リチャード・アッテンボロー
監督の大作。
英国では受賞したが、米国で
は不人気だった映画。
第二次大戦中のノルマンディー
上陸に次ぐ最大の作戦「マーケ
ットガーデン作戦」での失敗を
描いた作品なので、勝利しか好
まないアメリカ人には全く受け
なかった。
1944年5月以降の連合軍による
ドイツ本国進行作戦の一環とし
て、ドイツに続く道路にかかる
いくつもの橋を同時に確保突破
する作戦だ。
それを空からの大空挺部隊と陸
路の機動部隊と歩兵が連携して
橋を奪取確保する世紀の大作戦
として敢行された。
マーケットとは空、ガーデンと
は陸を表し、マーケットガーデ
ン作戦と名付けられた。
この映画作品は限りなく史実を
忠実に再現している。
私が高校2年の時に劇場公開前
の映画館貸し切りで初めて観た
時、非常に印象に残るシーンが
二つあった。
それは、英軍情報将校がレジス
タンスが寄せた情報により偵察
機を飛ばして撮影された現地
車両について報告したシーンが
一つ。
撮影された現地の写真には、進
撃予定ルートにドイツ軍最精鋭
のSS機甲師団が森に隠れている
のが撮影されていた。
だが、その報告はマーケットガ
ーデン作戦の副司令官によって
「これは故障車両を放置して
いるものだ」と決めつけられて
排除されてしまう。
事実を観て驚愕の眼差しだった
副司令官は、既に決定した作戦
を遂行したいがため、情報将校
の必死の訴えも、まるでその
将校が疲れているから間違える
とする態度で同情するかのよう
に一蹴した。
その後、その真面目な情報将校
は軍医によって精神病扱いにさ
れて、強制休暇を取らされてし
まう。
正しい事が通らない組織の力学。
なんだ?これは?!と思った。
もう一つのシーンは、マーケット
ガーデン作戦が開始され、戦闘
当初苦戦を強いられたドイツ軍
側のシーン。
作戦で墜落して目的地まで飛べ
なかった英軍輸送機を発見した
ドイツ兵は、機内で作戦概要の
資料を入手する。マーケット
ガーデン作戦全容を記した将校
用の情報資料だ。
そしてその報告を受けたドイツ
軍SS隊長は大ニュースだと上官
に報告する。英米連合軍の作戦
全容を把握できる極秘重要情報
だとして。
だが、上官は「これは英軍によ
るニセ情報だ」と決めつけ、真
剣に上申するSS長官(ハーディー・
クルーガー)の報告を誤った物
だとこじつけで排除する。呆然
自失となるSS隊長。
英軍上官の失敗と全く同じ事を
ドイツ軍もやっている。
この理不尽さは一体何なのだ?
と高校2年17才の私は思った。
それは、かなり衝撃的だった。
高校卒業後、大学で私が属した
組織はそうした組織体質は皆無
だった。
だが、社会人になってみて、民
間営利企業ではない法曹界(法
律事務所)に正式に就いてから
とそれを辞してから入った民間
企業時代の両時代でぶったまげ
た。
その『遠すぎた橋』で描かれて
いたような人間の理不尽という
ものが組織体の中では横行して
いるのだった。
全く映画と同じケースの状況も
あれば、あるミスを上司により
捏造されて部下が排除される事
が実行されたり、上司が為した
ミスを部下がやった事として
罪を着せ部下が突然処罰対象に
させられたりする事もあった。
なんという理不尽。
他の組織体でも理不尽な左遷や
閑職追いやりは常にある事も知
ったし、それらは今でも続いて
いる。
そうした理不尽は社会の組織体
の中では日常茶飯事で横行して
いるのだ。
これが日本社会かとは思ったが
思い起こすに遥か第二次大戦中
の英国やドイツでも同じだった。
どうやら人間社会とはそうした
どす黒く腹黒い連中が牛耳って
いるようだ、というのを私は社
会人になって初めて実感として
目の前に横たわる現実を知った
のだった。
その手のどす黒い「力」はどの
ような組織にも人間社会の中で
は存在している。
それは、教育界やスポーツ界や
一般企業内、公共団体、警察、
自衛隊、果ては私的サークル等
までもがそうした曇った人間の
利己心と自己中心性に貫かれて
いる。
特に組織の上層部に行けば行く
程、そうした汚いパワーが働い
ている。組織末端にはそれらを
感知させない構造と力学が確実
に存在する中で人々が生活して
いる。
その否定しようのない現実=真
実は、社会人になってから初め
て目の当たりにして驚愕した。
学生時代の組織活動においては
かなり上層部に属したが、その
手の構造は思想的に一切排除さ
れていた。組織決定は決定で従
い任務を遂行するが、その決定
においては、ありとあらゆる利
己的思惟が排除される作風と構
造を組織が構築獲得していた。
これは属した組織が特殊な思想
集団だったために、過去の歴史
から多くを学んでいたからだろ
うと思われる。
そのため、絶対に「総括」が
各自に課された。自由な「相互
批判」と「自己批判」という
厳しく自分に刃を向ける事を
組織の骨子とする集団には、私
的利己心や功名心などは徹底的
に排除されるという現実があっ
た。
組織体として極めて健全である
し、実のところ活動における物
理的対峙側面等を除外すれば
「強い組織」であった事が看取
できた。本質部分において。
だが、一般社会に出てからは
人間社会はまるで違った。
もう汚い事、汚い事。
それは企業体だけではなく、社
会のありとあらゆる「組織体」
「団体」においてそうした力学
を是として組織体を維持する事
が行なわれている現実があった。
これは本当にぶったまげた。
17才の時に観た『遠すぎた橋』
での理不尽さが現実として存在
している事実に驚愕したのだ。
戦時においては、そうした一部
の人間の利己心や功名心によっ
て何万何十万何百万という人た
ちが「死ななくてよかった」の
に死ぬことを決定づけられる。
そうした「自らの意志とは無関
係なところで決定された生存権
のはく奪」は悪であると確実に
思わせる事態と現実が、実際の
社会人の世界には渦巻いている
のである。
そもそも国家からして、国民を
騙して国民を死に追いやる。
かつての日本軍の策謀もそう
であり、戦後の要人の不審死
という暗殺が米国機関により
日本国内で実行されたのもそ
うだ。
米国などは大統領が何回も殺さ
れても真犯人などは捕まらない
し、権力維持の為に大統領さえ
殺害する国家組織だ。
また、戦争開始の為には国民さ
え大量殺害する。
近年では、9.11などの捏造テロ
を国家自身が遂行して、国民を
大量に殺害して、かつ国民と
全世界を騙して、オイルマネー
の為に戦争を開始した。
大なり小なり、人間社会は洋の
東西を問わず、どす黒い真の意
味での人間の悪意と悪そのもの
が渦巻いているし、それらが
絶対権力を握っている。
それは国家に始まり、教育機関
や医療機関、民間企業、公共団
体、私的サークル等の団体まで
それらの人間の薄汚い思惟と行
動が人間社会を支配している。
人間社会の真の支配者は、そう
した人間の悪意こそが実効支配
者として君臨している。
私は、その事は社会人になって
初めてきちんと現実として認知
できるようになった。
世の中「良い人たちばかり」と
か「そのような汚い行動は無い」
とか思うとしたら、よほどお花
畑だ。
現実は異なる。
ありとあらゆるところまで。
とりわけ「組織」「組織体」とな
ると、確実にそうした人間の悪意
が組織を支配している。
医療組織や宗教団体でさえそれで
あるのだから、もう人の世の中、
助からない。
下部構造(経済体制)が上部構造
(含、人民の思考そのもの)を決
定するとしたマルクスは間違って
いる。
そのマルクスの解き明かした構造
は構造としての表層でしかない。
教条主義者はまだその二重構造論
を信じているが、それらも表層を
見る事で世間を知ったような気に
なっているだけだ。物理側面しか
解析できていない。
人の心は、下部構造には規定され
ない。もっと別な強烈なファクター
により、人間の意思は構成されて
いる。
そして、その大部分を占めるのは
「良心」ではなく「悪意」である。
その悪意は宗教でさえ救えない。
キリスト教でさえ人間の悪意を
払拭する事はできない。共産主義
などでは更に救えない。(社会
主義的政策により現今の全世界の
人々の暮らしは豊かにはなったが。
日本においては医療保険制度や労
働時間の規定等)
人間社会の「悪」と「悪意」は
人間からはどうやっても取り払え
ない。
一体、人類はどうすればいいのか。
ただ、何となくだが(極めて観念
的だが)、感じるのは、人類は
今後一挙的に「清算」される時
が来るだろう、という事。
それは人類の消滅を伴う形でフルイ
にかけられる事だろう。