294.空賊列島潜入作戦 本体 6
まるで輝くような白亜の国は、女神アキロロナティスの微笑みの下に。
不浄を避け、穢れなく、清貧を好む、聖人のような国である。
白き国、聖王国アスターニャ。
大地が割れる前から世界中に広まっていた女神教会の母国にして、かつては比類なき富と力を握っていた世界の中枢とも言われた場所。
たとえ世界の末端の小国でも、あるいは大陸の覇者の座を目指して進撃した蛮勇王ガイスト・イースでさえ、教会の意思・意向は無視しなかったという。
それほどの影響力を持っていたのだ。
有名な「女神の祝福」――聖女たちの努力に基づく「結界」とも言われた諸説はあるが――に守られ、大地が割れ浮島になった瞬間でさえ損害は軽微で、数百年前の神殿と女神像が現代に残っているとか。
しかしそれも過去の話である。
教会の富と力は、傷や病を癒す聖女によって成り立っていた。
率直に言ってしまえば「聖女という医師の診察・派遣」によって外貨を得、世界中の支配者階級に繋がりと信頼を築いていた。
しかし、世界が狭くなった今は違う。
聖女の代わりになる薬も、医療も、また魔法も発達し、絶対に聖女が必要ではないケースが非常に多くなった。
その結果が、今の聖王国アスターニャである。
女神教の宗教色こそ強いが、割と普通の国となっている。
――というのが、アルトワール第二王女アーシアセムが留学して実地で学んだ、アスターニャという国である。
「まあでも、お堅いお国柄ではあるわよね」
聖教学園を卒業して二年が経つが、アスターニャの市井には、あまり変化はなさそうだ。
アスターニャ王都には、当然聖職者と信徒が多い。女神教の紋章が入ったペンダントを下げているものは、そのどちらかであるから。
昔は、紋章を持っていない者は外国人だと言われるほど、宗教一色だったらしいが、昨今はアスターニャに住んでいても女神教の信徒ではない者さえいる。
そんなアスターニャだが、男女交際が厳しいことで知られていて、これは昔からあまり変わっていないそうだ。
アーシアセムも、知った時は驚いたものだ。
まず、結婚前の男女が二人きりで出歩いてはならない。
女性はあまり肌を露出してはならない。
浮気は死罪。
何らかの理由で伴侶を失っても再婚は許されない。
まあこの辺は、貴族の娘なら、まだ馴染める規則であるが。
しかしそれが平民にも同じように求められていることには、驚いた。
王侯貴族は金回りがよくそれなりに権力がある代わりに、自由がない。
平民は金回りも悪く権力もないが、代わりに自由がある。
アーシアセムは、子供の頃は大雑把にそう理解していたが、それが根幹から覆る文化だった。
金回りも悪く権力もない平民が自由まで許されないなんて、よくこんな文化を受け入れてるな、と。心底思ったものである。
というか、今も思っている。
「私としては、アルトワールは緩すぎる気がしますが」
侍女兼護衛のルナリナは、アスターニャ出身である。
ついでに言うとこの国の聖教学園で過ごしたアーシアセムの学友で、聖騎士候補生の一人だった。優秀さと性格の一致で引き抜き侍女に迎えたのだ。
「でも若者がデートさえできないって、なかなかじゃない?」
アスターニャでは、出会いは親や親戚、あるいは職場などからの紹介。
恋愛結婚はほぼ皆無で、だいたいがお見合いのように始まり、お互いよく知りもしないまま結婚へと至る。
アルトワール生まれのアルトワール育ち、王侯貴族はだいたい顔見知りのアーシアセムには驚くべきことだった。
――三代ほど前の国王から、アルトワールの王族は実力主義の面が強くなった。
民の立場がどんどん強くなり、支配者階級の権力に陰りが見え始めたことを認めたがゆえに、世襲や上層の付き合い、派閥といった従来のやり方より、大幅な方針変更を余儀なくされたと言われている。
そんな理由から、「国益を出す王族」は、王族としての義務が多少免除されるようになったのだ。
要するに、政略結婚の利点より、生み出す利益を優先されているのだ。
そのおかげで、第二王子ヒエロや第二王女アーシアセムは現在婚約者がおらず、付き合いや派閥と言った影響を受けずにいられる。
つまり、実力さえあれば王族だって恋愛結婚も夢ではない、ということだ。
よっぽど相手が悪くなければ、実力主義の国王は、たとえ下位貴人でも結婚の許可を出すだろう。まあ、平民は、さすがに無理かもしれないが。
「私は神職を志した時から、結婚はしないつもりでしたから」
「勿体ない。美人なのに」
「それ、アルトワールの男性にたくさん言われましたよ」
「じゃあ私が本音を言ってる証明になるわね」
「もしくは全員軽薄でとりあえず言っておけば気を良くするだろうという軽薄な下心の表れでは?」
「二回も軽薄って言う必要あった?」
そんな益体もないことを並んで歩きながら、二人は古めかしい神殿へと差し掛かる。
「――どうぞお通りください」
見張りの兵士に止められる前に、侍女が身分証を提示しながら、立ち止まらず中に踏み込む、と。
「アーシャ!」
先に手紙を出して会いにくることを伝えていた者――待っていたらしい知り合いの聖女がすぐ近くにいた。
アスターニャの堅いお国柄にぐずぐず言っていたアーシアセムの表情が綻ぶ。
「フィルオ様! お久しぶりです!」
フィリアリオ・アスターニャ。
アスターニャ姓を継ぐ、聖教位階第六位に位置する聖女である。
「――へえ。そんなことになっているのね」
約一年ぶりの再会の挨拶もそこそこに、神殿の奥にあるフィリアリオの私室に通され、アーシアセムは手短に状況を説明してみた。
フィリアリオ。
長く美しい銀髪に金色の瞳を持つ神秘的な女性で、もうじき三十歳を迎え聖女の任期を終えることになる。
だが、その見た目は異常に若々しく、二十歳前後にしか見えない。
内包する魔力が大きいことが影響して、肉体年齢の歩みが遅いのだ。上位の聖女にはよく見られる現象である。――機兵王国マーベリアの王女シィルレーンの肉体年齢が若いのも、これと同じ理屈である。
聖女である可能性の高い銀髪持ちであったことから、物心着く前から神殿に引き取られた庶子。
読み通り神聖魔法の才能が開花し、今では聖教位階第六位……約二百名からなる聖女の序列で上位六番目の地位に上りつめた者である。
聖女になる前はともかく、聖女になってからは多少ゲタを履かされる貴族・教会の関係者ならともかく。
生まれも定かではない庶子としては、異例の出世と言える。
今でこそアルトワールの王女みたいなコネもあるが、若い頃はコネも寄付も後ろ盾も一切持たなかっただけに、彼女に関しては実力と多少の運のみ注視されてきた。
それだけに、実力だけ見れば位階第一位にして当代最高位、と言えるかもしれない。
「空賊列島……そういう場所があるとは聞いていたけれど、いよいよ攻め込むのね」
聖女は世界情勢に疎い。
外に興味を持ってアスターニャから出て行かれては困るので、神殿ではあまり国の外の情報を入れないよう管理されているのだ。
――聖女見習いとなったアーシアセムが修行として付いたのが、このフィリアリオであり、そこから二人の関係が確立した。
生まれはわからないがずっとここで暮らし育ってきたフィリアリオは、外の世界のことをまったく知らなかった。
そんな彼女に――清らかな聖女に、悪魔の誘惑がごとく外のことを囁いたのが、アーシアセムである。
世間知らずの聖女には、灰汁を抑えたアルトワール仕込みの話術はそれでも刺激的で、フィリアリオは随分気に入ってくれた。
高い道徳観念と擦り込みに近いほど根底に刷り込まれた教義により、外へ行こうという意欲までは湧かないが――「一度くらいは冒険をしてみたい」とほのかに思うくらいには、誘惑に成功した。
アーシアセムの本音としては、ずるずると引っ張ってアルトワールの適当な王侯貴族に嫁入りさせて、優秀な聖女とその血をアルトワールに持ち帰りたかった、という目的はあったのだが。
さすがにそれは叶いそうになかった。
聖女になる女は、魔力も芯も強いものだ。
フィリアリオはアーシアセムの話を面白おかしく聞いてくれたが、教義に反することは考えなかった。
どれだけ揺すっても根底が動くことはなかったので、もうその辺は諦めた。
――が、それはそれである。
アルトワールへの誘惑には失敗したが、それで二人の関係が終わったわけではないし、積み上げてきた人間関係は相も変わらず良好のままである。
「それで、どうです?」
「どうとは?」
「フィリオ様、奴隷になって空賊列島へ行ってみませんか?」
「――あら」
あくまでも他人事みたいな顔で聞いていたフィリアリオの目が丸くなった。
「私が奴隷……正確に言うと、空賊の実績として捕まった体になると?」
「お嫌ですか? 船員は当然あなたの味方ですし、ヴァンドルージュの軍人も同行します。数名なら聖騎士も一緒に連れて行けます。心細いのでしたら私もお供してもいいですし」
「なるほど? 随分自信があるのね」
「協力者が滅法強いので」
マーベリアの御前試合で見た、機兵対人間という結果の見えていた対戦カード。
何の気なしに流れるまま観ていたが――そこに登場したのは、まさかの有名人ニア・リストンである。
あの魔法映像界の大スターであるニア・リストンである。
いずれ会ってみたいとは思っていたが、まさかマーベリアで見かけるとは思ってもみなかった。
しかも国を挙げてのイベントに、国賓扱いのゲストとして国王自らに紹介されていた。
いったい何が何やら、という状況で、御前試合が始まり――
もはや驚くことしかできなかった試合を、観てしまった。
機兵なんて金属の塊を、余裕で殴ったり蹴ったりでぶっ飛ばせる彼女が先陣を切って参加しているのが、今回の空賊列島制圧作戦なのである。
まず、武力で負ける要素がないのである。
次に、ヴァンドルージュの陸軍総大将ガウィンが参謀として参加している上に、あの冒険家リーノと、リーノと同じ師を持つ子弟たちも数名参加するという。
立ち回りを失敗する要素までないのである。
「規模と状況が整っていれば、単身で制圧できるほどの逸材が動いています。完全な勝ち馬です。安心して自分の命を賭けてもいいくらい、勝利は保証されていると思っています」
ニア・リストンの強さは、理解はできなかったが素人目にも恐ろしいものだった。
特に御前試合最後に放った超奥義・蒼炎聖邪滅殺龍王葬王波は、伝承に聞く古の大魔法のような大技だった。あんなの放てる人がどうして空賊なんかに負ける理由があるのかという話である。
「軽率じゃない? 世の中、何が起こるかわからないわよ?」
「――では、その目で確かめてみます?」
「ふうん?」
挑発するように笑うアーシアセムに、フィリアリオは少し思案し、「まあどちらにしろ」とすぐに結論に辿り着いた。
「私の一存では決められないわね。情勢もよくわかりませんし。ただ、空賊列島の位置からして、アスターニャとしては他国所有となるのは見逃せないとは思うけれど」
まさにその通りである。
海外の事情に疎いフィリアリオでさえそれがわかっているなら、聖王国側が協力しないわけがないだろう。
あとは聖女を借りるだけだ。
仮にフィリアリオじゃなくとも、聖女であれば誰でもいい。できれば一目で聖女とわかる銀髪が望ましいが、そこまで贅沢は言わない。
なんなら一時的に名乗ることを許してくれるだけでもいい。任命こそ拒んだが一応聖女試験はパスしている。聖女としての実力はあるのだから。
「話がわかる方を呼んでも?」
「ええ、ぜひ」
「――イクシオ様か、ライジ様を呼んでください」
フィリアリオが壁際に控える年若い聖女見習いに言いつけると、彼女は返事をして部屋を出て言った。
大司教イクシオか、聖騎士ライジ。
どちらも神殿の中枢に近い、それなりの権限を持つ要人たちである。
何にせよ、交渉の本番はこれからだ。
「ところでアーシャ」
「はい」
「私を奴隷にする空賊に、素敵な殿方はいるの?」
「あー…………まだ出会いが?」
「ええ、なんというか、どうせ聖女を引退するなら教会関係ではない方がいいと思っている、というのは話したわね?」
「あと面倒臭い高位貴族も嫌で、できれば田舎の農家辺りで土をいじったりお料理をしたり食べたいお菓子を作ったりしてのんびり過ごしたいと。言っていましたね」
「それより最優先は、やはり殿方ですよ。私は恋愛がしたいのです」
「そうですね……三十歳にお似合いの方と言えば――」
「二十七歳」
「はい?」
「私は二十七歳ということで通します。そのつもりでいなさい」
「……引退間近でもまだ聖女なんですから、嘘はやめましょうよ」