリアでニアが通っていた機兵学校の制服に似た、白い上着とスカート。
機兵学校に憧れや思うことなど一つもないが、ニアと同じ物をまとって同じ場所へ行きたかった。そんな未練で選んでしまった。
「お客さん方、到着だよ」
朝一の下り便には、ミトとリノキスしか乗っていなかった。上りは多いが、上から下りてくる者は少ないのだ。
昇蓮船を下り、下台の街を歩く。
これからしばらくは通うことになる月下寮なる学校への道順は、ちゃんと覚えておかねば。
手続きなどで二回行ったことがあるというリノキスの案内の下、賑やかなメインストリートから逸れるように街はずれの方へと向かう。
「だいたいどこからでも『龍の背中』が見えるから、帰り道に迷うことはないでしょ」
確かに、とミトは頷いた。
あの長大な石階段は、どこからでも見える。仮に階段が見えずとも上台は見えるのだから、帰り道には迷いようがない。
問題は、月下寮へ行く道の方だが――
「ここよ」
こちらも、迷いようがない程度には、近かった。
年季を感じさせる、かつては白かったのであろう背の低い壁が、果てが見えないほど続いている。
月下寮。
寮と付くだけあって、基本的に寮生活の子供が多い学校だそうだ。
月謝も庶民の収入で払える程度だし、中には放課後働いて自分で月謝を作っている子もいるとか。
授業は午前中のみで、午後は学校の催しやイベントがない限りは終わりである。
まあ、終わりとは言うが、多くの生徒が先生方に師事し、午後からはそれぞれの鍛錬に励んでいるそうだが。
この辺は、ミトには関係ない。
家に帰れば最高峰の師がいる。
しばらく壁伝いに歩くと、ようやく門が……いや、壁が途切れた場所に出た。これまた古ぼけた木製看板に旧古式ウーハイトン文字で「夕覇團月下寮」と書かれてある。
「ここが……」
いよいよだ。
本当にいよいよ、学校へ来たんだ。
できるだけ平常心を心がけていたミトは、自分でもごまかせないほどドキドキしてきた。いつにない鼓動の早さと強さが耳を打ち、音などないのにとてもうるさい。
「ミト」
「は――」
パァン
返事をするより早く、リノキスに頬を叩かれた。
「落ち着いた?」
「は……はい」
修行中はともかく、日常的では初めてリノキスに叩かれた。かなり驚いたし、驚きで緊張感がかなり和らいだ。
「よかった。あまり緊張しすぎると試験に障ると思ったから。しかもまだ校門の前だし」
「そう、ですね」
そうだ。まだ敷地内に入ってもいないのに、緊張がピークに達しようとしていた。何も考えられないくらい気持ちが昂っていた。
まだ早いだろう。
せめて試験の直前になるならまだしも。まだ早い。
「本当に気を付けてね」
リノキスは、カルアを叱っていた時以上に真剣な顔で続けた。
「――あまり緊張しすぎると『氣』が暴走するから。お嬢様が危惧したのもそこなのよ。下手をしたら本当に相手を殺してしまいかねない」
この武術が盛んなウーハイトン台国だけに、費用免除の特別枠の入学試験は、当然武に関わるものである。
軽く調査したところ、教師陣の何人かが試験官として立ち合い、その結果で判断されるという。
一応筆記試験のようなものもあるが、ニアの古い教科書で勉強してきたミトの学力なら問題ない。マーベリアにいた頃はシィルレーンやサクマなどが勉強を見ていた。
「さすがにもうわかるでしょ? 『氣』を使っている状態で『氣』を習得していない人を攻撃すると、軽めでも殺しかねない。それくらい危険なの」
そう。
だからこそニアは、自己流で「氣」を身に着けつつあったミトに、ちゃんと「氣」を教えようと考え弟子入りさせたのだ。
そうじゃなければ、年齢的に教えることはなかった。
確かに、今なら……武闘家が多いウーハイトンに来てから、ミトもわかったことがある。
一般的な武闘家と自分を照らし合わせて思い知った。
自分の未熟な「氣」でさえ、簡単にその辺の武闘家を凌駕してしまうことを。
毎日屋敷にやってくる武客への挑戦者の九割以上が、今のミトでも簡単に勝ててしまう。それくらい「氣」の力は強すぎるのだ。
――リノキスの言う通り、平常心を失うことが一番危ない。意図しない「氣」の使い方をして、誰かを傷つける可能性がある。それも大怪我の類だ。
「落ち着いて。自分の精神が普通じゃないと思ったら、大きく深呼吸をして空でも眺めなさい。落ち着いてくるから」
リノキスの言う通りに深呼吸し、千切れ雲をしばし眺め、……落ち着いていた。
「ありがとうございます。もう大丈夫――」
と、ミトが平常心を取り戻したその時。
「武客の弟子ってのはおまえか!? 遅ぇぞ!」
敷地内の建物から、巨大な男が大声を上げながらのしのしやってくる。
「――ハッ! 武客のガキも弱そうなら、弟子もとことん弱そうだなぁ! ちょっと強いだけの外国のガキが、この武勇国ウーハイトンででけぇツラしてんじゃねえぞ!」
…………
「ミト。あいつ殺していいわ」
「同意したいところですけど、平常心ですよ。リノキスさん」