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第1章 自己相互作用と行為
 
第1節 自己相互作用−シンボリック相互作用論の三つの基本的前提をもとに−
 ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みを論じるにあたって、必ずと言って良いほど、議論の中心におかれるのが、彼の「自己相互作用」(self interaction)という概念である。ブルーマーによれば、「自己相互作用」とは、「自分自身との相互作用」 (interaction with oneself)とも言われ(Blumer,1966=1969a,p.62=1991年、79頁;1993,p.164)、それをブルーマーは、「文字通り、個人が自分自身と相互作用を行っている過程」(Blumer,1993,p.186)であるとか、「個人が自分自身に対して話しかけ、そしてそれに対して反応する、というコミュニケーションの一形態」(Blumer,1969b,p.13=1991年、17頁)であると表現している。この概念は、船津によれば、「人間が社会的相互作用において、単に他の人間と相互作用するだけではなく、自分自身とも相互作用」していることを強調するために、ブルーマーが提示したものである(船津、1983年、104頁)。周知のように、この概念は、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、その概念的柱石として措定されているものであり(Wallace and Wolf,1980=1985年、299頁)、それは「解釈の過程」(process of interpretation,interpretative process)と同義の概念として扱われている(Wallace and Wolf,1980=1985年、321−322頁)。さらに、ブルーマーによれば、この自己相互作用概念があるからこそ、シンボリック相互作用論は、それ独自の社会学的・社会心理学的パースペクティブとして、そのアイデンティティを確保しているといっても過言ではないのである。ブルーマーによれば、「シンボリック相互作用論というパースペクティブは、・・・・人間の行為を研究する上で、自己相互作用の過程を何よりも重要なものと考える唯一の分析枠組みなのである」(Blumer,1993,p.191)1)。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みを論じるにあたって、この概念の検討を看過することは出来ない。以下では、ブルーマーによるシンボリック相互作用論の三つの基本的前提を検討することを通じて、この概念の内実に迫ることにしたい。彼の人間観、行為観、社会観もまた、この三つの基本的前提に依拠して構成されている(Blumer,1969b,p.6=1991年、7頁)。
 ブルーマーは、その「シンボリック相互作用論の方法論的な立場」(Blumer,1969b)と題する論文の冒頭において、シンボリック相互作用論の依拠する三つの基本的前提を以下のように提示している(Blumer,1969b,p.2=1991年、2頁)。  
 
 1)人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する。
 2)そうした事柄の意味は、人間がその相手と執り行う社会的相互作用(social interaction)より、導出され発生する。
 3)こうした事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative process)〔=自己相互作用〕を通じて、操作されたり修正されたりする。
 
 まず第一の前提についてであるが、この前提の枢要点となっているのは、人間がある「事柄」に対して行う行為のやり方ないしその様式は、その事柄がその人間にとって持つ「意味」によって定められているということである。
 ブルーマーによれば、ここで「事柄」には「人間が自らの世界において気にとめるであろうあらゆるものが含まれている。木や椅子といった物的な物、母親や店員といった他者たち、友人や敵といった人間に関する各種カテゴリー、学校や政府といった諸々の機関、個人の独立とか誠実さといった指導的理念(guiding ideals)、命令、要求といった他者たちの活動、〔その他〕日常生活において個人が出くわすであろう種々の状況」が含まれている(Blumer,1969b,p.2=1991年、2頁)。
 上記の第一の基本的前提において、こうした意味での、ある人間にとっての「事柄」と「意味」のセットが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みにおける「対象」(object)を構成することとなる。また、そうした対象がある人間に対して持つ「特性」(nature)は、その対象がその人間にとって持つ意味により定められ、さらに、そうした意味の如何によって、その対象に対するその人間の行為のやり方が定められることとなる。ブルーマーによれば、「対象の特性(nature of a object)は、それが如何なる対象であれ、それを自らにとっての対象としている人間に対して、その対象が有している意味から構成されている。こうした意味によって、その人が対象を見るやり方、それに対して行為しようとするやり方、それについてどう話そうとするのか、そのやり方が設定される」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)。ブルーマーは、便宜上、この「対象」を三つに分けている。すなわち、「(a)物的対象(physical object)。椅子や木や自転車など。(b)社会的対象(social object)。学生、僧侶、大統領、母親、友人など。(c)抽象的対象(abstract object)。道徳的な原理、哲学学説、もしくは正義、搾取、同情などといった観念」(Blumer,1969b,pp.10-11=1991年、13頁)。さらに、ブルーマーの分析枠組みにおいては、人間を取り巻く「環境」(environment)とは、こうした「対象」からのみ構成されるものと捉えられており、それ故に、そうした対象の特性(意味)の如何によって、その環境が人間にとって持つ特性が定められることとなる。ブルーマーによれば、「〔人間にとっての〕環境(environment)とは、ある特定の人間が認識し知っている対象からのみ構成されるものである。こうした環境の特性とは、それを構成する種々の対象が、そうした人間にとって持つ意味によって設定されるものである」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)。この意味での「環境」こそ、ブルーマーのシンボリック相互作用論のキー概念となっている「世界」(world)という概念に相当するものであることは言うまでもない(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)。
 さて、ブルーマーによれば、上記の第一の基本的前提だけでは、シンボリック相互作用論をそれ以外のアプローチから区別することが出来ないという。というのも、こうした前提を共有しているアプローチが他にもあるからである。シンボリック相互作用論とそれ以外のアプローチを区別する分水嶺は、主として次の第二の基本的前提によって定められる、とブルーマーは考えている(Blumer,1969b,p.3=1991年、4頁)。その第二の基本的前提が示唆する内容を説明するに先立って、ブルーマーは、この第二の基本的前提が論敵としている「意味の源泉」(source of meaning)に関するふたつの伝統的な立場を次のように説明している。
 まず第一の立場においては、ブルーマーによれば、事柄の意味とは、その事柄に内在的に備わっているもの、ないしは「その事柄の客観的な構成として、その事柄に生来的に備わっている一部分」と捉えられている。したがって、この立場においては、「椅子はそれ自体明らかに椅子であり、牛は牛、雲は雲、反乱は反乱などなど」それを取り扱う人間の如何に関わらず、その意味は、その事柄に、生来的ないしは内在的に定まっているものとされることとなる。こうした立場に立つものとしてブルーマーが挙げているのが、「哲学における伝統的な『実在論』(realism)の立場」に他ならない(Blumer,1969b,pp.3-4=1991年、4頁)。
 次に第二の立場においては、ブルーマーによれば、事柄の意味とは「その事柄がその人にとってその意味を持つ〔ある特定の〕人間によって、その事柄に対して心的付加物として与えられたもの」と捉えられている。さらに、この立場においては、その「心的な付加物」(psychical accretion)とは、その人間の心や精神、ないしは心理的な組成を構成する諸要素が外部へと表出されたものと捉えられており、そうした諸要素には、「感覚 (sensations)、感情(feelings)、観念(ideas)、記憶(memories)、動機(motives)、態度(attitudes)」などが含まれているとされている(Blumer,1969b,p.4=1991年、4−5頁)。ここでブルーマーは、この立場に立つものとして「古典的心理学」(classical psychology)や「現代の心理学」(contemporary psychology)を挙げているが、ここで「心理学」とは、おそらくは「構成心理学」(structural psychology)のことを指しているものと思われる2)。
 ブルーマーは、意味の源泉に関するこうした二つの伝統的な立場のいずれとも異なる立場を表明するものとして、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提を提示している。ブルーマーにとって、事柄の意味とは、その事柄に生来的に内在するものでも、人間個人によって主観的ないしは心的に付加されるものでもない。それは、まず何よりも、人間間の社会的相互作用の過程から生じるものと捉えられている。この第二の基本的前提が含意する内容を、ブルーマーは以下のように説明している。
 「シンボリック相互作用論においては、意味とは、人間間の相互作用の過程(process of interaction)から生じるものと考えられている。すなわち、ある人間にとってのある事柄の意味とは、他の人々がその事柄との関連においてその人に働きかける、そのやり方から生じてくるものと考えられている。他者の行為がその人にとっての事柄を定義するように作用するのである」(Blumer,1969b,pp.4-5=1991年、5頁)。
 このブルーマーの第二の基本的前提については、ウォーラスらが的確な例示を試みている。以下の例は、彼らが、ブルーマーのシンボリック相互作用論のこの第二の基本的前提を例示するために提示したものである。
 「この例〔ブルーマーの第二の基本的前提の例〕としてあげてよいのは、野球のバットがアメリカのティーンエージャーにとって意味しているものと野球の試合というものを一度もみたことのないアフリカのピグミー族の人にとって意味するものとを比較してみることであろう。もう一つの例は、歌に必要な楽器モリモの、ピグミー族にとっての意味と、アメリカ人にとっての意味を較べてみることである。自らが属する文化を共有する他の人々との相互作用を通じて、人は誰でもさまざまな道具を、例えばスポーツのため、あるいは宗教的祭儀のためというように、色々な使い方をして楽しむことを学ぶのである。野球のバットがピグミー族の人々にとって謎めいたものに見えるように、モリモが中心的な役割を受けもつ聖なる祭りを経験したことのないアメリカ人にとっても、モリモは同じように謎めいたものに見えるに違いない。バットもモリモも重要な文化的道具であり、両者の意味は社会に暮らす他の人間との相互作用から生まれてくるのである」(Wallace and  Wolf,1980=1985年、320−321頁)。
 すなわち、ある人間にとっての事柄の意味とは、その事柄との関連において、その人間と相互作用を行っている他者たちが、その人間に対して行為する、その行為のやり方ないしは様式から生じるものと捉えられるというのが、「意味の源泉」に関するブルーマーのシンボリック相互作用論の立場に他ならない。上記のウォーラスらの例でいえば、アメリカ人にとって「バット」という対象(ここでは物的対象)が、まさしく野球のボールを打つための道具としての意味を持つのは、そうしたアメリカ人の日々の暮らしの中で、その人と相互作用を行っている他者たちが、その人の面前で(その人に対して)そうした道具として、そのバットを扱ってきたからであり、そのバットという対象にあらかじめそうした意味が内在化されているわけではない。その証拠に、ピグミー族の人々にとっては、それは「謎めいたもの」としての意味しか持ち得ない。
 なお如上の意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論において事柄の意味とは(その結果として対象とは)、「社会的所産」(social product)であるとされている(Blumer,1969b,p.5=1991年、5頁)。たとえば、「言語」という対象を例に取ってみよう。ブルーマーの類別にしたがうならば、この「言語」という対象は「抽象的対象」に相当する。抽象的対象の例として哲学学説などが挙げられていたことからもそのことは理解されよう。如上の第二の基本的前提に依拠するならば、この「言語」という対象の意味は、生来的にその対象に内在化されているものでもなく、また、一個人によって主観的にその対象に付与されたものでもない。ある個人にとってのこの「言語」という対象の意味もまた、それを、その個人と相互作用を行っている他者たちが、その個人の面前で、どのように用いるかによって定められるものと捉えられる。われわれにとって身近な例を挙げるならば、シンボリック相互作用論の領域において「世界」(world)という言語が、ある個人にとっての事柄と意味のセットとしての「対象」からのみ構成された領域を表す言語として、まさしくそうした意味をわれわれに対して持つのは、実際にシンボリック相互作用論の領域において、「世界」という言語を、その領域に関わる(われわれにとっての)他者たちが、そうした内容を含意する言葉として用いているからであり、そうした他者たちのその「言語」の使い方が、その他者たちと相互作用を行っているわれわれ一シンボリック相互作用論者の面前で行われているからに他ならない。同じ「世界」という言語でも、一般社会の人々に対しては「地球上に存在するすべての国家・住民社会の全体」3)という、上記の「世界」の意味とは、また別の意味を持っていることからもそのことは理解されよう。何故に意味が異なっているのかと言えば、一般社会においては、そこにおいて、他者たちが、その「世界」という言語を用いるその用い方が、シンボリック相互作用論の領域におけるそれとは異なっているからである。このように「言語」もまた、「対象」のひとつの類型なのであり、それは、それを用いる他者たちの用い方を抜きにしては「意味」を持ち得ない。すなわち、「言語」という「対象」の「意味」もまた、それを用いる他者たちの用い方如何によって定められるものと捉えられなければならないことになる4)。
 また、社会的対象についても同様に説明することが出来る。社会的対象として、学校に私服を着てきたある高校生という例を取りあげてみよう。この高校生は、私服を禁じ制服を着てくることを義務づけている高校においては明らかに「逸脱者」としての「意味」を、たとえばその学校に通っている他の生徒たちに対して持つこととなる。とはいえ、私服通学を許可している高校においては「逸脱者」とは見なされない(つまりその高校生は、その学校の生徒たちにとって「逸脱者」としての意味を持つことはない)。なぜなら、前者の学校においては、その学校が(というよりも、その学校の教員が)、その私服を着てきた学生を、まさしく「逸脱者」として、その学校の生徒たちの面前で扱っているからであり、逆に後者の学校においては、教員たちが、その学校の生徒たちの面前で、そうした扱い方を、その学生に対して行っていないからである。というわけで、学校に私服を着てきたその高校生それ自体に「逸脱者」という意味が内在化されているわけではないのである5)。
 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある対象となる事柄の意味とは、社会的相互作用の文脈において形成され、人々によってそこから引き出されるものと捉えられている。また人間は、そうして形成された意味に基づいてその対象となる事柄に対して行為を行う。換言するならば、そうして形成された対象の意味が、その人間のその対象となる事柄に対する行為の様式を定めることとなる。ここまでが、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提によって説明されたテーゼである。とはいえ、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、人々による意味の使用が、ここで生み出された意味を、単に適用する以外のなにものでもないと捉えられているわけではない(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)。シンボリック相互作用論とそれ以外のアプローチとをいっそう区別するものとして、ブルーマーが提示するのが、シンボリック相互作用論の第三の基本的前提に他ならない。
 ブルーマーが、シンボリック相互作用論の三つの基本的前提のなかでも、とりわけ重視し強調するのが、この第三の基本的前提である。すなわち、他者によってもたらされた、その人間にとっての事柄の意味(対象の意味であるとも言える)は、その人間によってそのまま自動的に適用されるものではなく、それは必ず、その人間の「解釈の過程」(process of interpretation)を通じて、操作されたり修正されたりするものと捉えなければならない。ブルーマーは、「行為者による意味の使用は、ひとつの解釈の過程(a process of interpretation)を通じて生じるものと見なされる」(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)と断った上で、その解釈の過程(=自己相互作用)について以下のように述べている。
 「この過程にはふたつの別個の段階がある。まず第一に、行為者は、自らがそれに対して行為している事柄を、自分自身に表示(indication)しなければならない。彼は意味を持つ事柄を自分自身に指し示す(point out)という営みを行わなければならない。・・・・第二に、解釈(interpretation)は、意味の操作(handling of meanings)という事象となる。行為者は、自分がおかれている状況や自分の行為の方向に照らして、その意味を選択したり、検討したり、保留ないしは未決定にしたり、再分類したり、変容したりするのである」(Blumer,1969b,p.5=1991年、6頁)。
 すなわち、解釈の過程(=自己相互作用)には、「表示」と「解釈」というふたつの段階があり、前者の段階において、行為者は、先行する社会的相互作用の過程を通じて形成された「対象」を自分自身に指し示し、後者の段階において、その「対象」(となる事柄の意味)を、自己がおかれている状況とそれに対する自らの行為の如何という観点から再検討することとなるわけである。さらに、こうした過程を経て確定されたその行為者にとっての「対象」(となる事柄の意味)が、その行為者にとっての「自らの行為を方向付け形成するための道具(instrument)」として、その行為者のその後の行為を導いて行くこととなる6)。
 ここまで筆者は、終始、「解釈の過程」=「自己相互作用」と捉え、その「解釈の過程」に関して議論を展開し、他方で、「自己相互作用」の内実を等閑視してきた。そこで以下では、この「自己相互作用」概念の内実、および、如何なる意味で「自己相互作用」=「解釈の過程」なのか、その理由を明らかにすることにしたい。
 本節の冒頭でも述べたように、ブルーマーにおいて、自己相互作用とは、「自分自身との相互作用」と捉えられており、より詳細には「文字通り、個人が自分自身と相互作用を行っている過程」ないしは「個人が自分自身に対して話しかけ、そしてそれに対して反応する、というコミュニケーションの一形態」と捉えられていた。すなわち、他者との間で行う社会的相互作用を自分自身と行うのが、換言するならば、他者との社会的相互作用を個人のうちに内在化(internalize)させたものが、ブルーマーの言う「自分自身との相互作用」すなわち「自己相互作用」に他ならない(Blumer,1969b,p.5,p.14=1991年、6頁、18頁)7)。
 では、ブルーマーにおいて、その社会的相互作用とは如何なるものと捉えられているのか。ここで先に論じたシンボリック相互作用論の三つの基本的前提を想起されたい。まず第二の基本的前提が示唆するように、社会的相互作用とは、そこにおいて他者たちが、ある個人にとっての、ある事柄の意味を定めようとしている過程であった。その事柄の意味によって、その個人の事柄に対する行為のやり方が定められるということは(第一の基本的前提)、すなわちこの過程は、その個人が如何に行為するべきかを、他者たちが定める過程であるとも言える。この過程が、ブルーマーの言う「定義」(definition)ないしは「表示」(indication)の過程に他ならない(Blumer,1966=1969a,p.66=1991年、84頁)。次に第三の基本的前提が示唆していたように、個人は、他者によるその「表示」を、「解釈の過程」を通じて解釈している。ブルーマーの言う「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)の過程がこれに相当する(Blumer,1966=1969a,p.66=1991年、84頁)。以上明らかになったように、ブルーマーにおいては、社会的相互作用とは、「表示」と「解釈」からなるものと捉えられているのであり、それ故、それが個人の内に内在化されたものとしての「自己相互作用」もまた、等しく「表示」と「解釈」からなるものと捉えなければならない。というわけで、「自己相互作用」とは、「解釈の過程」と同義の概念として提示され得るのである。
 
 以上、本節において得られた知見を総括するならば次のように捉えられよう。
 1)人間がある「事柄」(thing)に対して行う行為は、その事柄がその人間に対して有する「意味」(meaning)に基づいて行われる。換言するならば、その意味が、その事柄に対するその人間の行為の様式を定めることとなる。
 2)こうした、ある人間にとっての事柄と意味のセットが、その人間にとっての「対象」(object)を構成する。また人間にとっての「世界」(world)とは、こうした対象からのみ構成されるものとブルーマーにおいては捉えられている。
 3)こうした事柄の意味は、その事柄に生来的に内在しているものでも、一個人が主観的に付与するものでもない。それは、当の個人と社会的相互作用を行っている他者たちが、その事柄との関連において、その個人に対して行為するそのやり方から生じるものである。すなわち、他者たちのその事柄に対する行為の様式が、その個人にとっての事柄の意味を(したがって対象を)定義することとなるのである。
 4)とはいえ、社会的相互作用より導出された事柄の意味は、それを扱う行為者によってそのまま自動的に適用されるものと、ブルーマーにおいては捉えられているわけではない。行為者はその意味を使用するに先立って、その行為者自身の「解釈の過程」(process of interpretation)(=自己相互作用)を通じて、その意味を再検討し、その上で、その意味を自分自身の行為を導く「道具」(instrument)として用いることとなる。なお、ここで「解釈の過程」(自己相互作用)とは、他者と行う社会的相互作用を、個人の内に内在化させたものに他ならない。いわば、事柄の意味は、「社会的相互作用」と「自己相互作用」という、二つの相互作用を通じて、生成・再生成されるものと捉えられなければならない。
 行為者が、社会的相互作用を通じて、他者よりもたらされた「対象」を、自分自身の「解釈の過程」ないしは「自己相互作用」を通じて、自らの行為を導く道具として仕立て上げて行く。このプロセスこそ、ブルーマーの言う「意味付与」(confering of meaning)の過程に他ならない(Blumer,1962=1969a,p.80=1991年、104頁)。いわば、「自己相互作用」とは、人間が、自分自身と世界との関係を確定しようとする営みであると言える。
 こうした、ブルーマーの自己相互作用に関する立論については、これまで、それが個人の社会に規定される側面を看過した議論であるとか(「自己相互作用」論における「社会化」論の欠如)、それは、個人と世界との関係を論じるにあたって、人間の主観(自己相互作用の営み)を強調しすぎた観念論的な発想である、とする批判が寄せられてきた。次節に見る「主観主義」批判がそれに他ならない。そこで次節(第2節)では、まずその批判の内実を明らかにすることにしたい。その上で、その明らかにされた批判に答える形で、続く第3節においては、ブルーマーにおける「社会化」把握が自己相互作用概念との関わりのもとに明らかにされる。そして第4節においては、同じく批判に答える形で、ブルーマーが「個人と世界との関係」を如何なるものと把握していたのか、その内実が自己相互作用概念との関わりのもとに明らかにされる。
 
第2節 ルイスによる主観主義批判−「自己相互作用」論をめぐって−
 かねてより、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対しては、それが「主観主義的」な性格を有したものであるとの批判が寄せられてきている。
 ブルーマーのシンボリック相互作用論の主観主義的な性格を批判する論考は数多い8)。そのなかでも、最も包括的で体系的な批判を行っているのは、J.D.ルイスの論考(Lewis,1976)9)である。
 ルイスは、その「シンボリック相互作用論の始祖としての古典的アメリカのプラグマティスト」(Lewis,1976)と題する論文のなかで、シンボリック相互作用論(なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論)が「主観主義的」(subjectivistic)な性格を有したものであると批判している。彼によれば、「初期プラグマティストたちは、大別してふたつの流派に分けられる。〔そのうちのひとつは〕パースとミードの社会的実在論 (social realism)の立場であり、〔もうひとつは〕ジェームズとデューイの主観主義的名目論(subjective nominalism)の立場である。このうち、シンボリック相互作用論は、本質的に後者(the James-Dewey pragmatism)の延長上に位置するものである」(Lewis,1976=1992,p.138)。さらにルイスによれば、そうした主観主義的な立場を標榜する最たるシンボリック相互作用論者が、ブルーマーに他ならない(Lewis,1976=1992,p.138)。
 ルイスは、ブルーマーのシンボリック相互作用論を「主観主義的」なものであると批判するにあたって、まず彼の理論の思想的源泉を跡づけることから議論を始めている。
 ルイスによれば、確かにミードは、1900年代の初期に、ブルーマーが学んだシカゴ大学社会学科において多大な影響力を持っていたが、同時にそこでは、哲学・心理学・論理学においてJ.デューイが支配的な影響力を及ぼしてもいた。その結果、学生たちには、ミードの思想を、デューイのパースペクティブを通して解釈するという傾向が生じ、そのため、彼ら二人の微妙ではあるが重要な思想的差異が曖昧なものとなってしまったとルイスは言う(Lewis,1976=1992,p.146)。ミードの主著と目されている『精神・自我・社会』(Mead,1934)は、当時の哲学科の学生たちによって編集されたものであるが、これは本来、社会→自我(=「自己」)→精神という順序で論じられなければならないものであるにも関わらず、彼らは精神→自我→社会という順序で論じてしまった。ここにデューイの影響が色濃くあらわれている、とルイスは指摘する(Lewis,1976=1992,pp.146-147)。精神や自我をもとに社会を説明するというやり方は、デューイによって提起された個人主義的・主観主義的社会心理学を想起させるものである、とルイスは論難した上で、その立場をシンボリック相互作用論、なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論は継承したのだとルイスは捉えている。「シンボリック相互作用論者たちは、もともと不十分だった哲学科学生〔のミード理解〕をそのまま残すことになってしまった」とルイスは述べている(Lewis,1976=1992,p.147)。
 では、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、如何なる意味で主観主義的な性格を持つものとされているのであろうか。ルイスの批判するところでは、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「理論」は、人間個人による社会的・物的環境(social and physical environment)に対する定義と解釈とを強調しすぎるものとなってしまっている、と言う (Lewis,1976=1992,pp.147-148)。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人とその社会的・物的環境との関係を決定するのは、その個人の解釈や定義であるとされている(Lewis,1976=1992,p.144,pp.147-148)10)。そう論難した上で、ルイスは、ブルーマーのシンボリック相互作用論の概念的柱石となっている「自己相互作用」(self-interaction)概念に対して、次のように批判している。
 「他からの拘束を受けない自由意思に基づく、独自な特性を持つ個人が、みずからの自由な意思に基づいて、種々の事柄を自分の思うがままに『定義する』(define)。しかもそうした定義を構成する諸要素は、その個人が所属する社会の社会構造から拘束を受けないものとされている」(Lewis,1976=1992,p.148)。
 すなわち、この批判でルイスがとりわけ強調することは、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人は社会化(socialization)されることがない、つまり社会によって形成されることがない存在と捉えられている、ということである(Lewis,1976=1992,p.148,p.149)。ルイスが、一方でデューイの人間観を指し、他方でブルーマーの人間観を指して言う「ジャングルに棲む社会化されざる利己的人間」(an unsocialized calculating man of jungle)という表現が、そのことを端的に示している(Lewis,1976=1992,p.148)。この点が、ルイスによるシンボリック相互作用論(なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論)に対する批判の枢要点であったといって良い。ルイスは自らの論考を以下のように結論づけている。
 「シンボリック相互作用論は、社会のなかでその役割を遂行することはあっても、決して社会の所産(product)にはならないという、ジェームズやデューイの自律的個人像を支持し続けてきた」(Lewis,1976=1992,p.149)11)。
 以上のルイスによる主観主義批判の内容を要約するならば次のようにまとめられよう。すなわち、シンボリック相互作用論、なかでもとりわけ、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人は社会化されない存在と見なされており、しかもそのような個人は、自らの社会的・物的環境を思うがままに解釈・定義し、そうした解釈・定義がその個人と社会的・物的環境との関係を決定するかのごとく捉えられている。
 以下、本章では、ブルーマーが、主として上述のルイスによる主観主義批判に対する反論として執筆したふたつの論文12)を検討することで、ブルーマーにおける「社会化」把握と、「個人と世界との関係」把握を明らかにすることにしたい。
 
第3節 ルイスに対する反論1):自己相互作用と「社会化」
 ブルーマーは、前述のルイスによる自己相互作用概念に関する批判に対して、以下のように反論を試みている。
 「ルイスの批判は、私が行為者としての人間に関して提示した見解に関する非常に馬鹿げたカリカチュアである。というのも、この批判は次の点を無視しているからである。(1)行為者は、自らの展開途中にある行為を、他者たちの進行中の諸行為に適合させなければならないし、その結果として、必然的に、行為者は、それら他者たちの行為から制約を受けることになる。さらに(2)行為者は、自らの状況を定義するに際して、その行為者が他者たちの集団から前もって獲得した定義の諸図式(schemes of definition)によって、その定義を方向付けられている。そして(3)自らの行為を形成するに際して、行為者は、一般化された諸々の役割(generalized roles)によって〔も〕方向付けられており、彼/彼女は、その役割から自分自身に話しかけている。これら〔(1)(2)(3)〕が、私がさまざまな議論のなかで、行為者としての人間によるその人自身の行動の形成に関して詳しく述べたことのすべてである」(Blumer,1977=1992,p.154)。
 以上のブルーマーによる反論において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう(aからeは引用者)。
 1)状況に対する適応としての行為(引用文中の(1))
(a)行為者は、自らの行為を他者たちの諸行為に適合させなければならない。その意味で、行為者による「行為」とは、他者たちに対する「適応」活動のことを意味していると言える。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、「行為」とは、あくまでそれを行う個人による、環境や他者に対する「適応」活動のことを意味しているのであって、個人による他者や既存の社会に対する反抗や対抗を目的としてなされているもの(船津、1976年、1−30頁;田中、1971年、331頁)、と捉えられているわけではない。なお、ここで適応活動とは、決して環境に対する順応を意味するものではない、ということをあわせて指摘しておきたい。ブルーマーは、別の文献において、「適応」 (adjust,fit)を、環境に対する順応としてではなく、 その環境の「理解」 (understanding)と「コントロール」(control)ないしは「問題解決活動」(recurring difficulties)と捉えている(Blumer,1931;1980,pp.415-416)13)。ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「行為」とは「適応」活動のことを意味している。この点に関してブルーマーは、1969年以前の文献においても、行為者が、他者たちの諸行為によって形成されつつある状況に、自らの解釈枠組みが適合しているかどうか、さらには、そうした解釈枠組みに沿ってなされている自らの活動も、その状況に適合しているかどうか、絶えず判断しなければならない存在であることを論じている(Blumer,1966=1969a,p.66=1991年、85頁)。
 2)適応における諸感情の抑制
(b)その際行為者は、他者たちの行為から制約を受けることになる。というのも、行為者による行為が、他者たちに対する「適応」活動である限り、そうした行為は、その行為者による勝手気ままな活動であってはならないからである。この点に関してブルーマーは、1969年以前の文献において、行為者は、他者に対して行為を行うに際しては、自らの感情を調整(ないしは抑制)しなければならない存在であることを認めている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。
 「最後にもうひとつ、人間の相互作用のひとつの側面を指摘しておこう。すなわち、参与者たちは、必然的に、自己の行為への性向(tendency to act)のいくつかを抑制する必要にかられる、ということである。個々人は、自分の好み(inclinations)、衝動(impulses)、望み(wishes)、そして感情(feelings)などを、自分が何を考慮に入れ、それをどのように判断ないしは解釈するか、ということに照らして、抑制しなければならないことになる」(Blumer,1953=1969a,p.111=1991年、144−145頁)。
 さらに、「もし誰もが自分勝手に自らの性向や態度を表出していたならば、人間の社会生活は無政府状態に陥ってしまう。そこには社会学者が研究するべき如何なる人間の集団生活も存在しなくなってしまう」とも述べている(Blumer,1955=1969a,p.97=1991年、126頁)。
 なお、こうしたブルーマーの説明からしても、かつてメルツァーらが特徴づけた、衝動によって引き起こされる人間の行為、というブルーマーのシンボリック相互作用論における「行為」に対する彼らの捉え方が、妥当性を欠くことがわかる14)。
 3)状況の定義と「定義の諸図式」(引用文中の(2))
(c)また行為者は、その他者たち(の諸行為)に対して行為を行うに先立って、その状況を定義しなければならないが、そうした定義は「定義の諸図式」(schemes of definition)によって方向付けられている。後に見るように(次節)、「定義の諸図式」とは、ブルーマーにおいては、「パースペクティブ」(ものの見方)(perspective)と同義の概念として扱われている。
(d)そうした定義の諸図式は、その行為者が他者たちの集団より前もって獲得しているものである。
 4)自己相互作用と「一般化された諸々の役割」(引用文中の(3)) 
(e)さらに、行為者による、そうした定義の諸図式を活用した状況の定義、ならびにその結果としての行為形成に際しては、その行為者は、「一般化された諸々の役割」(generalized roles)によっても方向付けられている。では、「一般化された諸々の役割」とは如何なるものを指しているのか。そのことについて、以下、詳しく論じておくことにしよう。
 この言明は、ブルーマーの自己相互作用概念と密接なかかわりを持っている。そこで、彼の自己相互作用概念について、ここで再度詳しく論じておくこととしよう。
 ブルーマーによれば、人間は、「自己」(self)を有することによってのみ、「自己相互作用」を行うことが(すなわち事柄の意味を「解釈の過程」を通じて処理し、「意味付与」を行うことが)出来るようになる。換言するならば、人間が自己相互作用を行うためには、それに先だって人間は、まず自己を有していなければならないことになる(Blumer,1969b,p.12=1991年、15頁)。
 では、そもそも人間が「自己」を持つとは、如何なることを意味するのであろうか。ブルーマーによれば、「このことが意味しているのは、人間は自分自身の行為にとってのひとつの対象となり得る、ということに過ぎない」(Blumer,1969b,p.12=1991年、15頁)。では、如何にして人間は、自分自身を自らの行為にとっての「対象」(object)とし得るのであろうか。ここで先に議論した、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提を想起されたい。そこでは、ある個人にとっての対象とは、その個人と相互作用を行っている他者たちが、その個人の面前で、対象となる事柄に対して行う行為のやり方から生じるものとされていた。ブルーマーによれば、ある個人にとっての自分自身という対象もまた、同様の形式で生じるものと捉えられる。そのことについてブルーマーは次のように述べている。
 「ひとつの対象としての自分自身という考え方は、対象に関するこれまでの議論とも適合する。〔すなわち〕他のあらゆる対象と同様に、ある人間にとっての自分自身という対象もまた、そこにおいて他者たちが、その人間をその人自身に対して定義している社会的相互作用の過程から生じてくるものである」(Blumer,1969b,p.12=1991年、16頁)。
 上記の引用に見る、こうしたブルーマーによる「自己」発生論を例示するに際して、以下の引用が示唆的である。
 「ある大学院生の集団が、ある社会心理学のゼミで、相互作用論のアプローチが提示する諸概念に関心を持つようになった。ある夜、ゼミのあと、そのなかのうち5人の男子学生が、その理論が提示する諸見解のいくつかについて議論をしていて、次のような状況を〔自分たちで〕作り出せるのではないかという結論に至った。すなわち、そこにおいて『他者たち』(others)がある人間に対して行う彼らの諸反応を、〔その他者たち自身が〕体系的に操作し、そうすることにより、その人間の自己観を変化させ、そしてその結果として、その人間の振る舞いをも変化させる、そうした状況を作れはしないかという結論に至った。そこで彼らは、自分たちが議論している諸概念を検証するある実験を考えついた。彼らは被験者(かも)としてゼミに所属するある女学生を選んだ。被験者は、どう見ても、せいぜいごく平凡な女の子といった感じの子で、どこにでもいそうな女子大学院生というステレオタイプ(たいてい間違っているのだが)にぴったりあてはまるような学生であった。男子学生の計画とは、まずはじめに、仲間全員でいっせいにその女性に対して、あたかもその女性がキャンパス一の美女であるかのように振る舞う、というものであった。彼らは、自分たちの目論見が彼女に気づかれないようにするために、ごく自然な振る舞いをしようということで同意した。誰が彼女と最初にデートをするか、彼らはそれをくじ引きで決めた。負けた者は、仲間から来るプレッシャーのなか、彼女をデートに誘い出さなければならない。彼は非常に不愉快と思いつつも、持ち前の演技力で『彼女は美人だ、彼女は美人だ・・・・〔中略は原著者によるもの〕』と絶えず自分に言い聞かせながら、その夜のデートをこなした。取り決めにしたがい、今度は次の学生の番となり、同様にデートが実行された。すべてのデートにおいて、彼らは、その女性に対して同様の振る舞い方をした。こうした実験が行われるなかで、数週間して早くも成果があらわれた。最初は、単に彼女が、自分の外見に気を使い始めた、というぐらいの問題であった。彼女は頻繁に自分の髪に櫛をいれ、彼女の服は以前にも増してきちんとアイロンがけがなされていた。とはいえそれからまもなくして、彼女は美容院に通い始め、ヘアスタイルを整えたり、苦労して稼いだお金を、キャンパスにおいて女性の間で流行っている最新のファッションを揃えることにつぎ込み始めたりした。四番目の学生にその女性とのデートの番が回ってくる頃には、かつては出来ればやりたくなかったこのデートが、今や楽しい仕事となっていた。そしていよいよ最後の学生の番になって、彼が計画通りに彼女を誘い出した時、彼は、彼女から自分が将来のために目下猛勉強しているところだということを聞かされた〔つまりデートを断られたのである〕。彼女のまわりには、どうやら、彼ら男子学生たちのような『平凡な』大学院生よりも、もっと魅力ある男たちがいるようである」(Kinch,1963,pp.482-483)。
 上記のこの引用が示唆しているのは、「他者たち」(ここでは男子学生たち)が、その女性の面前で、その女性に関して、その女性本人に対して行い続けた行為のやり方から、その女性にとっての新たな「自分自身という対象」(=「自己」)が形成された、という事実である。換言するならば、他者たちによるその女性に関するその女性に対する定義活動を、その彼女自身が内在化して行くプロセスを、この引用は明らかにしている(Charon,1989,p.79)。上記の例にも見るように、まさしく自分自身という対象もまた、他者たちがその本人に関して、その本人に対して行う行為のやり方から生まれてくるもの、と捉えられる。
 他者たちによるある個人に対する定義活動を、その個人が内在化させ、その個人が自分自身に対して定義活動を行う。この内在化された定義活動こそ、「自分自身との相互作用」すなわち「自己相互作用」の内実に他ならない。先に本章第1節で明らかになったように、自己相互作用とは、他者との間で執り行われている社会的相互作用を、個人の内に内在化させたものと捉えられていた。すなわち、他者との間で行う社会的相互作用を、その個人が自分自身と行うのが、自己相互作用である。上記、ブルーマーによるルイスに対する反論の(c)においては、行為者は、他者に対して行為を行う(ないしは他者と社会的相互作用を営む)に際しては、「定義の諸図式」という図式によって方向付けられていることが明らかにされた。ということは、そのような他者との相互作用が個人の内に内在化されたものとしての自分自身との相互作用(=自己相互作用)においても、その行為者は、何らかの図式によって方向付けられているに違いないものと捉えられる。そうした自己相互作用において、その行為者を方向付けている図式が、上記の「一般化された諸々の役割」に他ならない。逆に言うならば、この「一般化された諸々の役割」なくしては、そもそもその個人は、自己相互作用を行うことすら出来ないのである。なお付言するならば、上述の(d)同様、この図式もまた、その行為者が、前もって他者たちの集団より獲得したものであることは言うまでもない(Blumer,1969b,pp.12-13=1991年、16頁)。ブルーマーによれば、この「一般化された諸々の役割」とは、より具体的には、「他者がそれにより自分〔という対象〕を見たり定義したりする方法」(the way in which others see or define us)のことを意味している。この「役割」を、ブルーマーは、1)「具体的な諸個人の役割」(role of discrete individuals)、2)「具体的な組織化された諸集団の役割」(role of discrete organized groups)、3)「抽象化されたコミュニティの役割」(role of the abstract community)の三つに大別している。なお、ブルーマーは、ミードの「役割取得」(role taking)の議論をもとに、1)の「役割」を「プレイの段階」(play stage)において、2)の「役割」を「ゲームの段階」(game stage)において、3)の「役割」を「一般化された他者」(generalized other)の段階において獲得されるとしている(Blumer,1969b,p.13=1991年、16頁)。すなわち、人間が、自分自身という対象を形成してゆくプロセスを、時系列的に大別したものが、この三つの「段階」に他ならない15)。
 
 ルイスによる主観主義批判との関わりで見るならば、以上の(a)から(e)において、われわれが注目したいのは、(c)(d)(e)である。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、行為者は、他者に対して行為(ないしは他者と相互作用)するときであれ、自分自身に対して行為(ないしは自分自身と相互作用)するときであれ、ともあれ行為(相互作用)するに際してはいつでも、その行為者が他者たちの集団より前もって獲得したこれらふたつの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)によって方向付けられている存在と捉えられているわけである。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対する主観主義批判のうち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、個人は社会化されない存在と見なされており、しかもそのような個人は、自らの社会的・物的環境を思うがままに解釈・定義するものと見なされている、という点については、それがブルーマーのシンボリック相互作用論に対する批判としては妥当なものではないことが明らかになったと思われる。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、行為者は、自ら如上の二つの図式を獲得し、自己の社会的・物的環境に対する解釈・定義を、その図式に方向付けられる、という形で「社会化」される(というよりも自ら社会的存在となる)ものと捉えられているわけである。とはいえ、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、行為者によるそうした解釈・定義が、その個人と社会的・物的環境との関係を決定するかのごとく捉えられている、とする批判に対しては十分な回答を提示し得たとは言いがたい。そこで次節では、従来のわが国におけるブルーマーのシンボリック相互作用論に関する諸研究においては、その分析枠組みに対して持つ重要性が看過されてきたと思われる「語り返し」(talk back)概念16)に目を向け、この後者の批判の妥当性の如何を問うこととしたい。
 
第4節 ルイスに対する反論2):自己相互作用と「語り返し」
 先に本論第1節で確認したように、ブルーマーの三つの基本的前提を検討する限り、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「個人と世界との関係」は、個人の自己相互作用を通じた解釈・定義によって定められるものと捉えられていた。とはいえ、ブルーマーにおいては、そうした解釈・定義は、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という、二つの図式に方向付けられる形で成されているものと捉えられていたことを忘れてはならない(本章前節での議論)。ところで、ブルーマーは、他方で、同じく一個人であるはずの研究者と世界(経験的世界)との関係については、こうした立論を行ってはいない。
 ブルーマーは、1969年の主著『シンボリック相互作用論』のなかで描いた、「研究者と経験的世界との関係」を、それ以降に書かれた論文(Blumer,1993)においてさらに洗練させ(Athens,1993,p.159)、以下のように簡潔に要約している。
 「経験的世界とは、必然的に、外的領域に存在する世界(world out there)、すなわち、研究者の外側に存在する世界のことである。こうした世界が有する頑固な性格(obdurate character)ということで意味されているのは、この世界が、研究者が有するその世界に関する種々の前提や専断に対して抵抗する(resist)ことが出来るということである。この意味で、経験的世界は、科学者がそれに関して抱いている種々の主張に対して語り返しする(talk back)ことが出来ると言える。したがって、研究者は、自らが誤った前提や重大な思い違いに立脚して研究を進めていないことを確証する(insure)ために、自らの前提や専断を絶えずこの経験的世界に照らして点検し(check)なければならない」(Blumer,1993,p.164)。
 上述のブルーマーによる説明を見ると、「研究者と経験的世界との関係」は、研究者によるその世界に対する一方的な意味付け(解釈・定義)次第で決定されるものとは見なされていない。この説明によれば、確かに経験的世界は、一方で研究者による意味付けないしは解釈の適用を受けるものの、他方でそうした意味付けや適用された解釈に対して抵抗ないしは「語り返し」(talk back)するものと見なされている。しかも研究者は、そうした抵抗ないしは語り返しを手がかりとして、自らの意味付けないしは適用した解釈の妥当性の如何を知ることが出来るとしている。
 すなわち、ブルーマーは、一方で、個人と世界との関係を、個人の世界に対する解釈・定義によって定められるものと捉えているのに対して、他方で、同じく一個人であるはずの研究者と世界(経験的世界)との関係については、そうした捉え方を行っていない。すなわち、研究者と世界との関係は、研究者の世界に対する解釈・定義によって一方的に定められるのではなく、研究者の世界に対する解釈・定義と、その解釈・定義に対する世界からの「語り返し」との相互作用のなかで定められるものとされている。この二つの「関係」把握の矛盾を指摘したのが、マックフェイルとレックスロートの批判であった。
 マックフェイルとレックスロート(McPhail,C.,and Rexroat,C.)によれば、ブルーマーが分析枠組みの文脈において想定している「行為者と世界との関係」と研究手法の文脈において想定している「研究者と経験的世界との関係」との間にはパラドックスが生じているという。彼らによれば、ブルーマーは、一方で研究手法の文脈においては、研究者が直面している世界、すなわち「経験的世界」(empirical world)は、研究者のその世界に対する意味付けや認識に対して「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk back)することが出来ると述べ、他方で分析枠組みの文脈においては、行為者が直面している世界、すなわち「対象」(object)からのみなる「世界」(world)(より正確には、その元となる社会的・物的環境)は、その行為者のその世界(社会的・物的環境)に対する意味付けや認識次第で、(その行為者にとっての)特性ないしは性格が決定されてしまうものと捉えられているという(McPhail and Rexroat,1979,p.457,p.459)。
 ブルーマーが描いた「研究者と経験的世界との関係」に関する知見を、ブルーマー自身が、本論前節までに見た「個人と世界との関係」に組み込んだのが、以下に述べる存在論に関する四つのテーゼに他ならない。
 上述のマックフェイルらの批判と、先に見たルイスによる批判の二つの批判にこたえる形で、ブルーマーは、シンボリック相互作用論の存在論的前提を以下の四つのテーゼにまとめている(Blumer,1980,p.410)。
 
 1)人間にとって現実の世界(world of reality)とは、『外的領域に』(out there)存在し、それは人間に対峙し(stand over against)、人間のその世界への行為に対して抵抗する(resist)可能性を持っている。
 2)こうした現実の世界は、人間によって、知覚される(perceive)という形式においてのみ知られるようになる。
 3)したがって、人間がその現実に対する知覚を発展させるにしたがって、その〔人間が把握する〕現実も変化することとなる。
 4)その世界からの、その知覚に対する抵抗は、その知覚の〔妥当性の如何を確かめる〕試金石(test)となる。
 
 まず、この四つのテーゼで問題となるのは、第三のテーゼである。ここは本来、われわれによる訳の補足を除くならば、「したがって、人間がその現実に対する知覚を発展させるにしたがって、その現実も変化することとなる」というテーゼであった。とはいえ、こうしたブルーマーのテーゼは「複数の存在論的な主張の矛盾した並置」(an inconsistent juxtaposition of ontological claims)である、とある論者は批判している(Baugh,1990,p.59)。すなわち彼は、「知覚を変化させるに伴って変化する現実とは、人間によって経験された世界〔=人間が把握する現実〕であって、その世界それ自体ではない」と批判している(Baugh,1990,p.60)。つまり、ブルーマーのこの第三のテーゼには、現実そのものと、人間によって把握された現実の二つが、明確に区別されずに混在する形で述べられている、と彼は批判している。われわれも、これはブルーマーによる説明不足ではないかと推測している。すなわち、ブルーマー本来の意図としては、この第三のテーゼにおける「現実」とは、人間が把握した現実を意味していたのではないかと考えている。その論拠となるのが、ブルーマーが1979年4月17日に、I.ドイッチャー(Deutscher,Irwin)に宛てた、次の手紙の内容である(quoted in Morrione,1988,p.8)。
 「ミードは、その哲学的立場においてプラグマティストであったし、私もまたそうである。私は、自分が実在論か観念論かという二分法の何れかに押し込まれるとき、大変不快な気分になる。プラグマティズムは、実在論や観念論とは異なる第三のパースペクティブとして展開してきたものであった。伝統的な区別立ては単純なものである。実在論が断言するところによれば、世界というものは、永遠に固定化された種々の対象から構成されており、それはただ単に発見されるのを待つばかりである。他方、観念論が断言するところによれば、実在論とは異なり、世界というものは、観念という形式においてのみ存在し、それは意識の流れの中に位置づけられるものである。一方、プラグマティズムが断言するところによれば、現実の世界(real world)は『外的領域に』(out there)存在するが、そうした世界は、人間がそれを描写するそのやり方(way)を通してのみ、その人間によって知られるようになる。ここで人間とは、この世界との経験を通じて、その描写(depiction)を変化させることが出来る能力を持った存在を指す」。
 この手紙において、変化するとされているのは、その(現実の)世界そのものではなく、その世界に関するその人間の「描写」(=人間が把握した現実)であるとされているところに注目されたい。
 ブルーマーによれば、上記の四つのテーゼが意味することは、一方で、観念論(idealism)の立場とは異なり、人間によって全く知覚されないかもしれないし、知覚されたとしても不正確にしか知覚されないかもしれない「現実の世界」が存在すると認めているということであり、他方で、実在論(realism)の立場とは異なり、この世界が人間にとって如何なる特性を持つのかは、その世界に本来的に備わっている(intrinsic)のではなく、それを人間が如何に知覚するか次第で決まるということを認めている、というこの二点である (Blumer,1980、p.410)。したがって、ブルーマーにおいては、「現実の世界」というものは、一方で人々の外側に存在するもの(lodged outside of people)と見なされ、他方でそれが人間にとって如何なる特性(character,quality)を持つのかは、それがその人によって如何に知覚されるかによるものと見なされていることになる。ブルーマーはそのことについて以下のように述べている。
 「ミードがよく言っていたように、水平線上に見られている山の連なりは、〔それを見る観察者にとっては〕水平線上に存在するのであって、観察者の頭上に存在しているわけではない。さらに、この山の連なりは、それを見る人間が異なれば、その呈する現実も異なり得る。ある人にとっては、それは山の向こう側にある地域への接近を妨げる岩の障壁になり得るし、またある人によっては、太古の地球で起きた大規模な地殻のねじれのために生じた地層として見られる可能性がある。またある人によっては、貴重な鉱物の源泉として、さらには一群のエルブ〔=鹿の一種〕の住処として見られる可能性がある。巨大な岩の障壁として見られようと、地層として見られようと、鉱物の貯蔵庫として見られようと、またエルブの住処として見られようと、その山の連なりは依然として『世界として外的領域に存在するもの』(out there in the world)なのである。とはいえ、その連なりが、それを知覚する人間にとって持つ特性(character,quality)は、それが彼らによって如何に知覚されるか次第であり、換言すれば、彼らがそれに対してどのように働きかけようとしているか次第なのである」(Blumer,1977=1992,pp.154-155)。
 このように、ブルーマーの分析枠組みにおいては、「現実の世界」が人間にとって持つ特性とは、あくまでその人間の知覚の如何によって設定されるものと捉えられている。
 ブルーマーによれば、人間の知覚活動は、ある一定の「パースペクティブ」( perspective)にしたがってなされている。「知覚」の如何は、この「パースペクティブ」次第で決まる。またここで「パースペクティブ」とは、ブルーマーにおいては、ある一定のものの見方、ないしは先に触れた「定義の諸図式」と同義であると考えて差し支えない17)。すなわち、換言するならば、人間が現実の世界を知覚する際に用いるパースペクティブが、その世界が人間にとって有する特性の如何を定めるのだと言える。そのことについてブルーマーは以下のように述べている。
 「パースペクティブなしには、『外的領域にある』(out there)その世界は、如何なる特定の表現形式も持ち得ない。折に触れてミードが言っていたように、あらゆるパースペクティブから解き放たれた外的領域にある世界は、『特性なき素材』(neutral stuff)にすぎない。パースペクティブが、その世界にその表現形式や特性を与えるのである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 この「パースペクティブ」という概念について、ブルーマーは三点指摘している。
 まず第一に、このパースペクティブは、社会的に形成・再形成されるものである。ブルーマーによれば、「ミードはパースペクティブを、それが社会的に形成されるものと見ていた。すなわち、パースペクティブは、そこにおいて、参与者たちが互いに相手に対して種々の事柄を定義し合う社会的相互作用の過程を通じて発展するものと見ていたのである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 第二に、このパースペクティブは、それがまさに、「『外的領域にある』もの」(something“out there”)に向けられているが故に、「客観的」(objective)な性質を持っていると言う(Blumer,1977=1992,p.155)。この「客観的」というタームは、ブルーマーによれば「パースペクティブによって言及されている事柄を、公的な吟味(public examination)にかけることが、理論上可能であるという意味において」用いられている(Blumer,1977=1992,p.155)。ブルーマーによれば「ミードが『客観性』(objectivity)を、〔人々によって〕表示されている事柄への分有された接近可能性(shared accessibility)に求めていたことは明らかである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 第三に、「これが〔上述の客観性の定義が〕ミードに、それによってパースペクティブの妥当性を確定することが出来る手段を提供した」とブルーマーは述べている(Blumer,1977=1992,p.155)。この言説が意味することは、誰しもその表示されている事柄を吟味し、その事柄が、実際にある特定のパースペクティブを持つ者(ないしは者たち)によって主張されているような性格ないしは特性を、本当に持っているのかどうかを確かめることが出来るということなのである(Blumer,1977=1992,p.155)。
 ブルーマーによれば、ある一定のパースペクティブにしたがって知覚された現実の世界のある一定の部分が、その人間にとっての「対象」(object)に相当する(Blumer,1977=1992,p.154)。すなわち、先の山の連なりの例において述べられた巨大な岩の障壁地層鉱物の貯蔵庫エルブの住処の各々は、人間がある一定のパースペクティブにより切り取った「対象」である(ブルーマーのシンボリック相互作用論において「意味」(meaning)とは、ある一定のパースペクティブによって、ある個人に捉えられた、現実の世界のある一定の部分の現れ方であると言える)。換言するならば、「知覚」するとは、その人間が自らにとっての「対象」を形成する営みに他ならず(すなわち「意味付与」の行程を意味し)、その結果として、その人間にとっての「世界」(world)が形づくられることは、もはや言うまでもない。また先の山の連なりの例にも述べられていたように、そこで形成される「対象」の如何によって、その人間の「対象」(となる現実の世界のある一定の部分)に対する行為の様式が定められることとなる。
 以上ここまでの議論を要約するならば、それは次のように捉えられよう。すなわち、人間とは、一方で、「現実の世界」(「事柄」(thing)からなる領域)に取り囲まれた存在である。とはいえ他方で、人間は、そうした世界(のある一定の部分)を、ある一定のパースペクティブにより切り取り、その結果として形成した「対象」からのみなる「世界」 (world)のなかに住んでいる存在でもある、と18)。
 人間は、いわば、「特性なき素材」としての現実の世界を加工し、そこから自分自身にとっての「対象」なり「世界」(world)を形成する。とはいえ、先に山の連なりの例においても述べられていたように、人間によってある一定の「対象」や「世界」として加工されようとも、他方で現実の世界は、依然として「世界として外的領域に存在するもの」であり続ける。以下では、この言明が含意する内容について検討して行くこととしよう。
 先のシンボリック相互作用論の存在論に関する四つのテーゼにも述べられていたように、人間は自らを取り巻く現実の世界を「知覚」することによってしか知ることが出来ない。したがって、何かを知るとは、その何かを「対象」として加工することを意味することになる。換言するならば、知るとは、ある一定のパースペクティブによって、その何かを色づけ加工することを意味していることとなる。逆に言うならば、それ故人間には、あらゆるパースペクティブから解き放たれた現実の世界それ自体のありのままの姿(=「特性なき素材」)を把握することなど不可能なことと捉えられなければならないこととなる。この点について、先にわれわれは、ブルーマーの見解を以下のように要約しておいた。
 「人間は、如何に努力しようとも、自らを取り巻く世界・・・・に関して、徹頭徹尾主観を排して、そのありのままの姿を知ることなど決して出来ない。なぜなら、人間はそうした世界を、ある一定の『パースペクティブ』(perspective)を通してしか見ることができず、それゆえ、必然的に、人間に知られる世界とは、その人のパースペクティブによって色づけられ切り取られたものとなってしまうからである。したがって、人間が把握する世界とは、あくまで、それを見る人間が、自らのパースペクティブ、ないしは認識枠組によって捉えた、そうした世界の一側面にすぎず・・・・、決してその世界全体のありのままの姿・・・・ではあり得ないのである」(桑原、1998年、153頁)19)。
 以上のように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、人間にとって、現実の世界とは、決してそのありのままの姿を把握し得ない存在と捉えられている。それ故にであろう、ブルーマーも言うように、現実の世界には、いつでも「人間によって全く知覚されないかもしれないし、知覚されたとしても不正確にしか知覚されないかもしれない」という性質がつきまとい続けることとなる。
 では、人間は、自分自身の知覚の妥当性の如何をどのようにして知ることが出来るのであろうか。先に存在論に関する四つのテーゼにおいては、人間による知覚の試金石として、現実の世界からの「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk back)が挙げられていた。現実の世界には、人間の知覚に対して、より正確には、その知覚に基づいた人間の行為に対して、抵抗するという性質がある。また人間はそうした抵抗を試金石として、自分自身の知覚の妥当性の如何を確証することが出来る。このようにブルーマーは述べていた。
 では、ブルーマーの言う「抵抗」ないしは「語り返し」とは一体何を意味するのであろうか。われわれの理解では、人間のある一定の認識に対する「例外的実例」(exceptional instance)の発生を意味している。ブルーマーは、ミードの知見を援用し20)、以下のように述べている。
 「ミードにとって『普遍的なるもの』(universal)とは、共通の意味(common meaning)、すなわち、人々が何かを表示する際に、その人々によって分有されているものを指している。したがって、如何なる対象であっても、それが共通の意味を持つ場合・・・・その対象は『普遍的なるもの』を構成する。・・・・山の連なりの例を持ってくるならば、〔先の〕四つの表示(岩の障壁、地層、鉱物の宝庫、エルブの住処)の各々が『普遍的なるもの』を構成している。こうした簡単な例示に照らした場合、『普遍的なるもの』は、如何なる意味においても、科学者集団のパースペクティブをそれ以外の集団のパースペクティブから区別しはしない。したがって、その山の連なりはエルブの住処であるという主張は、それが地層であるという主張と同様に『普遍的なるもの』を構成する。・・・・『例外的実例』とは、既存の普遍的なるものの外側に位置するものであり、それはその普遍的なるものに挑み、その普遍的なるものを作り直すための手段を提供するもの〔であった〕・・・・『例外的実例』がもつこうした役割を理解することなしに、ミードが如何なる意味において、普遍的なるものと現実との関係を取り扱っていたかに関して、有意義な説明をすることは出来ない」(Blumer,1977=1992,p.156)。
 マリオーネによれば、この「例外的実例」という概念は、ブルーマーの分析枠組みにおいては、既存の「普遍的なるもの」(=「一般化」(generalization))に対する「否定的実例」(negative case)と同義で用いられ、それは、人間が有する既存の一般化を洗練・改良するために、その人間によって利用される手段と捉えられている21)。事実マリオーネによるこうした説明は、上述のブルーマーからの引用によって裏付けられていると言える。
 ブルーマーは、その後の論考において、この「例外的実例」の内実を、ある行為者に対する「新たな事柄」(new thing)の出現と、既存の事柄に対して「新たな解釈を適用する個人」(individual applying new interpretation)の出現の二種類に大別している(Blumer,1993,p.171)。この二つの「例外的実例」を例示する素材として、学説研究という営みを例に取ってみよう。たとえば、ブルーマーを研究しているある社会学者が、それまで、その研究領域においては発見されていなかったブルーマーの未公刊資料を発掘し、それを学会に報告したとする。この場合、その未公刊資料の存在は、学会(学界)にとっての「新たな事柄」の出現となる。他方で、その領域において、それまで「彼の主著『シンボリック相互作用論』を読む限り、彼は主観主義者である」と捉えられてきた『シンボリック相互作用論』というその文献に対して、ある別の学者が同一の文献を「このように解釈すれば、ブルーマーは主観主義者であるとは言えない」とする説を打ち出したとする。この場合、その学者の存在は、その学会(学界)において、既存の事柄に対して「新たな解釈を適用する個人」の出現となる。
 以上、本節における、ここまでの議論で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みにおいては、個人による解釈・定義が、その個人とその社会的・物的環境との関係を決定するかのごとく考えられている、とするルイス批判の後半部の指摘が、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対する批判として妥当でないことが明らかにされたと思われる。すなわち、人間は、自らの社会的・物的環境を解釈・定義し、その社会的・物的環境との間に、ある一定の関係を取り結ぶものの、そうした関係はそこで決定されるものと見なされているわけではない。というのも、人間によって解釈・定義される社会的・物的環境とは、「現実の世界」であり、それ故、いつでもそうした解釈や定義に「抵抗」ないしは「語り返し」する(=「例外的実例」を呈示する)可能性がある、という性質を持っているからである。では、何故にいつでもなのであろうか。何故なら、人間が対峙している社会的・物的環境、すなわち現実の世界とは、その人間がそれを如何なる「対象」に作り替えようとも、依然として「世界として外的領域に存在するもの」(out there in the world)であり続けるからであり、それ故、人間がそれを如何に正確に知覚しようとも、「全く知覚されないかも知れないし」、「知覚されたとしても不正確にしか知覚されないかも知れない」という性質を持ち続けるからである。またまさに、こうした「抵抗」ないしは「語り返し」を契機として、人間は自らの解釈や定義の妥当性の如何を知ることが出来22)、既存の解釈や定義を洗練・改良することになる。またその結果として、必然的に、人間と社会的・物的環境との関係は再構成されることになる。
 本節で焦点を当てた「抵抗」ないしは「語り返し」という知見は、ブルーマーに対して寄せられてきた主観主義批判を論駁する上で、非常に重要な知見であると思われる。たとえば前出のマリオーネも、この知見を援用して、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対して寄せられてきた主観主義批判を論駁しようとしている。マリオーネは、ブルーマーを「ミードの主観主義的解釈者」(subjectivistic interpreter of Mead)であると批判するワーシェイら(Warshay and Warshay,1986)に対して、上述の「抵抗」概念を用いて以下のように反論している。
 マリオーネによれば、ブルーマーはミード同様に観念論者(=主観主義者)ではない。ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「状況」(situation)とは、「二重の特性」(dual character)をもつものと捉えられている。すなわち、ブルーマーにおいて「状況」とは、行為者によって定義される一方で、そうした定義から離れて存在し(exist apart)、その行為者に「抵抗する」(resist)ことが出来る存在と捉えられている。マリオーネは、このようにブルーマーの立場を説明した上で、「ブルーマーを『主観主義者』と呼ぶ者(Warshay and Warshay,1986)は上述の点を無視している」とワーシェイらを糾弾している(Morrione,1988,p.7)。
 以上の議論からもわかるように、「抵抗」ないしは「語り返し」という知見は、ブルーマーのシンボリック相互作用論に対して寄せられてきた主観主義批判を論駁する上で、非常に重要な知見であると言えよう23)。
 
第5節 自己相互作用と行為
 
1)構成・再構成されるものとしての個人と世界との関係
 以上、ここまでの議論より得た知見を整理することにしよう。
 まず前提として、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、人間と社会的・物的環境との関係は、その人間による解釈・定義を通じて定められるものと捉えられていた。また、シンボリック相互作用論の第一の基本的前提を踏まえるならば、そこでなされた解釈・定義(「意味」)に基づいて、人間はその環境に対して行為するのであり、逆に言うならば、そうした解釈・定義によって、その人間の環境に対する行為のやり方が定められることとなる。またその行為とは、言うなれば、それを行う人間が、自分自身が対峙している環境に対して行う「適応」活動に他ならないということは、ブルーマーのルイスに対する反論を検討するなかで明らかにされた。なお付言するならば、そうした人間による解釈や定義という営みは、フリーハンドになされているものではなく、その人間が、他者たちの集団から前もって獲得した「定義の諸図式」(=「パースペクティブ」)に沿ってなされている、とブルーマーにおいては捉えられていた24)。なお、シンボリック相互作用論の第三の基本的前提を踏まえるならば、そうした定義の諸図式は、その人間が執り行う「自己相互作用」ないしは「自分自身との相互作用」を通じて、操作されたり修正されたりするわけであるが、そうした自己相互作用という営みもまた、ルイスに対するブルーマーの反論のなかで見たように、ブルーマーにおいては、その人間が同じく他者たちの集団より前もって獲得した「一般化された諸々の役割」という図式に方向付けられる形で行われているものと捉えられていた。では、如何なる形式により、それらふたつの図式が個人に獲得されるのであろうか。それを説明するのが、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提に他ならない。そこでは、ある個人にとっての「対象」(object)とは、その個人が相互作用を行っている他者たちが、その個人に対して、その対象となる「事柄」(thing)との関連において行為する、そのやり方から生じるものとされていた。「対象」とは、人間が、「パースペクティブ」(=「定義の諸図式」)にしたがって知覚したものである、とブルーマーがルイスに対する反論のなかで述べていたことを考慮に入れるならば、ある個人にとっての「対象」が生じるということは、その個人が「対象」(となる事柄)を知覚するための「定義の諸図式」を手に入れることと等価なことであると考えても間違いではないであろう。ブルーマーにおいては、自分自身という「対象」もまた、同様の形式において形成される、とされていたことを考慮に入れるならば、「一般化された諸々の役割」という図式の獲得メカニズムもまた、上記の定義の諸図式の獲得メカニズムと同様に、シンボリック相互作用論の第二の基本的前提により説明され得るものと捉えられる。すなわち、「一般化された諸々の役割」という図式もまた、自分自身という「対象」を形成するための、「パースペクティブ」(ものの見方)のひとつに他ならないのである。
 いわば人間は、こうしたふたつの図式に方向付けられる形で、その社会的・物的環境を解釈・定義し、その結果として、その環境との間にある一定の関係を取り結ぶ。これが、ブルーマーにおける自己相互作用を通じた「意味付与」という営みに他ならない。とはいえ、そうした関係は不動のものとしてそこで永遠に確定されるわけではない。というのも、人間が直面している社会的・物的環境とは、人間によって解釈・定義される一方で(すなわち「対象」からのみなる「世界」(world)として形成される一方で)、そうした人間による解釈や定義に対して、いつでも「語り返し」する可能性を持った「現実の世界」でもあったからである。人間はそうした語り返しを契機として、自らの解釈・定義の妥当性の如何を知ることになり、その結果として既存の解釈や定義を修正することになる。またその結果として、その人間と社会的・物的環境との関係は再構成されることとなる。これが本章前節までの議論より得られた知見の概要である。
 以上の議論より次のことが結論づけられる。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論の分析枠組みにおいては、人間と社会的・物的環境との関係は、人間による環境に対する解釈・定義(自己相互作用を通じた環境に対する意味付与)と、環境からそうした解釈・定義に対して発せられる語り返しとの絶え間ない相互作用のなかで構成・再構成されるものと捉えられていることとなる25)。
 
2)構成・再構成されるものとしての行為
 以上明らかにされた、人間と社会的・物的環境との絶え間ない相互作用の内実を踏まえた上で、では「行為」(act,action)とは、如何なるものと捉えられるのか。以下、そのことについて議論したい。このことを解明する上で、ブルーマーが後の論考(Blumer,1993)において提示した、ミードの「個人的行為」(individual act)に関する説明が示唆的である。
 ブルーマーによれば、ミードは、人間の個人的行為の分析に際して、その基礎的な四つの段階を明らかにしたという。それは「衝動(impulse)、知覚(perception)、操作(manipulation)、そして完結(consumation)」の四つである(Blumer,1993,p.188)。
 まず「衝動」の段階とは、個人的行為の最初の段階であり、それは「触発された有機体〔=人間行為者〕の行為しようとする傾向」ないしは、ある刺激によって触発された行為者の精神的作用という形態において出現する。ブルーマーによれば、この衝動によって、行為者は、その衝動を「充足させようとする」行為へと送り出される(launch)のだと言う。この段階を通じて、行為者は、自らを「環境」(つまり「現実の世界」)に直面させることになる。ブルーマーによれば、「この衝動が、有機体を、自らの環境に対処しなければならないような状況に位置づける」(Blumer,1993,p.189)。
 行為者による個人的行為は、まず「衝動」によって引き起こされる。とはいえ、行為者による行為が、この「衝動」によってのみ説明されるものと、ブルーマーは捉えているわけではない。人間の行為の決定因ないし「原因」(cause)を、内的刺激か外的刺激かのいずれかに帰属させようとする二分法的な考え方を斥けるブルーマーが26)、個人的行為の第二段階として挙げているのが、「知覚」のステージである。
 ブルーマーによれば、次に「知覚」の段階とは、先の段階において行為者が直面した環境を、その行為者が、自らにとっての「対象」(object)とする過程を指す。ブルーマーの「自己相互作用」の過程ないしは「解釈の過程」に関する議論に照らし合わせるならば、この段階は、その過程を構成する「表示」(indication)と「解釈」(interpretation)のうち、「表示」の過程に相当する。ブルーマーによれば、「知覚とは積極的(active)なものであり、前もって確立されている対象を単に引き写す、という消極的なものではない。したがって、知覚対象(percept)とは、その有機体自身によって〔環境から〕切り取られた(cut out)ものである・・・・知覚に従事しているとき、行為者は、前述の対象を形成ないしは切り取っているのである。行為者はこのことを自己表示の過程を通じて行っている」(Blumer,1993,p.189)。また、ここでの知覚のされ方如何によって、行為者が以後行う行為の方向ないしは目標が暫定的に定められることとなる(Blumer,1993,p.189)。
 次に来る第三の段階が「操作」である。ブルーマーによれば、この段階において、先の知覚の段階において形成された「対象」の「意味」(meaning)が操作される。ブルーマーは明言こそしていないものの、この段階が、「表示」と「解釈」のうち、後者の「解釈」の過程に相当することは言うまでもない。またさらに注目しなければならないことは、この過程が純粋に内的な過程ではない、ということがこの論文において示唆されているということである。すなわち、「対象」の「意味」を操作するに際して、行為者は、その「対象」に対して、外的にも働きかけ、その働きかけの結果として、その「対象」から受けた反作用(reaction)をもとに、行為者はその「対象」の「意味」を操作する、とブルーマーは述べている(Blumer,1993,p.189)。ブルーマーによれば、この操作の段階を通じて、「知覚の段階において行為者によって形成された対象の意味が検証され(confirm)、そしてもし必要とあらば、行為者がその後の行為をすすめるなかで、その行為者によって改訂される(revised)ことになる」という(Blumer,1993,p.189)。すなわち、より正確に言うならば、この段階には、1)自己相互作用を構成する「表示」と「解釈」のうち、後者の「解釈」の過程と、2)行為者の解釈・定義に対する「語り返し」の発現と、3)「語り返し」を契機とした行為者による解釈・定義の検証という、三つのプロセスが含まれていることになる。言うまでもなく、その語り返しに相当するのが、上記の「反作用」に他ならない。
 個人的行為の最後の段階は「完結」である。この段階は、ブルーマーによれば、「行為者の〔一連の〕行為の完遂によって特徴づけられ、この段階は、個人が最初の段階〔『衝動』の段階〕において抱いていた衝動を充足させる」(Blumer,1993,p.189)。もし行為者の衝動が充足されれば、行為者はその「対象」に対してある一定の「価値」(value)を付与することになる27)。
 以上の四つの行程より、一人の人間の行為が構成されていると、ブルーマーは捉えている(Blumer,1993,pp.188-189)。こうした意味で、船津も言うように、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「行為」(act,action)とは、まさしく、それを行う行為者による構成の所産(construction)なのであって、その行為者に作用するとされる外的・内的な刺激の単なる表出物ではない(船津、1993年、53−54頁)。
 なお、先に明らかにされた「人間と社会的・物的環境との関係」ないしは「個人と世界との関係」を踏まえるならば、この四つの行程から構成される「行為」とは、絶えざる形成を余儀なくされるものと捉えられなければならない。すなわち、上記に提示された「行為」の四つの行程は、「衝動」1)→・・・・→「完結」1)で終わるものと捉えられるべきではなく、「衝動」1)→・・・・→「完結」1)→「衝動」2)→・・・・→「完結」2)→「衝動」3)→・・・・→「衝動」n)→・・・・と、終わりなく継続してゆくものと捉えられなければならない。
 こうした「個人的行為」が、複数の人間の間で取り交わされている場合、それは「相互作用」(interaction)ないしは「社会的相互作用」(social interaction)と呼ばれ、ブルーマーはそれを「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)と「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)という、二つのレベルに大別している。さらにこの相互作用が人間間の「相互適応」(mutual adjustment)という形を取るとき、それは「ジョイント・アクション」(joint action)と呼ばれ、ブルーマーにおいては、そうしたジョイント・アクションから、「人間の社会」(human society)は構成されている、と捉えられている。その詳細な検討については、次章に譲ることとしたい。 
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